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  めざめて中の人 作者:
7話





めざめて中の人





 雫達を守れなかった、なんて鬱積はさして長くは続かなかった。他ならない聖の言葉が気になったからだけど、本人に直接訊くことはできない。はぐらかされるという可能性が大きいし、何より話すべき時がくれば彼女から話してくれるはずだ。
 学校にはすぐに復帰した。怪我の具合は一部を除いてそう酷くはなかったし、暴力沙汰が問題になることもなかった。ただ、工事現場での事故は大きく取り扱われ、ニュースにもなっている。朝にテレビを見た聖曰く、「ボルトの締め忘れ」らしい。
 俺にとって何より幸いだったのが、雫や早紀の身体や心に傷が残らなかったこと。翌日の病院で会った彼女達の笑顔に、俺は何よりの安堵を感じたものだ。
 逆に不幸だったことといえば、腕の骨がいかれてたこと、だろう。当時は必死で痛みすら覚えていなかったけど、病院で症状を告げられてから途端に痛くなったものだ。不思議と、自覚するまで何も感じていなかったのに。
「大丈夫か? ボコボコじゃねえか」
「まあね。黒田さ、今から一週間で治せる応急処置とか知らない?」
「アホか。骨折が一週間で治ったら、ノーベル賞貰えるぞ」
「とりあえずお前がノーベル賞を誤解してることはわかった」
 本当なら、一週間でも遅いくらいだ。俺があの作品を出さなければ、最悪部員全員がギャラリーに出展できなくなってしまう。俺にとって、手が不自由なことよりもずっと、その方が問題だった。
 マキやナオと話す雫を見て、ため息を一つ零す。
「誰か二つくらい作れるんじゃねえの?」
「皆、そんな適当には作れないよ。期間一杯使って、最高の物を作ってんだ」
 早紀を含めて、本気で描いてる連中に、部員全員が少しずつ触発されている。それは間違いなくいい傾向だから、俺の怪我なんかで勢いを折るわけにはいかなかった。
「俺がその場にいればなー。ぱぱっと、こう、ね」
「なに、お前、喧嘩好きか?」
「まあね。というかお前らのケースだとさ、正当防衛が成り立つだろ?」
「危ねーやつだな」
 微かに笑った黒田は、そういう方面に自信があるのだろう。聞くに、こいつがこの高校に来た理由というのは、格闘技関係らしく、三人くらいなら本当に一人で片付けてしまうんだろう。確かに、黒田があの場にいればよかったのに。
 情けないけど、俺が相手にできるのは多くて一人だ。二人増えたんだ、多勢に無勢でなす術もなかった。
「ま、なんとかなるんじゃね? なんだったら、部員を一人増やせばいい」
「斬新なアイデアだな。でも……」
「でもなんだよ?」
 俺が納得できない、なんて、言えなかった。我が侭を言ってる場合じゃないことは理解しているし、何よりの手段がそれだということも同じだ。俺の作品を加えて、展示会に参加したい。しかしそれも確かな感情だった。
 チャイムが鳴り、担当教諭が入ってくる。黒田の席から離れていく俺に、彼から一言。
「次は呼べよ」
 始まった授業中、雫は相変わらず真面目だ。ここに来てようやく気付いたのは、教師すらも雫を避けて通っている、ということ。設問に応じて、他の生徒を満遍なく指すような教師でも、彼女を指したことが一度もなかった。人間不信になっておかしくないこの状況で、よく俺に心を開いてくれたと思う。胸に、針が刺した。
 四条さんは逆だ。少し難しい問題があると真っ先に指され、そしてこともなげに答えてみせる。学力も相当なものらしかった。
 そろそろ期末考査が始まる。知ったところで何の意味もないけれど、雫や四条さんの具体的な学力もわかるだろう。雫の家に行くと大抵勉強をしているから、互いの弱点は大分克服してきたつもりだ。
反して最近では雫の家でなく俺の家だから、勉強も疎かになってるけど、その分父さんとも親密になってきた。
一昨日のことがなければ、順風満帆になりつつあったのに。理性の保たない馬鹿のせいで、どうして俺達が困らなくちゃいけないんだよ。思い出すだに、苛々する、腕が痛む。
持っていたシャーペンをノートの傍らに置いて、後ろ手を組んだ。
こんな時こんなこと、とは思うけど、確実な手段はあった。――例えば早紀から四条さんに頼めば、すぐにでも新入部員を用意してくれるだろう。彼女には、それを補って余りあるほどの人望がある。プライドとかそういった些細なものがなくなれば、俺は迷いなくその道を選んでいたはずだ。
雫を幸せにする。絵を完成させる。父さんを救い出す。これだけのことに、どうして俺は一歩も踏み出せないのだろう。
うじうじ悩むのもらしくない。わかってはいる。頬杖ついて黒板を眺めていると、緩やかなスピードで黒を埋める白が確認できた。それに合わせて教室の中は黒鉛が滑る音で満ちていき、独特の静けさが支配する閉塞感ばかりが増した。
たったの五十分。今日はやけに長く感じる。

 昼休み、用意された弁当を携えて美術室に向かっていた。折れた利き手じゃ、固定してノートを取るのが精一杯だ。どうしたって絵は描けないけど、何かしらイメージを膨らませることくらいはできるはず。或いはただ未練がましいだけの行為かも知れないけど、何もせず諦めるより精神的にマシだった。
「特別教室なんて、授業以外で行くの初めてだなあ」
 隣を歩くのは、俺の初めての恋人。雫にとってそれは見慣れた校舎だろうに、物珍しそうに辺りを見回している。今までの雫に、校内を見回すだけの余裕はあったか、そんなことが頭を掠めた。
「美術の授業とか、一年の頃あった?」
「なかったよ。だから、入るの初めて」
 正確に言えば、二年に上がる時に音楽か美術かを選ぶことになっているそうだ。俺はある程度有無を言わさず音楽という面もあったし、不満もなかった。美術部に入ったのも、或いはだからこそだろうか。
「金城さんとか、いるかな」
「さあ。でも、あの子も友達付き合いとかあるだろうし」
「昼休みに部活してる人もいないことはないみたいだよ」
 教室にいてもわかるだけで数人、昼休みになると部室に向かう人がいる。
「美術はどうだろうね」
「さあなあ。ホントなら、俺が一番頑張るべきなんだろうけど」
「行っちゃやだからね。お昼休みは、一緒に食べるんだから」
 笑いかけて首肯、ため息をついた。雫も随分我が侭になった。今までの雫を思うと嬉しい部分もあるが、やはり女の我が侭というのは男にとって都合の悪いようにできているものだ。雫に向けた笑顔も、本当は苦笑だったのかも知れない。
 話しているうちに、美術室にはすぐに着いた。中に誰かいるらしく、数人の女の子と思しき声がする。雫と見合わせてからドアを開けると、予想に違わず部員達が談笑していた。
「あら、どうしたの伊藤君。珍しいじゃん」
「いや……これの報告を」
 ギプスに固められた腕を肩だけで少しだけ上げると、部員の女の子達は一瞬の驚愕の後、心配に表情を歪めてくれた。責められてもおかしくないって、思ってたんだけど。
「早紀が言ってたの、本当だったんだ。痛そー」
「いや、動かさなきゃ痛くはないけど……動かすのは、無理かな、と」
「描けない、ってこと?」
 口には出しづらくて、首だけで肯定した。美術室のそこら中から漏れ出たため息に、しかし俯くことすら許されなかった。弱音を吐くことが許されるのは、やるべきことをやった者だけだ。
「どうすっかなー。早紀は何て?」
「無理するな、って。なんとかするから、って言ってた」
 早紀の部内での信頼は大きく、昼休みにも集まるような連中には特に好かれている。だからというわけでもないが、それだけである程度安心したらしい。具体策があるわけでもなし、彼女の存在の大きさが窺える。
 俺にできるのは、早くこの腕を治すことだけ。早紀も言ってたけど、本当にそれしかないのだろうか。握った拳に、力など入るわけがなかった。
「でもさ、警察とか出張らなかったの?」
「いや、昨日病院で色々訊かれた。鉄骨が落ちただけだし、答えようがなかったけど」
「そのことじゃなくて、不良のことよ。証拠は伊藤君自身で」
 追いかけることもできたかも知れない。一度は考えたけど、そうはしなかった。角を立てたくないという、至極勝手な我が侭の為だ。
「そこの……」
 視線を向けられた雫の肩を叩くと、慌てた彼女が数瞬挙動を狂わせる。
「や、八千代雫ですっ」
「八千代雫って……マジで?」
 やはり雫の噂は校内に回っているらしく、部員達は揃って嫌悪を露にした。雫もそれがわかっているのか、次には口を閉じて俯いてしまい、どうやっても顔を上げてくれそうにない。
「そう険呑な態度取らなくていいって。害はないから」
「でもさー……ねえ?」
「駄目なら、出てくわ。雫、寂しがりだし」
 否定したいのかそうでないのか、雫は俺の二の腕にそっと触れた。顔を見合わせた部員数人が、顔だけで相談している様子だ。
わかってはいた。雫に関する噂がたった七十五日で消えることがないことも、それがついて回る限り雫はどこへ行っても受け入れられないことも。それでも、胸が痛かった。疑ってるんだ。一昨日の事件が、雫のせいじゃないかって。そのくらい、言われなくてもわかる。
「まあ、いいや。お昼ご飯食べるくらい、何ともないし」
「あ、ありがとうございますっ」
「お礼なら伊藤君に言いなよ。伊藤君の彼女じゃなかったら、信用しないんだから」
 目が合った雫に笑いかけて、その頭に手を置いた。背が低い彼女は、縮こまってくしゅっと笑う。
「そこにテーブルあるから、お弁当ならそこで食べて。私ら、皆パンだからさ」
「あいよ。ほら、雫」
 雫も、自作の弁当を持参して、いつも俺と一緒に昼食をとっている。一度雫が「環くんの分も」と言ってきたが、そこまで世話をかけれないと断ってしまった。少しだけ後悔はあるけど、間違った選択ではないと思う。
 四人で食べた晩御飯の残り物。それが今日のメインディッシュだ。今回は聖と雫謹製だから、美味しくないはずがない。
「伊藤君さ、もう彩色するだけだったんだよね?」
「んー、まあ、もう少しかな。なかなか難しくてさ」
「ふーん。早紀も残念だろうねえ」
 面目ないとは思うけど、俺の腕は、治らない限り動かせないというのが現実だ。本人が言ったわけでもないのに、「手塩にかけて育てたのに」なんて言葉が痛かった。
「今朝作ったの、それ」
「雫がか?」
「うん。美味しいかな?」
 我が家によく泊まるようになった雫は、時折俺と協力して朝食を作るようになっていた。俺の目が留まらない間に、こんなものを作っていたとは。箸で摘まんだオムレツを口に放り込んで、味わうようにゆっくりと咀嚼した。
 空気読め、とでも思ってるんだろうか。部員達の、雫に対する視線は冷ややかだ。わかってる、雫は空気を換えようとしてくれていたこと。
「伊藤君ってさ、普段何してるの?」
「普段、ねえ……」
 家でのことを指してるんだろうけど、やってることというと余り思い浮かばない。
「雫と近所のお姉さんで遊んでる、かな」
「まーだ女の子がいるんだ。どんな遊びをしてるのかなあ?」
「健全だぞ。俺が雫をからかい、聖――ああ、お姉さんの名前な。聖が雫をからかい、って感じで」
 冷ややかな視線に、僅かながらの憐憫が加わった。雫の弄られ属性は、異常なほどに進化してるからな。素直なところがあり、思った通りの反応をしてくれるというのが、そうである一番の理由だ。
 雫の美点でもある。人を素直に信じるというのは、ただでさえ難しいというのに、あんな状況にあって俺を信じてくれたのは、奇跡にだって近いと思う。
「まあ、雫も慌てちゃいるけど嫌そうじゃないし……だよな?」
「う、うん……特に嫌とは思ってないけど、すっごく、恥ずかしいんだからね」
 顔を赤くしながら言うから、部員達の勘違いは最高潮だ。これも雫をからかってることに、彼女は気付いてくれるだろうか。
 笑いが収まると、一人の女子が準備室のドアを見詰めながら口を開いた。苦い表情だ。
「にしても、早紀も不憫よねえ」
「どういうこと?」
「あの子も結構色んな事件に関わってるのよね。皆は知らないけど」
 そういう背景もあるから、雫のことを無下にはできないという。
「ずっと前に自殺した子がいるでしょ。あの子達と最後に話したのが……」
「早紀?」
「だからかな、警察と話すのもうんざりしてると思うよ」
 早紀も、今回の事件で警察から事情聴取を受けている。俺はよく知らないけど、警察のことを訊いた時、確かに彼女は言葉を濁していた。
 早紀が噂にならないのは、本当に関わりが薄いからだ。最後に話したとか、悩みの相談に乗ったとかいうのは、周囲にとって些細なこと――或いは本当に「噂程度」でしかない。雫のように、その場にいた、という確実性がなかった。
 どうしてだろう。俺の周りには、そういう人が溢れている。いつも感じていたシンパシーがそうだというのなら、四条さんも、そして……俺も。
「八千代さんさ、早紀のことどう思う?」
「え? えと、いい人でした。やっぱり、怖かったみたいですけど」
「そうだよねえ。正直なところ、あたし達、今でも怖いもん」
 気付かなかった。早紀は確かに最初、雫のことを恐れていたような視線をしていたけど、確実になくなっていたと思っていた。雫にしてみれば、なくなってなんかいなかったんだ。
 でも、わからなくはない。怖いというのなら俺も同じだし、それが時折外に現れることも自覚している。
 しかし――
「早紀と八千代さんの関係。怖い」
「え? どう、いう?」
 二人に関係があったからこそ、早紀は怖がっていたんじゃないだろうか。可能性はある、らしい。
「八千代さんに関わった人の中で死んだ人、何人かいるでしょ?」
「……はい」
 俯く雫に「不躾でごめん」と謝り、部員は続ける。俺にそれを止める術はなく、そしてそんな気もなかった。
「さっき言った自殺者もそう。早紀が相談相手になったり――後は色々あるけど、確かに早紀も関わってるんだよね。多分、全員」
「全、員……?」
「そう、全員。有り得ないとは思うけど、関わってないと思う方が難しいよ」
 異常といえば異常。偶然といえば偶然。聖の言葉を借りるなら、偶然でも人為でもないもの、とでも言えばいいのだろうか。
 敢えて言葉を探すのであればそう――
「早紀と八千代さんの両方と関わるのは、だから怖いんだよね」
「わ、わたしは……わたしは、怖がる皆さんを見るのが、怖いです」
 本音を話すのは難しい。だからこの部員達も、「いなかったことにする」ようなクラスメイトに比べれば大分マシだ。そして、被害者である雫がそうすることなんて、今までないと思ってた。それはもしかしたらただの我が侭なのかも知れないけど、少なくとも自分を閉じ込めてしまうよりずっと良い。ずっと閉じ込め続けていたら、そのうち自分を覆う殻が、壊れてしまうかも知れないから。
 しかし悪びれた様子もない部員達は、容赦のない一言を浴びせる。「事実だから」と。この場で泣くことすら許されない雫は、そのまま走って部室を出て行ってしまった。
「本人も、わかってるんだろうね」
「だろうな。まあ、あの子にも友達ができ始めてるし」
「行ってあげたら?」
「当たり前だろ」
 俺が行かなきゃ、誰が行くんだよ。雫にとって頼れる人間がどれだけ増えようとも、俺は最後に頼れる人間でありたい。まだ出会って一ヶ月だけど、この場にいる誰よりも雫に近づいたのが、俺なんだ。
 走る必要はなかった。雫がどこにいるかわかったわけじゃないけれど、行くべき場所は、わかってた。
 外に出て校舎裏を抜け――少しだけ勇気がいるけど、フェンスを越えてすぐのところに、 薄暗い林がある。昼間だというのに陽光は届かず、風もないのに葉擦れが鳴る。不気味としか形容できないところに人が近づくはずもなく、だからこそ一人になるにはうってつけだった。
 少しだけ拓けた場所にそびえる大きな杉の下、うずくまる小さな影が揺れていた。
「……わたし、何かしたかなあ」
 震える声で、俺を迎えてくれた。悲運を嘆く声、自分を呪う声、それは悲痛な叫び。
「普通に過ごしてるだけ、だよ? 普通に生きてる、だけなのに」
 掛ける声は見つからず、それでも雫の声を遮ろうとは思わなかった。或いは、思えなかったといった方が正しいのか。そんな自分を肯定するつもりはないけど、下手に声をかけたところで、それが慰めになるとは限らないんだ。握った拳に、汗が滲んだ。
「皆、わたしを見てくれない。見ても、怖がって、誰もわたしを知ってくれない」
 雫を見た人間がどれだけいるだろう。それはどんな姿を捉えていただろう。
雫を知る人間がどれだけいるだろう。健気で、素直で、優しくて、可愛くて、そんな雫を、どれだけの人が知ろうとしただろうか。
葉擦れと木漏れ日が場の空気を少しだけ温めたけど、それで雫の涙が乾くことはない。
「環くんがいてくれなかったら、もうこんな風に泣かなかっただろうな……」
「……雫は」
 呼びかけたつもりだったけど、その掠れた声が雫に届いたかはわからない。ただ、震えた肩だけが雫を知らせてくれた。
「泣きたくなかったか?」
 返事はない。嗚咽だけが届いて耳を震わせ、俺は握った拳を柔らかく解いた。
 涙にも色々な種類がある。どれがどれとは言わないけど、雫が流す涙はきっと、悪いものじゃない。「泣いてもいい」なんて高尚なセリフは言えない。でも、俺の前で我慢なんてしないで欲しいと思う。
 小さな声が葉を揺らし、空気を揺らし、俺の心に小波を立てる。
「今までね、辛いと思ったこと、あんまりなかったの」
 慣れ、というのだろうか。人間や生き物は、環境に適応しようとして、慣れてはいけないようなことにまで慣れてしまうようできている。
「でも、ひとりだけ。ひとり、わたしの傍にいてくれる人がいるだけで、こんなにも景色が変わっちゃった」
「雫に会えたのは、間違いじゃないって思ってる」
「……まだ大丈夫なの。まだ、辛くない」
 だから、と言葉を続けて、雫はようやく立ち上がった。
 振り返ったその顔に、もう涙はなかったけれど、その代わりに微笑みが張り付いていた。
「だから、一緒にいてね」
 ああ、そうだ。雫のどこに惚れたか、今まで自覚することがなかったけど、もしかしたらこういうところに惚れたんじゃないのかな。こんなにも可愛い人、こんなにも優しい人、こんなにも強い人を、どうして俺が放っておけるだろうか。
 キスをしてわかった。ほっぺた、まだ濡れてたんだな。

 聖は笑ってる。彼女が、恐らく今回の事件で一番ダメージが少なかった。一度失神したけど後遺はなかったし、精神的にも落ち着いている。
 聖の部屋には今も通ってるけど、もう俺を蹴ろうとはしなかった。その代わり、「自分でなんとかしろ」と、俺にはよくわからないことを言うようになった。何をすべきなのかは教えてくれなかったし、何が迫っているのかも同様だ。
 今更だけど、聖には見えない部分が多すぎた。時折俺を見ながら「他の何か」を見ているのが、その最たるものだ。それを証明するというわけではないけど、以前には「見える」と言っていた。
 雫と部屋に遊びに行くと、笑って迎えてくれる。気になることは多々あったけど、俺や雫にとってはそれが何よりだった。それが全てだった。
「やはー、よく来た雫」
「は、はあ、どうも」
 陽気に笑う聖に、雫は少し縮こまってしまった。
 今更ながらに気付いたことといえば、雫を呼び捨てにするのは、俺だけだということ。
「さ、環も上がって。おじ様が帰るまで時間があるし、遊ぼ」
「父さん、最近帰るの早いよな」
「……いいことじゃない。仕事が順調なんじゃない?」
「だといいな。ま、子供が仕事のこと気にしても仕方ないんだろうけどさ」
 仕事は大人の領分だ、という認識が強い。父さんを支えたいと願う反面で、手の出しようがない部分があることに少しだけ辟易していた。
 日本の会社は――昨今でこそゲゼルシャフトに移行しつつあるが、ゲマインシャフトという形態をとるところが多い。そういう「共同体」或いは「家」という認識下にあって、集団というのは少し閉鎖的な部分があり、外部の人間がその情報を知ることは難しい。父さんだって訊けば答えてくれるだろうけど――プライベートに仕事を持ち込んで欲しくない、なんて我が侭を、勝手ながらに抱いていた。
「たーまきー。早く上がりなー」
「ああ、悪い」
 聖の声に苦笑しながら、雫の大きなお泊りセットを抱え直して、部屋の敷居を跨いだ。
 変わらない片付いた部屋。畳の、少しだけ冷えた感覚。
「聖の部屋って、すげえ落ち着くよな」
「そう? まあ、お客さんを招くには気を遣ってるけどね」
「その割に誰か来たの、見たことないな」
「だって、呼んだことないもの」
 こういうところも、聖の「見えない部分」と言っていいのか。ただのボケ気質なんだろうけど、どうつっこんでいいのかわからない難解なボケだ。
「お茶菓子ね、いいクッキーが入ったのよ」
「あ、お構いなく」
「俺は構う。食べたい、いいクッキー」
 雫に窘められたが、聖だから催促するんだ。出会って間もない俺達だけど、気安さという面じゃ、ある意味雫より上。聖という人間を嫌う人が、いるだろうか。例えばこの間のナンパだって、ただの逆恨み、聖が彼らを煽ったからだ。
あいつらを恨むつもりはないけど、せめて時間だけでも返して欲しい、なんて。
「ほら、これ。いい色でしょー?」
「美味しそう……」
「雫ちゃんもどうぞ。今お茶淹れるからね」
 キッチンで紅茶の茶葉をティーポットに入れる聖を横目に、クッキーを一つ口に放り込んだ。齧ると広がる、仄かな酸味。
「これ、レモンかな?」
「多分……美味しいね」
 レモンの酸味と、そこに隠れる微かな甘みが、舌を心地良く刺激する。そう舌が肥えてるわけでもないけど、だからこそ「美味しい」と「美味しくない」の二元的な味覚になってくる。美味しいものは、美味しい。
 紅茶はすぐに入り、聖も輪に入った。フランボワーズといわれる茶葉で淹れたフレーバーティー、らしい。木苺のような、甘酸っぱい香りがする。
「オシャレですね、聖さん」
「あはは、そんなことないよ。ただまあ、こういう『楽しむ』タイプのお茶が好きなんだよね」
 味わうのもいいけど、せっかくの刹那だから、どうせなら楽しんでいたい、らしい。わからなくもないが、その感覚はどちらかというと女の子特有のものと思う。雫もその香りに満足してるみたいだ。
「それはそうと、ごめんね?」
「何が?」
「腕さ、私があいつらを怒らせたからでしょ? 謝るのも遅れちゃって、ダメなお姉ちゃんだなあ」
 その自虐より、お姉ちゃんという響きに無理を覚えて、笑いを堪えるのに必死だ。なんて言ったら、聖どころか雫にまで怒られそうだから、口には出さないでおいた方が懸命なんだろうな。
 女の子に囲まれた男っていうのも、幸せそうに見えて肩身が狭いものだ。以前の俺が見たら、羨むような状況にあるというのに。
「雫ちゃんも、ごめんね。辛かったでしょ」
「いえ、わたしは……」
 雫は、聖の顔を見ようとしなかった。それがわかってか、聖は微笑みもう一度だけ謝った。「私が悪いんだよ」と、優しくだ。
「美術部でなんかあったよね? 間に合いそう?」
「いや、無理っぽい」
「どうするの?」
 方策はない。「任せろ」といった早紀だって、具体的な対策なんて持っちゃいないだろう。答えに窮した俺の言葉を待つように、聖はこっちを見ている。テーブルを挟んで向こう側、聖の目がやけに近く感じた。
「私がなんとかしようか?」
 その提案には、流石に声が出なかった。冗談にしたって性質が悪いし、それなのに聖の声色に茶化すような響きはなかったから。
「言ったでしょ。交渉事は得意なんだ。私ならネゴシエーターになれるね」
「それでなんとかできるって? 学校でできないことを、一介の大学生が一人で?」
「うん。私のせいだし、お詫びのつもりでさ」
 言葉が出ない。呆れもあるけど、それ以上の迷いが俺の喉を塞いでいる。
 自分の力で何とかしたい。でも、俺じゃあ力不足もいいところってことも、わかりきってる。頼れば可能性はあるかも知れないけど、今後に更なる悪影響が残るかも知れない。諸々の事情が、判断を阻んでいた。
 それに、部員の皆に黙って決断するわけにいかない。だというのに、この場には、この件について黙ってられない女の子がいた。雫だ。
「それ、本当ですか?」
「うん。まあ、確実じゃあないだろうけど、確率は高いと思うよ」
 そう言い切れる聖は頼もしくもあり、そして多少無責任に感じて疎ましかった。その自信はどこから来るんだなんて疑念が鬱積して、しかしその自信は確信に近い色を持っているように感じた。「私だから」という、ある種絶対の自分に対する信頼だ。
 雫は俯いていた顔を上げて聖を見詰めた。少しだけ目線の低い聖が、上目遣いに笑う。
「お、お願いします。環くん、一生懸命やってたから、だから」
「それは雫ちゃんからお願いするようなことかな? 雫ちゃんが決断することかな?」
 見守る俺は、どこか蚊帳の外にいる気分だった。雫の必死も、聖のどこか試すような視線も、俺には届かない。
 少しだけ面白かった。いつもより毅然とした雫や、いつもより余裕に溢れた聖が、どこまでもらしくなくて、笑いが込み上げてきたんだ。らしくもないし不謹慎なんだろうけど、不覚にも笑いを堪えることはできなかった。俺の大きい笑い声に、真剣だった二人の表情は一度に崩れ、代わりに「きょとん」という呆けた顔が残った。
 迷うものじゃない、ってことかな。どんな選択肢が雫を、聖を安心させるかはわかってるけど、生憎とそれは納得できそうになかった。美術部員もそうだろうし、早紀だって、もちろん俺もそうだ。
「いいよ、聖。多分、俺達だけでなんとかするべきなんだと思うしさ」
「そう? まあ、皆が納得してればそれでいいんだけど」
「だめだよ、環くん。毎日学校が閉じるまで頑張ってたでしょ?」
 毎日下校時刻まで描き続けてきたから思うんだ。自分達だけで頑張りたい、って。
 雫は、集団生活でのこういった感覚を忘れて久しいと思う。だからというわけではないけど、多分俺の選択には納得のできないものを感じているだろうし、もしかしたら「わたしが」とでも思ってるのかも知れない。
 出来上がる予定だった作品の数が十六から十五に変わる、それだけの問題だ。妥協のできない部員達に二作を制作させるわけにはいかず、俺はこの腕の状態で描くことができない。全治一ヶ月が今更二日に変わるわけもなく、八方塞とまではいかないものの、少なくとも四方は囲われてしまっていた。
「でもさ、雫。納得できなくても、聖に迷惑かけるわけいかないだろ」
「でもでも、美術部員さん達、今でも自分の作ってるんでしょ?」
「俺が足引っ張るわけにいかないこともわかってるけど……もう、俺も部員なんだよ」
 わかってくれとは言わないけど、雫には共同作業の楽しみを知って欲しかった。
「あと二週間だよ? そうしないと、皆悲しいよ」
「不器用でいいからさ、雫」
「でも、でもぉ……」
 こんな風に、何か――誰かに夢中になれたことを、自分でも驚いてる。
 迷うくらいならやった方がいい、とはいうけど、その「やる」がどちらなのかわからない時、どうしたらいいだろう。どっちにしたって、納得のできる結果なんて残らないかも知れない、それも承知だ。どちらが上か、なんて比べるつもりもない。
「ただ、迷惑は本人達が被ればいいだろ?」
「だって……」
 雫は、「自分のせいだから」と自責を抱いてるんだろうか。誰が悪いわけでもない、というのは、雫もわかってるはずなんだ。
 或いは本音は、別にあるのか。
「見たいもん。せっかく環くんのお友達が作ったの、見たいもん」
 ああ、そうか。
 情けない話ではあるけど、そういう見方を失念していた。部員達の作品を見たがってる人達が、確かに存在しているという、簡単な事実だったはずなのに。部員達にも、自分の作品を見せたい大切な人がいるかも知れないことを、怪我してからずっと、思い浮かべもしなかった。
 気にすべき事柄が増え、迷いが生じて、その度に聖の提案へと心が傾いていくのを感じていた。俯いてみると、不思議と顔が上がらなかった。
「環くん、やっぱり聖さんにお願いしようよ」
 俯いてしまうと、言葉まで胸の奥で止まってしまう。膝に置いた拳に、少しだけ汗が滲んだ。
 入ってくる陽射しは傾き僅か。風はなく、外は遠く鳴く蝉の声で埋め尽くされて少しだけ喧しい。沈黙は、居た堪れないものだった。
「ま、二人共落ち着きな」
「聖……」
 ようやくか、今まで口を挟もうとしなかった聖が口を開いた。
「二人だけで決めることじゃない、っていうのが結局だと思うよ。明日辺り、皆に相談してみたらいいじゃない」
 それだけのことだ。雫も俺もあっさりと納得して、代わりに落ちた静寂を打ち消すようにクッキーを頬張った。
 雫と二人だけだったら、平行線を辿り続けていただろう。自分を引っ込めることに関して、雫の右に出る者はいないだろうけど、こと俺に関して、雫は決して自分を譲ろうとしなかった。自惚れでもなく、雫は俺に夢中になってくれてるはずだ。
 だからこそ、聖の存在がありがたかった。確かに交渉事に関して彼女を超える人間はそう見かけないし、何より「いるだけで」という安心感がある。
 生まれ持った才能が違う。わかりやすいところで、黒田なら武道、四条さんなら大抵のことはこなしてしまうだろう。そして聖の持つ才能が、人と人とを繋ぐ架け橋、「仲介」である、ということ。
 これといって際立ったものを持たない俺だからだろうけど、そういう才能を一つでも持つ人を羨ましく思う。そして同時に、その際に背負うことになるだろう「責任感」について考えることもある。才能や技能は、振るってこそのもの、という認識を持つ人間は当然いるだろう。それが聖のような才能を持つ人間だったら、ということだ。
 重苦しいだろう、きっと。喧嘩の仲裁なんて、率先してやりたいものじゃない。
「悪い、聖」
「ん? 何が?」
「なんでもない――さて」
 首を傾げる女性陣を見回して、膝を叩いた。
「トランプしよう」
「……おっしゃ、ババ抜きで負けたら一枚脱ぐんだ」
「ひ、聖さん、一枚しか着てませんよお!」
さもありなん、今日の聖は小柄なキャミソール一枚とミニのフリルスカートのみだ。雫以外の裸に大した興味はないが、こういう賭け事に対しては俄然萌えてくるというもの。
聖は不敵に笑う。
「負けなきゃいいのよ、雫ちゃん」
「聖如き、すぐ真っ裸にしてやる」
「た、環くんのえっちっ!」
 普段は押しの弱い雫が俺達を止められるわけもなく、その場のノリだけで始まった脱衣ババ抜き。過程はどうでもいいとして、結果には少し驚かされた。
 まあ、雫の下着姿は見たことあるし、そう照れるわけでもないけど。






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