5話
めざめて中の人
こうして聖の部屋に通うことが習慣化し、――週に三日ではあるが、当たり前になってきた。そして毎度、蹴る蹴られないの攻防が繰り広げられる。勝率は、初回を除けば百パーセント、所詮聖はロリっ娘だ。
理由はわからないものの、それがあるのなら仕方ない。蹴ることに意味があるというなら受けるのが筋なんだろうけど、それじゃあ俺の気が済むはずもない。二週目にして早くも手段を選ばなくなってきた聖の足をかわすのに多少の苦労はあるが、元々運動神経は悪い方じゃないし、悔しそうな聖を見ると、理由もなくいい気分になった。
しかし、聖の部屋に通うのにも問題が出始めてきた。学校にも部活にも慣れ、もうすぐ六月も下旬に入ろうとしていた頃だ。
「先生、本当ですか?」
「ええ、本当よ。金城さん、頑張ってくれるわね?」
「は、はい! もちろんです!」
喜色を越えて半ば呆然とした早紀が、憤ったように立ち上がった。少し力の入り過ぎか、なんて思ったが、先生からの報告を考えればそれも当たり前だ。
逢坂高校美術部単独で、ギャラリーに出展できる。早紀が誰よりも熱望していたことが、遂に現実になった。今までの実績がないだけに、先生のしたことはある種奇跡的とも言える快挙だ。先生に向けて何度も頭を下げる早紀を、部員全てが微笑ましく見守っていた。
早紀の隣に座る俺は、彼女の制服を引いて座らせると、小さく笑いかけた。
「落ち着きなって。よかったじゃん」
「うん、うん! まだ信じられないもん……やった、すごいよ。手が震えてる」
早紀の腕は素人目に見ても結構なものだし、よほど機会に恵まれなかったんだろう。瞳を潤ませる彼女は、今までで一番美しいと思った。
「皆さん、展示は来月です。各自制作に打ち込み、作品を揃えるように」
声を揃えて返事をする部員が今、一つになったと実感した。続く先生のセリフに対する覚悟も、同時に固める。
「全部員が一つずつ……十六作以上揃えられない場合は、中止ですからね」
先生は、それだけ言って教室の隅に移動してしまった。皮切りに、制作に取り掛かるもの、雑談に興じるもの、様々だ。
そんな中、早紀の周りには三人ほどの部員が集まっていた。いずれも、早紀が「本気」だと知っていた連中だ。興奮冷めやらぬ早紀を宥めるもの、更に激励するもの、三者三様だが、いずれも早紀の涙を祝福していた。
「早紀、頑張ろうね」
「うん。皆も、絶対いい作品作ろ」
「忙しくなりそうだねえ。それに――」
一人の女の子の視線が、俺に向いた。たじろいでしまったのは、心当たりがあるからだ。
「ド素人もいるしねえ」
「うっ……お、俺だって頑張ればそれなりに見られるものが」
「できそう? そりゃよかったなあ」
皮肉に歪んだ笑顔が屈辱的だが、何も反論できないのが悲しいところだ。事実、俺の腕というのは、ようやくデッサンが人並み程度――或いは少しくらいは上手にできるようになったくらいなのだ。展示に堪えられるだけの作品ができるか、心配だった。
それでもやらないわけにはいかない。
「やってやるって。俺一人妥協するわけにいかんでしょ」
「まあ、最初よりは大分マシだしね。早紀が付いてれば……」
早紀を見てみると、少し心を手放しているようだった。
「……なんとかなりそう?」
「……どうだろう」
情けない話ではあるが、早紀がしっかりしてくれなくちゃ、そう上手くやる自信はない。そろそろ彼女も自主制作の方に専念したいのもわかるけど、新入部員の世話も忘れないで欲しいところだ。
「早紀、伊藤君困ってるよ」
「へ……あっ、ごめんなさい。うん、ちゃんと教えてあげるよ」
「よろしくお願いします」
頭を下げると、笑いながら応じてくれた。彼女がいれば百人力、何とかなる気がするから不思議なものだ。
笑顔で俺達を見守る先輩から、声がかかる。
「じゃあ、二人でジェッソとワニス買ってきてね」
脱力した俺達は、もちろんの笑顔でそれを承諾するのだった。
一週間ほど前から少しずつ、父さんの帰りが遅くなってきた。以前は遅くても八時には帰ってきて一緒に夕食を摂っていたのに、最近は聖と二人だけの席になっている。もちろん寂しいし心配だったけど、そんな弱音を父さんに見せるわけにはいかなかった。
聖の部屋で摂る夕食は、明るかった。しかし、いつもの温かさがなく、それが何よりも辛い。俺が誰よりも切望してるのが父さんだって、心から思い知らされた。
そんな俺はきっと、「ファザコン」なんだろうけど、聖の目はいつも優しかった。
雫の家には、聖の部屋に通わない日、部活の後――もちろんいつも通りに居残りをしている雫と共に必ず行くことにしている。父さんのこともあったが、雫のことを放っておけるわけもなかった。
今日は偶然父さんの帰りが早く、俺はここぞとばかりに雫を家に招いた。嬉しそうに、しかし緊張を全面に押し出した雫が可愛く、そして温かく、愛しかった。まだあの事件について立ち直ったわけじゃないし、解決したわけでもないけど、だからこそ楽しい気分になって欲しいじゃないか。
玄関を押し開けると、雫の緊張はピークに達したらしい。
「た、たた環くん、どうしよう、どうしよう、手が震えるよう」
「そんな、結婚の挨拶に来たわけじゃないんだし。いい人だよ、父さんは」
「でも、でも……わたし、どこか変じゃない?」
「挙動不審なところ以外は大丈夫だぞ」
へぅ、なんて意味のない呻き声を上げて、雫は遂に黙ってしまった。恋人の親に会うっていうのは、そんなに緊張するのだろうか。俺にはもうできないことだから、よくわからない。
「ただいまー!」
「おかえりー。ご飯もうすぐだから、リビングにいてねー」
俺の声に返ってきたのは、女の声。言うまでもなく聖のものだ。緊張よりそれが気になったのか、雫は俺の袖を引っ張った。
「た、環くん、一人っ子じゃなかった?」
「ああ、説明してなかったっけ。晩飯はあいつに作りに来てもらってるんだ」
「ふーん……」
含みのある呟きに少しドキッとしたけど、別に後ろ暗いことがあるわけじゃない。遂に説明する時が来た、というだけだ。いつだったか、雫が聖の顔を見た時の印象は、そういいものじゃなかったと思うけど。
「ただいま、聖。父さんは?」
「今駅前だって。テーブルでゆっくり待ってて」
キッチンに立つ聖は、ピンクのエプロン姿。雫は、悔しそうにそれを眺めていた。聖は笑う。
「いらっしゃい、雫ちゃん?」
「え、あ、えと……お、お邪魔します」
予想外に優しい聖の声に、雫は完全に萎縮してしまったようだ。縮こまって頭を下げる雫は、しかし可愛い。
「あの、わたしの名前……」
「ああ――」
意味深な視線を俺に向ける聖。意味深というより、意地悪い笑顔だ。
「環から、嫌ってほど聞かされてるの。あなたとの、お惚気」
「ば、馬鹿、そんなに話してないだろ?」
「環くん、ほんと? だったらわたし、嬉しいな」
「ほんとよ、ほんと。環ってば、仮にもこーんな可愛い女の子の前だっていうのに、飽きるほど他の女の話するんだもん、妬いちゃうわ」
くすくすと笑う聖の印象がよっぽどよかったのか、雫の態度は少しだけ打ち解けたみたいだ。雫の他人嫌い――嫌いでなく、拒絶は筋金入りだからな、聖の人懐っこさも相当なものだ。
食卓に向かい合って座った俺と雫の前に、聖がお茶を置いてくれた。お盆を胸に抱いて、聖は微笑む。
「ゆっくりしていってね、雫ちゃん。――まあ、私の家じゃないけどね」
「聖は馴染みすぎだよな。雫に役割取られないように精々頑張ってくれよ?」
「もう、相変わらず可愛くないわ。ねえ、雫ちゃん?」
突然振られる話についていけない雫の不器用さが、少しだけ悲しい。
「ふえ、えと、環くん、可愛いというか、かっこよくて……」
「あらあら、あなたも私に惚気るの? 独り身はこんなに辛いのに」
よよよ、なんて泣き声が聞こえてきそうな泣き方は初めて見たけど、聖っていう女の表情は、バリエーション豊かだな。それに素直に謝ってしまうところが雫らしい。
「いい子ね、雫ちゃん。環に聞いたまま」
「ええと、わたし……」
「いいから晩飯作ってくれよ。父さん帰ってくるじゃん」
「がっつかないの。女の子の前で、みっともないわよ?」
何と言っていいのか、今日の聖は本当に「お母さん」みたいだ。雫の戸惑いもわかる気はするけど、聖の変貌ぶりには驚かされた。温かいものを感じる包容力が言葉の端々から溢れているし、その笑顔には慈愛すら感じられる。
俺は、女の愛というものをまだよく知らない。特に、年上の女性から受ける、「母性愛」に関しては無知もいいところだ。知らないものに対して少し臆病になるのは認めるし、それに反して感じる未知に対する期待感も否定はしない。
聖は今、お隣さんでなく姉でもない、一人の母だった。
「環くん、どうしたの? 急に黙って」
「ああ、雫……聖がさ、いつもみたいな元気系じゃないから」
「聖さん、っていうんだね」
そういえば紹介してなかった。うっかりしていた自分を叱り、キッチンに立つ聖の後姿を指差した。
「高橋聖。隣のアパートに住んでる大学生で、俺が朝飯作る代わりにこうして晩飯を作ってもらってるんだ」
「へえ。じゃあ、家族みたいなものなんだね」
「そう、だな。母さんとか姉っていうには、少し頼りないけど」
「聞こえてるよー、環ー」
肩を竦めると、雫は笑った。
雫も俺と同じように家族を知らない。俺と同じように、ではないか。俺以上に、父性も母性も知らずに生きてきた。俺がそうだから、というわけでもないけど、飢えているはず。片親ですら――普段意識することはないが、こうなのだから、両親不在では余計にそうなるはずだ。
キッチンを見詰める雫の目には、憧憬。何を見ているのだろう。
「雫、あいつ年上に見える?」
少し濡れた空気を払拭する為に小声で発した話題は、聖にとっての最大の弱点だ。
「ふえ? ええと、何て言っていいのか」
「正直に言ってみて。絶対言わないから」
キッチンと俺を巡視して、雫は恐る恐る口にした。
「少し、年下だと思ってた」
「だってさー。聖、雫がお前のこと年下だってー」
「ちょ、環くん、約束違うよ!」
振り返った聖の顔は、晴れやかな笑顔。俺から見ると可愛いが、雫には何が見えているのだろう、身体を小さくして怯えていた。
「雫ちゃん?」
「は、はひっ」
裏返った声が、雫の精神状態を端的に示している。確かに今の声は、冷たかったと思う。
「私が一番嫌いなもの、知ってるかな?」
「……えと、多分年齢を間違われることかな、と」
正解。
「環、奪ってやる」
「ふええ、や、やですよぅ……」
本気の声に聞こえたから、聖という女は掴みづらい。本気と捉えるから、雫という女は非常に掴みやすい。両極端な二人だけど、どこか似たところがあるのは気のせいじゃないはずだ。
「まったくもう、冗談は止めてよね。ただでさえ大学で言われ続けてるのに」
「仕方ないだろ、聖の場合」
「口の減らない子ね、環は。雫ちゃん取っちゃうぞ」
「百合か。素晴らしい」
ため息をついた聖は、再び俺達に背を向けて料理に専念し始めた。雫と笑い合ってからお茶を一口飲んで、聖とは違うため息を一つ。
雫の緊張もほぐれたみたいで、微かに笑んでいる。父さんが帰ったらまた緊張しだすんだろうけど、今はこの家に落ち着いて欲しかった。いずれこの家が、雫の家になったら、なんて思って苦笑い。
「雫、そろそろ父さん帰ってくるよ」
「うん、だいじょぶ。えと、でもあんまり話せないかも知れない」
「いいよ。どうせ何回も会うことになるんだから」
「うん……そう、だね」
雫の苦笑いは、父さんの「ただいま」に掻き消された。廊下から漏れ出た影が、蛍光灯の白を少しだけ侵した。
「おかえり、父さん」
「ああ、ただいま、環。そちらが?」
「は、はいっ。や、やや八千代雫と申す者です!」
態度どころか言葉や身体まで硬くする雫に、キッチンの聖と笑い合ってみた。父さんも柔らかく微笑んでいるけど、俺達とは違う、見守るような笑顔だ。
「よろしく、八千代さん。僕は燐っていうんだ」
「あ、はいっ。レンさん、ですね……わたしのことは、是非雫とお呼びくださいっ」
笑いながら頷いた父さんが、聖に視線を遣った。予定調和のように出てきた晩御飯は、いつもより少し豪勢なイタリアンだ。シーフードパスタ――ナポリタンに、ややシンプルなピッツァ、ミネストローネスープ。サラダはシーザー。
俺と雫、聖と父さんで並んだ食卓。皆で笑いながら手を合わせて、揃った「いただきます」の声で始まった。
「雫ちゃん、色々聞かせてくれないかな?」
「え、と?」
「学校での環のこと。僕も全部を把握してるわけじゃないから」
少しまずいかなとは思ったけど、大丈夫だろう。学校での雫の様子を説明するわけじゃ、ないんだから。
「環くん、は、ずっとわたしの傍にいてくれます。楽しそうに笑ってますよ」
「そうかい? よかった」
翳った雫の表情に、父さんは気付かない。
「美術部に入ってるんですけど、そこでのことはわたしもよく知らないんです。ただ、もうすぐ作品展があるみたいですよ」
「へえ」
感嘆の声と共に俺を見た父さんの目は、少しだけ意外そうだ。俺が今までそういう大きなイベントに際して、父さんに報告しなかったことはなかったから。それを成長ととるか親離れととるかは父さんの自由だけど、俺が父さんを蔑ろにしてるわけじゃないってことだけは信じて欲しい。
「環は、少し不器用だからね。傍についていてくれる人が必要なんだ」
「は、はいっ。お任せくださいっ」
「面白い子だ。或いは聖ちゃんに、なんて思ってたけど、雫ちゃんもいいね」
「おじ様、他の女の子の名前出しちゃ駄目ですよ。雫ちゃん、睨んでます」
楽しそうに笑う聖と父さんに、雫は萎縮する。まして雫という人間だし、初めて上がった他人の家なんてこんなものだろう。そう大っぴらに笑ったり騒いだり、できるわけがない。
「どう、雫ちゃん? 美味しい?」
「あ、はい。とても……美味しいです」
「よかった。妹に作る感じで、私も張り切っちゃった」
雫もどちらかといえば実年齢より下に見えるから、聖も姉に見えなくはない。そしてそれより、今日の聖は穏やかな大人の女性を思わせる。
雫も、俺が遊びに行くと料理を作りたがる。誰かの為に作るというのは、想像以上に楽しく、嬉しいものだ。キッチンが自分の場所であるかのような錯覚は心地良いし、食材が化けていくのも目に楽しい。
テーブルの温かい料理達の湯気が、目の前の聖を少しだけ隠した。
「聖さん、この家が好きなんですね」
「そうだねえ。私、世話焼きでね、最初は引っ越したばっかりで慣れない人達にー、って思ってたけど、予想以上にいい人達だったから」
「そうか? それだけでよくここまでできるよな」
いい人、と言われてもいまいちピンとこない。
「見えるから、私」
「見える? 何が」
「何だろうね? 面白いよ、環も雫ちゃんも」
見える。具体的なようで抽象的な単語だ。見る、という行為は思った以上に広義で、そして欺瞞に満ちている。だから、正確にモノを見極める力というのを持つ人は、極端に少ない。
「それにね、テレビのいらない家族って、貴重だと思うよ」
「環も僕も、話すのが好きだからね。それにこの借家には、まだテレビがないんだ」
借家ではあるが、それなりの自由は許されている。とはいえテレビというものを買うような金は、俺達家族には「余分」だった。このリビングには、食卓や食器棚などの最低限の家具しか置いていない。見回した雫は、意外そうにため息をついた。
「わたしの家より、家具が少ないかもです」
「何か不思議かい?」
「いえ、わたしの家、わたし一人ですから」
「悪かったね……うちでよければ、いつでも遊びに来てね」
「あ、はい……」
傷の舐め合い、とは少し違う。それでも、同じ境遇にいる者としてのシンパシーがある。例えば四条さんのような人には、一生かかっても理解できはしないだろう。
フォークが食器を叩く音は、話し声と混ざり合ってリビングを駆け回る。小さな音だけど、だからこそ耳に優しい。父さんのテナー、聖と雫のソプラノ、食器のパーカッション達は不揃いな合唱だけど、目を閉じると瞼の裏が温もりに満ちてくる。
「雫ちゃん、環はちゃんと支えられているかな?」
「……はい。たくさんのものを、貰ってます」
確信に満ちた雫の顔が、開いた目に映った。テーブルの下で手を繋いで、二人は視線を前に向けた。微笑みがあって、握った手に熱が篭った。
「でもね、二人共」
だけど聖だけは、そんな俺達を複雑な視線で見守っていた。
「二人が二人でいる限り、避けられないものがある。それをどう捉えるかが、貴方達の幸せを決めるの」
酷く曖昧な言葉で、俺達を窘めた。幸せは簡単に掴めるものじゃない、因果と相応の覚悟と、時に見返りすら、必要になることがある。それを忘れるな、と。
戸惑いもあったけど、俺達の前に壁が多いのは承知の上だ。その原因を雫にしてしまう自分に嫌悪があったけど、それが雫となら乗り切れると思う。例え不幸が続こうとも、俺は――俺は?
繋いだ手を一度だけ強く握り直して、ゆっくりと解いた。糸を引いた温もりの残滓が少しだけ心残りだったけど、今はそれでいい。
「雫、家族になれるといいなあ」
「……うん。絶対、なろうね」
見詰め合う二人を、目の前の二人は呆れたように見守っていた。
晩飯を食べ終わると、雫を連れて自室に入った。雫はこの部屋に入るのは初めてだからか、しきりに周りを見回している。珍しいものもない――若干物が少ないが、適度に片付いた八畳間だ。
「感想は?」
「えと、ね? 笑わない?」
「さあ。感想によるけど」
「意地悪……あのね、ここ――」
俺に遣った視線を再度部屋の隅に戻し、雫は思い切り息を吸った。
「すごくね、環くんの匂いで満ちてるの。とっても落ち着くよ」
「それはまた……女の子らしい感想というか。お前、恥ずかしいこと言ってるぞ」
「わ、わかってるよお。でも、ほんとだもん」
少し膨れて、雫はベッドの端に腰掛けた。ベッドは、しかし俺が座った時よりずっと静かに撓み、軋むことも無かった。隣に座る俺の手を、雫はしっかりと握った。
「雫ってさ、手握ったり、触れ合うの好きだよな」
「環くんは嫌い?」
「いいや、好きだよ。ま、今のところ雫限定だけどね」
「ふふ。光栄」
口元に右手、淑やかな笑みだ。時折見せる大人びた表情は、決して歳相応とは言えないものに思える。きっと、今までの境遇がその人格を成してきたのだろう。
「雫、辛い?」
「ううん、辛くない。きっとマキさんもナオさんも、わたしのこと許してくれないだろうけど――」
「うん」
「皆に見捨てられても、環くんがいれば大丈夫な気がするんだ」
「そっか。なら、大丈夫だ」
最後まで雫を愛する自信があるかどうかは、今の俺にはわからない。雫に多少の恐怖を感じてるのがその証拠になるし、そんな自信が形を成すことなんて、大抵の場合ないのだ。それでも、今、雫を安心させてやりたい。
偽善に二元的な善悪などありはしない。曖昧な境界線がそれだ。部屋の中が温かく見えているから、間違ってはいないはず。
「雫」
一度だけ、雫を見詰めてからキスをした。
「一緒になろうか」
「……うん」
温もりに包まれていたい。雫の作り出す空気と、心と、身体の温もりの、その全てを感じていたい。
家族への一歩。この日俺達は――大きな痛みを伴ったけど、芯まで繋がった。
泊まっていく雫の為に聖もそうすることになり、この日は引っ越してきてから最高の一日になったと思う。或いは、これ以上なんて有り得ないんじゃないか、そのくらいの幸せだった。
父さんも笑ってくれた。娘のようだって、言ってくれた。
その日は最高の一日だった。或いは、これ以上はないと思えるくらいに、だ。
マキとナオが二週間に渡り欠席していたのは、多少の後遺症が心配されていたからだ。その心配は露と消えたけど、その心に宿った不安は相当なものだったろう。
七月に入り夏休みが近づくと、生徒達は皆、浮き足立っているように感じる。それは解放感であったり、期待感であったり、もしかしたら大量の宿題に対する不安感かも知れない。しかしいずれであろうとも、皆が笑っていた。
マキもナオも、例外でなかった。登校するや否や、友達の下で笑いながら入院生活の愚痴を零していた。
雫のところには、来なかった。諦めたように笑う雫が、痛々しい。
「心配? だいじょぶだよ、わたし」
「わかってる。でも、謝るなよ」
「うん、でも……癖みたいなものだからなあ、謝るの」
「悪癖は直せ」
「はあい」
窓際の俺の席は、真夏の陽射しを取り入れて存分に輝いている。隣の席に座る雫の色薄い髪は、それよりもずっと美しく神々しいのに、どうしてその綺麗な顔を暗く沈ませているのだろう。勿体無いと、心底思った。
「聖が言ってたじゃん。捉え方次第で、俺達のことが決まるって」
「わかってるけど。人ってさ、何でも悪い方に捉える方が簡単でしょ」
ポジティブになるよりずっと、ネガティブに生きる方が――どちらが正しいかは別にして、簡単だ。でも、どちらにしても余剰は必要ない。
「癪だけど、四条さんの言う通り。ウィルスを仕込んでないお前に、罪はない」
「あは、癪なんだ。聞こえてたら、四条さん、怒るよ」
「聞こえてるわよ」
「ひゃうぅっ!」
後ろから声を掛けられた雫は、その声にか、それとも声の持ち主にか、声を身体ごと竦ませた。その驚く声は、教室中に響き渡るような、大きな声だ。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。大げさね」
「だ、だって、わたし達に声掛けられる人いないから」
「自虐的ですわね。それでは、新規開拓なんてできそうにありませんわよ?」
友人の新規開拓か。マキやナオと街で会った時は、或いは、と思ったけど、今回も運が悪かった。そう、運が悪いだけ、巡り合わせの問題だ。次第にでいい、「自分を許す」練習を積んでいかないといけない。例えマキとナオが雫を罵ろうが、悪いのはあくまで運――或いは食品管理を怠ったファミレス側なのだ。
何が気に入らないのか、四条さんは座る雫を見下ろしたまま腕を組んでいる。睨むような、強い視線だ。窓からの光を吸い込んで輝くその瞳が、雫の不安を煽る。
「な、何か用ですか?」
「……雫さんは、ご自分が不幸になったことはあって?」
興味はあった。今まで聞いた話に、“雫自身が”不幸になった事例は数度しか聞いたことがない。「これ」と言えるものがないのだ。
雫は一度だけ瞼を下ろし、その色を閉ざした。
「……はい、一度だけ」
肯定だった。それは懐古というには余りに悲哀に満ちた顔だけど、どうしてか笑ってた。苦笑、とでもいえば正しいのだろうか。
「もう、割り切ったんだと思ってました。でも――」
雫は四条さんから視線を外し、俺に向けた。憧れ、希望、ある種の確信、色々な感情が見え隠れする、それなのにいつもと変わらない茶色だ。
「そうでもなかったみたいですね」
「あら。環さんと関係があって?」
「そう、なのかな。もう、環くんしか頼れない、だろうから」
ああ、そうか。雫が俺に求めてるものを、ようやく理解した。
四条さんにそれがわかったかどうかは知らないけど、望んでいた答えは得られたようだ。背後を振り返ると、そこには二人の女生徒の姿があった。
「やあ、八千代さん」
「こんにちは」
「マキさん、ナオさん……」
マキとナオが、少しだけぎこちない笑顔で雫に手を振った。何に対して何を感じているのかはわからないけど、雫に近づいてくれた。それがどんな用事であろうと、それは雫にとって大きな一歩になるはずだ。
続く沈黙に不安を隠せない雫だけど、俺はここで出て行くべきじゃない。出しゃばりが許されるのは、雫が俺のことを必要としてくれている時だけだ。
わかってる。四条さんだって、何も言わず見守ってるじゃないか。
「あの、八千代さん」
「は、はいっ。何か、なんでしょうかっ」
ナオの呼びかけに応える雫の声が余りに切羽詰ってて、マキは小さく笑った。雫はそれに気付かなかったけど、俺とマキだけの秘密にしておこう。
「ごめんね。八千代さんのこと、怖かった」
「あ……はい。そう、ですよね。わたしも、今度は怖かった……」
「うん……すごく、不安だった」
「わたしも」
重なる言葉は正しく重なっているけど、その種類は大きく違っていた。だって、ナオの表情と雫の態度はまるで正反対だ。雫の背中を窺う俺にはその表情は見えないけど、俯いて、小さい背中を震わせてる。
「やっと、一歩踏み出せると思ったんです。でも、やっぱりわたし」
どれだけの勇気が必要だったろう、雫は顔を上げた。そして言葉を失う。
「ナオ、さん」
「やっぱり、何かな?」
ナオは笑ってたから。さっきのような硬さも苦味もない、穏やかな笑顔だ。
「怖かったけど、少し考えたらすぐわかったよ。ね?」
「ん。やっぱり八千代さん、不幸なんて運ばない」
マキも、雫に笑ってた。雫は不幸を運ぶものでなく、ただ運が極端に悪いだけで、それを不幸と取るかは結局被害者次第なのだ。確かにその事件で亡くなった人の、その遺族の無念は決して晴れるものではないだろうけど、「雫が悪い」と責める人はいなかった。皆、怖いだけなんだ。
「だってねえ? お腹痛いだけだもん」
「うんうん。後、少し緩くなっちゃったけど」
思わず吹き出しそうになったけど、そこは堪えた。緩くなったって、あれだよな?
「だから、ね。ごめん、今まで」
「ごめんなさい」
二人揃って頭下げるから、雫は萎縮してしまった。ずるいな、二人共、それじゃ雫は反論なんてできるわけないぞ。案の定、雫は手をわたわたと振りながらそれを許した。「それ」が何を指すかなんて、付き合いの短い俺にはきっと理解できはしないんだろう。
「まだ少し怖いけど……今は平気」
「うん。仲介頼んだのは、それもごめんね」
「仲介……」
雫の視線の先に、不機嫌そうな四条さん。
「なんですの?」
「い、いえ、なんでも」
四条さんも、彼女なりにクラスのことを案じているんだろう。決して雫のことを案じているんじゃないだろうけど、それはそれでいい。四条さんに好かれたいとも思わないし、こちらも好かれようなんて思っていない。慣れというのは意外に恐ろしいもので、ある程度の時間の経過で大抵のことは気にならなくなってしまう。
ただ、四条さんという人間には、いつまで経っても慣れそうになかった。
「それより八千代さん」
「あ、はいっ。ナオ、さん」
「私達、大丈夫かな?」
「あ、え?」
ため息一つ、マキは雫に向けて手を差し出した。その意を量りかねたのか、雫はおろおろと狼狽して、その手を取ることもできなくなっていた。
「雫、握ってやりゃいいんだ」
「あ……うん」
俺が口出しするのは反則だろうか、なんて思ったけど、雫もそれを望んでたはずだ。
マキやナオと、友達になれるってこと。
「私も。よろしくね、八千代さん」
「お願い、します」
マキの次はナオの手を取って、雫は呆然としながら俺に振り向いた。その目は潤みきっていて、だからその色は綺麗に輝いている。
噂が流れ始めてから今まで誰も雫に近づいてこなかった。今、初めて雫に人が歩み寄り、そして「友達」になろうとしている。彼女達の意思で、彼女達の願いで、それは四条さんという助けを要したけど、何よりも尊いことだと思う。
椅子を離れて俺の胸に飛び込んできた雫を受け止めて、その髪を優しく梳いてやった。まだ二人はいるのに、感極まってしまったんだな。
「よかったな、雫」
「うん、うん……ありがとね、環くん」
「何言ってんだ」
彼女達の意思を導いたのは、俺じゃない。
「全部、お前の力だよ。俺は、少し背中を押しただけ」
いい場面でなんだけど、「何もしてない」と言うのは癪だった。俺だって、あの日ファミレスでは、雫の為に頑張って二人を説得したつもりだったんだ。
自分から弱さを見せるのは、弱さじゃない。そういうことだ。
「熱いねえ、二人共」
「複雑だったけど、お似合いだよね」
マキとナオの声に照れるかと思ったら、雫はより深く俺の胸に潜ってしまった。「もっと撫でて」、なんて言葉が聞こえてきそうだ。呆れた目で、それでも微笑みながらそれを見守る二人に笑み返して、雫の髪を再び撫で付けた。
そんな空気を切り裂く、確かな声。不機嫌に染まっている。
「いい身分ね、ここがどこだか心得ていて?」
「四条さん、空気読んでよ」
「こちらのセリフです。学校が交際をする場ではないことくらい、小学生でも知っていてよ?」
そりゃそうか、なんて納得できるはずもなかった。それが四条さんでなくマキやナオのセリフだったら納得できてしまいそうなほど、彼女の言葉には反感を覚えた。
異常だ。恩すらあるはずなのに、どうしてか彼女の言葉は受け入れられない。
「今までなかったことにしといて、今更邪魔だなんて、都合よすぎだろ」
「そういう問題でして? 公共の場ですべきこととそうでないことの分別をつけろと言ってるんです」
「そうか。四条さんの基準では、集団で人のこと見てみぬ振りをするのは、すべきことなんだな?」
「環くん、もういいよお。わたし、離れるから」
癪だ。確かに四条さんの言うことは気に入らないけど、雫の言う通り彼女を放すのが一番無難で、角が立たない。仕方ない、雫の背中から手を離すと、肩を押して雫を起こした。
「まったく、ああ言えばこう言う。空気というのは大衆が作るもの、くらいわかるでしょうに」
「俺達は大衆に含まれない?」
「そのくらい、わかるでしょう」
言い返そうとする意思と、俺のボキャブラリーが一致しなかった。悔しいけど、反論できるような要素もなかった。俺達がマイノリティに属していることくらい、彼女の言う通り、考えずとも理解できた。
鼻で息をついて、「これ以上ここにいたくない」とでも言うように、四条さんは自分の席へ戻っていった。「大衆」の待つ、明るい場所だ。
「八千代さんから見た四条さんって、こんな感じだったんだ」
「普段近くにいるからわかんなかったけど……」
ナオとマキが示し合わせたように顔を向けると、少しだけ眉を顰めた。
「なんか手のひら返すようだけど、感じ悪いね」
「ねー」
小声でそう、雫に同意を求めた。自分の席に戻っていた雫は困ったように笑い、それでも「そんなことない」と否定してみせた。ああいう態度を許容してるわけでなく、ただ雫は四条さんを嫌悪することができない。
俺と同じように、雫は四条さんを受け入れられないと言っていたのを思い出す。それでも「怖くない」と言ってくれたのが、どうしても忘れられないそうだ。
「まあいいや。ねえ八千代さん」
「な、なんですか?」
「そっか。まず、その敬語なんとかしようよ」
マキの進言に困惑を隠せない雫の敬語は、もう理性の壁を越えたものだ。なんとかしようと思ってできるものじゃない。俺だって、恋人という立場じゃなきゃ敬語を使われていただろう。
「無理かあ」
「ごめんなさい」
双方共に残念だったらしく、ナオと雫が項垂れる。マキは、どうやら雫の反応を予想していたようだ。
気を取り直したように顔を上げた二人のタイミングが合ってて、思わず吹き出した。苦笑したマキが、照れるナオの肩を叩き、雫に向けて指を立てた。
「まずね、雫って呼んでいいかなって思ったの」
「あ、はい。どうぞ」
「うん。じゃあ――」
マキと頷き合ったナオは、笑顔で雫を見詰めた。しばしの沈黙の後、口にする。それはきっと、第一歩なのだと思う。
「雫」と、優しい声で。
+注意+
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