4話
めざめて中の人
聖がここに来るようになってしばらく経つ。雫より付き合いの長い彼女は、比較的俺の人となりを掴んでいるらしかった。雫以上、父さん以上に俺のことをわかってくれる人はいないけど、聖はそれとは少し違う印象を持っているらしい。
頑として口を開くことはなかったけど、信じてもらえるならそれでいい。聖は何も言わずに笑っていてくれるし、だらしない顔で俺の作る朝飯を頬張ってくれる。
素敵な子。それはどういう意味なんだろう。
「環、環……スクランブルエッグちょーだい」
「あいよ。味付けは?」
「醤油でぇ、少し砂糖を混ぜるの」
相当眠いのか、舌足らずだ。素敵な子の目の前でこんなだらけた表情見せて、幻滅するぞ。なんて思ったが、それもまた今更みたいな話だ。
しかし醤油砂糖でスクランブルエッグとは、また通好みな。今までに味覚においてのマイノリティは色々見てきたが、これもまた珍しい。まあ、このくらいは序の口だと思えるようなものも、数多く見てきたけどさ。
「おにぎりに砂糖とか、なんかの冗談としか思えん」
「何か言ったか?」
「なんでもないよ、父さん」
新聞を読みながら聖に構うことも忘れない、理想の中年。清潔感もある彼が、どうしてそんな味覚を持っているのだろう。ご飯を普通に食べる時は、何もつけないのに。
黙って料理をしていると、自然とリビングの二人の会話に耳が傾いた。聖は、眠いながらもいつになく真剣な様子だ。
「おじ様、環を……」
「どうしたんだい?」
「環を、私に預けてください」
「……環は譲れないなあ、さすがに。僕の大事な息子だ」
嬉しかった。苦労をかけてるだろうに、そんな色を見せずに俺のことを大事だって言ってくれた。それ以上に、聖のあんまりな冗談に笑いを堪えるのに必死だったけど。
「いえいえ、そういうことじゃなくて」
「聖ちゃん、どうしたんだい?」
聖が一度だけ目を擦ったのは、陽射しが眩しいからだろうか。
「理由を教えろって言われても困るんですけど、週に二、三度でいいからウチに来るようにして欲しいんです」
「環、どうだい?」
「構わないけど」
「助かるよー。ほら、皆幸せになりたいもんね」
俺が聖の部屋に行くのと、どんな関係があるのだろう。俺がここにいると、皆は幸せになれないっていうのだろうか。……確かに俺は、父さんの足を引っ張ってばかりだけど、父さんを救えるのは俺だけだっていう自信もあるんだ。
少し、心が軋んだ。
それにちょっと気後れした。聖はアパートに一人暮らしだから、雫から見ると浮気にならないかな、なんて思うから。そんな俺の心情を察したみたいに、聖は意地悪く笑った。
「だいじょぶだって、雫ちゃんにはちゃんと説明するから」
「そう? なら、いいけど」
「あーあ、妬いちゃうなあ。私も環みたいな子、欲しいなあ」
「探せば? 俺みたいなのくらい、どこにでもいるだろ」
「どうかな。いないと思うけど」
そう珍しい人格を有してるわけでもなし、特別なものなんて何ももってない。敢えて言うなら、少し男友達が少ない程度だ。
「環の自由だよ。聖ちゃん、すまないけど祝福してやってね」
「わかってますよ。好きっていっても、異性を意識してるわけじゃないですし」
「姉ちゃん?」
「そう、それ。いいわあ、いい響きだわあ。もっと呼んでくれたら、お姉さんサービスしちゃう」
姉というには威厳とか諸々が足りないけど、確かに「頼れる女」というには十分だろう。
肩甲骨辺りまで伸ばした金色の髪が、さらりと揺れた。軽そうな髪だ。いつもはアップにしていてよくわからないが、こうして解くと一層童顔が際立った。頼れる女というシーンに立ち会ったことは数えるほどというのもあり、見れば見るほど、
「妹、っぽいな」
「な、何てことを! 私はもう大学二年生、環よりも三つも上だよ!」
「童顔、だし」
「うわ、人が気にしてることズバッと言いやがった。おじ様、この子ひねてます!」
苦笑いしたくなるのは、父さんよりも俺の方だった。
「む……今日の晩御飯、きゅうりの酢漬けだけにするぞ」
「聖、もっと大人になれよ」
そもそも脅しになってないこと、気付いてないのだろうか。聖が作らなきゃ俺が作るし、俺達が忙しければ雫を頼る。雫だって俺の彼女なんだから、父さんのことも歓迎してくれるはずだ。何より、雫のことを紹介しておきたい。
俺に口論で勝つのが無理と察したのか、それとも単純な理由なのか、聖は口先を父さんに向けた。
「おじ様、きゅうりの酢漬け食べます?」
「僕もそれだけっていうのは遠慮したいなあ」
「違いますよぅ。ほら、実家の方からいっぱい送られたので。一人で片付けるには多いですし、何よりあの音が……一人で食べると侘しいですよね」
漬物を齧った時のあの小気味のいい音が侘しいというのには同意しにくいが、聖も寂しいんだ。少し意外だけど、当然のことだろうとも思った。
俺には到底信じられそうにない。一人暮らしをしたいなんて願う若者は、どれだけ家族がありがたいものかわからないのだろうか。純粋に幸せを願ってくれるのも、いつも傍にいてくれるのも、それはいつだって家族だけなんだ。
雫にはもういない。だから、俺は幸せになって、彼女に家族を教えてあげなくちゃいけない。
「父さん、今度俺の彼女紹介するよ」
「なんだい、急に。雫とかいう子だったかな?」
「そう。家に一人だから、今度晩飯でもご馳走してやろうと思って」
「賛成ー。私も一度は会っておきたいし。ね、おじ様?」
少し悩んだ後、父さんは緩やかに笑んでくれた。父さんが俺の恋を祝福してくれない、わけがない。
「でも環の初めての恋人か……少し、複雑だな」
少しだけ渋い顔は、きっと親離れしていく俺を思ってのものだろう。俺にはその気持ちは理解できないんだろうけど、少なくとも一つ言葉をかけるくらいはできる。そもそもそれ以前に、俺の方が親離れできそうにないんだ。
「父さん、子離れなんてしないでくれよ?」
「そんなこと、僕にはできそうにないよ」
「はいはーい。私も加えてー」
笑顔で主張する聖を加えて、食事は和やかに進んだ。家族のあるべき形、本来見えるべくもない空気。母さんの影が見え隠れするその中で、少しだけ涙が零れた。聖も父さんも、そんな俺に気付かなかったように話を繋げてくれるのだ。
雫も加えたら、もっと温かくなるだろう。涙の染みこんだ頬を、軽く緩ませてみた。
マキとナオが欠席し始めてから、既に三日が経とうとしていた。噂――あの日ファミレスで一緒に食事をしていたことはクラス中に広まっていて、雫の周りからは一層人気がなくなった。「またあいつか」、そんな言葉が聞こえたようだった。
雫と話すのは俺だけ。以前は一人の例外を除いて誰もいなかったらしいから、或いは改善されたといってもいいんだけど、それは余りに憐れだった。しかし意外なのが、そのたった一人の例外だ。
「雫さん、また沈んでらっしゃるのね」
「あ……四条、さん」
四条美鈴。俺の印象では、俺や雫の一番の敵だった女だ。いや、その印象自体に間違いはないが、気に入らないからこそ、だろうか。受け付けないからこそ気にかけて、それを正そうとする。
「いつものように黙っててくださればいいのに、そうやって暗い空気を作られると迷惑ですわ」
口は減らないけど、雫の悲しみは少しだけ隠れた。
「環さんがいれば或いは、なんて思ってましたが……不甲斐ないのね」
「努力はしてる。それになあ?」
「う、うん。環くんいてくれて、わたし嬉しい」
「だってよ? まあ雫の気持ちがわかるとは言わないけど、聞いてやるくらいはな」
四条さんは、少しだけ笑ったみたいだった。それがどんな意味を持っていたのかはわからないけど、侮蔑や憐憫のような類のものではなかったと思う。
「食中毒、でしたわね。あなたが沈む必要、あって?」
「でも、せっかく楽しくお話してたのに、わたしのせいで」
違う、という言葉は声にならなかった。俺も、このクラスの大多数と同じなんだ、そう思ったら自分に嫌気が差した。俺だって雫のことは信じてるし、雫のせいで一連の事件が起きてるなんて思ったことはない。でも、全ての事件が雫の周りで起きていることに嘘や偽りはないのだ。或いはそれは、信頼なんて高尚なものではないのかも知れないけど。
嫉妬した。だって誰よりも雫の潔白を確信してたのは、俺じゃなかったんだから。それを事も無げにやってのけた彼女を、激しく嫉んだ。
「ため息を禁じえませんわ……あなたがウィルスを仕込んだ、とでも言いたいの?」
「ち、違いますよぅ……でも」
「でもも何もないでしょう。それが事実の全てです」
そう、それだけが事実なのだ。真実は多々あれど、確定された「事実」はこの一点に尽きる。それだけを信じていられる四条さんは、やはりすごいのだろう。
「とにかく、教室の空気くらい読んでくださいな。皆さん、楽しく話してるの」
「ご、ごめんなさい……」
「まったく、世話の焼ける」
言うべきことが済んだのか、四条さんはたくさんのクラスメイトが待つ自分の席へと帰っていく。その背中に雫は、「ありがとう」と呟いた。
「誰があなたの為だなんて言いまして!? 勘違いしないでくださいな!」
地獄耳め。それは世間一般で言う「ツン」ではなく、本当に素直な気持ちだというんだから性質が悪い。心底不愉快そうな視線を、俺と雫に浴びせ掛けてきた。
でもまあ、正直なところ、俺達の空気は和んでいた。俺達の間の距離というのは、悲しみに暮れていても誰かが浄化すべき空気だったんだろう。不幸を呼ぶのだとしたら、俺達は余計に暗く沈んでるわけにはいかない。
「雫、よかったなあ」
「うん。四条さんだけ、わたしのこと怖くないって」
微かに笑んだ雫は、その茶色い視線を俺に向けた。少しだけ責めてるような気がしたのは、きっと俺の中に負い目があるからなんだろう。「本当はわたしのこと怖いんでしょ?」なんて、雫に問われた気がしたから。
「環くん、そっちに行っていい?」
「え、ここで?」
「ここで。できないかな?」
冗談でもないらしい、真摯な眼差し。机を一つ挟んで、雫は微笑む。
また問われてる、「わたしが怖くないならできるでしょ?」って。ここで雫を拒んだら、雫以上に俺が立ち直れなくなってしまいそうだ。首肯すると、雫は嬉しそうに立ち上がって、廊下側に身体を向けて座る俺の膝に乗り、首だけで俺を振り向いた。明るいブラウンが、きらりと光る。
「お腹、抱いて」
「どうした? 随分甘えるなあ」
「どうしてかな? 今日も暑いのにね」
食中毒は、続いた真夏日と当日の湿気が原因だ。この町のことは知らないが、一般的に警報が出されるには、前二日が真夏日であることと、八十パーセント以上の湿度が必要になってくる。
「環くんの腕、たくましくて気持ちいいなあ」
「そうか? 俺の腕、細い方だと思うけど」
「細いけど、締まってるよ。そうだね、たくましいっていうより、頼りがいがあるかな」
そう笑ってくれたから、クラスメイトからの視線も気にならなくなった。こうやって二人だけの世界に入り込んでしまうことを、バカップル、なんていうんだろうか。腕に当たる雫の腹が柔らかくて、細い腰は今にも折れてしまいそうなほどだ。
「雫、頼りない」
「お肉がないから……ごめんね、おっぱい小さくて」
「うん……別にそんなこと気にしてないけど」
というかこれで小さかったら、四条さんが不憫で仕方ないじゃないか。
「環くんの腕で持ち上がってるよ」
「うん、持ち上げてる。抵抗しないね」
「ちょっと、気持ちいい。大きくないから、邪魔じゃないんだけど」
「はあ、いいなあ、これ」
女性の象徴であると同時に、母性の象徴でもある。劣情とかそういうの抜きにして、制服の上からでも、触ってると落ち着くんだ。腹に添えた腕で軽く持ち上げてるだけだし、周りからも触ってるようには見えないだろう、多分。
前を向いた雫の耳は真っ赤で、それでも微笑んでるのがわかって、彼女は本当にいい子だってわかる。照れながら俺の為に我慢してくれてるけど、それをやめる気は起こらなかった。
飢えてる。今まで彼女がいた試しがないから気付かなかったけど、俺は自分が思ってる以上に「女性」や「母性」に飢えていた。聖との食事や、今この状況に「色情」より「安堵」を感じてるのが何よりの証拠だ。
雫は、ちゃんと幸せをくれてる。マキやナオには悪いけど、少なくとも俺は食中毒になんかなってないし、雫の優しさをこうやって感じてる。
「雫?」
「どうしたの? 環くん、声が震えてる」
「家族って、いいなあ」
この時、本当にそう思った。もちろん雫に家族がいないことも覚えてる。
「――そうだね。家族は、いいよね」
「今日、うちに来てくれないかな? 今日からずっと、かな」
震える声は、多分不安。家族に拒まれる不安、恐怖、俺も雫も痛いほどよく知ってるから、一緒にいることすら怖くなってしまうんだ。
しばらく考えた雫は、もう一度瞳だけで俺を見た。笑ってた。
美術部にはしっかりと顔を出してる。ここは雫やクラスのことから離れている、ある種学校とは別の空間だ。雫と一緒にいる時とは違う安堵感、多分これは気安さだろう。
――そう呼ぶよう言われた、早紀が俺の指導に当たり、出来上がりを皆で批評してくれた。遠慮や言葉を選ぶことをしないけど、部活という場においてそんなのは必要のないことだ。或いは皆の意識が「本気」に向いてきた証拠ともいえた。
既に自主制作が始まり、各自作品に取り組んでいる。早紀は油彩でこの町を描いているようだった。俺はというと――
「まだ決まらない?」
「まあ、うん。早紀はどうやって決めたの?」
「私は、ギャラリーに出すならこの町の景色って決めてたから」
「思い入れでも?」
「そういうんじゃないけど、この町が好きだからかな」
俺は、自分の住むか否かに関わらず、町に対して「好き嫌い」など抱いたことはないし、まして思い入れなど皆無だった。この町に来てからたった一週間と少し、しかしここでは色々ありすぎた。
「人物画ってさ、難しいの?」
「どうだろう。どれでもそうなんだけど、人物画は特にデッサンがしっかりしてれば、って類の絵だからね」
「あー……でもまあ、描きたいっていうとこれくらいだし」
だから描くものは決まって、既に頭の中には完成した絵画が描かれていた。描きたいもの、と思って無意識に浮かんだものが、この人だった。
「決めた?」
「うん。多分理解されるような絵じゃないと思うけど」
「それはいいよ。描きたいもの描けば、私達がフォローするから」
「それは暗に俺が下手だと言ってるな?」
うっ、なんて呻いた早紀は、正直に謝ってしまった。まだ絵に慣れるほどの期間ここにいるわけじゃないし、上手く描けないで当たり前。「上手く描く」というより「上手く描けるようになる」くらいの気持ちでいればいい、と早紀に聞いた。
早紀を含むここの部員だって、元々絵が上手い人ばかりじゃなかった。努力や才能、色々なものを積み重ねて――
「皆、上手いよなー」
「そうだね。楽しくやってきたけど、作品数は相当やってきたから」
――ここまできた。だから、俺だけ劣ってるなんて思ってる場合じゃない。
それに俺には、早紀がいた。
「じゃ、色々教えてね」
「任せて。でも基本的なことしか教えられないから、本当にわからないことがあったら先生に訊いてね」
「わかった。でも、早紀って頼りになるよな」
今まで何十回と質問してきたけど、答えに躓いたことがなかったと思う。経験から入った俺とは違い、相応の知識も持ってここにいる、本当に「本気」の美術部員だ。
照れたように笑い、早紀は「まあね」と冗談交じりに呟いた。
自主制作に入り自由になった部員達はそんな俺達の会話に興味を示し、周りに寄ってくるのだった。
「残念だねえ早紀、好きな人に恋人がいて」
「ち、違うよっ。私はただ……」
「ああやだやだ、熱いわあ。ほら早紀、こんなに熱くなってる」
なんか卑猥なセリフに聞こえるけど、頬に手を添えただけ。しかし卑猥に聞こえたからこそ、俺の頬まで熱くなっているのだ。大分慣れてきたとはいえまだ少し怖いが、女子だけの部活っていうのは普段からこういうノリなんだろうか。
早紀の首に後ろから纏わりついた女の子が、横目で俺を見た。
「どこまで本気?」
「さあ。早紀次第じゃないかな?」
「うわー、この子女慣れしてる。早紀、こういう男はやめときな」
「だから違うって!」
顔を紅潮させて必死に弁解する早紀が可愛いのは認めるが、自覚のない早紀はそれが原因でからかわれてるっていうことに気付かないんだろう。自分の容姿に自覚や頓着がないというところだけ、雫と似たタイプだと思う。それが理由か、早紀を見てるのか雫を見てるのかわからなくなって、それが妙に微笑ましくて、思わず頬が緩んだ。
「おー、なんか達観した笑みを浮かべてらっしゃる。早紀、何か悟ったみたいだよ」
「う、うん。環君、すごい優しい顔してる」
「本気で惚れた?」
「やだもう、違うって言ってるのに……環君?」
呼ばれて気付く、早紀の視線。少し潤んだそれは雫とは違う熱を帯びてて、慌てて首を振った。それでも「環君」なんて呼ばれると、否が応にも重なるんだ。
「……早紀、可愛い」
その呟きは、俺の耳の奥で鳴るよりずっと大きく、美術室に響いたらしい。部室が、黄色い音に染まった。
「やだあー、真顔で何言っちゃってんのこの人ー!」
「早紀真っ赤! 私今、浮気の現場を見ちゃってまーす!」
先生がまだ来てないのが災いして、騒ぎは収まりそうもなかった。諦めてため息をつくと、さっきよりずっと顔を赤くした早紀が、さっきよりずっと潤んだ目で俺を見ていた。目が合うと騒ぎが大きくなり、照れて俯く早紀をフォローする俺に部員がまた騒ぐ、早紀にとって最悪の循環だ。
揶揄はもちろん俺にも及んだ。かいた恥が大きすぎて、今更照れなんてありゃしない。開き直って早紀を盛大に持ち上げ、そしてその悪循環を余計に悪化させるのだった。
早紀は言う。
「環君なら、私を預けてもいいんだろうね」
夕暮れの通学路を一人で歩く。ケアが必要だと思われた雫は一人で帰ると聞かず、仕方なく折れて一人になった。雫を一人にしたくないという以前に、俺が一人になりたくないというのもあったけど、それも仕方ない。
それに今日は用事がある。後ろ暗いわけでもないけど、さすがに一人暮らしの女性の家に上がることを、恋人に説明するのは面倒だ。そうするなら、当人である女性、聖に直接説明してもらった方が遥かに効率的だった。聖もそうしたいと言ってたし、雫も俺の言葉だけじゃ信じてくれないかも知れない。
厄介なものだ。どれだけ信頼できる恋人でも、浮気の弁明というのはとても難しい。
沈み行く太陽に焼かれて道路に焦げた身体も、大分長くなっていた。暗くなるにはあと数十分もあれば十分だろう、俺は足を速める。
見慣れるというには短い期間だけど、もう新鮮さは感じない。我が家の隣にあるアパートは、二階建ての小さなものだ。上る階段のふもと、木でできた看板には「御門荘」と、くすんだ文字が浮かんでいる。横目で見た「高橋」の文字を記憶に留めて、目の前のドアをノックした。木製らしい、軽やかな音だ。
「はーい。……どなたー?」
「環だけど。開けてくれないかな」
「ああ、はいはい」
軽い金属音の後にゆっくりと開いたドアは、想像以上に薄いものだった。成程、防犯に気を遣うようになるわけだ。
「ごめんね。一応私も女の子だから」
「うん。……女の子、だよね」
「どういう意味よ?」
「いやまあ、うん。女の子だよね」
深い意味はないけど、聖はその浅い意味をしっかり理解したようだ。睨む顔に、しかし迫力などない。
「で、用って?」
「まあまあ、まずはお夕飯にしようじゃないの。話はそれから」
「いいけどさ、あんまり引き止めないでよ?」
頷いた聖はキッチンに留まると、その奥にある八畳ほどの空間を指差した。どうやらワンルームのようだ。それに従って部屋に入り、テーブルの前に腰を下ろしてその上の辞書らしき本を手に取った。
手持ち無沙汰になるからといって、これを手に取ったのは失敗だっただろうか。恐らく俺の周りにはわかる人はいないであろう、神学書だ。案の定、開いてみても見知らぬ単語ばかりで、その内容の半分も理解できそうにない。
「うーむ……なんとなく、わかるようなものも」
「日本書紀とか古事記を基にした近代神学書だよ。妖怪とか神様とか、色々載ってる」
「んなこと言われてもなあ」
首を傾げながら目で追う目次には、神様らしき名前が多く載っていた。
「あ、何か知ってるかも。いじゃ、なみ?」
「それ有名じゃない。伊邪那美、イザナミだよ」
「ああ、なんか聞いたことある」
「黄泉国に住む、イザナギの配偶女神。火の神を産んで、火傷して死んだことで黄泉に行ったって話」
要するに、閻魔様みたいなもんか? よくはわからないけど、「黄泉」というからには死や死後を司ってるんじゃないだろうか。
推測だけでモノを言うのがどれだけ意味のないことかわかってはいるが、わからないことだらけだとそうならざるを得ない。そも、神学を専攻してる聖が持つ専門書を見て、素人である俺が理解できるはずもない。神格化なんて馴染みのない言葉を言われて、いまいちピンとこないのが何よりの証拠だ。
「面白いよー、日本神話。これがまた、神様って癖に意外にドロドロしてるのね」
「なんだっけ……確か、ギリシア神話とかすごいって聞いたよ」
「そうそう。近親相姦のオンパレード、現実にあったら引くね」
作り出した人間に作り出されたのが、神様だ。ある種のパラドックスを抱えた存在だから、何かしら超越したものも持っているのだろう。なんて、こんな考え方がまず素人なんだろうけど。
「でもさ、神学っていったら普通キリスト教じゃない? 日本神話なら、仏学とか」
「ま、変わった大学であることは承知してます。ここはね、世界中の神様のことが学べるんだよ」
広域を学ぶのは、大学の本分じゃないだろう。なんてのは、多分勝手な意見。
学びたいものを学ぶのが、大学だ。だから、好きでここにいる聖はきっと、大学生として在るべき姿なのだ。
「環、ドレッシングは和風と洋風どっちがいい?」
「聖と同じでいい。何、サラダ?」
笑いながら頷いた聖を見てから、神学書をテーブルに戻した。傍らのノートは、俺の知らない語句で一杯だ。
「今日は鯛のムニエルなんだ。環が初めてウチに来た記念に、奮発してみたよ」
「へー、美味そう。聖って小さい割に色々できるよな」
「可愛くないぞー。年下は年下らしく振舞えよー」
見た目はどう繕っても聖が下だろうに、いやだからこそ可愛いのか。サイハイソックスとショートパンツの間に輝く生脚が非常に健康的だが――扇情的でないのが、聖らしい。
「私ももう少し身長があればなー」
「いくつ?」
「五十。嫌になるほど小さいもん、くっそう」
思っていたより大きいじゃないか。やはり顔が原因で実際より小さく見えていたらしく、主観というのは恐ろしいものだと思った。
「しかしロリ顔高身長、ってのもいいね」
「ロリ顔言うな、むかつく。お子様は大人しく漫画でも読んでろってんだ」
フライパン片手に吐き捨てると、聖はフライ返しを躍らせた。
ため息と苦笑を同時に漏らして、聖の言う通りに本棚を漁った。女の子の本棚を見るのはこれで二度目だが、その子の秘密を暴いているようで、気分は決してよくはない。聖の癖に、妙に大人びた漫画ばかり買いやがって。漫画に大人びたも何も、ないんだろうけどさ。
少女漫画ばかりで手を出す気になれなかった、という結論に達するのに五分という時間は長過ぎたようだ。テーブルの上には、次第に料理が並び始めていた。
「どうよ、私の選球眼」
「少なくとも俺が読めるような漫画は一冊もなかった」
「私、女の子だからね」
「ああ、ほんと、女の子だよな。……心から」
「せめて身体だけにしてくれないかな? 私も一応傷付くよ?」
からかいが過ぎたようだ、聖は膨れっ面で俺を睨む。
そんな聖と、俺の目の前に並んだ料理は、鯛のムニエル、コールスローサラダ、ハッシュドポテト、トマトスープにご飯。この歳でここまでできれば見事なものだ。
「ありがと。美味しそう」
「でしょでしょ? いやー、料理食べさせる男の子っていないからさ、環は貴重だわあ」
照れたように笑う聖の料理は、初めて食べてからしばらくが経つ。いつも苦労をかけるな、という感謝と同時に、これからも作り続けて欲しいという希望もあった。父子家庭という環境にあって、聖は――母性というものこそないにしろ、本当に母のような存在に近かった。
これだけ手の込んだ料理を、笑いながら作ってくれる。ありがたかった。
「いただきます」
「召し上がれ。こういう時は可愛いんだから」
そんな母性を滲ませる笑顔を見せてくれたから少しだけ照れ臭くて、トマトスープを啜った。俺の顔も、こんなに赤くなってるんだろうか。笑い声が真正面から響いてきた。
「美味しい?」
「美味しい。聖、今日はなんか気合入ってるね」
「言ったでしょ、奮発したって」
オリーブオイルとバターの香りが高いムニエルは、身も柔らかくて食べやすい。
「もしかして普段手ぇ抜いてる?」
「別にそんなことないけど。今日は張り切っちゃったからね」
「恋人でもない男の為に、よく頑張るよね」
「いいじゃない、美味しいんだから。今日の夕飯は我ながら最高の出来だわ」
自己陶酔も甚だしい得意げな笑顔を浮かべて、聖はサラダを頬張った。感情表現豊かな聖のその表情は、憎たらしいというよりはずっと可愛らしかった。
たった二人でも賑やかな食卓になる。「聖」というツールを加えるだけで、信じられないくらい場が和むから、それはある種の才能なんだろう。場を仲介する力は、コミュニティの中にあって何より重視される能力だ。
「聖、実際男にもてるだろ?」
「どうかな。だとしたら、妬いてくれる?」
「妬かないよ。俺、恋人いるし」
「だよねえ。じゃ、もてない。恋人絶賛募集中」
「じゃ、ってなんだよ。俺と聖の恋人は関係ないだろ?」
ふんっ、と鼻息を荒くした聖は、少しだけ不機嫌そうだ。俺のことを好きってわけでもあるまいに、女の子の感情というのは掴みづらい。
「でも友達は多いのよ。友達止まりが理想なのかなあ? 私、魅力ない?」
「聖は可愛いと思うよ。ただまあ――」
「なに? なに?」
「気安すぎるかな、と」
がくっと項垂れた聖には、やはり心当たりがあるらしい。何より、出会って間もない男をこうして部屋に招いてるのが何よりの証拠だ。それが魅力でもあるだけに、女の子としてはかなり「惜しい」んじゃないだろうか。
恋人、というよりは妹、という方が相応しい。年下の俺からじゃ予想の域を出ないけど、恐らく聖の同級生から見たらそういう感想が浮かんでくるだろうと思う。
「理想の彼女を演じる自信はあるんだよ?」
「俺は、変に気取るより普段の聖が好きだけどなあ」
「あらまあ、そういうセリフを素面で吐いちゃうなんて……この女殺しっ」
どうしてこう、俺が吐くセリフは女の子にからかわれるんだろう。早紀に言う時もそうだけど、思ったことをそのまま口にするのがよくのないのだろうか。
笑顔でムニエルをむしった聖は、その箸で皿を鳴らした。
「ちゃんと女の子褒めてるみたいだね。喜んでくれたんじゃない?」
「喜んだ、っつーかものすごい照れてたけど。顔真っ赤にしてさ」
「初々しいわねー。可愛い子だね、いい子だね」
「まあ、いい子であることに異論はないけどね」
多少肩に力が入ってる、なんて思うこともなくはない。もう少し力を抜いた方がいいんじゃないか、俺に絵を教える時や自主制作に打ち込む姿を見ていると、そう思う。何かを覆そうという意思が、見え隠れしてるんだろう。
「私も可愛い子欲しいなあ。私、環のお姉ちゃんみたいだし、雫ちゃん、妹にならないかな」
「あれ、知ってるの?」
「彼女、有名人だからね。この町の人の半数は知ってると思うよ」
数秒考えて、すぐにピンと来た。
「悪い意味で、だよね?」
「あ、環も知ってるんだ。そりゃ、あれじゃいい噂は流れないよね」
当然だった。町の事件を知るのは学生だけでなく、町の住民である可能性が高いに決まっている。その全ての事件に雫が関わっていたのなら、雫を知る人間がどれだけいても不思議はないのだ。
しかし聖は、雫を怖がっているわけでも嫌っているわけでもないらしい。それだけは安心した。
「私も見たことあるもん、ちょっと偶然ね。可愛いよね、雫ちゃん」
「ああ、うん。あの茶色の目がすげえ綺麗でさ」
「へー。よく見たことないから知らないけど、髪、茶色かったよね、色薄いのかな?」
「多分ね。聖の金髪も結構綺麗だけど、どうなの?」
バレッタを外して流れている髪の毛を指でくるくると弄った聖は、どうやら毛先を気にしているらしい。確かによく見れば、傷んでいる様子も見受けられた。
「なんとなく憧れて染めてるけど、黒髪のままの方がよかったって思うこともあるなあ」
「聖、金髪が大人っぽい、なんてことないからな?」
「わかってるわよー。でもさでもさ、私黒髪だとすごく子供っぽくてさ」
色が黒くても、髪型を変えて見せればどうにでも見えるだろうに。例えば外行きの髪型――アップにしてバレッタで留めれば、顔の割には大人っぽく見える。
形から入る、を否定するつもりはない。それは個性と呼べるものではないが、だからこそ普遍的に価値観を統一させることもできる。要するに、子供を大人らしく見せることだって、服装や髪型如何で可能になるということだ。もちろん、生まれ持ったタレントによるところが大きいのは、言うまでもないんだけど。
髪を手放した聖が、ほぐした鯛を口に放り込む。少し膨れた頬が可愛らしい。
「美味しいご飯食べれば、特に気になることもないけどね」
「単純だなあ。気にすることないのに、金髪似合ってるし」
「そ、そうかな?」
照れてる聖は可愛いし、ロリ顔金髪っていうのも中なかなか乙なものだ。なんて、聖に言ったら怒られるんだろうけど。
「ま、何事もその人に合ったものが一番よね」
「そうそう。サイハイソックスとショートパンツの間が非常に健康的だよ」
「えっちねえ。ま、美肌には自信があるけどね。ほれほれ」
テーブルの横に脚を伸ばして、俺に見せ付けてきた。どうにも、これはこれで扇情的という気もしてくるから厄介なものだ。雫のどこかアンバランスな魅力もそうだけど、女って不思議だなあ。聖が大人に見える時、というのはそういう時だ。
「手、止まってるよ。せっかく作ったんだから、食べて食べて」
「ああ、うん。いただきます」
「召し上がれえ」
だらしなく笑った聖の脚が、テーブルの下に格納されたのを少し残念に思った自分を窘めた後、内心で雫に謝っておいた。雫以外の女に靡くことがあってはいけない、なんてことはないんだろうけど、雫は意外に嫉妬深そうだ。
夕食はそんな感じで始終和やかに進み、食べ終わった聖と俺は並んで畳に寝転がっていた。この暑さの中、畳の冷たさが心地いい。
「あー、食べた。美味しかったね、環?」
「うん。聖の料理にも慣れてきたけど、多分一番美味しかった」
「だよねえ。おじ様に食べさせられなかったのが惜しいわ」
「聖、父さんのこと好きなの?」
「はえ? ……ああうん、好きよ。かっこいいよね、性格もいいし」
俺は父さん似らしく、よくそう言われる。ただ、性格の方が似ても似つかない為、好かれるのは大抵「穏やかな大人の男性」である父さんだ。
「でもねえ、環みたいな子が、私には合ってるみたいなのね」
「そうなのかな。聖って大人の男に惚れそうなイメージがあるんだけど」
「なんだ、恋とかそういう話? だったら断然環よ。可愛いし」
でも流石に、「可愛い」と言われることは余りない。俺は照れ隠しに、話題を変えてみるのだった。
「で、用って何だったの?」
「焦らないでよもう、もっと話してたいのに」
「だ、だって聖、いつまで経っても本題に入りそうにないし」
「仕方ないなー……」
気だるそうに立ち上がった聖が俺に向かって差し出した手を取って、俺は勢いよく立ち上がった。小さな手が可愛くて、本当ならいつまでだって触っていたかったけど、それは仕方ない。
「じゃ、環。あそこに立って」部屋の隅を指差した聖は続ける。「踏ん張って」
「踏ん張る? 何するの?」
「いいからいいから、聖を信じて」
楽しげに笑う聖を信じていいのかどうかは五分五分だけど、拒む理由もない。仕方なく指差された地点に立ち、畳に根を張った。踏ん張る意味がどこにあるかわからない分、少し怖いという気持ちもある。
「じゃ、いくよー」
まるで体操選手がそうするように手を挙げた聖は、息を一つ吐いて落ち着き、そして何故か走り出す。俺から数メートル、気付いた頃にはもうすぐ目の前にいた。
「とうっ!」
跳んだっ!?
と思ったら、次の瞬間には聖の両足が俺の胸辺りに炸裂していた。俺を蹴り飛ばした反動で高々と宙を舞った聖は、ものの見事に着地を決める。
「ど、ドロップキック……?」
踏ん張ってたのと、聖が軽いのとで、どうにか立ったまま堪えた俺だったが、それ故に痛みは大きなものだった。呼吸がままならないほどの痛みに、出した言葉が上手く震えなかった。
高笑いをする聖が信じられず、呆然と見ていた。いきなり何をする、とか、そもそもなんでドロップキック、とか、色々思うところはあるけど。
「聖、てめえ、なかなかいい運動神経してるじゃないか……」
求めたい理由は多々あれど、出てきた言葉はそれ一つ。我ながら甚大な混乱だ。
「いやーあっはは。これもなかなか気持ちいいねー。私、Sっ気あるのかも」
くふふ、なんて怪しい笑いを浮かべた聖は気が済んだのか、笑顔を引っ込めた後に気遣わしげに俺を見た。今更、とか思わないんだろうか。
怒ってはいないけど、わけがわからない。何より俺が怒られる理由はなかったし、それがなければ蹴られる理由もありはしない。何かしら理由があるとは信じたいが、聖の申し訳なさそうな顔を見ると問いただす気にはなれなかった。
近隣住民への迷惑は、きっと畳が吸い取ってくれたはずだ。
「ごめんねえ、環。仕方ないんだよ」
「いや……色々訊きたいことはあるけど、一つだけ」
「うん、なあに?」
「これが聖の用なの?」
勢いよく頷いた聖が、やはり信じられなかった。
「ちゃんと説明してくれるの?」
「後でね。しばらく通ってくれたら、わかると思うよ」
しばらくの間こんな目に遭えと、そんな酷な。もちろんそんな被虐嗜好のない俺は、聖に拒否の旨を伝えた。そんな進言が棄却されることもわかっていて、だ。案の定聖は、「通ってくれなきゃ、ご飯作ってあげない」なんて、子供染みた脅迫を使うのだった。脅しにはならないと思ってたけど、改めて言われると、これが意外に堪えた。
仕方ない、わかった。返事をすると、聖は嬉しそうに笑い、もう一度だけ謝るのだった。
もちろん俺が黙ってこんな仕打ちを受けるいわれはない。次回は是非とも盛大に抵抗してやろう、なんて腹積もりを、聖に悟られないように浮かべるのだ。
「用は済んだから、遊ぼ?」
「聖、意外と大物だな」
「まっかせて! さ、何して遊ぼーかなー」
タンスを漁る聖の後ろで、ため息一つ。
雫のことで気分が重くなってたから、ちょうどいいのかも知れない。聖といると、心が休まっているのを肌で感じる。テーブルの横に座り、聖の背中に一言。もちろん、彼女に聞こえないように。
「恋人いないの、わかる気がする」
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