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  めざめて中の人 作者:
1話





めざめて中の人





「伊藤環です。よろしく」
 無難といえば無難だが、クラスで目立つには全く足りない自己紹介だ。でも、転校初日からそう目立とうは思えないし、願うのは、せめて穏やかな学生生活が送れるように、という一点のみある。
 なんて言ってるそばから、
「あ! あなた……!」
 見知らぬ少女に指差されるから堪ったものじゃない。廊下側一番後ろの席で、立ち上がって俺を睨む彼女は、それもかなりの美少女だっていうんだから始末が悪い。少し軋む木の床と彼女の視線が、少しだけ不快だった。
「……何か?」
「何かじゃないわ! 私の猫を!」
「猫……ああ、あいつか」
 先日川で溺れてたから助けてやった、あの猫だ。おかげでずぶ濡れになるわ誰かに襲われるわで、碌なことがなかった。気がついた時にはいなくなっていて上手く飼い主の元に帰れたか心配だったのだが、どうやらこの女の子がその飼い主らしい。大きなリボンのついた黒いロングヘアーの、気の強そうな吊り目がちのお嬢様だ。怜悧なのは輪郭、それでいて聡明な顔立ちをしている。
「この誘拐犯!」
「……先生、俺の席どこっすか?」
「あ? ああ、あの子の隣だ」
 指差す先に、誘拐犯呼ばわりのお嬢様とはベクトルの違う、大人しい感じの美少女。木製の机の上で手を組んで、困ったように笑っている。こっちは短めの茶髪だけど、校則で禁止されてたはずだ。可愛い子ばかりでいいクラスだけど、もう少し気性の穏やかな子だったらもっと嬉しかった。
「ちょっと、人を無視しないでくださる?」
「相手してる暇ない。人の話、聞きそうにないし」
「聞くわよ。誘拐犯にも言い分はあるでしょうしね」
 俺の言い分を聞く気があるのなら、状況判断能力くらいはあってくれると嬉しい。今クラスの誰がこの展開についていけてるか、程度はわかって欲しいんだけど。
そも、いくら鈍くてもわかる。この声は俺が気を失う前に聞いた声、つまり俺の顔面に思い切りとび蹴り入れてくれた女に違いない。
 正直、こいつとは関わりたくない。睨まれるいわれも、ない。
「川で溺れてた。だから、泳いで助けてやった」
「嘘。あの子、泳げるもの」
 だからそういうのは、話を聞くとは言わない。
「あんだけ増水した川、猫の力じゃ泳げないだろ」
「あの子ならやるわ。でもそうね、弱ったんでしょう。そこにあなたが」
「よろしく」
「あ、はいっ」
「無視しないで!」
 燦々と降り注ぐ光の束を存分に取り込む窓際から一席、一番後ろ。そんな光を粒ごとに吸い込んだような、なのに柔らかな茶髪の子は、どうにかこの状況についていけているらしい。近づいて話しかけてみれば、少しだけ挙動を遅らせながらもはっきりした答えが返ってきた。よかった、こっちの美少女は見た目通り大人しそうだ。少なくともあのお嬢様よりは好感が持てる。好感というより、この子――
「ま、そうですわね。貧相な者同士気が合うというものでしょう」
「貧相……」
「どこを見て言ってるの?」
「お前の胸だが」
 少なくとも今この場所で貧相なものといえば、それくらいしか思い浮かばなかった。大丈夫、貧乳の大好きなお兄さんだっているんだから。それが俺かと言われればノーだが、彼女が俺と付き合うつもりなんてこれっぽっちもないだろう。問題ない。
 憤慨した様子のお嬢様は、鼻息も荒く席についてしまった。呆れたいのは話を聞いてくれなかった俺の方だが、どうやらお嬢様の方がそうなってしまったようだ。
言葉の通じない相手に言葉が通じないと言われた場合、どんなリアクションをすればよかったんだっけ? なんてことを、隣の美少女に訊いてみるのだった。
「あ、え? えと、えへへ……」
 もちろんまともな答えなんて、返ってくるはずはなかったけど。
「名前、訊いていい?」
「はい、八千代雫です」
 やちよしずく、ね。あのお嬢様は貧相だと言ったが、少なくとも名前を聞く分にはそんな感じはしない。ほら、よく言うだろ、名は体を表す、って。
「伊藤環。お隣さん同士、よろしくお願いします」
「は、はいっ、大丈夫です」
 何が、とは言えなかった
「なんだか伊藤さん、わたしと気が合いそうな感じがします」
「俺もそんな気がする。貧相同士」
「ひぅ……でも、嬉しいかもです」
 半泣きになるくらい気にしてたのか、お嬢様の罵言。見た目も名前も貧相には見えないんだから、堂々としてればいいのに。でもこの大人しい人柄は、非常に可愛らしい。鬱陶しいほどでもなく、かといって主張しすぎるわけでもなく、理想的なまでに可愛いから、相当もてるんだろうな。このクラスで言えば、恐らくお嬢様と双璧を成しているんじゃないだろうか。
 そんな二人と会話できた俺だが、果たして喜んでいいのか。
 それから席に座ってすぐ、ちらちらと視線を感じた。八千代さんが、そのブラウンの瞳で俺を見つめていた。成程、その白い肌といい明るい茶髪といい、どうやら身体の色素が普通より薄くなっているらしい。可愛いという印象とは別に、それらはどちらかといえば綺麗という言葉が相応しい。薄めに入れたコーヒーは琥珀のようで、そしてそれよりずっと美しい輝きを放っていた。結局その視線の意味は、見つからなかったけど。
 担任が連絡事項を告げ終わり出て行くと、教室は喧騒に包まれることになった。もちろんその中心は、転校生である俺だ。
 どこから来たの。この学校はどうだ。好きなものは。かっこいいよね、彼女いるの。番号教えて。
 ああ、転校生の悲しい運命。友達を作るのに大事な儀式ではあるが、逆に「鬱陶しい」という致命的な側面を持っていたりもする。適当に返事をしておけば問題ない。少なくとも悪い印象は与えないはずだ。
「愛想の悪い方ですわね。環さん、だったかしら?」
 モーゼが力を行使したかのように、人波が二つに分かれた。嫌いなら黙っててくれればいいのに、また厄介な人が来た。腰に手を当てて、椅子に座る俺を威圧的に見下ろしてくる例のお嬢様。
「それでは友人ができなくてよ?」
「お前みたいに、人の中心に立とうとは思わないだけ」
「お前だなんて、いつの間に私達は親しくなったのかしら」
「名前知らないだけだろ? 嫌ならさっさと名乗……名乗ってください」
 処世術、っていっていいのか。こういう輩にはとりあえず角を立てない方がいい。
「四条美鈴。別にお見知りおきしなくても結構よ」
 隣に立つ男が、耳打ちで教えてくれた。
 こいつ、真正のお嬢様らしい。生まれた家はこの町の名家で、蝶よ花よの温室培養、苦労というものを知らずに生きてきたとか。しかし――
 気立てがよく誰にでも優しいだけでなく、その才媛と不断の努力、それを鼻に当てることのない温厚な人柄で人望も厚い、ってのは誰のことを指して言ってる? 少なくともこの四条さんという人ではない。んだろうと思いたかったが、現実はそう甘くはないらしい。
 つまりこの威圧的な態度は、俺限定で発動するらしい。俺限定、ではないか。俺と、八千代さん限定、というべきだ。
「そんなに憎いか、俺」
「生理的に受け付けませんわ。その……言うに難し、ですわね」
「理由もなく人を嫌うようなやつが、成功できるか?」
「いいの、別にあなたに嫌われても何とも思いませんから」
 ならどうして近寄って来るんだよ。
 どうせ、中心に立ちたいんだろうな。自己顕示欲が強い、ってこと。
「ともかく! 雫さんともども、くれぐれも私の前に立たないでくださいな」
「わたし、そんなつもりないです……」
「俺もそんなつもりないですー。というかな……」
 何よ、とでも言うように一瞥をくれる四条さんに気圧されたわけでもないが、一応口は濁しておいた。興味を失ったように去っていく四条さんが席についたのを皮切りに、教室内は再び喧騒に包まれた。
 言いたいことがある。
というかな――
 俺も、お前のことは生理的に受け付けないんだ。出会った時から、ずっとな。

 帰るべき家は、そう大きくもない中流家庭。果たして親子二人で家庭といっていいのかは疑問が残るが、なかなかに温かい家族だ。父さんは、すごく優しい。
 五十坪足らずの敷地に、申し訳程度の庭。その先に一枚板のドアがあり、開けた数メートル先にリビングが見える。仕事で忙しい父さんがこんな時間にいるはずもなく、リビングは不気味と言っていいほどに静まり返っていた。カーテンの隙間から差し込んだ夕陽が、テーブルの上の夕飯を照らしている。
「今日はハンバーグ、か。よくやってくれるなあ、あいつも」
 俺がこの町に来てからずっとだ。といっても数日間ではあるが、毎日のように俺に代わって夕飯を作りに来てくれる。学生かと思ってたが、今日も作ってるということはそうじゃなかったのだろうか。
 大学生、か? にしては幼い顔つきをしてる。
「ま、いいか」
 とりあえず、一眠りしよう。精神的に疲れたんだ、あのお嬢様と一日同じ教室で勉強したら。いるだけで疲れるんだから、俺がどの程度お嬢様を受け付けないかわかってもらえるだろう。綺麗な花には棘があるというが、この場合棘じゃなくて足枷ということになるかな。あの日川で摘み取ってしまった瞬間から、もう逃げられない運命にあったんだろう。
 未だに感じる重圧に耐えながら、俺は無意識の底へとダイブするのだった。

「学校はどうだった?」
「可愛い子が二人。そのうち一人とは、仲良くなれそうだったよ」
 もう一人に関しては、黙秘を貫きたいと思う。
 リビングの食卓に並べられたおかずは、世話焼きの隣人が作ってくれたものだ。材料だけ買っておけば、鍵を使って勝手に作ってくれる。もちろん簡単に鍵を渡すわけにはいかないから、信用に足る報奨を与えておいたのだ。要するに、ほぼ雇っている状態。
 父さんはその柔らかな肉塊を頬張って満足そうな笑顔を浮かべている。確かに、美味しいと思う。箸で押し付けると、中からじゅわぁっと肉汁が溢れ出てくるんだ。
「聖ちゃんの料理は絶品だね。母さんに勝るとも劣らない」
「母さんの料理、覚えてないんだけど」
「そうか……もう、十年以上前だからねえ」
 ああ、その顔。息子の前でそういう顔、しないでくれよ。
 感情を置き忘れたような、真っ白な表情だ。もう笑うことも、泣くことすらもできなくなってしまった。それほどまでに、深い悲しみなんだろう。
 でも、逆に嬉しかったりもする。それだけ父さんと母さんが愛し合ってたってことなんだ。息子として、それだけは喜んであげなくちゃいけないんだと思う。だってそうだろ、父さんが今でも母さんを愛していること、それだけが、母さんがここにいたという証に他ならないんだから。
 もしかしたら、あいつ――聖がここで料理をするたびに、父さんは今は亡き母さんを想うのかも知れない。でも、それはそれでいいんだ。
 新しい幸せを見つけるべきだ。そんなセリフを、漫画やドラマでよく耳にする。でもこうやってそういう立場に立たされて思うのは、故人の意思や愛をなかったことにするような愛は、作らないで欲しいってこと。或いは、ただの子供染みた我が侭だ。
 父さんは、ずっと母さんだけを愛して欲しい。母さんの料理一つ覚えてない息子が言うのは、間違っているだろうか。
「環、上手くやるんだぞ」
「わかってる。友達をたくさん作れ、だろ」
「友達は、いいぞ。聞いてくれる、話してくれる人っていうのは、大人になっても欲しいんだ。僕は、そう思う」
 含蓄のある言葉に聞こえる。母さんが死んだ時、悲しみの丈を聞いてくれた友達がいるらしい。そんな時に友達同士で不和があって、相談されたらしい。立ち直らざるを得なかった。だから父さんはここにいる。
 だから或いは俺がここにいるのも、父さんの友達のおかげなんだ。
 いくら生理的に受け付けなくても、俺はあのお嬢様――四条さんを拒めない。会うたびに、売り言葉買い言葉になるんだろうけど、きっと大丈夫だ。俺は俺に優しいから、多少汚くても処世術を使うことを知ってる。
 要は口に出さなければいい。後で誰か――父さんでも聖でも、例えば八千代さんでもいい、愚痴ってしまえばいいんだ。
「転校生は大変だろ。囲まれたりしなかったか?」
「すげえ囲まれた。あんなの都市伝説かと思ってたのに」
「友達は、選ぶんだぞ」
 親とは思えない発言に、思わず吹き出した。
「周りに溶け込んで、心の中で割り切るだけでいい。割り切って残った子だけ、友達になってもらいなさい」
「普通、誰とでも仲良くしなさい、だろ?」
「それで失敗した人を、たくさん知ってる」
 割り切ることができるだろうか。まだ“べき人”を選べるほど器用な眼を持ってるわけじゃない。だってそうだろ、四条さんのことだって、選ぼうとしてるんだから。友達になるべき人。相談するべき人、されるべき人。愛し合うべき人。運命付けられたようなそんな人達に、俺は出会うことができるだろうか。
「環はこれからだよ。学校は、そういうのを勉強するところだ」
「勉強は?」
「大事だよ。ああいうのは内容より、学ぶ姿勢を学ぶものだけどね」
「そっか……ま、大丈夫だよ。今までだって、なんとかなったし」
 苦笑したのは、多分父さんと俺、同時。
 食卓は以降、寂れたような沈黙に包まれていた。

 翌朝の空は、その先の宙が見えてきそうな濃い蒼穹。カーテンを開けて一番に目にしたそれが、少しだけ目に痛かった。
 小さなパイプベッドから足を下ろして、湿ったフローリングを感じた。雨の降った翌日のこの独特の湿気は、夏の暑さと相俟って多少の息苦しさを感じる。川に落ちた時のような冷たさがない分救われてはいるんだろうが、やはり高温多湿というのは人間にとって有害だ。
 夏のせいだろうか、少しだけ気分が高揚してる。湿っぽい気分というよりは、少しだけ鬱陶しいくらいの、纏わりつくような高揚感だ。転校初日から十四時間、もうあの重圧はなくなっている。
四条さんに圧し掛かられるか、八千代さんに癒されるか。まだ二者択一の域を出ないけど、これから増えていくんだろう。父さんの言うとおり、俺は、これからなんだ。
 三歩だけ進んで、辿り着いたクローゼット。取り出したのは一枚の開襟シャツと、黒くて糊の効いたズボン。これが昨日から通っている「逢坂高校」の制服、夏のものだ。一般的なものでゲームのように奇を衒うわけでもないが、しかしだからこそ真新しくも馴染みがいい。
 パジャマを脱ぎ捨ててそれを着た後、机の上を見てため息。
「携帯と、自転車の鍵と、鞄……それだけ」
 財布がない。
 昨日気付いたが、疲れていたから放っておいたのだ。致命的な欠陥ではあるが、今日にでも交番に届け出てみようと思う。別に大したものは入ってない。クレジットカードを持つには早いし、学生証なんてものはなくその代わりの生徒手帳だ。残りのカード類は、ここに来る際全て折って捨ててしまった。盗まれて困るのは、僅かばかり入っていた野口さん数人だ。
 携帯をポケットへしまい、自転車の鍵はパジャマを持つ手の反対で持って、部屋を後にする。名残惜しむような陽光が、廊下にまで続いていた。
 リビングには二人。父さんと、聖だ。報奨というのは他でもない、これのこと。朝の弱い聖に代わって、俺が朝飯を作るようになっていた。起きるだけ起きて隣の家に移動、後は待っていれば朝飯ができる。「なんて画期的なの」、聖は陶酔したように呟いていた。
 そんなにいいものでもないだろうに、聖は毎度のように笑顔で俺を迎えてくれる。
「お、おはよー……たまき、眠いから早くコーヒー」
「目、開けなよ」
「開かない、無理。学校行けないよー」
 だらしない、なんて呟きながらコーヒーメーカーに向かう俺は、甘いんだろうか。母親のような生活だけど、こういう賑やかさは嫌いじゃない。或いは手のかかる姉さんのような感覚だから、父さんも娘ができたように喜んでる。
「はい、コーヒー。熱いからしっかり冷ましてから飲みなよ」
「ありがとー」
 にへら、なんて擬音がつきそうな笑顔を浮かべて、聖は白いコーヒーカップを両手で受け取った。そういう仕草が、学生には見えないくらいに可愛い。その童顔もあってか、初めて会ってからこの人が大学生などと思えたことがない。
 実際、大学生かどうかも知らないんだけど。
「聖、何専攻してるの?」
「えあ? ああ、うん……神学。神様とかそういうの」
「また珍しいものを」
「楽しいよ」
 専攻してるってことは、多分大学生であってる。
 神様、か。存在してるんなら俺に母さんを返してくれ、なんてことを何度も思った。でも結局、心の持ちようだよな。神様なんてのは、自分の中にしか存在しない、ってくらいがちょうどいいだろうか。
「コーヒー、ありがと」
「うん。今日はスープだけど、コーンとコンソメとどっちがいい?」
「えー、うん、……コーンかな。おじ様は?」
「聖ちゃんと同じでいいよ」
 父さんの笑顔に、聖は頬を緩ませる。もしかしてこいつが新しい母さんになるんじゃないか、なんて思ってから、一人で吹き出してみた。
 冗談じゃない。
 結局俺が母性を求めてるかと問われたら、イエスとしか答えられないのだ。もう十年以上前からずっと男だけの生活を続けてきたわけだから、足りないものが何かなんて、今更問うまでもない。
 聖に母性はない。それだけ。
「環もさ、おじ様くらい大らかならもてそうなのに。というか、お姉さんが食べちゃう」
「冗談じゃない。だから必死に生きてるんだよ」
「可愛くないなあ。そういうところを直せって言ってんのよ」
「眠いなら寝てろ」
「うわー、これだよ。可愛いお隣さんには親切にしなくちゃー」
 朝からお世話してやってるのに、親切じゃないと仰るか。ギブアンドテイクではあるが、条件を提示したのは聖。立場はこっちの方が上のはずだ。本当はどっちが上だなんて言いたくはないが、こういう関係にある以上はっきりさせておく必要があるだろう。いつ不測の事態があるとも限らないんだから、ということ。
 誰も望んでいない出来事だって、起こり得るから存在してる。母さんの死だって、その一つだ。或いは聖の学ぶ神様が望んだのかも知れない。
 時間と共にコーンスープから湯気が立ち昇る。沸騰は、させてはいけない。
 トーストから始まってスープ、サラダ――かぼちゃとさつまいもをマヨネーズと味噌で和えたものと、それから基本のハムエッグ。聖にはもう一杯になるけど、最後にコーヒーなんかをつけてみたら、今日の朝食の完成だ。特に難しくもない、無難なメニューだろう。
 テーブルに並べると、聖が目を輝かせてくれた。こういう素直な反応をしてくれるから、簡単なメニューでも作り甲斐があるんだよな。
「いただきまーす」
「悪いね、環」
「いいよ。家族なんだから、聖みたいに遠慮なく食ってくれれば」
 余計な一言だったらしい。じろりと俺を一瞥して、聖はトーストを齧った。
 穏やかな時間だ。朝の弱い聖からはおざなりな返答しかないけど、それでも三人が三人共笑ってる。ここに見えるのは、確かな家族の形。失くしてしまったものがまだここにあるようなそんな錯覚が、俺の心を撫でるように吹き抜けていく。その小波は荒立つことなく、ゆっくりと俺の奥で弾けて戻る。
 そうやって巡り巡って、笑顔になるんだ。母性がなくても、聖は確かに女性だった。
 そんな家庭の華である女性に見送られる登校というのは、思ったよりずっといいものだった。途中、駅前に続く道まで一緒に歩くことになっている。逢坂高校は駅前に行かず、先日の河原を通っていくことになる。俺は自転車を引いて、聖はトートバッグを肩にかけて、それぞれぼうっとしながら他愛のない話を繰り返していた。
「環、友達はできた?」
「父さんにも言われたよ、それ。心配しなくても、ちゃんとやるって」
「そう? やっぱりおじ様はいいこと言うわね」
 転校先での息子の心配くらい、父親なら誰でもするだろう、なんてのは、恵まれた常識なんだろうか。他人である女子大生にされるのは、間違いなく贅沢なんだろうけどさ。
「それにあれよ、高校って黙ってても友達ができるからね」
「そうなの?」
「そうよ。私ってほら、大人しいタイプの女の子じゃない」
 疑念を思い切り込めて半目で見てやったら、腹を抓られた。どうやら俺の行動言動一つ一つ、聖の癇に障るらしい。
「自分からろくに話しかけれなくてさー……結局集まったのは、人のことにずかずか踏み込んでくる無粋な輩ばっかり」
「そしたらこうなったわけだ」
「どうしてこう、減らず口ばっかり叩くかな、この子は」
 減らず口もなにも、だって大人しい聖なんて想像できないじゃないか。だとしたらその交友関係が現在の人格を築いたわけで、聖は反面教師になってくれてるんだな。こうはなるな、と。
なんだかんだいって、別にいいんだ。明るくて社交的で、その上父さんの信用に足るくらい親切で(おせっかいともいえるけど)、その上ファッションの方にも気を遣える程度には擦れている。
 淡いピンクのキャミソールの上、くすんだ薄いオレンジ――というより山吹色というべきか、半袖の、短いカーディガンのようなものを羽織ってる。ワインレッドのタイトスカートとキャミソールの境界線から、細いベルトが垂れ下がる。首からは短めのカラーストーンと長いシルバーネックレス、ぽってりと膨らんだ大きなハート型だ。ダークブラウンのブーツが肌を飾ると、その上に少しでだけ見える脚が途端に締まって見えた。
 大学生、って感じ。童顔なのを意識してるのか、せめて歳相応に見られようとしているらしい。昨日の朝はパジャマで家に来てそのまま帰ってしまったからわからなかったけど、こいつが大学生に見えたのは、少なくとも俺の目からは初めてだ。
「なーに? じろじろ見て」
「いや、綺麗だなと」
「そんな、やだ。しょうじきものっ」
「……やっぱ子供っぽいかも」
 へへ、と弾むような可愛い笑い声を響かせて、聖は二歩だけ俺の前に躍り出た。アップにした髪がふわっと揺れる。赤いバレッタが、金色の髪によく映えた。
「そうそう、そうやって褒めてあげるといいよ。女の子って、褒め言葉に弱いから」
 振り返る聖の顔は、いつもの悪戯っぽさを少しだけ翳らせた、姉のようなものだった。
「ま、人によるけどね。でも大抵はそう、だから照れないで。向こうも照れるだろうけど、ごまかしちゃ駄目なんだから」
「肝に銘じときます」
「よろしい」
 目を細めてもう一度笑み、聖は再び俺に並んだ。
 俺の肩ほどしかないけど、俺よりずっと大きな人。大人になるって、どういうことなんだろう。そうやって悩むことが、俺くらいの歳になると多々ある。社会的、或いは精神的に自立することか。余裕を持つことか。子供を諭せるくらいの教養を持つことか。自分を殺せることか。どれだけ考えたって、答えなんて出てこない。
 そういうことを気にしなくなるのが、大人になるってことなんだろうか。少なくとも、父さんや聖は「私は子供だ」なんて悩むことはないだろう。
「大学、どう?」
「楽しいよ。何でも自分の責任だから、大変といえば大変だけど」
「ふーん……」
 ああ、そうか。責任だ。子供の行動には、そういう責任感が見えないんだ。これが多分、決定的な違い。
「環はね、素敵な子だよ」
「な、なんだよいきなり」
「お父さんのこと、好きでしょ?」
 変な質問を、とも思ったけど、これに関してはごまかすわけにも嘘をつくわけにもいかない。これだけは、絶対に譲れないんだ。
「好きだよ。多分誰よりも」
「そうね。環のそういうところ、私は好きだな」
 結局何が言いたいのかなんてわからなかったけど、聖はその細腕を俺の腕に絡めて、悪戯っぽく俺の顔を覗き込んだ。こういうのに慣れてない俺は、聖が相手だというのに下手に挙動を曇らせてしまって、聖を爆笑の渦に巻き込むのだった。聖は言う――可愛い人。
 手を振って別れた聖は、最後まで笑っていた。女の子を楽しませるスキルなんて持ってないけど、少なくともあいつは俺といても苦痛じゃないらしい。
いざとなったら、本当に大らかになって、あのお姉さんに食べられてしまおうか。なんて、橋のど真ん中で一人吹き出してみた。水かさはとっくに戻り、穏やかな流れを作っている。照り返る、刺し込むような光が瞳を抉り、また可笑しくなった。
「あの、伊藤さん? 何か楽しいこと、あったんですか?」
 見られてた。肩を落として視線を遣ると、転校先で初めてできたお友達。
「八千代さん」
「はい、八千代ですっ。……嬉しそうでしたね?」
「嬉しいというか、楽しくて」
「思い出し笑いですね?」
 肯定すると、爛漫な笑顔が返ってきた。いわく、わたしもよく思い出し笑い、するんですよー、だとか。確かに、そういうイメージはある。
「深くは聞きませんけど、言ったじゃないですか」
「はい?」
「雫って呼んでください」
 ああそうか、気が合いそうだからって理由で、かなり気安い仲になったんだ。女の子相手だから、どうも及び腰になる。
 でも、
「条件があったろ?」
「あ……ごめんなさい、環くん」
「うん。おはよ、雫さん」
「おはようございます」
 聖はこんな顔しない。照れ臭そうに笑って、雫さんは頭を掻いた。こういう初々しさも、女の子を飾るアクセサリーの一つなんだろうか。だとしたら女の子という命は、とてもあざとくできてるんだな。それも年齢ごとに成長したり変化したりと、忙しなくその魅力をスライドさせていくんだから、男としては堪ったものじゃない。
 男は単純。確かにその通りだ。
「さっきの女の人、環くんの彼女さんですか?」
「いや、違う違う。ただのお隣さんだよ」
 何を勘違いしてるんだ、なんて思ったけど確かに、「腕組んだりして……」そうそう、一方的ではあったけど。というかこの子は、
「雫さん、どこから見てたの?」
「わたしもこの町に住んでるんだから、通学路くらい同じになりますよ」
「後ろに、ずっといたの?」
「らぶらぶだったので、声かけれませんでした」
 少しだけ頬を染めていうもんだから、今度こそ本気で肩を落とした。確かに勘違いされてもおかしくない状況だけど、嬉しそうな雫さんを見てたら、なんとなくではあるけど、落胆してしまった。雫さんを意識してるわけじゃ、ないんだけど。
 一頻り笑んだ後、雫さんは俯いた。少しだけ、表情が翳ったと思う。
「それに、少し怖くて」
「怖い?」
聞き返しても、返事はなかった。もちろん学校での様子を見てれば想像はつくけど、まだ決まったわけじゃない。昨日学校にいて、ずっと思ってた。こんなにも可愛くていい子なのに、どうしてなんだろう、って。
深く立ち入るべきだろうか、なんてことで悩むことがある。友達が一人でもいれば誰でも思うだろう。それが雫さんにするべきことか、雫さんはそれを望んでいるか。結局嫌われるのが怖いだけなんだけど、不思議と思うことがある。雫さんならきっと、俺にならきっと、いつか話してくれるだろう。だから大丈夫。
「環くんは、皆に囲まれてましたね」
「転校生だからね。ある意味宿命だろ」
「皆、好奇とか興味だけなんですよ」
「雫、さん……?」
 陰の部分を見せてくれるということは、確かに尊いことだと思うけど、少し、怖い。
「好意なんて、毛の先ほども持ってないです」
「雫さん、どうしたの」
「……すいませんっ、わたし先に行きますっ」
 最後に一度だけ笑って、雫さんはそのまま駆けていってしまった。その笑顔は、言いにくいけど、ただ困ってたんだろう。わからないって言ってるみたいだった。






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