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  めざめて中の人 作者:
6話



めざめて中の人





 早紀の携帯の番号を入手したのは、随分前のことだ。家で自主制作をする時に何か困ったことがあれば訊いてくれ、ということで、随分無防備に教えてくれた。
 頼まれ事を一緒に片付けてしまおうということで、早紀に連絡を入れた。先日美術部の先輩に頼まれた、ジェッソとワニスの買い物だ。作品完成の期日は一ヶ月、の、一週間前。早いうちに買っておかないと部員全員に迷惑がかかるし、その結果早紀の作品がギャラリーからなくなってしまうかも知れない。
 結果、雫と聖まで集まってしまった。携帯で電話しているところを、遊びに来ていた聖に見られ、その報告を聞いた雫が「わたしも行く」と頑固になってしまった、というわけだ。そうなれば、聖が行かない理由もない。
「ごめんな、早紀」
「ああ、うん。いいよ」
 少しだけ表情を翳らせた早紀のその声を聞いても、許容された気にはなれない。
 駅前で待ち合わせをしていた早紀は、俺が二人の女の子を連れているのを見て、露骨に顔を顰めていた。なにせ、二人共が可愛い。不安を隠せない雫が早紀の前に立つと、どうしてか俺の方が不安になってくる。
「は、初めまして。八千代雫です」
「よろしく、金城早紀です。八千代雫さん、ってことは……」
 早紀の視線を受けて、俺は雫の肩を抱いた。細い肩は少し震えていて、どれだけの不安を感じているか窺わせる。
「うん、俺の恋人」
「そっ、か。可愛い子で、よかったね」
「まあ、ね。それよりほら、聖」
 そんな俺達の遣り取りを珍しく静観していた聖を促す。微笑ましいものを見るような彼女の視線が、少し気に入らなかった。差し出された聖の手を、おずおずと取る早紀。
「よろしくね、早紀ちゃん。私、高橋聖っていうの」
「はあ、聖ちゃん、ですか」
「ひ、聖ちゃん――!」
「……何笑ってんのよ、環」
 まさかとは思ってたけど、「ちゃん」をつけられるとは。笑うなって言う方が酷な話だ。
「な、なに? 環君?」
「さ、早紀……」
 笑いながら喋ると、腹が引き攣って上手く言葉が出てこない。何とか出てきた言葉は単純で、しかし早紀には大きな衝撃だったようだ。
「聖、三つも年上だぞ?」
「え、ええ?」
 再度聖を見た早紀の視線は、疑念に変わる。訝しげな瞳が、次には俺を捉えた。騙されているとでも思っているのか、少し不機嫌そうな色に染まっている。
「嘘でしょ。だって……」
「だって、何かな?」
「……だって、どう見ても中学生」
 今度の笑いは大きなものだった。駅前を歩く人々の視線がほとんどこっちを向くほどの大きな笑い声に、早紀はようやく事実を認識したようだ。そっぽを向いた雫の肩が震えているのがわかって、聖の肩も揺れる。その揺れの意味なんて、今更考えるまでもない。
「あーっ、もう! 皆して酷いよ!」
「あああの、ごめんなさい!」
 それから数分は笑い続けた。憤慨する聖と、萎縮する早紀と、それを笑う雫と俺で、人波の視線を一身に集めていた。意外な組み合わせになったけど、早紀も雫を知らないみたいだし、上手い人間関係が築けそうだ。
 聖はすぐに機嫌を取り戻した。そこまで子供じゃないし、何よりここは、騒ぐには暑すぎる。用を済ませる前に、街を歩き回ろうということになった。
「美術部で環がお世話になってる、か。いいご身分ね、周りに美少女ばっかりで」
「それ、もしかして自分も含めてるか?」
「ふふん、当然。あれよ、容姿には多少自信はあるのよ?」
 確かに自信を持っていいレベルではあるが、
「雫、どう思う?」
「え、ええ? ええと……か、可愛いと思います」
 メインストリートから一つ道を外れると、車道と呼べるような車道はなく、脇には多くの店舗が並んでいる。歩いていると絶え間なく人とすれ違い、少しだけ不安を覚えた。降り注ぐ陽光は「夏」と呼ぶに相応しいもので、今ここにある全てを容赦なく焼いていた。
「早紀がこの中で一番年上に見えるよな」
「そ、そう?」
「酷いよ環ー」
「酷い、環くん」
 以前住んでいた場所に比べると、ここは繁華街とまでいかない、商店街くらいがちょうどいいだろうと思わせる。それでも、賑わいという大きなファクターがあった。
「それにしてもこの暑い中、よく手なんか繋げるよね」
「これが不思議なものでな、暑いけど熱くないんだよ」
「私にゃわかんないなあ。早紀ちゃん、繋ごうか?」
「遠慮しときます……」
 古着屋や喫茶店、軽食などの店が目立つ。若者の歩きやすい街、といった感じだろうか。メインストリートがどちらかというと大人向きなので、ちょうどいいのだろう。聖もここをよく利用するらしい。
「じゃ、今日はお姉さんが皆にご馳走してあげようかな」
「太っ腹だね。いいぞ聖」
「太っ腹って言葉、私好きになれないんだよね。なんなの、太い腹って。失礼じゃない」
「ほら早紀、つっこむところだ」
「仲、良いよね」
「ほんと……」
「いやつっこめ。というか拗ねるな雫。爪を立てると痛いぞ」
 気付けば、少し外観の古臭い、喫茶店らしき建物の前に来ていた。聞くに、聖行きつけのおすすめらしい。聖の舌は確かなものなので期待が持てるが、どうしてもこの古い見た目に一歩引いてしまうところは否定できない。焦げた茶色をした木製の壁は、今にも崩れそうなほど脆く見える。
「入ってみればわかる。中はいい感じだし、何より味が最高だから」
「ま、いいけどね。雫」
「う、うん……こういうとこ、初めてだよ」
「私もエスコートして欲しいなあー、ね、早紀ちゃん」
 黙秘を貫いた早紀を最後尾に、同じく木製のドアをくぐる。金属の軋む音と共に流れた空気は、少し懐かしいコーヒーの香り。ノスタルジックな雰囲気は、確かに聖の言う通り「いい感じ」に違いない。古い外観の割に中はしっかりした造りで、エアコンもきちんと効いていた。丸いテーブルと低い椅子も、店舗と揃って丈夫な木造だ。
 何より、その香りが優しかった。コーヒーは香りを楽しむ飲み物というだけに、確かに、聖も惚れておかしくはない。席についた俺達は、鞄を傍らの床に置いた。
「どう? ここはね、友達も連れずに一人でお茶する時に来るんだ」
「私達、ついて来ちゃってよかったんですか?」
「まあね。環も色々頑張ってるみたいだし、ご褒美みたいなもんだよ」
「何だそれ? 頑張ってるっていうと、雫とか早紀の方がよっぽどだろ?」
 慌てながら否定する二人を――俺を含めてかも知れないが、笑い、聖はメニューをテーブルに広げた。コーヒーだけで数十種揃えるそのメニューに少しだけ圧倒され、しかしこういうところで余り冒険する気も起こらなかったので、エスプレッソに心を決める。
 全員が決まったところでバイトらしきウェイトレスを呼ぶと、穏やかな返答と共にすぐテーブルの横に立ち、伝票を広げた。
「わ、わたしはカプチーノ」
「早紀は?」
「レギュラーで」
「俺、エスプレッソ」
 年少者三人が注文を終えると、いよいよ常連である聖の出番だ。ここの美味しいコーヒーも熟知してるはず。
「はいはい、私ウィンナーコーヒー!」
 全員吹き出した。しかし店員さんは慣れたものらしく、恭しく頭を下げてキッチンの方に引っ込んでいった。
「なに笑ってるの、皆」
「だって、なあ?」
「うん」
 早紀と顔を見合わせて、示し合わせたように聖に顔を向ける。
「似合いすぎ」「ですから」
 雫も同じ気持ちらしく、未だに笑いを堪えて震えている。聖が注文した瞬間なんかは、俺も、聖の鼻の下にクリームがついたコケティッシュな様子を想像したくらいだ。こう言ったらウィンナーコーヒーに失礼なんだろうけど、低年齢向けのコーヒーだと思っていた。
「まあ、わからなくもないけどねー。でもあれ、意外に美味しいのよ」
「味を疑ってるわけじゃないんだよ。聖が飲んでるのを想像して笑ったんだよ」
「余計失礼じゃない。まったく、人が何飲もうと勝手でしょうに」
「そりゃね。でも、あの大人しい雫でも笑ってたよ」
 慌てる雫に笑いかける聖は、多分「怒ってない」とでも言いたいんだろう。そりゃ、そのくらいで怒られたら堪ったものじゃない。そもそも、俺の周りには温厚な人間が多い。雫然り、早紀然りだ。
「で、今日は何買うんだっけ?」
「ジェッソとワニスです。美術用具」
「何それ?」
「ワニスは、ニスって言った方が馴染みありますね」
 確かに、入部したての頃はその二つ共の意味が全くわからなかった。今の説明と同じことを言われてようやく理解したくらいだから、それは的確なものだったろう。
「ふーん。で、ジェッソってのは?」
「地塗り剤です。基本的にはアクリルとか油彩に使われるんですけど、色を引き立てるんですよ」
 一応水彩にも使われるらしいけど、俺はそれを使うつもりはなかった。専門的知識も何もないから偉そうなことは言えないけど、色を引き立てるということをしたくなかった。俺が描く人というのは、そういうものだ。
 早紀による美術談義の序盤が終わる頃、ようやく人数分のコーヒーが運ばれてきた。それぞれ用途に対して豆を分けているらしく、確かにその香りには微かな差異が見受けられる。
「いっただきまーす」
 一番元気なのが、一番年上というのは、微妙な気分だ。結局「いただきます」を口にしたのは聖一人で、残る三人は静かにカップに唇を添えた。
「わ、ほんとにおいしい」
「ほんと。驚いた」
 得意気になる聖が少し気に入らないけど、確かにここのコーヒーは美味しかった。この濃さは若年層に受けが悪いだろうけど、それを承知で注文した俺の望む通りだったし、何よりその香り高さがマイナスイメージを払拭する。コクのある酸味は、ミルクなどのマイルドな味を混ぜると化けるはずだ。
「聖、やるなあ」
「まあねー」
 胸を張る聖の口元に、ウィンナーコーヒーの生クリーム。注文した時より大きな笑い声が、小さな店内に木霊した。
「へへ、私可愛い?」
「開き直るな。可愛いというか馬鹿っぽいよ」
 紙のナプキンを使って口元を拭った聖は、そのまま据付の砂糖をコーヒーに入れた。どうやら、生クリームが入っているにも関わらず苦かったようだ。そもそもウィンナーコーヒーというのは、生クリームの甘さとコーヒーの苦味とのギャップを楽しむものなのだ。それをこの聖という女は。
「最初からカフェラテでも頼んどけよ」
「やあよー。生クリームが好きなんだもん、仕方ないじゃない。苦味を楽しむのは、最初の一口だけで十分なの」
「ああ、わかっててやったんだ」
 苦笑した俺に同調したのか、隣の雫も早紀も、似たような表情をしていた。大学生になれば格段に大人になるんだ、とか思ってたが、それは責任とかそういう部分だけらしい。聖を見ているとよくわかる。肉体的な部分はほとんど変わらないし、精神年齢も低そうだ。
「それよりね、早紀ちゃん」
「はい?」
「環の絵、上手いの?」
「訊くな」
「誰も環に訊いてないじゃない。早紀ちゃんの、熟練者の意見を訊いてんのよ」
「そんな、熟練者なんて……」
 プロ、というには少し足りないかも知れないけど、早紀は確かに熟練者というに相応しいものを持ってると思う。でも、俺の絵に関して訊いて欲しくないのは正直な気持ちだ。
「で、どうなの?」
「そうですね……荒削り、というにも早い感じです。まだ削り始め」
「あはは、まあたった一月だもんね」
 何事も経験。経験は時間によって成される。美術という分野において大切なのは基礎、というだけに、俺の経験不足は何より致命的だ。加えて言うなら、センスがあるわけでもない。
「でも、描きたいものがあるというのはいいと思います。そういう人って、意外と少ないんですよね」
「そっか。確かに……私もこれってものがないなー」
「画力に関しては、普通、としか言えませんけどね」
「随分あっさりと切り捨てるな、早紀」
「うん、事実だもん」
 笑いながら俺の画力をあっさりと否定した早紀をそれとなく睨んで、コーヒーを口にした。エスプレッソの濃厚な苦味が広がると、口の中が成熟したような錯覚を覚える。苦味というのは人にとって大切なもので、何かを成長させようと思う時、それは何よりも重要になってくる。早紀の苦言然り、だ。
 しかし苦いものは苦い。俺も聖と同じように、砂糖なんかを追加してみるのだった。
「環くん、わたしのおうちは?」
 そんなことを突然口にした雫は、何が言いたいのだろう。考えたものの、心当たりは一つしかなかった。自分の恋人に対して言うことじゃないかもしれないけど、下らない嫉妬だ。
「楽しいぞ。というか、雫は……」
「わ、わたしは?」
「柔らかい」
「や、やわら?」
 彼女のお気に入りは、俺の胸を背もたれにして本を読むことだ。お腹を抱いてやると、少し唸ってから小さく笑う。
「ああ、すごく柔らかいぞ」
「柔らかい……」
 けたけたと笑う聖は、既にその意味を理解しているのだろう。その隣で苦笑する早紀も、雫の思案を見守っている。
 コーヒーと共に腹に満ちる温もり。窓から入る陽射しは柔らかさを孕み、既に不快感などなくなっている。外と中との温度差。そして店内と体内の温度差。ここは、酷く調和が取れていた。
「いい店だな、確かに」
「でしょ。飲んでわかって、飲んでてわかる」
 会話が続き、コーヒーは減っていった。温もりだけが積もっていって、最早「ここを動きたくない」とさえ思った。
 会計は聖任せ。バイトはしていないらしいが、それなりの財があるらしい。心地のいい店内が名残惜しい気はあったが、聖を残して歪んだ景色の元へのドアを開いた。
「暑……雫、大丈夫か?」
「うん、平気。環くん、お茶あるよ?」
「あ、もらう」
 雫がバッグから取り出したペットボトルを受け取ると、キャップを開けて一口含んだ。口に広がっていたコーヒーの香りを消すのは惜しかったけど、今は冷たいものが欲しかったところだ。
「ありがと」
「わたしも飲もうっと」
「え、八千代さん……」
「な、なんですか?」
 驚いたように呟いた早紀に、雫は酷く萎縮してしまう。やはり、今まで他人を避けて生きてきた雫に、他人と打ち解けるのは難しいだろうか。ペットボトルの口に下唇の端をつけて、雫は早紀を見詰めていた。お茶はまだ飲んでいない。
「間接、キス」
「ふえ? へ、変ですか?」
「変じゃ、ないけど」
 何度も唇同士を重ねているのに、今更間接的なキスで照れる方が難しい。早紀にとってそれは初めて目にする「恋人らしさ」だから仕方ないのかも知れないけど、そうやって驚かれるのは心外だ。もっとも、早紀が男女関係に疎いのも、知っているけど。
 お茶を飲んだ雫はそれをバッグに仕舞い直し、俺の左手を取った。確かに他の子達と遊びに来てるのにこうするのは空気が読めていない証拠だろうけど、この温もりは一度手にしてしまうと手放せなかった。これもまた、俺達の恋人らしさだ。
 軋んだ音と共に冷たい空気が流れ出てくると、聖の明るい声が響いた。
「や、お待たせ。じゃ、そろそろ行こうか?」
「はい。一度メインストリートの方に戻ってもらっていいですか?」
 俺も画材屋に行くのは初めてだ。期待が胸を占めると、思わず表情が緩んでいくのを感じ、それを悟られないように顔を伏せた。もちろん、背の低い雫からは丸見えだったろうけど。
「環くんは、何描くの?」
「え。別に」
「別にってなあに? 言えないの?」
「言えないっつーか……ま、ギャラリーに見に来な」
「チケットは、もちろんくれるんだよね?」
 頷くと、雫は嬉しそうに笑った。部員にチケットが配られるかどうか知らないのは、内緒にしておこう。配られないというのであれば、雫には悪いけど、自分の金で来て欲しい。我が侭なんだろうけど、そうした方が「雫の足で来た」感覚が強い。
 それに、早紀の作品を見るのに、俺のチケットじゃ悪いだろう。まだデッサンが終わった段階だけど、あれは本当に見事なものだ。
「八千代さん、環君が何描くかわからない?」
「え、えと……まだこの街に慣れてないし、それにあんまり人も知らないから……あ」
「わかった?」
「そ、そんなはずないと思う」
 なんだろう、顔を赤くして。早紀には雫が何を考えてるかわかったみたいだけど、彼女はそれを教えてくれるつもりはないらしい。握った雫の手に汗が滲み、俺の手を熱くした。
「しかしあっついな。聖、なんとかしてくれ」
「私にどうしろと? なんだったら服脱いだら?」
「これ脱いだら裸じゃねえか。なんだ聖、見たいのか?」
「見たい」
 これには、俺より先に雫が怒り出した。いくら家族みたいだからって、そこまでは駄目だ、らしい。呼吸するたびに肺を満たす熱気は、服を脱いだくらいじゃどうにもならない。脱ぐつもりなんて、最初からないのに。
 冗談だと笑う聖の右隣、立ち止まった早紀の前を見ると、ビル同士の間に小さな店舗が建っていた。
「なんか、場違いだね。ここ?」
「はい。入ろ、環君」
「ああ。なんかすげえ楽しみだな」
 画材屋の中は、独特の匂いで満ちていた。絵具やシンナーなどの香りが混ざり、しかしそれは不快でない程度に薄まっている。画材といえば美術準備室にあるものや部員の持ち物程度しか見たことがなかったけど、こうして専門店に置いてあるものを見ると、本当に多種にわたることがわかった。
「私と環君で買う物見てくるんで、二人は適当に見ててください」
「わかった。じゃあ雫ちゃん、行こ」
 聖と雫のロリっ娘コンビは、そのまま店の奥に歩いていった。名残惜しげな雫の視線は、どうしてだか俺より早紀に向いていたと思う。
「環君、何か見たいものある?」
「せっかくだし、水彩見たいかも」
「じゃ、ついてきて。水彩って言っても、絵具だけじゃないし、絵具だけでも不透明と透明とあるから」
「小学校で使ってたの、あれは?」
「不透明。ガッシュって言うの」
 早紀の視線の先には、絵具のコーナーがある。油彩やアクリル、水彩、他にも墨なんかも置いてあるみたいだ。
「下書きは終わったの?」
「あと少し。なんというか、いまいち頭に浮かんだのがおぼろげで」
 水彩をペンで下書きするという技法は、本来余り見られるものじゃない。ただ、俺の場合初心者だから、輪郭を捉えずに水彩するのは難しいだろう、との早紀からのアドバイスだ。
「書き出せばわかるよ。モデルがいるなら、付き合ってもらえばいいのに」
「モデルというか……上手く説明できないけど、付き合ってはもらえない」
 本当は、申し出ることさえできない。それは歯痒いことだけど、俺の胸の中にだけ住んでいればそれでいいと思える。彼女は俺の中で、あくまで幻として存在していた。
 陳列棚に並べられた絵具は、とても覚えきれるものじゃないほどに彩り豊かだ。その中から、彼女に合った色彩を見つける。濃淡の境界が酷く曖昧で、彼女を「色」として認識するのはとても難しいけれど、それは俺にしか見えないものだ。
「個人の買い物だけど、部費も使えるから、遠慮いらないよ」
「というか……」
 首を傾げる早紀の視線を受けて、またしても思い出したこと。
「財布、失くしたまんまだ」
「環君……無一文で街に出てたの?」
「面目ない。昼飯どうしようか」
「奢るよ。それじゃなきゃ、八千代さんが奢ってくれるでしょ」
 確かに彼女も俺が財布を失くしたことを知っているけど、そう何度も雫を頼るのも忍びない。金銭面に関して、男である俺が頼るのも気が引ける。如何ともし難いのは理解してるが、納得ばかりはできそうにもなかった。
「ま、とりあえず道具選ぶか」
「準備室に結構揃ってるから、相当変わったものじゃない限り買わないでいいよ」
 そんな調子で店内を見回り、店を出る頃にはちょうどお昼時といった風情だった。
 近くのデパートにあるファーストフードショップに入った俺達は、それぞれ軽めの昼食を注文し、テーブルを囲んでいた。
「重い荷物は男に任せ、そのくせ女ばかりのメンバー。気が楽なことこの上ないね」
「すごく……同意しづらいです……」
「単に環の男友達が少ないおかげ。偉いよ!」
「褒めてんのか、それは」
 確かに友達と呼べるような男はいないけど、話さないわけじゃない。黒田なんか、雫と付き合いだしてからも結構な頻度で話しかけてくる。「不幸になる」と教えてくれたのはあいつなのに、どうしてか雫を嫌悪しているようには見えなかった。
「でも環くん、ほんとに女の子に囲まれてる」
「仕方ないだろ、男があんまり寄ってこないんだから。部活は俺以外全員女だし」
「環くん、よくそんな部活に入れるよね」
 当時は女の子に囲まれることが嬉しかったし、今はそれに安堵すら覚えている。女の子という性は、外面を取り繕って生きるものだ。
「早紀、今まで男はいなかったのか?」
「いないね。私が入学してから、環君以外の男の子が部室に入ったの見たことないもん」
 徹底した排他主義、というと言い過ぎだろうか。異分子になりたくないというのは誰にでもある感情で、そうすることで「出た杭」にならないようにしている。そういう意味で、俺はその時既に転校生という異分子だった、というわけだ。
 もう慣れた。女の子ばかりの部室も、その後に向かう雫の家にも聖の部屋にも、そして、狭い交友関係にも。

 可愛い女の子ばかりというのは、時に弊害も生み出す。今の状況がまさにそれだ。ナンパなんて、初めて見た。しかも、男がいる目の前で。
「迷惑。邪魔。煩い。臭い。醜い。帰って相応の女とよろしくやってればいいのに」
 表情も変えず、顔も見ず、男達を罵る聖というのも、さすがに初めてだ。お高く留まって、なんてセリフには、何て返していいのかわからないほどの悲哀を感じる。こんな衆人観衆で暴力沙汰は有り得ないし、どっちにしたって向こうが悪だ。
 俺が口を挟むまでもなかった。聖の口先だけで、男達はすごすごと退散してしまったのだ。
「……なんだかなあ」
「絶滅危惧種だよな。ごめんな、聖」
「別にいいけど。ああいうの、得意だし」
「すごいです」
「いやあ、照れるから褒めないで、雫ちゃん」
 雫は、始終俯いて縮こまっていた。男に守られるタイプと、自衛の手段を持つタイプ、そして男を守るタイプ。どれが好きだと分類するつもりはないけれど、雫が好きな俺は、きっと庇護欲が大きいのだろう。
「早紀、大丈夫か?」
「うん……ああいうのってさ、逆恨みとかが怖いじゃない」
「そん時は、環が何とかしてくれるんでしょ?」
「まあ、頼りになるわけでもないけど、やってはみるよ」
 殴る蹴るの喧嘩なんて生まれてこの方したことがないから、いざ本番になったとしても上手くやれるかわからない。角を立てない生き方をポリシーにしてきたから、争い事は元々苦手なんだ。もちろん、早紀や聖、そして雫を守る為なら、それを崩すにも吝かじゃない。
 いざこざには無縁の生活を送ってきた。どう転んだって、そんなに面倒な人間関係にはならないだろうと思いながら、交友関係を築いてきた。
「そろそろ、出ようか」
「そだね。環くん、私が奢るから、カラオケでも行こうよ」
「……そう、だな。まあ、たまにはパーッと遊ばないとな」
 雫の申し出は少し意外だったけど、断る理由もなかった。雫が早紀や聖に少しでも近づこうとしてるのかなって、嬉しくなったから。

 街で遊んだ時間は、あっという間だった。カラオケ、ショッピング、気付けば日も落ちて、街には夜の帳が落ち始めたところだ。父さんはまだ帰っていないはずだけど、少し寒気がして、家に帰りたくなった。
 人気のない路地を、賑やかに歩く。嫌な予感といえば、最初からしていたんだ。早紀の言う通り、くだらない逆恨みだ。
 デパートのファミレスで女性陣をナンパしてきた男が仲間を連れて、俺達の前に立ちふさがっていた。女性陣を後ろにやり、俺はそいつらを必死に睨みつけたけど、これだって小さな虚勢だ。相手を煽るだけの結果しか招かない。
 前に出たのは、男達でなく、またしても聖だった。
「やめといた方が、いいと思う」
「ああ? 今更、許すと思うか?」
「許す許さないじゃなくて、そっちの為に言ってるんだけど。分が悪いよ」
 暗がりの工事現場に、下卑た笑いが木霊した。改めて見渡しみると、ここは作業中の現場だということに気付く。
「雫ちゃんと早紀ちゃんが揃うと、やっぱりまずいよねえ……環もいるし」
「おい聖、それどういう意味だよ?」
 聖の言葉に疑問を抱いたのは、不良達より俺だった。雫も早紀も、何か武道をやっているわけでもない、むしろか弱いタイプの女の子だ。暴力沙汰になれば、勝てる道理など一分たりともあるわけがない。
 首を傾げる俺達と、相変わらず笑う不良達。まだ大丈夫、まだ怒っちゃいない。
「ああ、ああ、まずいまずい。私もそろそろ限界近いよー」
 次第に切羽詰っていく聖の声は、確かに本気だ。冗談でもなく、今こいつらは危機に晒されている。他でもない、雫と早紀によって。
「あ……」
 その時だ。小さな呻きと共に聖の身体から力が抜け、崩れ落ちてしまった。なす術もなく道路に落ちた聖の身体は、既に意識の手綱を手放し、そしてその意識すらも彼女の中から外れてしまっている様子だ。
 少し自失してしまったが、慌てて助け起こしたら、瞼は硬く閉ざされ、あれだけ活発に動いていた唇も同様だった。
「……聖? どうした? おい、しっかりしろ!」
 不良の存在も忘れ呼びかけたが、指の一つも動いていない。夜闇に晒された身体は、淡く輝いているように見えた。
「ちょうどいいんじゃね?」
「騒ぎそうなやつがいなくなったし」
 人が一人意識を失っているというのに、こいつらはそれを好機と取り、その下卑た笑みを止めようとしなかった。歩みを始めたその先は、俺だ。抵抗されると厄介なのは男、俺を最初に潰しておくのは当然の決断だろう。
 わかってはいるが、身体が動かない。誰かに押さえつけられているかのように、聖の身体を支えたまま彼らの動きを見つめていた。
「た、環くん……!」
「うるせえよッ!」
「ひ……」
 雫の恐怖に満ちた声が、ようやく俺に現実を見せつけてくれた。
 たったの数歩だ。彼らのうちの一人が繰り出した脚をかわす術はなく、それによって聖から腕を外されてしまった。痛みや衝撃が襲ったのは数瞬後、やっと見えた現実に身体が対応した。まったく、我ながら遅すぎる。
 たったの一発。まだ動ける。立ち上がった俺は、三人いるうちの一人の元へ走り、それに応じて出てきた腕をかわし、相手の鼻面に拳をぶつけた。しかしその程度でダウンしてくれるほど甘くないらしい、それから喧嘩とも呼べない、野蛮な殴り合いが始まった。
俺の攻撃は、たったの数発。そしてそれすらもすぐに終わった。多勢に無勢、三対一じゃ、勝ち目なんて最初からなかったんだ。
 情けないけど、俺の心は「助けてくれ」で一色だ。俺が動けないのを確認して、雫や早紀が逃げないように向かった一人を、白んできた視界で確認した。
「やめ、ろ」
「うるせっぞ、ヘタレが」
 独特のイントネーションが、癇に障るんだよ。
 くそ、くそっ。動け。何度念じたところで、心と身体は直結するものじゃない。雫達に近づいた男を、二人の男の影から見守ることしかできなかった。
そこで聞こえたのは、誰のものかもわからない、空気を劈く高い声。朦朧とした意識の中で聞いたそれは、意味を成さないただの音だったはずだ。それなのに次に響いた音は、その場の空気を凍らせた。重い金属がアスファルトに叩きつけられる、鈍く重く、圧倒的な爆音だ。
 言葉が出ない。既に立ち上がることもできない俺だけじゃない、それを見届けた、この場にいる人間の全てが、その音の発生源を見詰めていた。
「ひ……うあああああ!」
 確認してすぐ、今度は醜い奇声が響いた。
 野太い鉄骨が、雫達に向かった不良の爪先を潰していた。彼にとってそれは運がよかったとしか言い様がないほど至近に落ちていて、そして彼以外を巻き込むことなく、そこに横たわっている。
 悲嘆の声が路地を駆け巡る。「痛い、痛い」と悲惨なほどに震えて、さっきまでの威勢など欠片も見えなかった。
「だ、から……言ったのに……」
 意識を取り戻したのか、聖が肘だけで起き上がって、爪先を潰された不良に憐憫の眼差しを向けていた。
「聖、無事か?」
「うん、もう大丈夫。環こそ、ボコボコじゃん」
「言ってろ」
 俺をたこ殴りにしていた二人は、仲間の悲惨な状況に、俺を殴ることも忘れているようだった。雫や早紀を避けるように横たわった鉄骨とそれに潰された足、流れる血が、彼女達の瞳に涙を浮かべる。恐怖か哀れみか、それとも喜びか。
 ガンッ。意識がそちらへ向いていたせいか、今度は誰も反応できなかった。再び鳴り響いた轟音から数秒、今回は俺を殴っていた不良のすぐ後ろだ。
「もう、消えた方がいいよ。ここにいれば、君ら、確実に死ぬ」
 その声が届いたのか、二人だけは、情けない悲鳴と仲間の一人を置き土産に、すぐに大通りの方へ消えていった。彼らにそうさせるくらい、聖の言葉には真実味があったし、何よりこの状況で信じられない方がおかしかった。
 聖の言葉は、これを指していたのだろうか。雫がいるから、こうなったのか。すぐに思い当たったのは、信じてしまうと自分が嫌になるような、そんな可能性だった。
「偶然でも人為でもないもの、か」
「……なんだよ、それ」
 声を失くした雫や早紀の代わりだったろう、聖に問うていた。
 悲鳴を上げ続ける足の潰れた男。立ち竦んで動かない早紀や雫。上体だけを起こして鉄骨を見守る聖。明瞭にならない視界でそれらを見守る俺。確認するまでもなく、空気は十分に変わった。もう危険はない。
 今は、雫達のメンタルをケアしてやらないといけない。そのはずなのに、痛みのせいではなく、俺はその“可能性”のせいで一歩も動くことができなかった。
 聖は呟く。「それが運命だ」と。






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