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  めざめて中の人 作者:
3話




めざめて中の人





 入部届けを出した当日だけど、早速部活に顔を出すことになった。碌に絵を描いたこともない俺だけど、ここの美術部は楽しむのが目的らしいし、なにより嫌いじゃないというのは大きいだろう。いずれ楽しみに変えればいい。
「あ、伊藤君来たよー。皆、挨拶ー!」
 もう七割以上の子が揃っていたらしく、その挨拶はとても大きなものだった。歓迎の声色が多数を占める中、一部女子はまだ警戒してる。男が一人なら仕方ないことだし、こんな中に入ろうと思った自分がまだ不思議に思える。
 十五人の女の子の真ん中に、一人の男。違和感はあるけど、いつか馴染むといい。
「来てくれたんだ、伊藤君」
「ああ、金城さん。ここ以外に楽しそうなとこ、なかったから」
 乱雑に、それでも全員がデッサンのモデルを見えるように並べられた椅子。隅に座った俺の隣に移動してきたのは、油彩が本職の金城早紀さん。コンクールに個人で応募する、この部内でも本気で美術をやっている女の子の一人だ。
「部活単位でギャラリー借りた方が、色んな人の目に留まるの」
「わかるような、気がする」
「色んな子がいてくれた方がいいんだ。だから男の子の入部は、嬉しかった」
 喜色を満面に貼り付けて、金城さんは目を細めた。クロッキー帳を抱きしめた胸が少しだけたわんだのを見て無意味に目を逸らしてしまう自分に、嫌気が差す。彼女には悪いけど、この女の子だらけの空間を意識しないのは不可能だ。
 でも、金城さんは気にした様子もない。許す許さない以前に、盲目的になってるみたいだ。今までこの雰囲気によって押し付けられてきた活動に、それだけ辟易してきたんだろう。それに俺だって、こうして皆が作り出す作品や空気に、惹かれるものがないわけがないんだから。
「一緒に頑張ろうね。伊藤君は何するの?」
「何、というと?」
「有名どころで水彩、油彩、彫刻、それから漫画なんかもあるよ?」
「漫画まで美術なんだ。そーだなあ……」
 馴染みがあるのはもちろん水彩、小学校や中学で飽きるほど使ってきた。でも油彩のあのリアリティも惹かれるものがあるし、彫刻は形がある分わかりやすい。漫画なんかはストーリーが浮かばないし、最初に却下できるけど……
 しまったな、本気になれなくても、少なくとも何がしたいかくらいは決めてくるべきだった。でも今ここで彼女に返事をするなら、やっぱり無難に、
「水彩、がいいかな」
「そうだね、馴染みがあるし、あたしも色々教えてあげれる」
「水彩もやるの?」
「油彩は初心者には早いからね。水彩もやってた」
「じゃ、ご教授願います」
 頭を軽く下げた俺を笑って、金城さんは笑いながら言ってくれた。
「ビシビシいくよ。あたしについてこないでいいから、楽しくやろうね」
 金城さんに勧められたのは見学より、皆と一緒にデッサンに参加することだった。デッサンは何をするにも基本になるから、誰でも丁寧に長く深くやっておくべきだ、らしい。逆らう理由も見つからず、備品であるクロッキー帳と2Bの鉛筆を受け取り、金城さんの隣でモデルを見詰めてみた。
 よくこういう美術系の漫画やドラマで描いてる、フルーツ。リンゴやバナナは、形が掴みやすく流線型なので、陰影も捉えやすくなってるらしい。とはいっても初心者に「デッサン」は敷居が高く聞こえてしまうのが本音。俺にそういう臆病な面があるのが意外ではあったけど、少し描いては隣を窺うことになってしまった。
 真剣に取り組む金城さんは、それでも嫌な顔一つすることはなかった。いい子という以上に、俺が真剣に取り組むことを最初から望んでいたからだろう。
「伊藤君は一つ一つを見過ぎかな? デッサンは、何がおかしいか、何が目立つかを捉えるのが大事なの。だからまず全体を見て、目に付くものを大きく描いてみたらいいよ」
「全部リアルに描くんじゃないの?」
「そうとばかりも言えないよ。まずは絵というより、簡略化した『図』を描くの。細かく描画するのは、一番最後」
「なるほどね……」
 鉛筆を視界の中でモデルの真ん中に立てて、少しだけ画家気分に浸ってみた。行動の意味もわからずにやってたら成果はないんだろうけど、少なくともこれで「個」を意識することはなくなるはずだ。
「そうそう、正解。パースを掴むのと、構図を決めるのにそれする人が時々いるんだ」
「それっぽく見えるかな、ってだけだよ」
 口元に手を寄せて笑い、金城さんがからかうような調子で「頑張れ、伊藤画伯」なんて言うから気恥ずかしくなってしまった。照れ隠しという以上の意味もなく鉛筆を走らせ、そしてすぐに消してしまうのだった。
 俺が全体を大まかに描き終える頃には、部員のほとんどがデッサンを終えてしまっていた。几帳面、丁寧というにもおこがましい俺の絵より、部員達のそれには明らかな芸術が見える。慣れ、要するに経験だろうか。
 友達同士で相談しあい、顧問の先生に見せると、皆は次に俺の元にやって来た。
「うわー……へたくそー」
「ほんとだ、酷いねこれ」
「ほっといてよ」
 俺の手元を覗き込む女の子の髪が肩にかかって、妙な気恥ずかしさを感じた。それから俺の絵に対する本物の羞恥が半分。
「ホントお願い、見ないで」
「沈むな沈むな、最初は私らもこんなもんだったって。それに……」
 俺の隣を意味深に見遣ってから、彼女達は顔を合わせて笑う。
「それに早紀だけに独り占めさせるわけにいかないでしょ」
「そうそう、この学校にいい男なんて滅多にいないんだから」
「ちょっと皆、私はそんなつもりじゃ……」
 とっくにデッサンを終えて俺にアドバイスをくれていた金城さんは、少しだけ桜色に染まった顔を小さく伏せて抗議した。もちろんそんな抗議が通るはずもなく、金城さんの意見はなかったことにするように俺の意見を求めるのだ。もちろん描画のことでなく、金城さんと一緒に活動したことに対する、だ。
 からかったら、彼女はどう反応してくれるだろう。そして俺は皆のノリと好奇心に打ち勝つことができなかった。
「金城さんの真剣な目、ドキドキしちゃった」
「ちょ、伊藤君、そんな……」
「早紀、抜け駆けは酷いよー」
「私は伊藤君に慣れてもらいたくって。伊藤君、だよね?」
 今度は耳まで紅潮させて、必死に弁解してる。男に慣れてないらしく、その反応は実に初々しかった。
「可愛い子ばっかりだからさ、絵よりそっちに意識いくよね」
 なんてことを大声で発言するから、美術室はらしくないほどに賑わったのだった。
 この日の部活は、俺の為にデッサンに始終して、そして金城さんはずっと俺の元にいた。戸惑いはあったけど、それ以上に彼女の気持ちが痛いほど伝わってくる。彼女は真剣に望んでいるんだろう、皆の、描くのはあくまで話の種という気持ちが、少しでも絵に戻ってくれることを。
 続く真夏日に集中はできなかったけど、構図を変えてなんとか二枚ほど描き終える頃には、すっかり日が傾いていた。

 雫さんはいつも学校に残って勉強しているらしい。初めての部活を終えて帰ろうとした俺を待っていたみたいに、彼女は校門に身体を預けていた。
「あ、環くんっ。奇遇ですねっ」
「今日も勉強?」
「はい。今日は英語を頑張りました」
 握り拳を二つ、胸の前で作ってみせた。微笑ましくて思わず吹き出した俺を、雫さんは不審そうに見てから、そして同じように笑う。
「ほんとは、待ってたんです。少し待ったら、環くんの部活も終わるかなー、って」
「愛いやつ。なんだったら、入部すればいいのに」
「……駄目ですよ」
 理由を問うと、雫さんは俯いてしまった。昨日と同じ夕陽は、それなのに彼女の顔を照らしてはくれなかった。
「わたしは、友達を作ったらいけないんです」
「それこそ理由が知りたいし、だったら俺は何?」
「ごめんなさい。環くんには悪いけど、私も怖かったんです」
 一人でいることが。
 臆病になるのが悪いことなんていわないし、まして謝る必要なんてどこにもない。俺だって、一人になったらなんて思うと震えが止まらないくらいだ。そこに常にあの人の影があるから、俺は頑張っていられる。父さんや母さんの影、今なら美術部の皆、そして――
「わたし、疫病神なんですよ。不幸を運ぶんです」
「そんなことない。俺は君といると楽しいし、幸せ」
「矛盾してますよね。皆を不幸になんてしたくないのに、わたし、環くんを不幸にしようとしてるんです」
 幸せになりたいという気持ちと友達になりたいという想いの、どこが矛盾してるんだ? 少なくともなんて言えないくらい、俺は雫さんと一緒にいることを望んでる。
 口に出す代わりに、鞄を放り出した。湿気の代わりに、雫を抱きしめた。
「ほら、ドキドキしてるだろ? 幸せなんだ」
「服の上からじゃ、聞こえませんよぅ」
「そりゃそっか……」
 苦笑して、口を開いた。尚早かな、なんて思わなかったし、なにより俺は焦ってたんだろう。彼女のことは正直に言うと怖かったけど、それ以上に幸せにしたいって願ってた。
「言っていい?」
「……どうぞ」
「会って三日だから、少し早いかも」
「早く言って欲しいです」
 じゃあ言うよ。
 その言葉は、雫の涙腺をいとも簡単に決壊させてしまった。出会って三日、俺だけの快挙だ。
 雫、お前はまさか、この小さなキスまで不幸なんて言わないよな?

 その日、父さんが仕事で大きなミスをして帰ってきた。雫を責めないように気をつけないと、なんて思った自分を、少しだけ嫌いになった。

 雫の家は、予想していたよりずっと小さなものだったけど、それよりずっと、寂しく静まっていた。彼女が言うには、両親は既に他界して長いらしい。それだけの不幸に見舞われれば、確かに自分が不幸を運ぶなんて誤解が植わっていてもおかしくない。
 大丈夫。その分俺が幸せになればいいだけなんだから、実に簡単なものだ。
「お茶入れるね。座って待ってて」
「砂糖は少なめでお願い」
「うん。そこら辺の本なら読んでていいから」
 部屋を出て行った雫の後から聞こえたのは、ドアの閉まる小さな音。階段を下りる音を見送ってから、雫の言う通りに本棚を漁った。
 白い壁紙に白いカーペット、白いベッド、白いテーブル、白い本棚やクローゼット、タンス。全てが白くて、雫の部屋に抱いた最初の感想は、彼女には悪いけど「病室みたい」だった。靡くカーテンが唯一桜色に染まっていて、俺の来訪に少し照れてるみたいだ。
 部屋を意識しないように無造作に取り出した本を、開いて目を落とした。
 取り立てて変わったところもない童話。幸せを運ぶ鳥が、行く先々で笑顔を作る話だった。
 どうしてだろう、嬉しくなった。彼女はまだ諦めてるわけじゃない、皆と一緒に幸せになりたいって思ってるんだ。そう思えたから。彼女が意識してこれを買ったわけでもあるまいに、まさかただの童話に救われることになるとは思わなかった。
 幸せを運ぶ鳥は、しかし最後に辿り着いた家で拒まれてしまった。その家には不幸を運ぶ鳥が既に住んでいて、彼が入る隙間なんてなかったらしい。その家のその後は描かれず、その代わりに幸せを運ぶ鳥の気持ちが克明に描かれていた。羽根を置いてきたから、きっと彼らは幸せになるはずだ、と。
 腑に落ちない、というか。確かに子供向けではあるけど、これは余りにも出来過ぎているじゃないか。
 ドアがゆっくりと開かれるのと、俺が本を仕舞うのは、ほぼ同時だった。
「お待たせ、環くん。クッキーあったから、持ってきたよ」
「ん、ありがと。ま、座りなさい」
 座布団をテーブルの脇に敷いてやったら、雫は笑いながら座った。「わたしの家だよ、ここ」とからかうような、明るい笑顔だ。
「雫、お邪魔してます」
「なあに? 今頃そんなこと」
「いや、言ってなかったから」
 目の奥で笑んで、その淡い茶色を潤ませてくれた。
「はい、ようこそ、環くん」
 俺達が付き合い始めてから、早くも一週間が経とうとしていた。今日は日曜日、学校も休息に入っている。取り立てて変わったことはないけれど、俺達は上手く「恋人」をしていると思う。唇だって、何度か重ねた。
 学校、クラスでも周知の事実だ。もちろん歓迎はされなかったけど、概ね反対されたわけでもない。苛めなんてものも予想してたけど、雫に関しては安全としか言えなかった。雫に関わりたくない一心で、皆は非難すらすることはなかったのだ。それは或いは、苛めよりも苛烈なのかも知れないけど。
 「ラッキーだよ」って、雫は困ったように笑っていた。馬鹿だな、雫。そういうの、不幸中の幸いっていうんだよ。それは決して、幸せなんかじゃない。
「環くん、クッキー美味しい?」
「ああ、うん。ちょっと甘いけど」
「苦いコーヒーにはちょうどいいよ。それにそれ、わたしが昨日作ったんだ」
「なら、一番美味いな」
 雫は本当によく笑った。迷いのない、爛漫な笑顔だ。
「なら、ってなあに? 取ってつけたみたい」
「いや、愛情が……」
「環くん、そういうこと平気で言えるんだね」
 少しだけ妬いてるみたいで可笑しくて、可愛かった。
「雫だけにな。他はもう、今はいいや」
「そっかそっか。じゃ、わたしも」
「お前は幸せになるんだよ。いやいや、一緒にだな」
「そう、だね。それがいいよ」
 そう、雫だけじゃなくて、俺が幸せにならないと意味がない。それが多分、雫を救ってやれる唯一だと思うから。照れ臭そうに笑った雫が、頭を掻いてクッキーを頬張った。小さく膨れた頬がリスみたいで、俺は意味もなく微笑んでしまうのだった。
 なかなか勉強は始まらない。元々雫の家に来たのは勉強する為だったけど、恋人の家だという事実はそう簡単には頭から離れてくれなかった。テキストとノートは開いてあるけど、俺達の手からはいつまで経ってもカップとクッキーが消えることはない。笑い声は、部屋に木霊し続ける。
 こういうの、幸せっていうんじゃないかな。だとしたら俺達、もう大丈夫なんじゃないかな。細めた目に映る雫が、たおやかに微笑む。
「雫、昼飯、どっか出かけようか」
「えー。わたし、作ろうと思ってたのに」
「デート、したことないだろ?」
 顎に手を当ててしばらく悩むと、雫は不承不承頷いた。
「うん。じゃ、行こう」
「決まり。ついでにこの町、案内してよ」
「そうだね。環くん、まだ慣れてないよね」
 そうさ、ずっと雫の傍にいたんだから。学校で会うと、俺は部活で雫は居残り、帰ったら父さんとずっと話していた。初めての休日、昨日は雫に用があったらしく、することもなくて家で怠惰な生活を送っていた。
 あの日猫を拾って以来、一度も町へ出かけていない。若者の行きそうな飲食店も服飾店も知らないし、商店街だってまだ全てを把握し切れてるわけじゃない。そういうのは先輩である雫に訊けば、一番近道だ。
「じゃ、お昼は街に出ようね。それまでは……ね」
「勉強会は中止だな」
「……ん」
 雫は、後ろから抱かれるのが好きみたいだった。一度、誰もいない教室で膝に乗せてやったら、甚く喜んでくれた。ベッドを背もたれにして後ろからお腹を抱えてやると、雫は少しだけ色情に染まったため息を漏らす。
 時間を忘れるくらい、甘美な時間。ただ言葉を交わすだけで、満たされた気がしていた。
「不思議。どうして今まで、環くんと出会えなかったんだろうね」
「俺も、今すっげえ……なんだろ、胸が一杯になってる」
 茶色の髪が目の前で揺れ、首だけで振り向いた雫の瞼が、微かに濡れた。

 部屋着のトレーナーから外行きの服に着替えた雫は、小さな白いポーチを持って跳ねるように俺の腕に纏わりついた。ピンク色したハイネックのノースリーブシャツに、半袖の白いフードパーカー。淡いブラウンのスカートがきっと幹で、今の雫は「桜」を思わせた。春は過ぎたけど、彼女の温かさによく合った。
 繁華街、地元では「街」と呼ばれるそこは、その名よりずっと寂れている印象を受けた。以前住んでいた町のそれはもっと高層ビルが建ち並んでいたが、ここは精々デパートが一件程度だ。それより、ここには「電飾」というものが余り見られない。低いビルばかりで、そこは正しくコンクリートジャングル。色がなかった。
 だからこそ、この一本の桜が際立って映える。濡れた髪が軽やかに揺れ、しかしその花弁は散ることはなかった。
「環くん、ファミレスでいい?」
「どこでもいいけど、雫のおすすめは?」
「わたし、お金持ってないから……美味しいお店は、よく知らないの」
「俺がおご……ってそういや」
 首を傾げる雫の手を取ったまま、少しだけ脂汗が流れた。雫、気付いちゃったかな。
 そうだ。俺、財布落としたままずっと放置してた。探そうともしてないどころか、交番に届け出ることすらしてないじゃんか。確かに今まで困ったことはないけど、これから女の子と付き合おうっていうのに無一文じゃまずいだろう。
 奢る、なんて口にしなくてよかったけど、このままだと雫から施しを受けることになる。
「なあ雫、交番みたいなのって、どこにあるんだ?」
「交番? それなら駅の隣にあるけど。どうしたの?」
「行こう。今すぐ行こう」
「え、え?」
 駅なら知ってる。この町には新幹線で来たし、実のところこの繁華街だって一度横切ってるんだ。その時は疲れて何も見なかったけど、一応道順程度は覚えてる。
 困惑する雫の左手を引いて、迷いなく歩いていく。人通りは、やはり休日の繁華街だけあって相当のものだ。少なくともすれ違う人と道を譲り合う程度に混雑しているし、何より耳につく喧騒は余りに大きい。煩いと取るか、それとも心地良いと取るかは、きっと気分次第なんだろうけど、雫と一緒なら大抵のことは許せた。
 デパートの程近く、駅の隣にこぢんまりとした建物。南派出所と称されたそれは、とてもじゃないけど人を歓迎してるようには見えなかった。
「な、なんだか入りにくいね」
「雫はここで待ってろ。俺、入ってくるから」
「ええ、一人にしないでよお」
 袖を引っ張りながら泣きそうな顔で言うもんだから、俺が断れるはずもなかった。雫の手を引いて、そのガラス張りの引き戸をゆっくりと開く。
 視線を浴びせたのは、二人の制服警官。一様に訝しげな表情だ。
「何かありました?」
「ちょっと前に、財布落としちゃって」
 簡潔な用件なのに、彼らは揃いも揃って面倒そうな顔を作ってみせる。俺だってお前らを頼るのは不本意なんだけど、こっちは顔に出しちゃ駄目だって?
 ため息一つ、中年の警官は奥の部屋に引っ込んでいった。恐らく、奥の方に遺失物が保管してあるんだろう。そう大きくもない町だけど、繁華街の中心にあれば落し物だってたくさんあるはずだ。確かに、面倒かも知れないけど。
「環くん環くん、お財布なかったの?」
「ああ、転校初日に四条さんが突っかかってきたろ?」
「うん。猫がどうとか、って」
「川で溺れてたのを助けたんだ。その時に、だと思うんだけど」
 雫は一瞬だけ諦めたような顔をした後、憮然とする俺の表情を見て項垂れてしまった。確かに川に落ちた財布が返ってくるとも思えないけど、そこは彼女として応援してくれるべきじゃないかな、なんて表情を、俺は改めようともしない。
 俺が雫の挙動を窺ってるうちに、警官達は二人がかりで遺失物の中から財布を選び出してくれたらしい。
「この中になければ、諦めてもらうしか」
「探してみます」
 とはいっても精々十数個。ぱっと見てわかったのは、残酷な現実。
「環くん?」
「ありませんでした。届いたら……」
「書類に名前を」
 差し出されたボールペンと小さな紙。遺失届と銘打たれたそれに、名前や住所などを書き込んでいく。はっきり言ってしまうが、「見つかるかな」という希望より、「駄目だろうな」という諦観の方が圧倒的に大きい。一応、藁に縋ってみただけだ。
 交番から出た俺達を歓迎したのは、入る前より強くなった鋭い陽射しと、纏わりつく湿気。
「暑いね」
「言うな、雫。お前はちっちゃいから、届く頃には陽射しも弱くなってるだろ?」
「無茶言わないでよお……ほら、肌がチリチリするよ」
「そんなものは見てもわかりません。ただ言えることは、白いじゃんか、くらいだ」
 そういえば出かける前に何かクリームのようなものを塗っていたような気がする。多分だけど、UVカットクリームってやつだろう。女の子っていうのは、魅力的である分面倒が多い。差し引きでどちらが上だと言えない俺は、果たして性差に疎いのだろうか。
 不思議そうに自分と俺の腕を見比べる雫は、良くも悪くもコケティッシュだ。笑うと、表情はそのままに俺を見上げた。こういう仕草も、女性ならではだ。
「環くん、楽しそう」
「雫は楽しくないの?」
「た、楽しい! 楽しくないわけ、ないもん」
 雫の縋った腕に、少しの汗が滲む。気持ち悪くないのかな、なんて思ったけど、それを口に出すのは野暮だろう。半袖のシャツのボタンを、意味もなく弄ってみた。
「じゃあそうだね、今日はわたしが奢ってあげる」
「ほんと、マジすいません」
「あはは、いいよいいよ。女の子だって、お金払うのは嫌いじゃないもん」
「俺は嫌いだけど」
「それならわたしの為にお財布なんて捜してくれないでしょ?」
 ああ、痛いところをつくな、雫は。正確にいえば「女の為」じゃなくて「恋人の為」だから、多少の我が侭というところも大きい。彼女の笑顔が見たい、っていう我が侭だ。
 でも雫、お金持ってないって言ったじゃんか。
「ま、ご馳走になります」
「そうそう、素直にね。お姉さん、奮発しちゃう」
「調子に乗るな」
 額を指で弾くと、ポーチを持った手で押さえながら涙目で俺を睨んだ。「何するの」、なんて声が聞こえてきそうだ。頭を撫でて機嫌をとってやると、雫は納得いかないように、だけど素直に頬を緩めてみせた。可愛い。
 笑顔をそのままに雫が指差す先に、小さなレストラン。その規模の割に、そこはファミリーレストランを名乗っているそうだ。
「生意気なファミレスだな。家族が何組入れるんだ?」
「んー。十組くらいかな。でもここ、安いから」
「奮発するんじゃなかったのか?」
「お金、ないからね。というか……」
 俺の腕を引っ張りながら一歩前を歩いた雫から零れたのは、苦い笑い。
「うちのお金は、あんまり無駄遣いしたくないから」
 表情は見えなかったけど、簡単に想像できた。たった一週間だけど、雫のことは誰よりもよく知ってるっていう自信がある。
 だから何も言わずに、立ち止まる雫の横に並んでやった。何を望んでるかがわかるわけじゃないけど、雫が俺のことを頼りにしてるってことくらいはわかる。いつまでも雫の後ろにいたら進まないし、こうすると、雫の表情が窺える。
 軽やかな笑顔だった。それだけで俺は、救われた気分になる。
「入ろっか、環くん」
「まじごちになります」
 中は、ファミレスというにはシックな造りになっていた。木を基調にして、天井には三枚羽の扇風機がゆっくりと回っている。大きな窓からはたくさんの光を取り入れ、自然の照明はしかし緩やかに優しい空気を作った。
 案内された禁煙席。四人掛けの椅子に、向かい合って座った。すぐに出された、氷水の入ったコップを両手で持って、雫は豪快なため息を零す。
「はー、涼しー。ほら環くん、かんぱーい」
「かんぱい」
 グラスを打ち合わせ、中身の水を一気に飲み干すと、冷房と重なって身体を芯から冷やしてくれる。腹にたまる心地良さは、味のない水だからこそだろう。コップを置いたテーブルの上に落ちた雫が、木のテーブルを大きく見せるレンズのように光った。
「はい、メニュー。あんまり高いの頼んじゃだめだよ」
「んー。いつ雫とキスするかわかんないし、あっさりとしたのがいいよな」
「ちょ、環くん! そんな、こんなところで言わないでよお」
 いや、俺も恥ずかしいけどね。
「もう一歩先、進んでみる?」
「先、って……ば、ばかっ」
 その紅潮は、怒り故にかはたまた羞恥故にか、或いは期待してるのかも知れないけど。恥ずかしいセリフも、たまには言ってみるもんだな、なんて思ってみるのだ。どうせ昼時の喧騒に隠れて、他人の介入なんて許さないんだから。
 実は、こういうところに来たことが余りない。母さんが生きてる頃は貧乏で金銭的な余裕がなかったし、その後は父さんの多忙で時間的な余裕がなくなった。そしてそれ以上に、多分精神的な余裕ができていなかったんだと思う。だから、父さんを連れて「ファミリーレストラン」なんて名前がついたところには、来れなかった。
 新鮮でいいものだ。明るく笑う家族、囁きあう恋人、そんな周りを穏やかな目で見回す老人。ここは、酷く温かい。
「環、くん?」
「ん。どした?」
「……なんでもない。食べるの、決まった?」
 メニュー見てなかった、なんて反省の色を見せつつ雫に訊き返すと、迷いのない返答があった。
「じゃあ俺もそれでいいや」
「食べたいもの食べていいよ? ファミレスでお金が足りないなんて、ないし」
 ピンクのがま口を取り出してかちかちと開閉しながら、雫は気遣わしげに俺の瞳を覗き込んできた。その琥珀色に少し誘惑されたような気がして、頬が熱い。潤んだそれは、男なら誰だって靡くだろうから、きっと俺は俺以外を見せようとはしないんだと思う。
 視線の一つまで独占したくなる。初めての恋人は、麻薬のように俺を陥れている。今もずっと、現在進行形でだ。
 結局頼んだメニューは同じもの。ナポリタンスパゲッティと、フリードリンクだけだ。足りないだろう、と雫は何度も訊いてきたけど、どうしてか俺は小食だ。多分昔の名残だろう、基本的には貧乏性なのだ。
 談笑を交えながら数分も経つと、パスタはすぐに出てきた。湯気が昇る皿の中は仄かに橙が混じった綺麗な赤。独特のその色は、トマト色、とでも言うのだろう。
「美味しそう」
「だな。俺、飲み物のお代わり持ってくる。何飲む?」
「環くんと同じでいいよ。すぐ戻ってきてね」
「なんだ、寂しいのか?」
「ちっ、違うもん。お料理、冷めちゃうから」
 まだ男に慣れてないんだな。可愛い割に今までもてた試しがないって言うし、俺のファーストキスはそのまま雫のファーストキスになったらしい。
 ドリンクサーバーでメロンソーダを二つ注いで、氷を放り込んだ。合成色としか思えない、毒々しい緑色。メロンとは思えない独特の甘み、安っぽさ。こういうチープなのが、意外と美味しかったりするから曲者だ。
「なんだ、待ってたのか」
「だって、一人じゃ美味しくないもん」
 隣の席を一瞥してから座って、雫に礼を言っておいた。目が合ったから多分、
「伊藤君ー……と、」
 仕切りが陰になって見えなかったんだろう、話しかけてきた子は雫を見て露骨に顔を顰めた。雫がそんな風に申し訳なさそうな顔作る必要、ないのに。
「マキ、どうかした?」
「ううん、別に。二人って、ほんとに付き合ってたんだ」
「疑ってたの? 雫、何とか言ってやれよ」
「え、と、えと、わたし、好き……」
 人見知り、ではないよな。彼女は本当に自分が悪いんだと思ってて、遠慮してるんだ。それでも俺のこと好きだって言ってくれたのは、素直に嬉しい。
 マキは数秒悩んだ後、友達を呼んで俺達の席に移ってきた。雫がいるから近づきたくはないが、やはり興味はあったらしい。転校生を三日で落とした女が疫病神だっていうんだから、彼らにとっては絶好のゴシップなのだろう。
「それで、二人はどこまで?」
「マキ、ストレートすぎ」
「いや、いいよ。雫、言ってやれ」
「ええ? うん、と……キス、はしました」
 それだけで騒ぐマキとナオは、きっと雫のことが嫌いなわけじゃないんだろう。正直なところ、俺と同じ。怖いんだ。でもその恐怖より幸せがずっと大きいから、俺は雫の傍で耐えられる。傍にいるだけで幸せっていうのは、きっと「ユーフォリア」っていうんだろう。
 この二人とは、できるだけ雫に喋らせてやろう。話せばきっと、雫が無害だってわかるはずだ。
「あの、マキ、さん」
「何?」
 険のある態度に萎縮する雫は、それでも頑張った。
「環くんは、女の子にもてるんですか?」
「そりゃね、これだけ顔が良ければ。まあ顔だけ見れば、釣り合ってるんだろうね」
「そんな、わたしは……」
 今日の雫は、よく照れる。歯の浮くようなセリフだったり素直な褒め言葉だったりするけど、雫はそれに“裏”を感じようとしない。良く言えば素直。逆には愚直だ。
「四条さんもわかんないなー、こんなイイ男が駄目なんて」
「俺だってわかんないよ。でもま、害がなければ関係ないでしょ」
「そういう問題じゃないんだな。イイ男とイイ女が付き合う、ってのが面白いんじゃん」
 それ、心外だな。
「雫、イイ女だけど」
「まあ、」雫を一瞥したナオは、マキを窺ってから言う。「そうかもね」
 マキは「面白くない」を表情で示してるけど、雫のことを蔑ろにするのは許せない。だけどナオがマキと雫の両方を気遣ってるのもわかるから、露骨に嫌悪を表すわけにもいかなかった。雫とナオは立場が中途半端で立ち回りにくいし、俺とマキは両極端で機嫌が悪い。
 雫が悪いんじゃない。二人共理性ではわかってるはずなんだ。ただ、噂が真実だからこそ、雫に近寄ることができない。
 だったら、俺が上手く立ち回るしかないじゃないか。雫という人間、雫という可憐は、知らぬままに放って置かれるには余りに惜しい。そうなったらきっと俺は独占欲を顕著にして不機嫌になるんだろうけど、彼女の周りには四条さんと同じように、人が溢れていておかしくはないんだ。
 沈黙は静寂になり、俺達の一席を包む。周りの喧騒と空気の差異、微かに届いた陽光が壁のように俺達を囲んで、逃げ出せそうにもなかった。俯く雫が、痛々しい。
「雫、食べていいぞ」
「うん……いただきます」
 フォークとスプーンを取った手は、微かに震えている。
「マキさあ、ナオとどこで知り合ったの?」
「ナオ? えっと、確か入学式の日に……どうだっけな」
「私、中学からは逢坂に一人で来たから、友達いなくて。で、最初がマキなの」
 何も知らない人と友達になれるなら、雫がそれでもいいはずじゃないか。
 俺だってわかる。人間、最初は人の悪い部分に目が向くようになってるんだ。それは決して悪いことではないけど、そこで目を閉ざしてしまうのは余りに愚かしい。着眼点は、評判や噂などの表層より、もっと人の奥底にあるべきだ。
「マキ、人懐っこいから」
「そっかな。まあ、人見知りはあんまりしないけど」
「私のこと、何でも訊いてきたじゃない」
「そうだっけー? でもさ、訊かなきゃわかんないし」
 ほら、チャンス。
「マキ、わかってんじゃん。なら少しでいいから雫のこと知ってやってくれよ」
 言葉に詰まったマキと、彼女に見えないように俺に目配せするナオ。雫は何も言わない。その代わりに、宙で止まったフォークが雫を主張していた。
 皆が雫を怖がるのとは別の意味で、雫は皆を怖がってるんだ。誰だって自分が可愛いはずなのに、雫は皆の為に自分から遠ざかる。我が侭かも知れないけど、怖がるのならせめて雫を知ってからにして欲しい。
 俯いて黙るナオと、まだ少し不審――或いは不安な色を残すマキ。大丈夫だ、彼女達はあと一押しで雫に近づいてくれる。ナオは恐らく最初から雫を知ろうとしてくれてるし、マキはナオの言う通り人懐っこい。ナオが一つ自己主張してくれれば、この二人は何とかなる。
 そうすれば、俺は幸せになれる。だってそうだろ、雫の幸せは俺の幸せに直結してるんだから。
「八千代さんは、いつからこんな風だったの?」
 口を開いたのは、意外にもマキだった。答えにくい質問だろうに、雫は俯きながらも小さな声を響かせた。
 そしてその答えは余りにも、
「――生まれた頃から、です」
 憐れ過ぎた。信じ難い、というよりは有り得ないだろう。生まれた時から、雫の周りには不幸が溢れていて、だから避けられてたってのか。
 開いた口が塞がらない、というのはこういうのを言うのだろう。マキもナオも、そして俺も、表情一つ動かすことができなくなっていた。頬杖ついたマキは目を見開いて、背筋を伸ばしたナオはその背中が固まったように張っていて、そして俺は、乾いた笑いが止められなかった。
「生まれた頃って、嘘だろ?」
「ほんと、だよ。わたしだけ病院追い出されたって、お母さんに聞いた」
 病院内にたくさん並んだベビーベッドが、短期間で三つも空いてしまった。雫の隣が二人、事故に遭い、そしてそれが理由で雫が追い出されたらしい。
「幼稚園は年長まで、小学校は二年生まで、中学校なんて一年もたなかった。新しい友達ができるたびに何かあって、わたしはずっと一人きり」
「雫……」
 初めて聞いた、雫の過去。歳を経るごとに、雫の不幸は強まっていった。最初は軽い――例えば怪我が多かった程度だったのに、現在に至っては死すら有り得る。
 正直に言おう。話を聞いて、俺は雫に対する恐怖を強めた。否定するのは簡単だけど、それはある意味では絶対的なものだといえた。死を是といえるほど俺は人生を諦めてないし、何より父さんに心配をかけたくはなかった。雫は、確かに怖いよ。
 最後に雫は俯いて、フォークを置いた。
「だから、わたしが怖いの、当たり前です。皆の気持ちは、痛いほどわかります」
「だったらどうして、伊藤君に近づくの?」
「マキ!」
「黙ってて、ナオ。いいじゃん、いい機会だよ」
 雫の話を聞くのは、最初で最後だ。マキはそう言ってるんだと思う。
 そして雫の話は実に単純なものだった。以前言っていたことをそのまま、しかし悲壮な覚悟をもって声にしただけなのだ。余りに切実な意思は願いでもあって、まるで雫の意識を離れたかのように空気を揺らした。
 雫も怖かったんだ。一人でいること、誰も理解してくれないこと、何より自分が誰かを傷つけることが。
「でも仕方ないじゃないですか。わたしだって好きで不幸を呼んでるわけじゃないし、皆を避けてるわけじゃないんです。わたし何も悪いことしてないのに、皆がわたしを悪者にするんですよ。想像できますか? 皆がわたしを見る目が、どんなものか」
 確かに空恐ろしいものだった。クラスメイトが雫を見る時の目は、人を見るというよりは、むしろ猛毒のさそりでも恐れているかのようなものだ。
「想像できますか? 一人で俯きながら、何もできずに周りで起こる不幸を見てることしかできないの」
 雫の意志とは無関係に、厄災は訪れる。雫に近づけば確率が格段に上がるだけで、本来は少しの関係を持つだけでそれはやってくるものだ。
 下唇を噛んだ雫の表情は、悔しいわけでも悲しいわけでもない、ただ純粋に恐怖を示していた。ナオやマキの顔が見れずに、雫は代わりに二人の注文したピザに視線を移し、テーブルの下に拳を隠した。
 日の光がコップから照り返り、雫と俺の間で踊っている。じわりと浮かぶ汗が周囲の湿気と混じり、沈黙という空気を身体に貼り付けた。べたべたと、鬱陶しい。
「……八千代さん、泣かないで」
 嗚咽すら忘れた雫の目の前に、隣に座るナオから差し出された手。可愛いピンクの水玉模様のハンカチが、落ちた涙を吸い込んだ。
 ナオは大人しい人柄から、誰かについていることが多い。大抵の場合それはマキだから、今日だって雫に会った時は驚いただろう。或いは近づくチャンスを得て「頑張ろう」とか思ってくれたのかも知れないけど、マキがいる限りそれはないと思ってた。
 ナオも、強かった。マキとも、そして雫とも違う強さだけど、しっかり芯――自分とも言えるものを持ってるんだ。
「ひっ、う……わたし、疫病神で……」
 否定はしないでおいた。マキやナオにそれを聞かせる為でもあったし、或いは俺も心から否定することができなかった。
 嗚咽を零しながらハンカチを受け取った雫は、そのまま鼻をかんだ。意外な行動と派手な音で、さすがに俺もマキも、そしてナオも引き攣った笑いが隠せなかったけど、雫の涙が止まるならそれもいいと思えた。びろーんと伸びた鼻水を見て、雫は耳まで真っ赤だ。
「ひぅ……ごめんなさい……洗って返します」
「いいよ、ほら、返して」
「でも」
「いいの。八千代さん、これ洗うの大変なんだよ」
「……そうなんですか?」
 ナオの説明はよくわからなかったけど、どうやら雫は納得したらしい。専用の洗剤が必要とかで、雫の家にはそれがない。
 涙はまだ少し頬に残って、消沈する雫の顔は酷いものだ。でも、雫らしい顔だと思う。
「あの……わたし、ごめんなさい」
「何が? 八千代さん、悪いことしてないじゃない」
「ほんとは、泣いちゃ駄目なのに。怖いの、わたしじゃなくて皆なのに」
「馬鹿だなあ」
「マキ、さん?」
 ようやく口を開いたマキは、今まで見た彼女の笑顔の中で、一番優しかった。それは少し挑戦的なものだけど、ナオと同じようにちゃんと雫を見ていた。
「こんな泣き虫、怖いわけないじゃん」
「そうだよ。怯えて泣くような女の子、怖がる人いないよ」
 笑う二人に、雫は一度だけ嗚咽した。次にまた、笑う為だ。
「そうですね。わたし泣き虫だから、怖くないですよ」
 朝からそうだったけど、この日の湿度はとても高かった。だから涙も、少し汚い鼻水も、雫の顔からなかなか離れようとしなかった。ハンカチで拭っても、なかなか取れそうにない。
 この日の湿度は九十パーセントを超えたそうだ。二日以上続いた真夏日が、警報を鳴らし続けていたはずなのに、俺達は一人たりとも気付くことはできなかった。いや、気付ける方が異常だとは思うんだけど。
 集団食中毒。被害者は、町内にあるファミレスの客のうち、昼時のものだった。






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