2話
めざめて中の人
勉強で困ったことはないし、体育だってそつなくこなしてきた。編入試験の結果を校内の実力テストに照らし合わせると、意外と上位に位置しているらしい。だからといってどうというわけでもないけど、転校二日目にして頼られることになったのだ。
そんな中で飛びぬけていたのが、この男。
「なあ、一次関数ってなんだっけ?」
これで高校二年生だ。酷い、なんてレベルじゃないぞ。
名前は黒田英樹。この逢坂高校には、スポーツの推薦枠で入学したらしい。入学試験は面接と簡単なマーク試験だけ。要するに、運がよかったと。
多少鬱陶しいにしろ、頼られて悪い気はしない。俺はそんな黒田に、毎度懇切丁寧に、ノートとテキストまで使って解説してやった。頼られたんだから、後で頼っても黒田は何も言えないだろうなんて、これも一つの、汚い処世術だ。
このクラスのことでいえば、後一つだけ気付いた。
四条さんの周りには常に人が溢れていて、逆に雫さんの周りは常に人の一人もいなかった。笑い声響く廊下側と、俯く彼女の悲しみだけが鎮座する窓側。今は俺がいるから、ここに人が集まってるだけなんだろう。
苛め、だろうか。そんなの被害者側の主観でしかないからどうとも言えないけど、これはそんな感じじゃなかった。「ただ避けてる」状態だ。理由は誰にも訊かない。雫さん以外に訊けば彼我の気を悪くするだろうし、雫さんに訊けば彼女を傷つけるだけだ。ただ観察だけしてれば、いつか何かがわかるはず。
楽観ではあるけど、それ以外に道なんてなかった。ゲームや漫画とは違うんだ、他人の領域に土足で踏み込む真似はしちゃいけない。弱気や臆病でもない、常識、マナーだ。
「なあ黒田」
「どうした相棒」
いつの間にか相棒扱いされてる。
「お前、好きなやついるか?」
「おお、そういう話は大好物だ。ちなみにおすすめは――」
「それは訊かんでもわかる」
黒田の視線を追えば、案の定。その先に大きなリボン、じゃなくて、四条さん。黒田――転校初日に耳打ちしてくれたこいつ、が言うことが正しいなら、四条さん以上の女の子はクラスにいない。
「そうじゃなくて、お前の好きなやつを訊いてるんだよ」
「ああ? あー……特にいないかな」
「他人のことばっかりかよ。このクラス、恋人持ちはどれくらい?」
「三十人中、十二人」
半分足らず、か。妥当といえば妥当だけど、この美形が多いクラスだと少ないという印象も受ける。何より大事なのが、
「しかしトップはフリーだ。いや、トップだからこそフリーなのか」
「皆が好き、なんだろうな」
「いい子だよな、美鈴ちゃん。お前、どんな罪を犯したわけ?」
罪も罰もない。だって彼女は俺のことが、生理的に受け付けないだけなんだから。生理現象に因果も何もあったもんじゃない、いうなら「嫌いだから嫌い」なだけ。理不尽ではあるが、欲望に忠実な部分だけはとても生き物らしい。
そして恐らく、雫ちゃんもだ。或いは、だからこそクラスで浮いてるのかも知れない。「この子が嫌いだから、この子は悪い子だ」なんて、子供染みた発想ではあると思うけど、それくらいしか思い当たらない。だって、容姿では四条さんに負けてないし、それに大人しくて取っ付きやすい。嫌われる要素がない。
ああわからない。このクラスは、少し異常だ。
「ま、なんにしろだ。四条さんを狙うのはやめとけよ」
「狙わない、つか狙えないだろ。俺だぞ?」
「ああ……そうだな。お気の毒に」
だとしたら俺も、雫さんと同じように……?
「後はそうだな、お前のお隣さんも」
「どうしてだよ?」
同じように? いや、有り得ないと思った。今日だって、俺は既に数人に囲まれてた。他に理由があるとすれば、考えられるのは……本当に悪人だから。トイレだろうか、空席になっている雫さんの席を一瞥して、黒田は露骨に黒いため息を零した。一言「もったいないが」と始めて、続ける。
「あいつといると、不幸になるんだ」
「環さん?」
鞄に数学のテキストを詰めていると、頭上から声がかかった。座ったまま視線を上げると、声に倣ったような不機嫌な目が俺を捉えていた。
何。その一言だけを返事にすると、彼女は思ったように眉を顰める。完璧な人間だからって、相手にまで完璧を求めないでくれ。まして嫌いな相手なんだから、それなりに気を遣って接してくれると嬉しい。
腕を組んで鼻で笑い、四条さんは薄紅を開いた。
「どうしてそこまで人を小馬鹿にできるのかしら?」
「してないし。何か用なら、早くしてくれないかな」
「……どういう教育を受けてるんだか」
大丈夫、耐えられる。父さんを馬鹿にしたら、きっと爆発しちゃうんだろうけど。
「まあいいわ。先生からあなたのことを頼まれたの。学校と部活の案内ね」
「ああ、そう。じゃ、よろしく」
「素直なこと。いいわ、ついてきて」
俺が帰り支度を済ませるのを待たず、四条さんは教室から出て行ってしまった。仕方ない。ため息一つ、鞄を置いたまま彼女を追う。後ろからついてきた視線はきっと雫さんのものだろうけど、気付かないふりをしておくことにした。もし彼女の抱く感情が嫉妬なら、直接話すのはタブーだ。自惚れかも知れないけど、多分彼女に一番近い人間というのは、転校して間もない俺なのだから。
四条さんは教室から出て十歩程度、三階へ続く階段の下で数人の女子と談笑していた。声をかけるわけにもいかず手持ち無沙汰になった俺は、教室の壁にもたれかかって目を閉じた。
「四条さん、転校生のこと嫌いなの?」
本人の前でそういう話をしないでくれ。数メートル先にいるのに気付かないのか?
「嫌いじゃありませんわ。受け付けませんの」
「それって嫌いなんじゃないかな……彼、結構綺麗な顔してるよ?」
「顔の良し悪しじゃないでしょう。言うなら、S極とN極のようなものですわ」
はは、上手いこと言うじゃないか。そうなんだ、四条さんは俺の嫌う何か――磁場のようなものを展開していて、だから俺は彼女に近づくことができないんだ。馬が合わないなんてレベルじゃない。
リノリウムの床が、重苦しい音を奏でた。
「でも、八千代さんとは違うんだよね?」
「似てはいますけど。少なくとも彼女のようなものは感じません」
「八千代さん、ほんとおかしいもんね」
おかしいのはどっちだ。不幸になるなんて、どうせ自分の不運を人のせいにしてるだけだろ。怖いのは雫さんより、お前らの敵意だろうが。
思う。角を立てない生き方というのは、難しいものだ。
「あなた方は、環さんと仲良くしてあげてくださいな。私は、あの方とは……」
「うん、いいよ。私は最初からそのつもりだしー」
「では私、転校生のお世話がありますので。行きましょう?」
視線だけで俺を向いて、四条さんはたおやかに笑んだ。
「い、いたの? 四条さん、気付いたなら言ってよー」
気付いたなら言ってくれ、真にその通りだ。聞き耳立ててたことに少しだけの罪悪感を抱いて、それ以上の不快感を隠しながら、俺は笑って手を振った。女の子達は俺に倣った後すぐにその場を離れ、四条さんと俺だけが残された。
「誤解しないでくださいな。皆さんいい子達ですのよ?」
「そうなんだろうな。俺もそう思うよ」
「意外に狸ですのね。表情を作るのがお上手だわ」
「処世術だよ。少なくとも四条さん以外の人とは、争いたくないから」
目を見張って、四条さんは嘲るように笑った。
「私だって争いは嫌いです。ただ……」
歪んだ笑みなのに、そのはずなのに、その顔は品性に溢れていた。まるで正しいことを言っているかのような、俺の方が間違ってるんじゃないかって思わせるような、優しい笑顔だ。
「ただ、醜いものというのは、余り見ていたいものでもないでしょう?」
言い返すことは叶わず、その代わりに彼女から憐憫の眼差しが返ってきた。侮蔑だけでなく憐れみまでくれるなんて、随分サービス精神旺盛だな。そんなサービスはいらないから、友達にくれてやる愛想の十分の一でいい、俺にもくれよ。
担任も厄介な人に案内を任せてくれた。ため息一つ、四条さんを促して校内を回ることにした。
文化系の部活から回るということで、最初に入ったのは特別教室棟。二年生が入っている教室棟から渡り廊下で繋がっていて、理科室や音楽室などの特別教室がここに全て詰まっている。文化系の部活のほとんどがここで活動しているらしい。四条さんは南を向いて、窓の外を眺めた。
「私、ここで待ってます。全て見学し終わったら、声をかけてくださいな」
「説明とか、してくれないのか?」
「必要、ありまして?」
あるけど、
「ない、かな」
「……気も弱いのね」
「仕方ない。美人には及び腰になるもんだ」
「受け取っておきます」
最後に一度だけ俺を振り返って笑い、四条さんは今日も強かった陽射しに目を細めた。彼女が太陽なら、雫さんは月、だろうか。
そうだ。雫さんはきっと、他者の光なしには輝けない、不器用な星なんだろう。そうして一人、笑ってみた。ロマンチストでもないくせ気取った比喩に、少しだけ寒気がしたんだ。寒気がしたんだ、もしかしたら俺が光になれるかも知れないなんて、変な期待をしてしまったから。
ため息が虚空に消えないうちに、四条さんが視界から消えてすぐの教室に入った。美術室ってプレートが掛かってたから、美術部以外には有り得ない。男女比の程は知らないけど、少なくとも廊下から逃げる理由付けにはなる。
「どちら様?」
声をかけてきたのは、エプロンをした壮年の女性。皺が多く見受けられるけど、それが余計に温和な人格に見せている気がした。
「転校生の、伊藤環です。部活の見学に」
「ああ、あらあら。皆さん、大変」
と言う割には嬉しそうに、顧問らしきその女性は室内の生徒達――全て女生徒、に返答を求めた。もちろん女の子達はそんな先生の言葉には耳も貸さず、俺のことを窺いながら、少しだけはしゃいだ様子だ。男子部員がいない部活というのは表現の幅を狭めると聞いたことがあるから、多分そういうことなんだろう。
少しだけ戸惑って立ち竦んでいたら、先生が肩を持って壇上に上げてくれた。注目を浴びることに変わりないけど、形式的な分居心地はいい。
「じゃ、自己紹介を」
「あの、俺まだここに入部するわけじゃ……」
「いいじゃん、やっちゃえー」なんて、女の子の声を皮切りに、そうだそうだの嵐。
仕方ない、腹を括れ。大きく深呼吸して、微笑んでみた。
「二年三組に昨日転校してきた、伊藤環です。まだこの学校に不慣れなので、色々知っていけたらと思います」
軽い自己紹介だけど、クラスでしたよりずっと愛想を振りまいたつもりだ。自分のクラスはこれからずっと過ごすところだけど、ここはそうじゃない。多少目立ってもいいし、逆にそれが心地良くもあるくらいだ。
評判は上々。拍手が沸き、皆が笑顔になってくれた。
「いい子ね。今は自主制作に取り組んでるから、好きな子のところに行くといいわ。見学が終わったら、声をかけて」
「すいません、ありがとうございます」
返答の代わりに笑顔をもらってから、俺は教室の隅に移動した。皆の視線が集まってるけど、その種類は多様だ。好奇、興味、期待、嫌悪、女の子ばかりの場所に入る異分子なんだから、それくらいはあって当たり前だと思う。戸惑いや気後れする部分もあるけど、せっかくなら皆の話は聞いていこう。
目をつけた子一人ひとりに、この部活のことを聞いた。大体の子の意見は一致していて、少し賑やか過ぎる嫌いがあるが、優しい顧問の下で楽しくやっているというのがほとんどだった。ただ、絵や彫刻、その他美術を本気でやっている子が少なく、だから作品展などに出たことがないそうだ。そしてここでも皆の意見は一致していて、それは諦めの言葉。
――「仕方ないよ」
しかしそうでない子もいる。でも自分を主張することもできず、結局周りに溶け込むような雰囲気になってしまうそうだ。別に何とも思わない。大勢の意見が空気を作り、少数派はそれに飲み込まれてしまうのが、部活、或いは社会というものだ。指導者の立場である顧問の先生は優しくもあり、そして甘かった。
男である俺の入部は、空気を変えるいいきっかけになるかも知れない。俺を望んでいるのは意外にも、本気の連中だ。
金城早紀。バランスの整った顔つきをした、華奢な女の子。
「伊藤君、待ってるからね」
そう言ってくれた。
これだけ居心地のいい場所なら、候補に入れてもいいかも知れない。
結局美術部以降に目ぼしい部活は見つけられず、四条さんの待つ渡り廊下にまで戻ってくることになった。
彼女は、別れた時から一歩も動いた様子がなく、今もずっと窓の外に向けて目を細めている。正直なところ、立ち眩みがするくらいに美しい構図だった。どんな高名な画家だって、この絵をキャンバスに留めることなんてできないはずだ。
でも、胸に湧くこの違和感は、やはり拭えなかった。しばらく見惚れた後、俺は彼女の肩を叩いた。
「触らないでっ!」
返ってきたのは、必死の形相と悲鳴にも似た拒絶の言葉、そして俺の腕を弾く彼女の腕だった。肩で息をする四条さんの顔は、嫌悪と戸惑いに満ちている。ああそうか、俺っていう存在は、無意識の階層にまで踏み込むほど深く、そして痛烈に彼女を蝕んでいるのか。
見開いた目で荒い息を見送り、四条さんは少しだけ落ち着いたようだ。
「……すいません、取り乱しましたわ。次は、体育館に――」
「いや、もういいよ」
「――助かります」
初めて感謝なんてされたけど、それは結局俺が原因だ。肩を竦めて手をひらひらと振り、俺は渡り廊下を渡った。視線が追ってきたけど、雫さんのそれと同じように、なかったことにした。きっと、彼女だって戸惑っているはずだ。
せめて彼女の責務は、果たしたことにしておこう。体育会系の部活を行っていそうなのは、体育館か運動場か――
もうすぐ夕日が沈む。茜色に染まった視界が、微かに藍色を散らしたような不安定さを醸していた。下校時間は少し前に過ぎ、今は通学路の途中、橋の欄干に腕を乗せて緩やかに流れる濁水を眺めていた。
雫さんの視線と、四条さんの視線、そしてその意味。いくらなんでも、「綺麗な女の子二人に目をつけられてラッキー」なんて楽観視ができるはずもなかった。柄にもない想像をしてみて、川に向けて笑い声を飛ばした。その少し土色に染まった水に俺の顔なんて映らないけど、きっと酷い顔をしてるんだろうと思う。
父さんの転勤について引っ越して、転校して、そして出会った二人の女の子。彼女達との間に感じる、少しだけの違和感。それを言葉に表すならきっと、共感や共鳴、つまりシンパシーというのが相応しい。同じものを抱えているという、しかしそれなのに違和感だ。
母さんは十二年前、俺が五歳の頃に交通事故で死んだ。楽しく温かいという以外に記憶は少ないが、貧しい家庭だった。それでも、楽しい旅行になるはずだったんだ。
五歳という年齢では、それを自覚するのは難しかったんだろう。結局俺は、今まで生きてきて、母さんの為に涙を流したことが、一度もないのだ。それが悲しい。それが悔しい。それからだろう、父さんを救いたいと思い始めたのは。父さんのことが好きだから、ずっと一緒に生きてきたから、どうしても割り切れない悲しみがあることを知ってる。時折それは表情になって現れ、俺に母さんの存在を教えてくれる。
四条さんには悲壮感がない。雫さんには少しだけ。
でもあの時、あの視線には、二人共にそれがあったんだ。それも、抱えきれないほどに大きなものだった。或いは俺も。だから俺の周りは、同類だらけなんだ。四条さんや雫さん、金城さんなんかも加えていいかも知れない。
沈みゆく太陽だというのに、それはまだ強さを誇ってる。夏らしい湿った風が、一度だけ頬を撫でて、そして気付いた。ああ、風に混じるこの香り。
「いたんだ、雫さん」
「はい、いました」
「いつから?」
「環くんが、泣き始めた頃からですね」
恥ずかしいことを、みっともない、なんて苦笑して、上体を起こして雫さんに向き直った。微かに笑んだ優しい顔が、小さく傾いて俺を向いていた。こんな顔ができるのに、こんな顔で、誰をどうやって不幸にするんだよ。苦い気持ちが溢れて少しだけ顔を顰めたけど、雫さんは気付かなかったようだった。
「今帰り?」
「はい。わたし、うちでは宿題とかする気になれないんですよ」
「ああ、わかる気がする。絶対漫画とか気が散るもんね」
今度はコロコロと可愛い笑い声を響かせて、彼女はそれを肯定した。この笑い声は、すごく、落ち着く。
「それに、家は静かすぎるから」
少しだけ翳った表情を隠すように、笑顔を変えた。苦い笑顔だ。
「だから、賑やかな方が嬉しいです」
「……そっか。でも雫さんの静かな家、興味あるな」
多分これで正解。もしかしたら彼女は一人でいることに慣れているのかも知れないけど、きっとそれでも消せないものはあるはずだ。例えばうちは母さんのことを消せない。けど母さんは悲しみ以上に温もりを与えてくれる。雫さんは、どうなの? だから多分、正解。
「招待しますよ。狭い家だけど……」
「はは……雫さんと距離が縮まるじゃん、物理的に」
「……はいっ。今からどきどきしちゃいますねっ」
ほら、雫さんだって触れ合いを求めてるんだ。人を不幸にするだなんて噂を流布されて、反対に不幸になってるのは雫さん本人じゃないか。どうして誰も、気付いてやれないんだ。
同情なんて高尚なものじゃない。ただの憐憫だ。でも、それのどこが悪い? そしてそれ以上に、俺は彼女に惹かれてるから好意が欲しいという、打算もある。
「帰りましょっか」
「そだね。女の子と下校なんて、かなり久しぶり」
「環くん、もてそうなのに」
伸びた影は、この町に鋭く差し込んでくる夕陽のおかげで、とても長いものになっている。道の先までずっと暗くて、俺達の頭は酷く不揃いで、そして遥か遠くにあった。
可愛い人だし、楽しい人だ。やっぱり俺は、この人に会えてよかったんだと思う。話も気も合うし、俺はたった二日でこの人に酷く惹かれていた。一緒にいたいという願望より、俺達は一緒にいられるという確信といった方が正しいんじゃないか。そのくらい、一緒にいることに対して感じるものが大きかった。
幸せじゃないか。少なくとも俺はこの人と一緒にいて、不幸になんてなっていない。
「着いちゃいましたね」
「俺の家の方が、近かったんだ」
俺の家の前、立ち止まった雫さんの顔は、やっぱり微笑んでいる。
「素敵なお家ですね。温かい感じがします」
「二人しかいないけど、そうだね」
「……すいません」
手を振って流して、そしてその手をそのまま雫さんの顔に遣った。少し大胆だったかなと思ったけど、雫さんは少し身体を竦めただけでそれを咎めることはしなかった。処女雪のような美しさと儚さ、押し込んでもすぐに戻ってくる弾力や強さも持ってる。綺麗な肌、綺麗な肉、そしてどこまでも白かった。
ずっと触っていたい、そう思うのが当たり前のような肌だ。
「素敵な手……温かくて、大きくて、まるで――」
わたしの為にあるみたい。
陶酔した顔で呟いた雫さんは、次には顔を赤くして一歩下がってしまった。恥ずかしいセリフに、こっちまで赤面してしまいそうだ。
「あ、あのわたし、その……」
「ありがと。雫さんの為にだったら、嬉しいと思う」
だったらこっちも、少しくらい恥ずかしくていいじゃないか。
「あ……はいっ」
恋人でもないけど、まだ親友というには浅い情だけど、この人は俺にとても近いものを持ってると思うんだ。だからきっと、このくらい許される。明日にはカップル誕生してるかも、なんて内心苦笑して、雫さんから出してきた手を握った。それがどんな握手だかは知らないけど、頬みたいに心地良い手だった。
「また明日っ」
財布のこと忘れてた、なんてことを思い出すのは、夜、床に就いてからだった。
翌日、担任から入部届けを受け取った。迷うこともなくその場で記入して、すぐに先生に渡してしまった。初心者ではあるけど、歓迎してくれるって言ってたし、部活くらいやってないと学校生活も霞んでしまうだろう。それに、女の子に囲まれて悪い気分になる男はそういない。雫さんのことは気にかかるけど、いつも一緒にいるわけにはいかないんだ。仕方ない。
授業中、それなのに雫さんの様子を何度も窺ってしまった。やましいことは何もないのに、どうしてか彼女に責められてる気がしたんだ。授業は難しくなかったけど、内容は頭に入ってこなかった。
俺を囲む人は減り、その代わり四条さんを囲む人が多くなった。そうして、四条さんの廊下側と雫さんの窓側で、教室の雰囲気は完全に二分化してしまった。どうやらこのクラスの人間達は、本格的に雫さんの近くに寄りたくはないらしい。無視だけというなら可愛げもあるが、こうまで避けられているのを見ると寒気すら覚えた。徹底したものだと思う。
俺は、わかっていたのに、雫さんを救えなかった。改めて見たこの露骨な処遇に、俺は耐えられそうになかった。大勢に呑まれていたい。そう、自分が可愛かったんだ。
四条さんと雫さんの間、教室の真ん中で、俺に寄ってきてくれる女の子や黒田なんかと話すのが、無難だった。
「男友達いないと、やっぱり寂しいの?」
「どうかな。黒田が濃いから、別にいいんじゃない?」
「なんか酷いこと言われてる気がするぞ」
「やだ、黒田君、事実に酷いもなにもないじゃん」
女の子のからかう声に、大袈裟に怒ってみせる黒田。騒ぎ賑やかになる鍵になるのは、大抵の場合黒田。バイタリティがあるというのは、立派な才能だ。
「ま、伊藤みたいなイケメンさんは女に囲まれてる方がらしいな」
「なんだよそれ。というか僻みにしか聞こえんぞ」
「わかるけどさー、イケメンって何時代の言葉よ?」
「伊藤君もマキも酷すぎ。黒田君、泣き入ってるよ?」
誰とでも打ち解けられるチャンスがあるというのは。転校生の特権だ。人となりを掴む、掴まれる前に自分を売り込んでしまえば、誰の仲間にもなれる。例外はあるが、敵対していなければ問題ないということが多い。もちろん俺の場合、その例外が敵対してるんだから厄介なところではあるけど。
でもま、彼女だって嫌ってるわけじゃない。受け付けないだけ。
「しかし伊藤のおかげで俺まで女子に囲まれてる。こんな幸せはないぞ」
「がっつく男は嫌われるぞ。さり気ない男らしさを見せてやるんだ」
「なに、マジか。ならどうして今まで俺に彼女がいない?」
周りの女子に意見を求めると、
「さり気なくもないし、男らしくもないからじゃない?」
「まあ、だろうね」
簡素な答えだ。非常にわかりやすくていいじゃないか。打ちひしがれる黒田の肩を叩き、一言かけてやった。諦めろ、とだけ。
「でも男子の一番と女子の一番がくっつかないの、残念だなー」
「女子ってそういうの好きだよな。別に誰が誰と好き合おうが構わんだろ」
「わかんないかな、男には。でも四条さん、もったいない」
「俺こそ、彼女はもったいないって。分相応が一番」
例えば、って見るのは、やっぱり窓から一つ離れた席のあの子だ。容姿、器量という面じゃ四条さんに釣り合うくらいだから高嶺の花なんだろうけど、彼女は気安い。きっと相応不相応に関わらず、俺には彼女がちょうどいいんだろう。
でも、やっぱり彼女は彼女だ。俺の視線に気付いたマキという女の子は、露骨に眉を顰めた。
「うそ、あの子狙ってるの? やめときなよ」
「どうして? 可愛い子じゃん」
「黒田君から聞いたんでしょ?」
不幸になるって? 人と仲良くしたくらいで不幸になるんだったら、この世界なんて成り立ってないはずだ。今彼女を避けてる俺が言っていい言葉なのかはわからないけど、俺だけは彼女の敵になるわけにいかない。
「教えてあげよっか?」
マキさんが語り出したのは、彼女に関わって「不幸」になった人達のこと。彼女の知る部分、つまり高校に入ってからのことだけで、五人を超えているという話だ。
一人目は事故。当時雫さんと仲の良かった女の子が、彼女と一緒に通学路を歩いていた時のことだ。信号は青、見通しもいい普通の十字路で、理由もわからないまま突っ込んできた車に轢かれ、二人共が重傷。しかし雫さんだけ先に退院してから、二人の交流はなくなっていったそうだ。
二人目は傷害事件。雫さんの友人の家で遊んでいたところ、強盗らしき男が無理矢理押し入り、雫さんを人質に取った。金目の物を出せとの要求に従って母のジュエルボックスを渡した友人の首に、犯人の包丁が“誤って”突き刺さったのだ。
三人目、病気。通院していた雫さんと友達になってから、元々弱かった身体の容態が急変。そのまま苦しみ続け、帰らぬ人に。
四人目、五人目は自殺。動機は不明、今も捜査は続いているらしい。
それらの事件は全て、雫さんに原因があるようには思えない。ただ――
「怖くない? これ、偶然に思える?」
言い返せない。
――ただ、偶然には思えなかった。いくらなんでも、高校に入って一年と少しでこれだけの事件に巻き込まれるなんて、有り得ない。出来過ぎ、にしても出来過ぎだ。
「だからね、あの子はやめときな」
「……ごめん、席に戻る」
痛々しい目で、俺の友達は席に戻る俺を見送った。その眼が雄弁に語ってた。「関わるつもりか」って。
ショックだった。もしかしたら本当に雫さんが不幸を運ぶ使者のように思えたから。そして何よりショックだったのが、それを肯定してしまう自分自身だ。だからとは言わないが、せめて俺が不幸になるまでは、彼女の傍にいようと思った。確かに怖いけど、それ以外に「自分を救う」方法が見つからなかった。このまま雫さんを避け続けていれば、きっと俺は自分に失望して、「不幸」になるだろう。それだけは確かだ。
だからせめて、彼女の前では笑っていようと思う。
「雫さん、何してるの?」
「あ……環くん。えと、えへ、お勉強です」
困ったように笑って、教科書を顔の前に持ってきた。両手で持った教科書で顔は半分隠れてるけど、見なくてもわかる。桜色の頬と可愛い仕草に、今までの陰鬱とした気分は晴れ、変わりに笑顔が浮かんできた。
そうだ、こうして話してれば悩むことなんてない。朝一番に雫さんに挨拶して、話をして、授業が終わったらすぐにまた雫さんに話しかけて、ずっとずっとだ。
「あの、わたしの顔、何かついてる?」
「いや、なんでもない。何の勉強してるの?」
もしかしたら役に立てるかも知れない。
「お勉強っていっても、教科書読んで自分なりに解釈するだけですから。現代文の」
「ああ、そうなんだ。文学少女なわけ?」
「そんな、違いますよぅ。教科書くらいしか、読まないし」
そもそも教科書すら読まない俺よりは、ずっとマシだ。現代文なんてセンスによるところが大きいんだから、勉強しても意味がないという考えが強い。俺の場合、そのセンスが模範解答と偶然一致してるだけで、雫さんみたいに色んな解釈を持つ人もいるんだな。確かに、それも立派なセンスだ。
好感が持てるじゃん。照れた顔も保護欲をそそる。
「環くんは、得意な科目はなに?」
「全体的にやるよ。平均より少し上くらいかな」
「すごいです。わたし、典型的な文系人間だから……」
笑顔が似合う、というより、よく笑った。一人で俯いてる時はあんなに悲しそうなのに、俺と少し話すだけで、こんなにも可憐な笑顔を咲かせてくれる。
「じゃあ」
「はい?」
首を傾げる雫さんが可愛くて、少しだけ笑い声のまま提案した。きっとこの気持ちも、受け取ってくれるはずだ。転校生っていう立場が幸いしたんだろう。遠ざけてた友達じゃないから、勇気を出して話してくれてるんだと思う。
「勉強、教えるよ」
返事なんて、聞くまでもなかった。
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