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  めざめて中の人 作者:
11話




めざめて中の人





「――え?」
 手を離し、俺の身体は自由を取り戻した。そのはずなのに、身体は凍りついたようにその場から動いてくれない
 俺が、雫から生まれた? そんな馬鹿な話があるか、俺の母親はいつだって一人だけだ。父さんを愛した、母さんだけだ。
「元々、それは疫病神の一つだったの。それが分化して、次第に一個の存在として神格化して、今や最も恐れられる神になった」
「何、言ってるんだよ」
「現代で一番恐ろしいものは何? 考えるまでもない、お金。それは人を蝕み時に拒絶して、多くを堕落させていくもの」
 金を持つ者持たぬ者、対極に位置しながら、総じてそれに縋るものだ。卑しく媚びへつらい、時に命すら絶ってしまうものだ。
 そしてそれを奪う神がいる。
「環に住む神様はね。そういうもの」
 よく知られた神だ。
「貧乏神。この国に最も多く分布、最も多くの犠牲者を出す神様だよ」
 何より先に笑いが込み上げてきた。神を信じていないという前提でそんなことを言われても、他に何も浮かんではこない。
 聖の顔は、それでも揺らがない。それは多分、確信と覚悟の顔だろう。
「それだけじゃないよ」
「もういいよ、聖。聞いても何もなんないよ」
「雫ちゃんの呼んだ災厄が、小さな神様を襲ったの。とある山の中、とある家族が、旅行中に崖から転落した」
 どうして蒸し返すんだよ。事故と聞けばまたああなるってわかってて、どうして――
 ――え? 山の中。旅行中の家族。崖から転落。そして車の炎上。
 ――母親の死。
「聖、お前」
「そこで、雫ちゃんと同い年の男の子の中にいた、小さな神様が眠りに就いた。長い長い眠り、ほんとは意識不明の重体なんだけどね」
「待て」
「それが最近になって起き出してきた。その影響が少しずつ現れてるみたい」
 父親の左遷に始まり、ファミレスの食中毒による損害、工事現場での事故による治療費や、その業者の損失。
そして、父親のリストラ。
「待てって」
「残酷な神様。何を奪っても満足なんかしないのに、こんなにも可愛い、あどけない顔してる」
 聖は、俺の描いた絵を何度か見たことがあったはずだ。それを見て何を思っただろう。
「どうして知覚できたのかはわからない。ただ、環の心は既にそれを受け入れているってことだけは、はっきりしてる」
「待てっつってんだろ!」
「抗えないよ、環。誰だってそう、自分から逃げることなんてできないんだから」
 じゃあ、全部俺のせいだっていうのかよ。
 父さんが今も苦しみ続けてるのは、雫のせいじゃなくて、全部全部、俺のせいだって? 救いたいと願う俺が、諸悪の根源だって言いたいのか?
「あの絵、すごくよく似てるでしょ」
 何も答えられなかった。
「神様に家族はいない。それなのに、どうしてだろうね」
 俺の心に眠り続けていたあの少女。絵に描き起こそうと思ったのは、どうしようもなくそれに惹かれたからだ。
 確かに疑問には思っていた。どうして、こんなに、雫に似ているのか。
「元来貧乏神は、だらしのない人に好かれるような、みすぼらしいお爺さんみたいな格好してるのね。それが現代になって、変化してきた。現代のそういう人が好くのは、多分そういう姿なんだろうね」
 好く、というよりは、共感を得られるような姿をしているのが本来だ、らしい。それが俺にとって、あの姿だったのだろう。
「元々環の中の貧乏神は、力が弱かったのね。それぞれ惹かれる姿になるという以前に、その時既に力の強かった疫病神に、その意識が引っ張られる形になった」
「だから、雫に?」
「そういうこと。雫ちゃんに訊けばはっきりするよ、その日、雫ちゃんがどこにいたか」
 俺の家は母さんが生きていた頃から、ずっと貧乏だった。それは軽度のものだったと思うけど、あの事故から不思議とお金が流れ出してきた記憶がある。
 それも、聖の説明なら適っていた。
 神様とか、そういうファンタジーの世界の住人を、どうして信じられるかはわからない。ただ、俺の中に何かしら見えていたから、聖はここにいるんだろう。最初からわかっていたから、俺の傍にいてくれた。
「そういえばそうだ。聖がいた時は、不思議と何も起きないんだ」
「うん。それも私の仕事だよ。人間と神様を仲介して、できるだけ影響が出ないように、ってね。まあ、あの時は力尽きちゃったけどさ」
 鉄骨が不良を襲ったあの日、聖の意識は既になかった。意識を失くしたということは、神の影響力が消えるということ。
「俺とか四条さん、それから早紀もそうだ」
「環と早紀ちゃんは、単純に相性がいいだけだよ。同族を汚すのは、神様の中でも禁忌らしいから。それとその四条さんって子は――」
「クラスメイト。多分、相性最悪の」
「じゃあそうだね。きっと」
 福神、だそうだ。その種類は多岐に渡り、才能や財産、地位なんかをそれぞれ格段に上げるような影響があるらしい。しかし種類は多々あれど、現実にそれを分けた神はなく、福神単体として扱われる為、四条さんはその全てを手に入れたんだろう。聖の見解だ。
 俄には信じがたいけど、一応それで全てが説明できることになる。
「まだ信じてないでしょ?」
「だってそうだろ、神なんて……」
「環が描いてるのは? あれ、現実に存在する人かな?」
「偶然頭に浮かんだんだ。キャラクターの一種だろ」
「ふーん……環はそんなので納得できるの?」
 わかってる。納得なんてできるわけない。
 あの子は、確かに俺の中に住んでいる。でも、それは雫のように、記憶や心の大部分を占めるような、大事な人のことだと思っていたんだ。
 何より、それを信じたら、俺は俺でいられなくなる。きっと、確実に。
「怖いよね。全部自分のせいだなんて」
「……」
「雫ちゃんと早紀ちゃんと環。私と四条さん。他にもこの町にはたくさんの神様がいる」
 今まで、そうやって何かに突出した人間を見たことはなかった。それなのに、この町に来てから、何人もの才媛を見ている。
「この南町はね、環。神様の出逢う坂。逢坂なんだよ」
 ありとあらゆる神が、ここでは見られるそうだ。誰もそれを自覚することはないが、色々な吉凶がこの町にはあるという。
 神は惹かれ合う、というわけじゃない。それなのにこの町に集まったのは、ここがそういう場所だからなんだろう。所謂霊地、というやつだろうか。
「信じるしかないくらい、揃ってると思うけどなあ」
「お前さ、慰めたいのか追い詰めたいのか、どっちだよ?」
「落ち着いて聞いて欲しかったから、慰めた。それじゃ駄目かな?」
「それが真実だとしたら、落ち着いて聞けるわけないじゃん」
 元凶は誰? 雫であり、俺でもある。聖は、そういうことを言っている。慰めた時の優しさに嘘はないんだろうけど、どうしてもその残酷さに一歩引いてしまった。
「でもね、環。私が『義務』で環に近づいたなんて思わないでね。環のこと、ほんとに好きなんだから」
「……疑ってないよ」
「……そっか」
 本当は気付いているんだろう。聖のこと、少しだけ疑ってしまったこと。
 でも、聖と一緒にいたい、というのは正直な気持ちだ。これからも近所の住人として、姉として、母として、生活を共にしていきたい。
 誰を恨むとか、そういうのじゃない。ただ、一緒にいて欲しかった。
 それは、対象を持たない曖昧な感情。それが誰に向けたものなのか、それが答えなのかも知れない。
「うん、よし。環」
「ん、何?」
「たくさん悩みな。答えなんか出さなくてもいいからさ、いつか『何か』見えるまで」
 解決にならずともいい。
 道が見えるまで、頑張ってみよう。聖の瞳を見詰めながら、小さく頷いた。

 真夜中の住宅街は、ひっそりと静まり返っている。遠くから聞こえる川の音は、水というよりは砂を転がしたような音に近いと思う。藍色の空に光る小さな点の隙間に、大きな黄色い光が煌いて、夜を薄く照らす。
 いつもより、少し幻想的な夜だ。音のない世界に響くのは、自身の小さな足音。潰れた革が叩くアスファルトは、ちょっとだけ情けない音を立てている。
 もう少しで雫の家だ。一言目に何を喋ろうか、もしかしたら喋ることすら許してくれないかも知れない。怖い。
 右ポケットに入れた大きな布は少しかさばるけど、持ってみると意外に心強いものだ。白いリボンは、多分幸せの力。
「結局頼っちゃったけど、これくらいならな」
 その声は、予想以上に大きく反響した。川の流れる音を掻き消した声が萎んでいくと、次には風が鳴る。
 静かな夜。自然がざわめく夜。草木は、まだ眠らない。
「雫、寝るの早いからなあ……」
 もう眠ってしまっているだろうか。あの可愛くてあどけない顔を、無防備にさらけ出しているだろうか。あれを知っているのは、夜の空気と俺だけでいい。気取りすぎかな、なんて苦笑すると、雫の寝顔が克明に浮かんだ。
 少し、戸惑っている。どうして? 多分、雫に会えば答えは出る。
 そよぐ風。流れる水。瞬く星。煌く月。そして、ざわめく心。
 ようやく認めた雫の家に、心臓が跳ねた。八千代と刻された表札を指でなぞって、小さく呟いた。
 八千代の隣に佇む黒い機械。インターフォンを押せば、雫の耳にベルが鳴る。
 出てきてくれるだろうか。
「まあ、これくらい覚悟しないと。贖罪、ってやつだから」
 かっこつけすぎかな。
 表札をなぞった指を、そのままインターフォンに添えた。いつもより少しだけ硬く感じたそのボタンは、でもいつも通りの感触を俺に伝えてくれた。家の中から微かに聞こえた、無機な電子音。乾いた音なのに、雫に俺を伝えてくれる。
 右ポケットには布の感触。左ポケットに紙の感触。今は、ただそれだけ。
 結局、返事はなかった。一分、二分……十分も経つ頃には、少しだけ諦念も浮かんできた。まだ諦めるわけにいかないとわかっていながら、「雫は来ない」と都合のいい解釈をしてしまう。
 捨てられれば楽だ。だってそう、諦めればそれで終わりなんだから。ただ、諦められるはずがない。雫は、俺と一緒にいる。いなくちゃいけないんだ。
形は色々ある。外聞を気にしてる場合じゃないこともわかってる。
「雫―っ!」
 住宅街の隅まで響き渡るようなその声は、果たして雫の耳には届いただろうか。他の誰に届いても、あいつに届かなくちゃ意味がないんだ。
 何を言うべきだろう。
 呼びかけてから何十秒も空いちゃったけど、結局一言だけを伝えて、背を向けた。
「ポスト、見とけよーっ!」
 夜道を照らすのは月明かりと星明り、小さな街灯。どれが一番大きいのか判然としない中を歩いていると、どこか不安になる。自分の足元には何があるんだろう、そんな感情だ。星屑。月の欠片。街灯に群がる羽虫の死骸かも知れない。
 でも、悪い気分じゃない。ポストにはたくさんの郵便物が溜まってて、きっと雫はあの日から一度も外へは出ていないのだろう。それでも……勝手で悪いけど、俺の言葉なら聞いてくれると思うんだ。
 俯く先に、街灯に照らされた自身の黒い影。重なる影は、それより一回り小さなものだ。
「走るとこけるぞ、雫」
「……遅いよ、環くん」
 雫に後ろから抱きつかれて、少しだけ、寒気がした。それはそう、四条さんに会った時のような、悪寒だ。
 でも、表に出すことはなかったと思う。俺が感じたとしたら、雫だって感じたはず。隠したところで意味はないだろうけど、この気持ちに嘘はないんだ。雫のことを求める心に、偽りはない。
「わたし、いつも怖かった」
 背中に感じる温もり。小さな嗚咽。震えた声が、それ以上に心を揺らした。
「人付き合いなんて、久しぶりだったし。環くんにくっつきすぎじゃないかな。環くん、迷惑じゃないかなって」
「くっつかれるのは、少なくとも嬉しかったぞ」
「うん。でもね……」
 怖かった。
 何が怖いかって、そんなの決まってる。だってそうだろ、信じた人に裏切られるのって、想像もできないくらいの痛みを伴うんだ。
 それを、俺は。
「ショックだったよ? わたし、枯れるくらい泣いたよ? わたしが運んだ不幸でわたしが不幸になったの、これで二回目」
「ごめんな」
 陳腐な言葉。心だけで吐き捨てるように呟いた。
「謝られると、困るな。だって、わたしも悪いんだもん」
「雫は、悪くないだろ?」
 雫の知らないところで、疫病神が暴れただけ。それが、雫の中だったというだけの話だ。そう割り切るのには、随分時間を使った。
 だって、それは俺自身を許すことになるんだ。家を貧乏にした、母さんを殺した、父さんを苦しめた俺を、全て肯定することになる。だから、雫を許すことが、できなかった。
 四条さんの話を聞いて、ようやく思った。その場で解いて渡してくれた白いリボンが心強くて、ようやく一歩を踏み出せた。
「環くんの背中、温かいね」
「雫も。少し、痩せた気がするけど」
「たくさん泣いたもん。身体の中から、いっぱい水が消えたんだよ」
「それ言われると痛いなあ」
 揺れた身体が、涙でないことを願った。苦笑した俺と同じであるように。
「顔、見たい」
「わたし、多分すごいぶさいくだよ」
「ぶさいくな雫なんていないから、大丈夫。だと思う」
「うう……な、泣かないでね?」
 そこは「笑わないで」じゃないか、普通?
 恋人の顔を見るのに許可を得るのも変な話だが、俺はようやく振り向くことを許されたようだ。今の俺が恋人を名乗っていいのか、まだわからないけどさ。
「目、真っ赤じゃんか」
 瞼に手を伸ばすと、小さなそれは震えて閉じた。なぞる指に迷いはなく、でもその柔らかさに陶酔したように揺れる。
 ああ、駄目だ。触れてると、怖いんだ。
「環くん、変わった」
「ああ、変わったな」
「四条さんみたい」
「ああ、多分そうだろ」
 ここで他の女を出すのは如何なものかと思うぞ、雫。
 でも、事実だ。俺もそう、雫との間に壁を感じていた。それは以前に四条さんとの間に感じていたそれで、やはりどこか受け入れ難いものだ。
 結局そう、雫も同じ。硬く閉じた瞼を撫でていると、その震えがどんな種類のものかがはっきりわかる。戸惑いや恐怖、そういった負の感情が多くを占める、感情的な揺れだ。陶酔した俺の指も、その限りではなかった。
「でもなんでだろうね……嫌いになれないんだ」
「うん。俺も」
 でも、好きだ。
 飾った言葉は何も要らない。ただそれだけの気持ちを伝えるのに、もう言葉は必要なかった。
 雫の顔から手を離し、その代わりに背中に腕を回した。抱き寄せた身体に、嫌悪はないように思える。耐えているのだとしても、それは「耐える意思」とそれに叶うだけの身体を持っているからだ。
 まだ、二人は繋がっていられた。
「雫」
「うん……」
「ごめんな」
 陳腐な言葉。だけどそれは、素直に言うのはとても難しいものだ。本当の謝意を告げるというのは、とても尊いことだ。
 俺のそれは、雫に通じただろうか。雫は何を答えることもなく、ただ俺の背中に腕を回した。これでそう、抱き合いながら話せる。もっと近くで、雫の耳に囁いてやれる。
「辛かったな」
「環くん……」
「自業自得だけどさ、俺もすげえ辛かった」
「わたしが許したら、楽になれるのかな?」
「いや、無理そうだ」それだけ言うと、二人は小さく笑った。
 だって、罰が与えられても罪は消えない。誰が納得しても、本人は納得しないものだ。
 雫がそうだったように、自分を責めるというのはとても悲しいことだ。
「絶対に許さないよ」
「ああ、いいよ」
「それまで、一緒にいてくれなきゃだめなんだから」
 最初からそのつもりだ。それは口には出さずに、抱きしめた腕に力を込めた。もっと、もっともっと近くに来て、一緒になりたい。
 壁は感じている。壁越しに何したって、本当の意味では一緒になれないのかもしれないけど、今更この気持ちが消せるはずもないじゃないか。この細く小さな身体に色々なものを背負って歩いているのに、どうしてそれを支えない?
 一緒に歩ける? 俺の背中にもたくさん荷物はあるけど、それを分け合いながら生きていけるかな?
「環くん、痛いよ……」
「嫌か?」
「……ううん、やじゃないよ。だってわたし達、えむだもんね」
「よく覚えてたな、そんなの」
「環くんと話したこと、全部覚えてるよ」
 二人は、ようやく身体を離した。
 スポットライトは小さな街灯。舞台は閑静な住宅街。観客は風と星と月。
 ちんけな演技。だけど、どうしてそれを間違いなんて言えるんだろう。
「好きでいられる?」
「いられるさ。雫の隣に、俺以外の誰が立てるんだよ」
「そう、だね。誰も立たせたくないや」
 羽虫が燃え落ちる音が、耳に届いた。
 身近にあった“死”を掻き消すように、俺達は唇を重ねた。酷く甘く、それなのに酸い。その柔らかさは全てを酔わせ、身体に心に、雫を刻み込んでくる。
 離したのは、多分同時。「どちらともなく」というのは、こういうことを言うんだろうな。
 これで演目は全て終わり。
「送るよ」
「帰らせるの?」
「送り狼って、絶滅しないんだってよ?」
 笑ってくれた。久しぶりに見た雫の笑顔が眩しくて、視界が歪んだ。
「ごめんね」
「許せないな」
「じゃあ、ずっと一緒にいるよ。許してくれるまで、ずっと」
 手を繋いで、街灯の下から二人で歩き出した。舞台を降りた演者は、自由を取り戻す。星々の煌きの元で、雫に優しく囁いた。
「パジャマに裸足。可愛いぞ」
「も、もうっ、環くんのばかっ」






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