8話
めざめて中の人
美術部のことは、結局のところどうにもならなかった。聖に頼めば、とかそういう問題でなく、聖に頼むことをしなかった、ということだ。自分達だけで解決する、というのが部員の総意だった。早紀も同じ気持ちだ。
聖は笑いながらそれを了承し、気を悪くした様子もなく黙り込んだ。雫は納得いかないみたいだったけど、部員本人達がそう言うからには反対もできない。
俺の家に集まったいつもの「家族」は、大きく纏わりつくような湿った空気に包まれていた。蛍光灯に照らされたいつものリビングは、どうしてかそれより暗く見える。
美術部のこともあったけど、それ以上の問題が降りかかっていたから。
兆候はあった。例えば帰りが遅くなったこと。これは多すぎる仕事に追いつかなかったから。例えば突然その帰りが早くなったこと。任される仕事が急に減ったから。帰宅が早くなる少し前から、言われ続けていたそうだ。
父さんが、リストラの憂き目に遭った。父さんは職場でも若い方だったけど、父さんの会社が典型的な「家社会」だった、というのが原因だろう。
稼ぎの当てがない。この借家も、じきに住めなくなるだろう。
それを聞いて何を思ったか、なんて、何も思えなかったに決まってる。頭の中が真っ白になって、目頭が熱くなって、それでいて脳髄が凍えるような冷気を感じて。それでも敢えて口にするなら、「どうして」か「どうする」のどちらかだ。
父さんが頻りに謝意を口にしてるけど、頭にはもちろん耳にすら届いては来なかった。父さんを救いたいと思いながら、慰めの言葉すら出てこなかった。
怖かった。ここにいられなくなることや日常が崩れること、父さんが小さく見えたこと、雫に捨てられたらなんて可能性を思ったこと。その何もかもが、俺の頭を引っ切り無しに殴るんだ。ガツン、ガツンッって、何度も何度も、思い切りに。
父さんの謝辞を遮られるような人間は、一人しか心当たりはなかった。
「まあ、おじ様、頭上げてください。まだお先真っ暗ってわけじゃないんでしょう?」
「それは、そうだけど……今のところ、当てはないんだ」
覚悟はしていたが、準備はできなかった。それは果たして覚悟と呼べるものだったかはわからないけど、人間というものは得てして「まだ大丈夫」という楽観をしてしまうようにできているものだ。父さんを責めるつもりはなかった。
信じられなかったんだ。父さんは、決して怠惰でもないし、仕事に対して一生懸命だったから。それに対する会社の仕打ちがこれかと思うと、父さんより最初に会社を責めたくなるのが子供の心情だ。贔屓目とか甘えかも知れないけど、納得なんてどうしたってできそうもなかった。
「そうですね……おじ様、何ができます?」
「何が、というと?」
「技能です。資格を持ってなくても、できることはあるでしょう?」
簿記、TOEIC、シスアド、宅建、知る限りでもたくさんありすぎて、どれがどういった企業に求められているかはよくわからない。
「……資格じゃないけど経理ソフト全般と、資格で言うなら英語――英検とTOEIC、あとシスアドと大型二種、くらいかな」
顎に手を遣ってしばし黙った聖は、三拍だけ間を置いてため息を一つ。どうして大型二種を持ってるのかは、特に気にならなかったようだ。
「十分ですね。かけあっておきます」
「かけ、あう? 聖、どういうこと?」
「環、今は大人の話し合いをしてるの」
何も言えず――言うことも許されず、俺はテーブルの上で拳を握った。家族の問題だというのに手を出すことすらできない歯痒さ、悔しさ。
「まあ大した影響力はありませんけど、以前逢坂インダストリーの取引を手伝ったことがあるんですよ。交渉事は得意、ってことで」
「それで僕を雇うような権限が?」
「ありませんけどー……話を聞くくらいはしてもらえます」
つまり、優位な面接を受けることができる、っていうことか?
逢坂インダストリーは、この街にあるこの街の為の大企業だ。地域密着型の産業が功を奏し、――局地的ではあるが、大きな立場を持つ。そこで面接を受ければ、もし落ちたとしても、地元企業が拾ってくれる可能性も出てくる。
聖の話には少し信憑性が欠けてるけど、溺れそうな俺には、少なくとも藁よりずっと頼もしく映った。バイトもしていない聖が金を持ってること自体、前から疑問に思ってたんだ。
それにしたって、聖は異常だとも思った。交渉事が得意とはいえ、まさかプロとしての扱いを受けていたなんて知らなかったし、大企業でそれほどの信用を勝ち得ているなんて尚更だ。何か特別な訓練でも受けていたとは思えないし、才能なんて言葉で納得できるようなものでもない。
「おじ様、プライドは捨ててください。おじ様の為でもありますけど、それ以上に――」「それはわかってる。迷う理由はないよ」
ああ、俺だって、言われなくてもわかるさ。
聖に関してはもういい、気にするだけ無駄だ。ただ、父さんを救うという一点において、聖の存在はとても大きなものになった、というだけ。
問題は解決に向かい、場の緊張感は少しだけ緩んだ。ただ一人、黙しながら、震える肩を抱いていた雫を除いて。
「雫、どうした?」
「わ、わた、わたしが……」
雫の感情を悟る前、聞き出す前に、彼女はリビングから走り出ていってしまった。少しだけ呆気に取られて、けれど誰よりも早く追いかけることができた。それに少しだけ安心して、けれど父さんを放り出してしまったことに自分を責め、どうしようもないジレンマにこめかみを押さえる。
玄関から外に出て、暗がりの町で雫を追いかけた。雫が泣いてる。走る理由はそれで十分。だけど、立ち止まる理由も十分にあった。まだ、今後のことは一切決まってはいないのだ。
でもきっと、戻ったら聖が、そしてそれ以上に父さんが怒るだろう。自分の感情が雫と家を右往左往しながら、それ以上に父さんたちの感情が俺を後押ししていた。俺を支えていてくれたのはいつも父さんだったから、父さんを悲しませるような行動は取りたくない。父さんが褒めてくれる選択がどれか、きっと俺は間違ってないはずだ。
母さんが生きてたら、こんな俺をどう思っただろう。どう言ってくれただろう。父さんを救えと責めるだろうか。雫を救えと褒めてくれるだろうか。
「――父さんを頼むよ、母さん」
きっと今、懐かしんでるだろう。聖に見守られながら、俺と母さんが一緒にいた頃を思い描いているだろう。その過去への憧憬は、父さんに悲しみより慰撫をもたらしてくれるだろうと思う。
だから今は、十メートル先を走る、俺の恋人を追いかけていよう。そして言ってあげるんだ、俺は君のことを好きでいる、って。
本当は、少しだけ思った。雫のせいじゃないか、って。でも、それは口に出さなかった、というのが事実の全て。確かに父さんは追い詰められていたけど、それは雫のせいじゃないんだって、ちゃんと自分に言い聞かせることができたからだ。
「雫ッ!」
だからこうして、名前を呼ぶことだってできる。応えてはくれないけれど、この声は彼女の耳に届いてるはずだ。
行く場所は多分決めてない。だから、帰るんだろうと思う。
閉ざされた玄関。小さく響き扉を揺らす、雫の音。
「なあ、逃げることないだろ? どうした?」
「あ、あ……環くん、あのね、あの……」
震えた音は、しかし声になることはなかった。何を訴えたいか、こういう時に悟ってやれないで、なにが恋人だ。父さんを投げ出してまで来たんだ、絶対に雫の涙を止めてやらなくちゃいけない。
「どう、どうしよう……身体がね、震え、てね、止まらないの」
「声、聞けばわかる。ドア開けたらさ――」
その涙も拭ってやれるのに。
なすべきこと。ああ、違う。なしたいこと、だ。
「雫さ、何か勘違いしてないよな?」
「勘違い? 何が? 環くんこそ、勘違いしないで」
「……多分、当たってると思うけど」
そうだ、雫は思ってる。父さんがリストラされたのは、自分が俺達の家に近づいたからだ、って。それが勘違いなのかどうなのかは、少なくとも俺が決めることじゃない。
でも、俺がどう思うかは、俺が決めることだ。
「燐さん、すごく、辛いよ、ね?」
「辛い、だろうな」
「うん……だって、環くん、が、辛そうな、んだもん」
言葉が途切れて、それでも一生懸命に話を続けようとする雫がこんなにも愛おしいというのに、俺は彼女の心情も察することもできなかった。今更悔いても仕方ないこととも知りながら、それに対して言葉を返すことができなかった。だってそうだろ、俺は確かに、父さんの顔を見ながら、そういう顔をしていたんだから。
「わたしが、何かできる、かな、なんて考えたら、ね?」
目の前の茶色いドアを見詰めながら、相槌を打った。
「できること、なんて……」
雫は、それきり黙り込んでしまった。聞こえてくるのは、小さな嗚咽と、一匹の蝉の声だけ。
掛けるべき言葉、言ってやりたい言葉。考えたところで何かが生まれてくるとは思えなかったけど、必死に頭を回してやった。だけど、そんな焦りが生み出すのは、頭を焼き切るような熱と、言葉にならない呻きだけだった。
「……いる?」
聞こえた雫の声に、声を大きくした。
「いるよ。雫の顔見るまで、帰れないから」
嘘ついた。雫の涙を止めるまで、帰るつもりはないんだ。
「……見るだけ、だからね」
嘘も方便、って言っていいのかな。そうすれば、開けてくれると思ったからさ。
開いたドアの向こうは、外と変わらない暗闇が落ちていた。星空や月、街灯がないから、もしかしたら俺が立つ場所よりずっと暗いのかも知れない。湿った空気は、真夏のそれと変わらないはずなのに、いつも感じていた「雫の家」よりずっと、不快なものだった。
「ああ、雫……酷い顔だなあ」
走ってきたからか、綺麗な茶色をした髪は乱れ、涙に濡れた頬は真っ赤になってぐちゃぐちゃだ。慌てて髪を手ぐしで整え、ハンカチを持ってない自分を呪いながら親指で頬を拭ってやった。溢れた涙に覆い隠されそうなほど、小さな顔だ。
涙は次から溢れてきた。止まりそうもなかった。
「環くん? 見た、よ?」
「雫が掴んでるんだろ、袖」
玄関先で、少しだけ可笑しな戯れ。
髪よりずっと綺麗な茶色の瞳は、薄い赤に縁取られている。これがいつもの色に戻ったら、きっともう大丈夫。
奥に見えるはずのリビングは、まだ見えない。
「入っていく?」
「もちろん。雫の家は、好きだからね」
「……うん」
それでも雫は、俺のシャツの袖を離そうとしない。仕方なく雫を引っ張って玄関から上がりこんで、廊下の電気を点け、薄暗いリビングへ向かった。中身のない金魚鉢がそっと透き通っていて、雫と俺を映しこんでいる。
勝手知ったる、とまではいかないけど、キッチンは何度か使ったことがある。夏だけど、雫の為に温かい紅茶でも淹れてやることにした。泣き明かした日には、温かい飲み物がすごく沁みる。
砂糖はなし、牛乳を多めに。雫は、柔らかい味が好きなんだ。
椅子に座って膝の上で拳を作った雫は、ずっと視線を下げ、テーブルを睨むようにしていた。声を掛け、目の前にミルクティーを置くと、微かに視線が緩んだように思う。
「さ、飲め。落ち着くぞ」
「うん。ありがとね」
「何を言う。雫が淹れろって言ったんだ」
「言ってないよお……」
両手で持ったカップが少し震えて、波打った紅茶が零れそうになった。口に運んで小さく啜ると、雫は安堵するようにため息をつき、しかし震えは止まりそうにもなかった。
「おいし」
「雫ん家のパックはあれだな、なんか美味しくなるようにできてるんだ」
なんのことはない、安物の市販品だ。こう言っちゃなんだが、淹れる側の心構え次第、ってことさな。
「パックはね、誰が淹れても美味しくなるようにできてるんだよ」
「なんだ雫、俺を馬鹿にしたいのか」
「そ、そんなことないよ」
カップを持ったまま首を振る雫が可愛くて、思わず笑みを零してしまった。失敗したかな、なんて思ったら、雫まで笑ってるのがわかって、少しだけ安堵した。
ああなんだ、そうか。笑顔って、伝染するものなんだ。わかったのは、それくらい。
「もう、大丈夫?」
「わかんない、けど」
紅茶はもう、波紋を立ててはいない。
「震えは、止まったよ」
結局、どうして雫が泣いてたかなんて、曖昧にしかわからなかったけど、笑えるのならいいのだろうと思う。自責の念を抱いていたとして、それを解放する術なんてのは、当人が笑っていることくらいしかないのだ。
身体を横に向け雫を呼び、いつものように膝に乗せてやった。柔らかく締まったお腹に腕を回して、首筋に唇を落とすと、雫は小さく呻く。
「痕、付けていいよ……」
「どうするかな。あんまり汚したくないけど」
綺麗な肌だから、鬱血点なんて作りたくはない。耳元で囁いてやったら、雫は身体を竦ませて喘いで、お腹にある俺の手を握った。
「痕、つけて」
「……まあ」
それで雫が喜んでくれるというなら、つけてやった方がいいんだろう。
滑らかな肌。少し過敏になっているのか産毛が立っているけど、蛍光灯の灯りを受けて輝いているようだ。口付けると、ぴくんと跳ねた。思い切り吸ってから甘噛み、ゆっくりと離すと、白い肌に赤黒い印が刻まれた。俺の証だ。
普通のキスよりずっと生々しい、蠱惑的な行為。目に見える証を立てるという点で、ある意味究極的にも思える。
息をついた雫が、身体を預けてきた。
「わたし、環くんのもの?」
「俺もお前のもの」
「わたし達、えむなのかな?」
「どうかな」
どんな会話だ。二人して笑う。
膝に乗った雫の柔らかな髪が優しく鼻にかかると、誘い惑わすような、酷く甘い香りがした。少しだけ眩暈がしたのは、きっと気のせいじゃないんだろう。
「環くんのせいで悲しくて、環くんのおかげで立ち直れた。色々、教えてくれたね」
「悲しいの、嫌だろ? ごめんな」
首を二度横に振ってから、その首だけで俺に振り返った。確信した、大丈夫だ。
笑っていた。元々表情豊かな雫だけど、その内から溢れるような柔らかい笑顔だった。それはそれは特別可愛くて、思わず頬が緩んだ
「まだ、完璧じゃないからね。まだ、一緒にいてね」
答えを口に出すのに迷いはなかったけど、敢えてそうはしなかった。その代わり、まだ言い募る雫の唇に、その甘い言葉と吐息を全て塞ぐように、俺の唇を重ねていた。
首、痛くなかったか? 俺が感じたもの、雫も感じてくれたか?
「お部屋、いこ?」
唇を離した後の雫は、少しだけ大胆になっていた。涙の痕は、もうない。
折れたのは、上腕骨の上部と、前腕骨の尺骨と呼ばれる部分らしいが、そんな名称を言われたところで意味など理解できるはずもない。結局のところわかるのは、腕全体をギプスで固定し、手首のみを動かすことでノートを取ることくらいはできる、ということくらいだ。それでも辛いのだから、板書が遅れるのは当たり前だとも思えた。
それでもそれが気に食わない人間がいる。一人の遅れはクラス全体の遅れに繋がる、などと学歴社会を素足で突っ走る優等生、四条美鈴様だ。
「雫さんのノートでは、役不足でしょう?」
「余計なお世話ですよう……」
「何か?」
睨みを利かせる四条さんに、雫は怯えたように萎縮することしかできない。まるで蛙だぞ、雫。だとしたら、腰に手を当てて尊大な態度を取るこの子は、蛇だな。
「特別に貸して差し上げます。理解できなければ私……先生に訊いてくださいな」
「なんだ、ケチだな」
「貴方だって、私に教わりたいなんて思ってもないでしょうに」
事実その通りだけど、それを口に出すのは些か憚られる。無理をしての厚意を受け取って嬉しいとも思えないが、それを無下にするのも失礼というものだ。
かといって素直に受け取るのも癪。反骨心といえばそれまでの、くだらないプライドだ。理由は相変わらずはっきりしないけど、四条さんに共感することはどうしてもできなかった。
四条さんの後頭部で、大きな赤いリボンが揺れた。
「もうすぐ期末テスト……クラスに恥をかかせるわけにいきませんの」
「そんなら黒田にでも貸してやってくれ。あいつだろ、平均点下げてんの」
なんなら千円賭けてもいい。持ってないけど。
しかしそんなことはお構いなし、四条さんはその切れ長の目で俺を睨む。やれやれと言いたくなったのは、多分俺が雫と同じく「蛙」だったからだろう。美人が怒ると怖いって、どうやら迷信の類じゃないらしい。
大体、勉強が遅れてるわけじゃないんだ。四条さんにはこの言葉を盛大に送りたいと思う。
小さな親切は大きなお世話、ってね。
「不服でして?」
四条さんの問い掛けを受け、俺の机に広げられたノートの束を見回した。板書の早い科目である数学、古文、世界史と日本史に、化学なんかも入っている。
確かにこれを借りれば授業の遅れくらいは取り戻せるんだろうけど、
「やっぱ遠慮しとく」
「な、なんでですの?」
珍しく狼狽した様子の彼女からは、転校初日の激昂が思い出された。そういえばあの日も、らしくもなく感情が昂ぶった様子だったな、なんて、昔のことのように懐かしく思うのだった。
彼女にしてみれば、自分の厚意を拒否されるのが信じられないんだろう。そういう風に生きてきたんだと思う。
「俺、頼れる人がいるし」
俺の視線に気付くと、四条さんはその細く整った眉を八の字に曲げた。指差し、懐疑的に俺を睨む。
「頼れる人、ですの?」
「頼れる人」
蚊帳の外になりつつあった「頼れる人」は、まだ状況が掴めていないらしい。俺の隣の席で、俺と四条さんの遣り取りを複雑そうな目で見つめていた。
「それにだな。教科書見れば、多少の遅れくらいはどうとでもなる」
「それは、そうですが……」
「大体、俺のこと嫌いなんじゃなかったの?」
「嫌い」と「受け付けない」じゃ天地ほども違うんだろうけど、敢えてそう言っておいた。いずれにしたって、彼女が俺に近づかない理由としちゃ十分すぎるほどだ。
だけど、そんなに簡単なものじゃないらしい。声を荒げて、四条さんは訴えた。思わぬほど必死な視線だった。
「わからないことっ、がっ! ……」
でも、すぐに消沈した。平静を装っていたのは普段で、その実昂ぶった感情というのは本音でなく、戸惑いだった、ということか。
「わからないこと……怖いでしょう。私だって、好きで……」
ああ、彼女も同じだったんだ。共感できる部分は、決してないわけじゃなかったんだって、あのシンパシーは嘘じゃなかったんだって、少しだけ安心した。
生理的に受け付けないなんて、所詮自分に対する言い訳でしかないんだ。或いは未知に対する、だろうか。
好きで避けてるわけじゃない。でも、避けざるを得ない何かが、確かにある。
「悪い。でもノートは遠慮しとくよ」
「……そうですか」
「自分で何とかする、っていうのがどうもマイブームみたいで」
自分でも下手な言い訳だとは思ったけど、強ち嘘ってわけでもない。
そんな冗談に、四条さんは俺に対して、初めて笑顔を見せてくれた。上から物を言う普段の態度からは想像できないほど、可憐な笑顔だ。
「おかしな人。雫さんにぴったりですわ」
「それ、どういう意味……」
かくして雫の訴えは鮮やかに無視され、四条さんはノートを回収して自分の席へと戻っていった。細い肩は小さく震えていて、どうも俺の冗談がつぼに入ったらしい。お嬢様の笑いのつぼというのは、俺みたいな一般人には理解できないところにあるみたいだ。
残ったのは、少しだけ機嫌のよくなった俺と、据わった目の雫だった。
「環くん、嬉しそう」
「いや、まともな会話って初めてだからさ」
こういう時は、下手に否定するより、真っ当な理由をつけて認めてしまった方がいい。雫との付き合いで嫉妬されることは滅多にないけど、それがその中で学んだことだ。
しかし、雫と四条さんもまた、馬が合わないという事実もある。
「四条さん、綺麗だもん……」
「あいつには絶対惚れん。誓っていい」
笑顔に見惚れたのは確かだけど、それが恋に発展するかと問われれば、確実に否と答えられる。戸惑いはあるし、理由もわからない。ただ、どれだけ言い繕ったところで、受け付けない何かを四条さんが持っていることに変わりはない。今、少しだけ近づいた距離の中にも、堅固な壁が存在する。
雫は少し頬を膨らませ、そっぽを向いてしまった。お前、いくつだよ。
「雫、キスマーク見えてる」
「ええっ?」
つい昨日俺が首筋につけたばかりのキスマークは、小さなキャミソールの肩紐と共に制服の隙間から見えている。一日も経てば流石に薄くもなるけど、その白い肌に淡いピンクはよく目立った。
「……そうだよね、環くんはわたしのものだもんね」
呟いた雫は、はっはっはと豪快に笑った。それでも声は小さいままなんだから、このクラスでの在り方、立ち位置に慣れきっているんだろう。
「うんうん、特別に許してあげるよ」
「偉そうにすんな」
脳天に軽くチョップをしてやったら、涙目になって俺を睨んだ。俺と雫の立場の違いに関して学ぶ気はないらしい。対等、と言いたいところだけど、雫の気の弱さはそうそう治るものじゃない。
窓から注いだ陽光に目を細めた雫は、すぐに機嫌を直した。今日も暑いけど、開いた窓からは微かに風が吹いている。
「真夏日って割に涼しいな」
「うん。きもちいーい風が吹いてる」
「……間延びした女の子の言葉って、なんか可愛いよな」
「そ、そおかなあ? き、気をつけてみようかなあ」
それは流石に狙いすぎだ、なんて笑うと、雫は少しだけきょとんとした後、同じように吹き出した。
まだ何も解決したわけじゃない。でも、空ばかりは憎らしいほど青く、そんな蟠りも馬鹿らしく思えて仕方なかった。雫の小さな笑い声は俺の声に掻き消されてしまうけど、その笑い顔だけは、いつまでも心に留めておこうと思う。
いつか消え行くもの、だとしても。
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