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  めざめて中の人 作者:
10話




めざめて中の人





 展示会への提出期日まで残り二日となった今日になっても、雫の席は空のままだった。
 いるだけで疎まれ避けられていた雫がいない。クラスメイト達にとって喜ばしいことであるはずなのに、それを喜ぶような人間は一人もいなかった。
 恐らくだけど、マキやナオのおかげだろう。二人が雫を許したから、他のクラスメイトも、雫を疎むことの無意味さに気付き始めている、くらいものだろうか。
 確実に歩み始めている幸せへの階段。どうしてそれを阻んでいるのが、俺でなくちゃいけないんだろう。少しだけ失望しながら、一人頬杖をついて窓の外を眺めていた。青い空と白い太陽、風はなく、校庭ではたくさんの生徒達がサッカーに興じていて、大きな喧騒を醸している。
 いい天気、いい日和。晴れ晴れとした気分にはなれないけど、少なくとも暗鬱とするわけでもなかった。
 その代わり、授業を大人しく受ける気にもなれない。まるで子守唄のような古典担当教諭の声が、耳の中を右から左へ突き抜けていく。
 いつもいた、隣の女の子がいない。授業中、不謹慎にもたくさんのことを話した。授業が終わると、真っ先に俺を見た。いつもいつも、この教室の外に出ても、隣にいてくれた。
なのに、どうして。
 そんな時に、空を見た。俺の空が、雫の空が晴れてくれるようにと。
 ――あれが真実かどうか、信ずるに値するかどうか、決めるのは俺だ。
 だとすれば、俺は何を為すべきか。非現実的だし、何よりその偶像は過去に切り捨てたはずだった。だから、それが真実だとしても、素直に従う気にはなれなかった。
 でも、救われる。雫が幸せになれる。
 父さんは、何を望んでいるだろう。俺が雫を拒絶して、会って慰めてやることもできず、涙を見ることさえしてやれないでいる。誰が一番悲しいかなんてわからないけど、俺が一番愚かなこともわかってる。「あの時は頭に血が昇ってた」なんて下らない言い訳にしかならないし、何より独り善がりもいいとこだ。
 わかっていながら、何もできずにいる。父さんの病室に通い、少し青ざめた顔を見るたび、不安になる。不安が再燃すると、雫への疑念が再び心に燃え上がる。
 聖。なあ、どうしたらいい?
 だってさ、真実だったとしたら、余りにも救いがなさすぎるじゃないか。

 授業の終わりは、いつもより少し早く訪れた。十二時四十分程度だろうか、時計を持たない俺じゃあ確かめようがない。
 弁当を作ってくれた。朝の弱いはずの聖が、無理をしてまでそうしてくれた。
 世話をかける。利己的でない善意などあるわけもない、なんて言葉をどこかで耳にしたことがあったと思う。だとして、聖や雫が俺にしてくれることっていうのは、誰の為の善意だというんだ。
 利己的。そう、俺は利己的なんだ。結局、父さんを失うのが怖いという、自分の気持ちだけしか考えてないんじゃないか。
 わかってる。どうしたって、生き方なんか変えられないってこと。
 弁当の包みを開いてふたを外すと、彩の豊かな料理が目を楽しませた。和洋折衷、色々なメニューがいかにも弁当らしい。或いは、「聖らしい」とでも言うべきか。
「いただきます」
 マキやナオ、黒田がいないこと、少しだけ残念に思った。
 かといって、別にこの人に近づいて欲しいと思ったわけでもないというのに。敢えてその理由を考えるなら、「クラスの為」くらいのものだろうか。
 目の前で視界を塞ぐ女の子の影が机にかかる。大きな白いリボンが、その艶やかな黒髪に鮮やかで目に楽しい。
「環さん、少しよろしくて?」
「……うん、なに?」
 周囲を見渡した四条さんは、その視線が気になったらしい。
「少し、外に行きましょうか」
 気が引けたけど、無理して近づいてくれたんだ。邪険にするにも気が引ける。これも、利己的でない善意の一つなのかな?
 連れて行かれたのは、一度も行ったことのなかった屋上だ。昼休みに全面開放されているだけあって、そこにはたくさんの生徒が食事をしていた。
 白い陽光が目に痛い。喧騒もどこか遠くに聞こえ、それから逃げるように四条さんの背中を追いかける。クラスどころか学校中の人気者、四条さんじゃどうしたって人目を集めるけど、それでも追いかけてくるような無粋な輩はいなかった。
 隅の真白なベンチ、下には駐輪場が見える。点々と絵具を落としたような木々が、少しだけ無機な色の学校に彩を添えていた。
「少し、暑いかしら?」
「そうでもない。四条さんこそ、あんまり焼きたくないんじゃない? 女の子だし」
「ご心配なく、でも意外ですわ、貴方に気遣われるなんて」
 そりゃ、俺だって一端の男だ、女の子に気遣いくらいみせる。それに打算が含まれるかは、自分でもよくわからないけど。
 こうやってベンチにハンカチを敷いてあげるのも、最初で最後だろうけどさ。
「気が利くのね」
「四条さんこそ、慣れてるな」
 それはそう、慣れてるんだろう。
 名家とは聞いたけど、どんな類のものかは知らない。ただ、この歳になると社交界にも出て行くことになるだろうし、そこで俺なんかじゃ及びもつかないような多様な気遣いを受けているはずだ。
 親の七光りとは言えない彼女だから、それを慕う人間は多い。俺には、ちょっと信じられない事実ではあるけれど。
「お弁当、頂きましょうか」
「話は?」
「急かないで下さいな。そう長い話でもないわ」
 敬語が混じった、独特の喋り方をする。以前から思ってたけど、これがお嬢言葉ってやつだろうか。
 そんなことを思いながら、包み直しておいた弁当を再び開く。
「……あら、随分マメなのね」
 それを覗き込んだ四条さんの頭から、仄かに香る柑橘。四条さん相手に、とは思ったけど、少しだけ眩暈がした。
 言葉に窮した俺を、四条さんは怪訝そうに覗き込む。
「環さん?」
「あ、ああ……これ、お隣さんが作ってくれたんだ」
「親切な方もいるものね。それとも世話焼きなのかしら」
 聖の言葉が本当なら、その答えは「打算」だ。
近づきたいから近づいてきた? 肯定もできれば、否定だってできる。聖を信用してないわけじゃないけど、少なくとも全面的に信頼できるわけでもない。それを正直に話してくれただけ、信用に値するんだろうけどさ。
聖の言葉は真実だろう。だとしたらさ、雫、俺達どうなるのかな。
「いただきます」
 その声に呼ばれて、俺はようやく箸を手に取った。隣の弁当を覗くと、意外に質素なもので、数秒考えてようやく納得した。女の子が人前で大食いはできないだろう。特に、四条さんみたいな人間は。
「それ、誰が作ってるの?」
「お母様。に、教わって私が作ってるわ」
「へえ……」
 意外といえば意外だけど、彼女も努力家なんだよな。
 でも、それを食べてみたいとは思わなかった。やはり「四条さんが作ったものだから」という、理屈も何もあったものじゃない、妙な理由が先行したからだ。
「ねえ、環さん」
「ん?」
 不意の言葉は、几帳面に卵焼きを飲み込んだ後。箸を咥えたまま返事をすると、四条さんは言い辛そうな表情だけを俺に向けていた。
 らしくもない。不躾な言葉なら、あんたの口からは飽きるほど聞いてる。
「その、私にあんまり縁のない話だから考えたことなかったのだけど……」
「言いたいことがあるならはっきり言ってくれよ」
「ちょっとはこっちを慮ってくださいな! ――だからその、雫さんのこと」
「……ああ、答えられるなら、答えるよ」
 自分の弁当に視線を落としたのは、多分同時。でもその表情も感情も、恐らく正反対だっただろうと思う。
「彼女が初めてだわ。初めて、人を嫌いになった」
「そりゃ、幸せな人生だな」
 皮肉のつもりだったけど、彼女は笑っていた。
「ええ、とても幸せでしたわ。だからこそ、周りに不幸があるのは許せなかった。事件、事故、私の目の前では一切起きて欲しくない。我が侭かしら?」
「我が侭、ではないな。誰でも思う」
 幸せになりたい。幸せで在りたい。そうなれば、周りにそれを求めるのも当たり前の話だ。外環境から感染するような不幸だって、世の中には当然のように存在するんだから、周りに不幸があれば不安になるのも頷ける。
 ただ、四条さんに関してはそうとばかりも言えないらしい。これが本当の、利己的でない善意、なのだろう。
「私は皆さんを幸せにしたい。私だけ幸せなのは、不公平でなくて? そう思うのは、おかしなことかしら」
「その中に?」
「それは、少し違いますけど。私があの子を嫌い――受け付けないのは事実ですし」
 それにも理由がある。全ては聖の言葉通りで、不可思議なのにそれが根拠になっていて、まったく嫌になる。
「ですから、あの子にも進んで近づいた。怖くはなかった。だってそうでしょう? 私は、こんなにも幸せなんですもの」
「私の幸せを壊すことはできない、って?」
 もちろんと頷いて、四条さんは苦笑いを零した。
 今日は吉日だろうか、それとも厄日だろうか。この人のこんな表情を、俺は初めて見た。今までに見た、辛辣、憮然といった表情達とは全く違う、憂いの篭った表情だ。それは胸を締め付けられるような、それなのに優しげな笑顔にも見える。
「悩みが人を育てる、っていうのも、初めて体験しましたわ。嫌味に聞こえたらごめんなさい――私、今までに努力して手に入らなかったものがありませんの」
「そら立派なことで。まあ、でも、それもありだろうな」
 悩みはないにこしたことはない。雫を見てると、それがよくわかる。
 雫は俺を育ててくれただろうか。恋愛は弱さばかりを与えてくれる。その反面、どこかに芯を持った自分を認めることもできた。
 その芯は、どういうものだろう。強いだろうか、太いだろうか、簡単に折れたり、しないだろうか。それはそう、しかし全てにおいて単純なものだ。
「勉強すれば成績は上がった。練習すればスポーツができた。愛想を振りまけば、人気だって集まったわ。それなのに……」
「上手くいかないなあ。そりゃそうだ、相性が悪いんだ」
「それだけで納得できるもの? 私は、順風が好きなの」
あんたが逆境を好きだって言うなら、世の信仰は今頃崩れ去ってるところだ。
「それなのに、貴方はいとも簡単に雫さんの心に入り込んだ」
「だろうね。そりゃそうだ、相性がいいんだから」
「……真面目に、聞いてください」
「至って真面目だよ。全部、事実だから」
 不愉快だろう、四条さんはその大きな目を細めて俺を睨んだ。雫よりずっと怖いそれに、俺は噴出しそうになった。だって、こんな時にも雫と比べてしまっている自分が可笑しいから。
 相性はいいはずなんだ。だから、上手くいく。そんな単純なことが、どうしてできないのだろう。
「雫さん、私のこと、嫌ってるでしょう?」
「いやー……どうだろうね」
 二択を迫られているのに、どうしてもその質問は曖昧に聞こえる。どういうのが「好き」で、どういうのが「嫌い」なのか、俺達の間には明確な線引きが存在しない。
 俺のせいだった。それを雫に押し付けて拒み、俺は自己の保身に走った。自己嫌悪というモノを通り越して、呪えるものなら呪ってしまいたかった。どうしたって、俺は俺自身を壊すことなんてできないのに。
「もう、駄目……あの子見てると、自分に自信がなくなっていく。貴方もそう」
「四条さんって、かなり正直だよね」
「虚構で好かれて、嬉しいかしら?」
 わかんなきゃそれで幸せだとは思った。でも、諸々の理由はあれど、何より四条さんがそう思っていないんだから、言っただけ無駄だ。
「でもね、環さん。私は、やっぱり幸せが好きなの」
「……そう」
「貴方ならって、思ってますの」
 難しい問題だ。だって、俺は一度拒んでしまってる。
 覆す意思はある。ただ、覚悟がない。今更歩み寄って、俺が雫に何を言えるというんだ。それに、何より、雫に拒まれるのが怖いんだ。
「俺に何をしろって?」
「貴方が、じゃなくて」箸を膝に置いて、四条さんは俺を見据えた。「貴方に」
「俺に? 四条さんが?」
「ええ。私の幸せ、分けて差し上げます」
 今度の笑顔は、晴れやかだった。自分のやりたいことを見つけたから、だろう。
 羨望、或いは嫉妬という気持ちが、俺の口を塞いでいた。「幸せを分ける」なんて荒唐無稽な話ではあるけど、真面目に聞いてしまった。
「どうかしら?」
 俺のやりたいこと。
 とても難しいことだ。でも、とても単純なことだった。
覚悟ができないのならば、意思だけでそれをできないものだろうか。四条さんのように、やりたいことを見つけただけで笑えるんだ。意思さえあれば、なんて甘いことは言わないけど、自分にできることを探せばいい。それは「やりたいこと」という願望とは違うものだけど、何か必ず、俺にしかできないことがある。
今、聖を信じた。その上で、自分が背負うものを自覚した。それはそれは重い荷物だけど、下ろすことはできそうにない。
「環さん? 私、貴方のお返事が欲しいの。多分雫さんには、それが必要だと……」
「……ああ、そうか」
「へ? な、何か?」
 覗き込んできた四条さんの怪訝そうな顔を見詰めて、ようやく答えが出た。
 四条さんにできて俺にはできないことはたくさんあるだろうけど、その逆はきっと少ない。でも、誇れるものがある。
 俺の返事が欲しい。多分雫には、それが必要だ。
 不幸を呼ぶのなら、それを上塗りするくらいの幸せを築いていけばいい。雫の幸せを考えて、その答えに辿り着くことはこの先もあるかどうかはわからない。少なくともこれは答えなんかじゃんないだろうけど、「俺にしかできないこと」がある。
 だからそう、
「悪いけど、四条さんの助けはいらないよ」
「な、何故! 私が、せっかく!」
 声を荒げる四条さんに周りの視線が集まった。四条さんの意外な姿に、皆目を丸くしている。多分、そんなことも気にならない程度――それ以上の「覚悟」してきたんだろう。だからこそ、嫌い――受け入れ難い俺に話しかけてきた。
 俺は覚悟もできていない、半端者だ。でも、今の今まで忘れていた気持ちがあった。それは俺にしかできないことなんだ。雫――疫病神を救うことはさ。それで父さんが救われるかは、わからない。
 それでも、まだ頼れる人がいるから。なんて、らしい甘えた発想をしながら、青空だけを見上げて、穏やかな気持ちで口にした。
 それは多分、あの空のように晴れやかな笑顔だったと思う。
「福の神なんか、頼りにできるかよ」
 笑いながら、「今だけは」、なんて心の中で付け加えた。

「環はさ、神様って信じてる?」
 何気ない言葉だったろう、それでも何か惹かれるものがあって、俺は「信じない」とだけ答えた。神がいるなら――思ったところで、聖が言う。
「じゃあ、どうして宗教があると思う?」
「世界の始まりを考えて、その上で頼れるものを探した」
「そうだね、神様は元々哲学の世界の住人だもん」
 神話を創り出したのは、宗教学でも神学でもない、哲学だ。もっとも、万学に通じるといわれる哲学だから、それが宗教に繋がっても何ら不思議はないけど。
「じゃあ、信仰はどこにある?」
「決まってる」
 個人の心の内に。或いは、「そこにしかない」ともいえる。明確な形を持たないから、その強さも硬さも、個人の資質に問われてくるわけだ。信仰心が強い、というのはそういうことを言うんだろう。
「明確な形を持たないの? どうして?」
「どうしてって……聖は、人の気持ちに明確な形があるって思うのか?」
「人の気持ちと神様は、違うもん」
「同じだろ。神に形があるんなら、世の中もっと救われてる」
 母さんだって……父さんだってそうだ。
 幼い頃信じていた神は、世界を創り生き物を造り進化させ、そして全てを操作しながら理想の都を作っているのだと思っていた。唯一絶対で、それがいる限り人間は最終的に救われるのだ、と。
 でもどうだ。母さんは死に、父さんはそれに縛られいつまでも救われることがない。神なんかより、悲しみの方がよっぽど絶対的じゃないか。
 聖は、それでも俺を否定した。
「環はさ、一神教と多神教どっちが正しいと思う?」
 そうやって考えてみると、無意識に「一神教」を信じていたことに気付く。培ってきた常識で、この国では多神教が多数を占めると知っていながら、どうしてそうなったんだろう。
 そもそも、それに「正しい」などという概念は当て嵌まるのだろうか。聖の話が「神はいる」という前提で進むにしろ、そればかりは納得できそうになかった。言葉を飲み込んでしまうのは、神学を嗜む聖の言葉を、すぐには否定できずにいたからだ。
「人ってさ、なんでか知らないけど『神様』っていうと一つだけしか思い浮かべないの。どうしてだろうね?」
「そっちの方が想像しやすいからだろ? 想像できなきゃ、神なんていないも同じなんだから」
「ユダヤ、キリスト、イスラム。他にも色々あるけど、主な一神教だね」
 クセノファネスは、原初――アクメーを「一なる神」と位置づけた。神は一であると共に全体で、不動な一者であるという、汎神論的な立場をとっていたそうだ。多神教は人間であれば恥ずべきことを神々に帰したとして、ホメロスらを非難した。人間的な神を否定した。
 俺達が考える神とはそういうものだ。絶対で曖昧で、理性把握を持たない、人間にとって最大のものだ。
 聖が哲学にまで通じてるってのが、少し意外だったけど。
「でもね、誤解してる。人間は神様に創られた。だったら神様は誰に創られた? 環も知ってるでしょ、人間だよ。人間が創り出した神様を、どうして人間がその人間性を否定できるの?」
「なんか、神学を学んでるとは思えない発言だな」
「言ったでしょ。私は、『見える人』だもの」
「……それ、どういう意味だよ? 前も言ってたよな?」
 見えるから、俺達は面白いと言っていた。俺達はこれからだ、と。
「結論から言おうか。一神教と多神教、正しいのは多神教だよ」
「随分はっきりと言い切るんだな」
 聖はもう一度言った。「見えるから」と、迷いない口調でだ。
 ここで理解した。聖が見えると言うのは、「神」だ。それを理解すること自体、神を信じたことになるけど、そうとしか思えなかった。
 もちろんそれを信じられるわけがない。だってそうだろ、つい数分前まで神を否定してたんだから。
「神様は具体性を持ってる。でもまあ……抽象的ではあるかな」
「それ、完全に矛盾してる」
「意識は持つけど意思は持たない。形はあっても直接的な力を持たず、性質のみをこの世に顕現させる程度のもの、ってことね」
「なんかよくわかんないけど……どういう?」
 人の信仰はどこにある? その際、神はどこに住まう?
 それはそう、個人の心の内に。
 つまりは、そういうことだった。
「もちろん名前がつくほどの具体性は持たない。ゼウスとか天照とか、そういうことじゃない」
「というと?」
「うん、例えば西洋なら死神とかそういうのがポピュラーかな。こっちだと福神――とかね」
 それで納得できた。名前のない具体というのは、そういうものだ。
 それらが人の内に住まうと、その人の周りに影響が出てくる。聖の言う神は、そういう存在だ。
「意識としての身体しか持たない。だから、それを知覚することは本来不可能なのね」
「それが聖にはできる?」
「私にも住んでるの」
 時の氏神、と呼ばれる人がいる。
 都合のいい時に現れて仲介をしてくれる人のことを言うが、この場合の「時」が都合だ。つまり、産土神である氏神が現れることを表す。
 聖に住むのは、正にそれ、時の氏神だ。聖が物事の仲介に長け、そして他者に住まう神を見ることができるのは、そういう背景があったから。納得できそうで、しかし余りに荒唐無稽で説得力に欠けた。
 次の言葉を聞くまでは。
「他には死神――早紀ちゃんだね。雫ちゃんは言うまでもない、疫病神」
「ちょ、と、待てよ。じゃあ、全部、本当にあいつらの影響なのか――?」
「そうだよ? だって否定できる材料がないじゃない」
 早紀――死神の相談で死への階段が現れる。雫――疫病神の影響下でそれらを一度に駆け上る。自殺や事故死の被害者は、そういう理由で死んでいた。
 救いようがない。もしそれが真実なら、彼らはいつまで経っても、あの呪縛から解き放たれることがないのだ。神という意識が縛っているそれを、人間がどうやっても解くことはできない。
 人間を縛るのは、そう、偶然でも人為でもないもの。
 それは、“運命”だ。
「だったら、どうして俺らは『これから』だなんて言えたんだよ。どこに救いようがあるって?」
 逃げ場のない戦場を、どうして面白いと形容できる。それが、俺には理解できない。
「眠気眼が可愛いじゃない? 起きたらどんな顔してくれるのかなー、って、楽しみになるでしょ?」
「眠気、眼? 意味わかんない」
「事故でね……つい最近まで眠ってたの」
 事故――どくん、と、心が跳ねた。
 赤い色。黒い森。やけに明るい藍色の空。巻き上げられた風が耳を突き抜ける、酷い音。目に映るのは、
――汗が止まらない。夏だからというには暑すぎる。喉が渇いて、目の奥がチリチリと焼けるように熱く、そのくせ空気はどこまでも乾いていた。あの真っ赤に燃える、
 炎のせいだ。
「環? 大丈夫?」
「……」
 目の前にいるはずの、聖の顔が見えない。どこか霞んでいて、頭がこの部屋を知覚してくれない。目に映る全てが紅く、葉や木の燃える小さな破裂音が耳の中に木霊する。風のないこの部屋に、どうしてかうねりを上げた空気の流れが、身体を駆け巡った。
「フラッシュバック、かなあ……意外に厄介なんだ」
「はっ……か……ああ……」
 ぱちんっ
 木っ端が熱で弾ける音と共に、視界が開けた。
 目の前にあったのは、気遣わしげな聖の顔だった。我を取り戻した俺の顔を、小さなハンカチで拭ってくれる。
「ごめん……昔――色々、あってさ」
「そっかあ。私のせいで思い出しちゃったかな。辛かったね、ごめんね」
「聖のせいじゃ、ない」
 あの日、母さんが死んだ。
「……そうだよ、誰を恨むとか、そういうのじゃないんだ。いなくなったのは、――どうして? どうしていなくなったんだ? どうして、俺と父さんを残して……!」
「環、落ち着いて」
「いなくならなきゃ、父さんはこんなに苦しんでなかったんだ! いてくれれば、ずっと笑っててくれれば、父さんは!」
「環!」
 強い声が耳を裂いて、漠然と、殴られるかも、って思った。でも次に顔で感じたのは、聖の小さな胸だった。柔らかくて温かくて、不思議と涙が止まらない。
「駄目だよ、お母さんのせいにしちゃ。環がお母さん恨んでたら、おじ様悲しいじゃない」
 優しく響く声は、いつまでも耳に残るような錯覚を覚えた。いつもの快活な声じゃなく、心の奥底をゆっくりと撫でるような、穏やかな声だ。これも、聖に住まう神の力だろうか。思わず信じてしまいたくなるような、そんな声だった。
 わかってはいる。母さんが死んだのも、父さんが泣いているのも苦しんでいるのも、母さんのせいじゃない。理性ではわかってるはずなのに、どこかでそうやって責める気持ちを抱いてしまっていた。
 多分、もっと甘えたかったんだ。母性を知りたかった。わからない気持ちが大きくて、それを知りたいと願ってしまっていたんだろう。
「ねえ、環?」
「ん……ごめん」
 胸に埋めた顔じゃあ、少し喋りにくい。篭った声は、自分でも情けないほどに震えていた。
「謝らないでいいの。環は、お父さんのこと好きでしょ?」
「大好き」
「お父さんだって環のこと、大好きだよ。でもね、お父さんはお母さんのことも、大好きなんだよ? 環がお母さんを嫌いだったら、お父さんすごく寂しいじゃない」
 わかってる。それは理性の上でのことで、やはり本能的に母さんを許せずにいたんだと思う。父さんを縛り続ける、或いは父さんを独占し続ける母さんが、どこか憎らしく思えていた。
 父さんが母さんを愛していた――愛しているのは知ってる。
 死んだ人間に敵うわけないじゃないか。母さんが父さんを縛ったら、他の誰にも解いてやることはできないじゃないか。
 それもわかってるから、俺は悔しいんだ。悔しい? 悲しい。
「不器用な家族。それとも、私が擦れてるのかな」
「聖は。聖の家族は、幸せ?」
 俺の頭を撫でていた聖の手が、僅かに止まった。
「……うん。環は?」
「……」
「答えられない?」
 違うんだ。これを幸せだと認めてしまうのが、怖いんだ。母さんのいない日常をそう定義したら、母さんの居場所がなくなってしまう。
 だからわからないんだ。俺は母さんを認めてるのか、そうでないのか。
 誰かがそれを知ってくれるのを待っていた。認めてくれてもいいし、或いは諭してくれてもいい。それが聖だった。
「今は、まだいいよ。いずれ……答えじゃない、何か見えるからさ」
 聖の小さな身体が、少し震えた。
 僅かながらに落ち着いた俺を抱きながら、聖は穏やかな声を絶やすことはない。顔を横に向けると、聖は小さく喘いだ。
「ごめん、ありがと」
「ううん、だいじょぶ。いい子だね、環は」
 そうやって頭を撫でてくれたから、今度は本当に涙が出た。これは多分、嬉し涙に似たものだと思う。自分では涙の理由なんてよくわからないけど、これは頬に感じていてとても暖かいものだ。
「泣き止むまで、こうしててあげる。今までの分、たくさん泣いてね」
「あ、はは……情けないなあ、俺」
 敢えて否定はせず、聖は「そうだね」と笑った。
 人に縋って泣くのは、どれだけぶりだろう。思ったより悪い気分じゃなかったし、聖の胸は薄いなりにとても柔らかい。暖かい。ああ、これが母性かな――知らないなりに、そう思った。
 嗚咽もなく、ただ涙を流した。それは父さんが母さんを想って流す涙に似ていたけど、その中にある感情は遠く対角に位置している。父さんも、こんな涙を流せるようになったらいい。心で母さんを想いながら、そして心からそう思うのだ。
 聖の中では、俺はまだ「可愛い子」なんだろうか。俺の頭を優しく撫でる彼女の顔が、鮮明に胸に浮かんだ。
「環は甘え方が下手だね。こんな風に……すごく不器用」
「悪かったな」
 優しげな聖に応える声は、思った通りに震えていた。
「ほら、私の腰に腕回して、ね?」
「うん」
 少しだけ前のめりになった情けない体勢は、ちょっと辛い。
「すごい、細いな」
「小さいからね」
「でも、柔らかい」
「でしょー。こういう時ってさ、無性に柔らかいのが恋しくなるんだよね」
 自分より頭一つも小さい女に縋って、どうしてこんなにも大きく感じるんだろう。聖という人間――或いは神が、俺にとってどれだけの存在か、こうしてみるとよくわかった。たった一ヶ月半、それなのにここまで大きくなった。
 心を占めるのは、たった数人。父さん、母さん、マキやナオ、黒田なんかも加えていい。四条さん、聖。そして――
 ああ、どうして。こんなにも大きく胸を締め付ける存在を、どうして拒絶することができたんだろう。
「聖は、裏切られたことある?」
「どうかな。そういうのは、あんまりないかな」
「俺、やっちゃったんだ」
「……そっか」
 父さんがそれを望んでいないとわかっていて、それを口にした。それも裏切り。
 信じていた人が傷を抉る言葉を投げるのは、それよりずっと残酷なことだ。
 雫、お前は泣いてるんだろう。涙は拭ってやったばかりだというのに、どうして再びそれを流させてしまったんだろう。
「どうしたらいいか、わかってるんだ」
「わかってるけど……」
「怖い?」
 怖い。雫と話して、許してくれるかどうか。
 怖い。雫がそれを許さず、俺を拒んだとしたら。
 考えただけで、寒気がする。
「でも、私からは何も言ってあげられない」
「うん、わかってる」
 雫のことに関して、俺は聖には何も求めてはいないから。確かなことといえばそれだけで、他には何も浮かばなかった。
「ただね」
 胸にあった俺の頭を掴んで引き剥がし、聖は自分の顔とそれを付き合わせた。
 深い黒瞳。吸い込まれそうなそれに覗かれて、俺は目を離すことができずにいた。やっぱり聖の言葉は、全ては、どこまでも深く染みこんでくる。
「環にしかできないの。少なくとも、この世界ではね」
「……少し、違う」
「うん、環が思ってるのと私が言ってるのは、多分違うよ」
 聖の言葉は、頭に残る。
 その言葉は、ずっとずっと、この先死ぬまで、頭から離れないだろう。
「雫ちゃんから生まれた環以外に、誰が雫ちゃんを救い出してあげられるの?」






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