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  めざめて中の人 作者:
9話




めざめて中の人





 夏になると、油彩や水彩の色が高温多湿、日光により褪せてしまう為、暗く乾燥した場所に作品を置くことにしている。学校にそんなスペースはなく、つまり作品は各自持ち帰っている、ということ。
 俺も早紀も例外でなく、部屋にはキャンパスが不器用に置いてある。俺の部屋にはエアコンがなく、だから常にリビングに置くようにしていた。聞いた話だが、早紀の家には作品用の部屋があるらしい。意外にお金持ち。
 美術品はケアしなければ逐次劣化していく。時間は余りない。
 どうしても、というのなら、キャンバスを倒してノートに書く感覚で描けばいい。でも、妥協はしたくない。
 今日は、早紀にその辺りのレクチャーを頼んでいた。雫にはまだ見せたくないので、彼女はリビングで父さんと話してもらっている。聖がいないのを残念に思ってたみたいだけど、父さんの為に逢坂インダストリーに交渉に行っているのだから仕方ない。
「んー……動かないのは腕だから、肩で描く、っていうのもありかな」
「肩で描く? なんか、いまいち感覚がわからんけど」
 肩だけなら動かせなくもないが、それだけで絵が描けるとも思えない。腕全体を使って大まかに描き、手首と肘で細部を描き込んでいく、というのが――いかにも素人テクではあるけど、今までのやり方だから、肩なんて使ったことがない。経験のないことには感覚がついていかない、というのが人間というものだ。言い訳してる場合じゃない、というのもわかってはいるんだけど。
 早紀が、クロッキー帳をイーゼルに置いて見本を見せてくれた。左手を右肘に添え固定した上で、その上を滑らせるように肩と手首の動きだけで見事な絵を描いていく。
 出来上がったのは、机の上に置いてあった教科書や筆記用具のスケッチだ。
「うわ、すげえ……ほんと肩だけで描けるんだ」
「表現の幅は、上手くなればほとんど変わらないと思う。全身使って描く人もいるくらいだから」
 俺が体の動きを最低限に絞ろうと思うと、恐らく動くのは肘だろう。早紀がしたように添えた左手の上は、しかし滑らせることなく基点にしてしまうはずだ。
「どうかな。あと彩色だけみたいなものでしょ?」
 椅子に座る早紀の後ろに立つ俺は、腕を組んでそのイーゼルの上を睨んだ。このイーゼルは、早紀が今日持ち込んだものだ。
 彩色には主に手首のみを使うことになる。しかしそれだけでは確実に「大胆さ」が消えることになる。素人考えに通じるのは素人技術、手首だけでは繊細な動きしかできないというのが正直なところだ。
 早紀ならば、なんて考えたところで、それで出来上がるのは「早紀の作品」だ。望まれるのは、それじゃない。
「やるしかない、んだろうなあ」
「そう、やるしかないの。こんなレクチャー、最初から意味なんてないんだから」
 だとしたら、荷が重い。
 でもそう、荷は重いほどに実感が伴うもの。やり遂げた後の実感は、背負う責任の重さに比例するということも、ちゃんと知ってる。
 拙い技術でも、やれないことはない。そういう状況なんだから、やらない理由もない。早紀が「なんとかする」って言ったのは、もしかしたら“俺を”なんとかするってことなのかも知れないんだから、期待には沿わなくてはいけないだろう。
 ただの自意識過剰かも知れないけど、思い込むこともたまにはいい。
「じゃ、早速始めよっか」
 立ち上がった早紀に代わり椅子に座ると、彼女の温もりが伝わってきた。それだけでなんとなく彼女の技術まで伝わった気になるから、我ながら簡単なものだ。鉛筆を持ち、キャンバスに向かい、まだ描きあがっていない部分に手をつけていった。
 期限は、あと一週間。
 デッサンは早紀がいるうちには終わらず、結局自分の力のみで完成させることになった。入部からまださして時間は経っていないというのに――というのが言い訳にしかならないこともわかっている。
 せっかくだからと昼食を食べていくことになった早紀を連れ立って、一階のリビングへ降りると、既にその準備は進んでいるようだった。
 聖が不在ということで、今日の当番は雫ということになっている。彼女の手料理は――腕は聖とまでいかないものの、本当に美味しいので、正直なところかなり楽しみだ。愛情の差、だろうか。
 苦笑いを早紀に不審に思われ、手を振って誤魔化したところでリビングのドアから父さんが出てきた。
「今呼びに行こうと思ってたんだ。もうすぐできるから、って」
「うん、いい匂いがしてる」
 笑いながらドアノブを押さえ、父さんは早紀をリビングに招き入れた。紳士な態度に、男慣れのしない早紀は紅潮していて、実に初々しい反応だ。
 キッチンには、黄色のエプロンをした雫の後姿があった。聖も使っているそれは、生前母さんが使っていたものらしい。エプロンをして料理をしてくれる女性というのは貴重なもので、雫からは普段感じることのない母性を感じていた。或いはそれは、エプロンの影に本当の母さんを見ているから、だろうか。
 母さんのことをほとんど覚えていないのに、その理由がわからない。当時五、六歳程度だったというのもあるけど、その程度に成長していれば多少覚えていることがあるべきなのだ。
 意識を失ったあの時、俺は母さんのことも失ってしまったんだろうか。
 赤い炎。黒い森。藍色の、それなのにやけに明るい空。渦巻く風に巻き上がっていく灰は、十メートル上空で塵になって消えていく。
「環君? どうしたの?」
「……なんでもない」
 なんでもない、という割には、シャツの背中がやたらとベタベタ張り付いて不快だ。隠し事の下手な自分に、苦笑いしか漏れてこない。
「座ったら?」
 返事はせず、代わりに早紀の向かい側に腰掛けた。彼女の隣に座った父さんは、少しだけいつもの余裕を失っているけど、それを赤の他人に悟らせるような失態はしない。俺だからわかる、その焦燥感。
 情けないけど、聖に縋った。早く安心させてくれ、って。結局のところ、父さんが安心する為には、俺がそうするしかないのだ。仕事を見つけてくれる、という以外に、その方法はない。
「雫、今日のメニューは?」
「えとね、海鮮春巻きと、あと麻婆豆腐。えびが安かったんだー」
 言動が主婦染みてて泣けてくるけど、そういうところに気を遣える女の子の方が一緒になった時にいい家庭を築ける。気が早いけど、雫以外の女が俺と一緒にいるところは想像できないんだ。
 幸せだ、そう胸を張って言うにはまだ早いと思う。だから、今は日々を積み重ねていきたい。
「八千代さん、お料理得意なんだ」
「あ、えと、はい。外食してたら、お金がたくさんかかるから」
「……変なこと訊いちゃったかな」
 親がいないことを共通項とするのは、きっと悲しいことなんだろう。気を遣われても少し困るし、かといって無神経に訊かれるのも気分が悪い。他意などなく、家計が助かるからという意味でそれを言ったのに、早紀はそこから雫の孤独を感じ取ってしまった。
 困ったように笑った雫は、菜箸を使ってフライパンの中を掻き混ぜた。
 少しだけ、空気が白んできた。容赦のない陽射しと共に踊る風が、奇妙な湿気を食卓に運ぶ。
 どうしても拭えないものがある時、それはどうしたら消化できるだろうか。結局のところ、全て飲み込むしかないのだ。全て飲み込んで、それが喉元を過ぎた時、その熱さを忘れることを願うしか、残されたものに用意された選択肢は存在しない。
 まだ熱いよな。覚えてないけど、父さんを悲しみに晒すそれは、本当に触れられないほどの熱を感じるんだ。だけど、その熱が悲しみなのか、いまや理解なんてできない。
早紀にだって事情はある。消化できないから、雫に対して快い態度を取ることができない。雫と早紀の関係は、酷く歪だ。数々の死に絡んでいるのが、果たして雫なのか早紀なのか、二人共わかってはいない。二人共、自分のせいだと思っている。
死は様々なものを運ぶ。そこに貴賎はなく、大小もない。そのはずだった。
「母さんが生きてれば、苦労かけなかっただろうね」
「父さん? 何、言ってるの?」
 だから少しだけ信じられなかった。その言葉は、弱音にしか聞こえなかったから。
 何も言わない早紀の視線は、虚空へと消えている。
 死が運んだものは確かに大きかったけど、父さんはそれに負けずに生きてきた。俺はずっと見てた。雫や早紀みたいに――ああ、わかった。
 俺が一番、受け入れられていないんだ。だから、父さんや雫、早紀の間に不等号を敷いてしまう。死によってもたらされた悲しみに大小なんてあってはならないはずなのに、それを図式化してしまう。
「環君? どうしたの?」
「い、いや……なんでも」
 いなかったことになんてできない。ただ、心の中に棲み続ける母さんを、確実に大きな殻で覆っていた。
「父さん、心配しなくても大丈夫だよ。母さんは確かにいた方がいいんだろうけど、父さんだけで十分――立てるからさ」
 余裕がなくなってるんだろう。嫌なことがあって精神的に不安定になると、誰だって幸せだった頃のことを思い浮かべる。ただそれだけ。
 疼く心。俺と二人じゃ、幸せじゃないのかな? 完全じゃないと、駄目なのかな?
 言葉を失くした俺のことを気遣わしげに見る早紀が、少しだけ煩わしかった。何も言わない雫に、少し失望した。どうしたって納得できないことはわかっているのに、こんな風に八つ当たりのような感情を持て余す自分に、嫌気が差した。
 雫が昼食を運んできたのは、それから十分後のことだ。取り繕うように「美味そう」と口にした俺の笑顔は、上手く作れていただろうか。
「たくさん食べてね。お昼にしては重いかも知れないけど……」
「いやいや、いいよ。昼って、一番豪勢にするんだろ?」
 確か聞いたことがある。人間の一日を支えるのは基本的に朝食や昼食、終わりを飾る夕食を一番豪勢にするのは間違っているんだそうだ。
 まあ、そんなことは一切気にせず、雫の料理は好きだから関係ないんだけど。
 誤魔化した感情を白いご飯と一緒に飲み込んで、無理矢理に笑顔を引き出す。きっとそれが、俺にとって、早紀や雫にとって、そして父さんにとって、何よりの救済になるだろうから、いつまでも苦い顔をしているわけにはいかないんだ。
「早紀、食べないの?」
「あ、ううん。いただきます」
「ど、どうぞ。お口に合うかな」
 期待と不安半分ずつ、だろうか。自分が食べるのも忘れて早紀を見詰める雫の顔は、少しだけ紅潮している。
「雫ちゃん、すまないね」
「い、いえ、楽しいですから。一人で作るより、ずっと」
 雫の笑顔は、俺とは違った。その自然な表情に少しだけ嫉妬して、春巻きを一口放り込んだ。熱い海老が口の中で弾けて甘い香りが広がると、飲み込んでしまうのを勿体なく思う。
 美味しいものを食べると元気になる。強ち嘘というわけでもなさそうだ。早紀も箸が進むみたいだし、父さんの顔から焦燥感が消えていくのを感じる。
「相変わらず美味いなあ、雫の料理」
「そうかなあ? そんなに特別なことしたつもりはないけど」
「八千代さん、どうやってお料理勉強したの?」
 早紀の疑問に、雫は箸を止めた。考え事をしているみたいだけど、それがどういう感情なのかもわからない。ただ、何かを思い出す時、こんな表情をするんじゃないか、とだけ思った。
「色んなレシピを見てお勉強しました。すごく、美味しいのが作れるんですよ」
 雫はそれだけ笑い、再びご飯に箸を伸ばした。
 父さんには心当たりがあるのかな。雫のことそんな風に見て……そう、雫のことを俺以外の人間が理解していることを、少しだけ悔しく思った。それが父さんじゃなかったら、きっと後で雫を滅茶苦茶に抱きしめてやるんだ。
 しばらく無言の時が流れた。箸が食器を叩く音と蝉の声、息遣いは微かなはずなのにやけに色づいて、風の音より空気が軋む音が沈黙を彩る。今日も真夏日、温かいご飯を食べていると汗が噴き出てきた。
 作品については、午後はやらないことにしていた。時間はないけど、一日中早紀と一緒にいたら、雫が妬いて拗ねてしまう。
 食器を洗い終えた雫と早紀が食卓に戻り、さっきまでの空気は全て払拭した後に談笑を重ねていた。全てを拭い去ったかどうかは疑問が残るけど、少なくとも皆が笑えているのだから問題はなく、何より父さんの笑顔が戻ったことに安堵を覚えた。或いはただ堪え溜め込んでいるだけなのかも知れない。そうであるとすれば、俺にはまだ父さんを救う資格なんてないんだろう。
 何をさせてはいけないか。悲しませることよりずっと、無理をさせることの方が罪深い。
「それでね、黒田君と環くんが突然野球拳始めちゃって」
「環がそんなことするなんて……黒田君って子は、よっぽどバイタリティのある子なんだろうね」
「というか環君、それはどうかと思うわよ?」
 三人に共通する話題といえば、俺のこと。突かれるのはわかっていたけど、雫がこんなに話好きだとは思ってなかった。
 まあ、楽しければいい。黒田の評判はもっとどうでもいい。
「結局ね、黒田君がその……ぱ、ぱんつと靴下だけになっちゃって」
「あれは笑ったな。あいつじゃんけん弱いのなんのって」
「それ以前に、どうして真っ先に脱ぐべきはずの靴下が残ってるかが疑問だわ」
 早紀は手厳しいな。確かに美術部は女の園だから馴染みのない遊びだろうけど、女を観客にしているということで張り切る気持ちもわかって欲しい。黒田のノリの良さには驚かされるばかりだ。
 しかし、裸靴下というのは、女がやってこそだ。あれはそそる。
「環くんがいやらしい顔してる……」
「なんか、話を聞くたびにどんどん印象が変わってくね」
 そんな中で一番酷いのは、温かい目で俺を見守る父さんだと思う。何だよ、その「大きくなったね」と息子の成長を喜ぶような視線は。
 嬉しくない。確かに昔からそう目立つことをせず手段に紛れ込むタイプの男だったけど、ここに来て価値観が根こそぎ崩されてしまっている。それが良化か悪化かはわからないけど、少なくとも教室で野球拳をするような変化ならない方がましだ。
「環君、八千代さんとどんな話するの?」
「どんな? えーと――」
 二人のこと、学校のこと、私生活のこと、とにかく二人でいる限りは何でも話すし、隠し事も滅多にしない。
「雫のこと、何でも知ってるぞ」
「環くんに訊かれると、断れないんですよう」
「二人共、すごく似てるから。なんとなく、感覚的に。それに、私とも……」
 感じていた。
「確かに、早紀には雫と通じるものがあるよな」
「ええ? でも、性格とか全然似てないよ?」
 雫だって気付いてるはずだ。四条さんや聖、早紀――黒田を加えてもいい、皆に、自分と似たような部分があること。性格や教養の変化によって変わることのない、それは人それぞれが持つ「イド」の顕れにも似ている。
 否定したい。その気持ちが正に、四条さんのそれに対する自分の感情を肯定している。俺だって時折そう思う。雫もあるはずだ。自分は特別な何かを持って生まれてきた、特別な人間だ、と。
 少しだけ窮屈に思い、腰を浮かせて椅子を引いた。引き摺った音は、蝉の声を一瞬だけ掻き消す。
 少しだけ嫌悪しているのが見て取れる。早紀の視線は、テーブルへと向かっていた。
「四条さんってさ、俺達のことお似合いだって言っただろ?」
「うん……貧相って言われた……」
 覚えてたのか。雫も結構執念深い。
「聖が言ってた、『見える』っていうのがそうなんじゃないかな?」
「わかんない。でも、そうかもね」
 その笑顔に、少しだけ安堵した。隣に座る雫から伝わってくる熱は夏の暑さに負けず、だけど不快にはならない、雫だけが持つものだ。多分、俺にだけ伝わる。
 繋がっている部分があるから、俺達は一緒になった。今でこそそんなことじゃ揺るがなくなったけど、知り合ってからの時間が短いのは、そういうことなんだと思う。だから或いは、早紀という可能性もあったかも知れない。
「不思議な場所だね、ここは。環が変わったのも、そのせいかな?」
 父さんの言葉は少しだけ耳に残り、その後に猛烈な吐き気を催した。だって今のは、明らかに変化を喜んではなかった。父さんが、おかしくなってる。今日の父さんは、その姿勢や言葉の調子、表情に柔らかさがない。
 笑顔を上手く作れない父さんなんて、今まで見たことがなかった。作り笑顔に失敗した時に、人は酷く不細工になる。それは時に、苦悶の表情にも似ていた。
 悔しいのかも知れない。父さんと接する時間は変わっていないのに、俺を変えたのは雫や早紀、聖だ。会ったことのなかった人達が自分の子供を変えていくのを素直に喜べないでいるのは、父さんらしくないのもわかってる。
 似ているのは、父さんと俺だって同じだ。互いに離れられないから、そういうことまでわかってしまう。
 次の瞬間、椅子から崩れ落ちる父さんを支えられたのも、多分そのおかげだろうと思う。
「父さん? 父さんッ!」
 頭の中が少し熱くて、思考を奪われていくのを感じる。次第に白んでいく意識の中で必死に父さんを呼びながら、俺は声を掛けてくれた誰かに酷いことを言ってしまった。耳には残らなかった俺の言葉は、その人に何を残しただろう。
「環くん――」
「うるさいッ!」
「――っ」
 目に映るのは、瞼を固く閉ざした父さんの顔だけ。苦しいはずなのに、どうしてか安らかな顔をしている。
 倒れたのはどうしてだろう。考えてすぐ、答えに辿り着いた。ああ、そうか――
「お前のせいだろ! ……、さっさと失せろよ! この――」
 叫んでからも、その言葉に疑問の一つも覚えなかった。つい数秒前まで笑い合っていたのに、確かにそう、思ったんだ。
 父さんが倒れたのは――
 雫のせいだ、って。

 聖が帰った時、そこには焦燥する俺と、意識のない父さんしかいなかったそうだ。
救急車を呼んだ聖は、とりあえず俺が――或いは父さんや本人が落ち着くようにと応急処置をしてくれた。多分それ以外の何をされたって落ち着けなかっただろうから、聖の判断は正しかったのだろう。
 診断は、ストレスによる狭心症。
心臓の筋肉が必要とする酸素量に見合う血液が供給されず、心筋が虚血に陥り胸痛が現れるという、虚血性心疾患の一つ、という説明を聞いた。最悪の場合心筋が壊死し、心筋梗塞へと繋がるらしい。
医者の疑問は、そのまま俺の心を絞り上げるように責め抜いてきた。発作があったはずなのに、どうして誰も気付かなかったのか、というものだ。
 狭心症であれば、顔が蒼白くなったり冷や汗が流れたり、目に見える症状はいくらでもあったはずなのだ。気付かない方が鈍いか、患者が我慢強いか、或いは安静狭心症――睡眠時から朝方にかけての発作、その多発か。
 いずれにしたって、父さんが危ないってことを理解しろ、それだけ言われた。
 全ての検査が終わり、病院に運ばれてから二日が過ぎようとしていた。
 学校へは行くことにしている。聖と、何より父さんの進言があったからだ。きっと父さんだって辛いだろうけど、学校は休むべきじゃないと思えたのは、他の誰でもなく本人の言葉だからだった。
ずっと傍にいてあげられないのが何より辛くて、父さんをこんな風に弱らせた「何か」が憎くて、そのせいで言葉が出てこなかった。
 今日も学校には来たけど、この空気には少しだけ辟易した。こんな明るい空気は、今浴びるべきものじゃなかったし、隣の空席が何よりも辛かった。
 どうして雫は傍にいてくれないんだろう。
 ああ――納得も何もできやしないという以前に身勝手ではあるけど、全て俺のせいだ。雫が俺を避けたんじゃなく、俺が雫を遠ざけた。信じていた人に裏切られるというのは、どういう気持ちなのだろうか。
 それでも、雫に会いたいとは思えなかった。会ったら、また酷いことを言ってしまいそうで、怖かった。
「珍しい。去年も同じクラスだったけど、彼女皆勤だったのに」
 真面目というよりずっと、不器用だったのだろう。彼女の資産がどこから来ているかは知らないけど、無駄なお金は使いたくないと言っていた。
 それを今、俺はさせているんだ。
「喧嘩かな? 思春期の女の子は敏感なんだから、大事にしてあげなくちゃー」
 少しだけからかうように俺の肩を叩くマキは、多分気遣ってくれたんだろう。だけど曖昧な苦笑だけを返して、彼女と目を合わせることができなかった。目が合ったら、俺と雫の間に何があったか露呈してしまいそうで、それを恐れる臆病な自分が憎くて、俯いた顔が上がらなかった。
 雫の机を見るのも怖い。いつもの笑顔や控え目な自己主張、小さな身体を精一杯使って送られる温もりが、そこから伝わってくる。
「伊藤君、何か知ってるの?」
「……色々、あってさ」
 ナオの言葉にも、素直に答えることができなかった。誤魔化して何が変わるわけでもないのに、責められるのが――というより、自分がしたことを認めてしまうようで、それが怖かった。
 最低、なんだろう。認められるわけがないけど、あれだけ真面目だった雫がこうして学校を休んでいるのを見てしまうと、彼女にとっての「伊藤環」がどれだけのものだったかが、痛いほどにわかってしまった。
 求められるのは心地良かった。だから、心にある空虚も一入だ。
「不器用なのね、可愛いわ」
「ちょっと黒田君、茶化さないでよ」
 あほか、なんて思ったけど、本当にあほなのは俺だ。気持ちの悪いお姉言葉を咎める気にもなれなかった。
「なんつーかもう、なあ?」
「なあに?」
「ナオさん? この子、最低ですわね」
 そうやってはっきり言ってくれた方が、すっきりする。
 けど、認めてしまうということはつまり、雫を否定するということ。今まで付き合ってきて、雫を見てきて、それだけはできそうになかった。
「何がわかるんだよ」
「あ?」
「黒田さ、お前に俺らの何がわかんだよ」
 ああ、何もわかりゃしないだろう。
 わからないから何も言うな、それがどれだけ愚かしい発言かはわかってる。それだったら、批評家なんて職業は存在していない。
「お前、マジで言ってる?」
 だから、二の句が継げなかった。
 俯く俺に、俺の席に集まった皆が視線を集めた。それがどんな視線か、それを合わせなくとも簡単に察することができる。
 軽蔑、或いは憐憫だろう。
「私も今のはどうかと思うな」
「だよね、ナオちゃん」
「うん、でもナオちゃんはやめて欲しい」
「……あ、そう」
 茶化すように話しているけど、その実俺の発言を心から責めているのがわかった。
 自分でもそれが最善とは思えなかったけど、少なくともその瞬間だけは、間違っているとは思ってなかったんだ。多分、それが今の俺だ、ということなんだろう。
 擁護して欲しいわけじゃない。罵って欲しいわけでも、責めて欲しいわけでもない。かといって、放っておかれるのも苦痛だ。自分勝手で我が侭で、自己中心的で、本当に救いようがない。
「伊藤君さあ、喧嘩なんてそんな難しい問題じゃないよ?」
 どうしろって言うんだ。俺、今の気持ちに素直にはなれないし、父さんの病気を肯定することもできそうにない。
雫を心から――こういうのも変ではあるけど、許せそうにもないんだ。
「仲直りしたかったら謝るだけ。どっちが悪いかなんて二の次でさ」
「それともお前は、八千代が悪いとでも言うつもりか?」
 喧嘩両成敗、なんて子供染みた屁理屈を肯定するつもりはないけど、理性では理解している。顔は上げられない。
「伊藤君は、自分には全く悪いところはない、って、言いたいのかな?」
 悪くないと思えたら、今こうやって俯いてたりしない。血が滲みそうなほど、手を握り締めたりしない。
 だけど、雫の顔が脳裏から離れない。笑った顔。怒った顔。喜んだ顔。ああ――そんな顔しないでくれよ。そんなに悲しそうな顔、見てるこっちが辛くなるだろ。そんなことを思い描いたら、目の裏が熱くなった。
 ため息一つ、三人は肩を竦めた。何を言っても無駄だと思ったのか、それとも俺が何を思っているのか理解したのか、もしくはその両方だろうか。
「一人で悩む方が楽、ってこともあるけどさ」
「私達、伊藤君がいなかったら、雫のこと何もわかんなかったんだ」
「ナオの言う通りだよ。こういうのも妙な話だけどさ」
 照れ臭そうに頬を掻いた――俯く俺には見えちゃいないけど――マキは、笑い声で言った。
「感謝してるんだ、君には」
 誰より雫を知っているって思い上がって、一番知っていながら何より傷つける言葉を吐いてしまった。
 彼女を知る、知ろうとする人間を作ったのは俺じゃない。雫本人だ。背中を押すくらい、俺じゃなくてもできる。
「感謝なんて、大袈裟だよ」
 こんなことを考えてしまう時点で、俺はもう駄目なんだろう。
「別に俺じゃなくてもよかった」
 破裂音に似た波が、空気を劈いた。平手で叩かれた頬に痛みを感じるのには、それから少しのタイムラグを要した。集めた視線が気になったのは、多分弱い自分が恥ずかしいからだと思う。
「そんなこと言ってさ、そんなに自分が可愛いの?」
「八千代とお前、どっちが哀れだかわからんな」
 精神的に参ってる。言い訳にもならないけど、冷静になってからずっと考え続けていた。雫にとって俺というものは必要不可欠なものであって、何より頼れるものだった。多分、間違いはないと思う。
 俺にとって必要な人というのは、頼れる人というのは、雫ではなかった。それを肯定するつもりもないけど、やはり父さんという存在は、俺にとって大きすぎるものだったのだ。
 その人が憂き目に遭っている時、俺は大切な人を気遣うこともできなくなった。
「事情、あるならさ」
「……うん」
 その相槌は、自分の声かわからないくらい小さな声だった。まるでその様子を、俯瞰で見ているかのようだ。
「話してとは言わないから。解決するのにさ、せめてもう少し頑張ってよ」
マキの懇願は、泣き声にも似ていた。
顔を見ることはできないけど、ナオや黒田も、俺のことを見てくれているんだろう。
期待には応えなくちゃいけない。今の俺に必要なのはそう――
顔を上げる勇気だ。
「まだ割り切れないんだよね?」
「もう少し、かかりそう」
 雫が休んでいるということはつまり、少なくとも嫌われてはいない、ということ。愛の反意は無関心だと、よく聞く話だ。
 悩むことを辞めない。その代わり、善悪は置いておいて、答えが出たら会いに行こう。
 雫の為というのはもちろん、今ここで笑ってくれる、マキやナオの為にも、だ。
 ……しかし黒田は、いつの間に四条さんの隣に移動したんだろうか。「哀れ」な俺が悪いんだろうけど、少し薄情だと思ったのだった。

 美術部に顔を出すと、気遣われることが多くなった。それは絵の進行具合だったり、腕の具合だったりするけれど、総じて気遣いには変わりない。それが義務感か正義感か、或いは心配なのかはわからないけど、皆優しい気持ちを持っている。
 早紀のこともそうだ。誰も、その沈んだ表情の理由を訊こうとしなかった。それは腫れ物に触りたくないという自分本位な考えでなく、確かに早紀を気遣ってのものだ。
 ああ、そして気付くのだ。
 俺が傷つけたのは、雫だけじゃなかったということ。
 雫の周りで起きる事故の内、死亡事故の全てに早紀が絡んでいる。それが偶然にしろ、今回父さんが病気になったことで、早紀も相当参ってしまったはずだ。それに追い討ちをかけるように、俺が口にした言葉。それは雫に対して言ってしまったものだけど、早紀の心にも確実に響いただろうと思う。
 角を立てずに生きたいという理想、或いは信念にも似たそれは、父さんの生き方から学んだものだ。それなのに、父さんが倒れた今、こんなにも棘を突き出して生きている。
 申し訳なかった。早紀にも雫にも、父さんにも。
「もう彩色入った?」
「いや、まだ。思ったように描けなくて、何回かやり直してるんだ」
 それなのに、まだ俺は独り善がりに動いている。
 腕が痛いというのを抜きにしても自分が傷つくのが怖くて、あれから一度も絵には触っていない。嘘をつくのは、何より嫌いだというのに。
「あと四日か……どうなるかな」
「早紀なら大丈夫だよ。心配ない」
「そうかな……環君が言うなら、うん、信じてみるよ」
 今の俺でも、この言葉は信じてもらって構わない。早紀の作品がどれだけ素晴らしいものか、今まで見てきて身に沁みてる。あれだけ一生懸命やって、その上で早紀は問いかけてきたのに、どうしてそれに嘘をつけるだろう。
 どうして、嘘がつけるだろう。雫がどれだけ俺を信じているか、わかっていたのに。
「環君が間に合わないとどうしようもないんだから、君も頑張ってね」
 即答はできず一瞬の間が空いたけど、それを悟られるようなことはなかったと思う。
「大丈夫、最後までやるよ」
「四日であれを全部彩色しようと思うと結構辛いね……」
 まだ俺は大丈夫だろうか。この感情、「罪悪感」は俺にとって、皆にとってどういったものだろう。
 後押ししてくれるなら何でもいい。例え義務感でも、何もできないよりずっとマシだ。
「ねえ、環君」
「ん?」
 茶色の木で作られたイーゼル――美術部の備品に立てかけたキャンバスに鉛筆を添えたまま、早紀の言葉を聞いていた。腕の痛みを堪えながらだけど、不思議と震えるようなことはなかった。
そして早紀もまた、その細い手には汚れた絵筆が握られている。
「私のこと、皆に聞いたでしょ」
 何のことを言っているのかは、すぐにわかった。
「うん、聞いた」
「怖い?」
 それでも、それにどう答えていいのかはわからなかった。
 聖が言っていた。可愛い子だって。それがどんな意味かは今でもわからないけど、今ここで「可愛い俺」を演じなくてどうするんだ。
 取り繕った偽善はいらない。早紀を傷つける言葉も、今は不要だ。
 ただ、正直な気持ちがあった。多分これを言えば早紀は深く傷付くんだろうけど、嘘はつけそうになかった。
「……少し、怖い」
「うん。だよね。私も怖いもん」
 キャンバスに淡い水色の油彩絵具を塗りこんで、早紀は小さく苦笑した。本当なら――それが苦笑であれ、笑える要素なんて一つもないんだろうけど、それでも早紀は気丈だった。
 それはきっと、早紀を支える人間がたくさんいるから。
 じゃあ……そう思ったら、どうしてか薄ら寒くなって、思わず身体を掻き抱いた。川に落ちるよりずっと、その寒気は圧倒的なものだ。
「私より、怖いんだろうね」
「そう、かな」
「そうだよ。あの子のこと、私、よくわかるもん――どうしてかは、わかんないけどさ」
 早紀も感じていた。
 俺と雫は一緒だ。何がどう、そういうのはなくて、ただ繋がっていた。理由もなければ因果もない、そういう類のものだ。
 早紀も同じ。四条さんや聖とは違う繋がりを持っている。
「好き?」
 鉛筆が、その軌跡をキャンバスに残した。黒というよりは、ずっと濃い灰色。
 ああ、これだ。俺が欲しかったのは、水彩の淡いそれでなく、どこまでも深い、輝くようなこの色だ。
 それはそう、“そういう気持ち”があるからなんだろう。だから、早紀の視線を受けても、はっきりと答えることができた。
 ――そう。俺は雫のこと、好きだ。
「そっか……そうだよね」
 ああ、そうだ。
 少しだけ返事が遅れたのは、俺にまだ迷いがあるから、だろうか。いずれにしたって、この言葉は空に放たれ、早紀の耳に届いた。もう覆すことなどできはしない。
 それはきっと、俺の気持ちが確定された瞬間。だからだろうか、早紀はそれから部活が終わるまで、一度も喋ることはなかった。

 聖の部屋は、それでもいつも通りだった。整然として過ごしやすく、何よりそこにいると落ち着く、不思議な因子を孕んでいると思う。
 俺の部屋は、少しだけ荒れている。絵の描かれたキャンバスが無事というのが、未だに不思議なくらいだ。いつもはメイキングしておくベッドも、シーツやタオルケットが乱れたまま。机の上は、憂さ晴らしに向かった教科書が置きっ放し。そこまで言うほどじゃないけど、「いつもなら」という言葉を使えばそれで済む程度の状態だ。
 聖には、俺の“それ”が痛いほどに伝わっているのだろう。だからこそ、いつもの笑顔を絶やすことはなかった。
「でさ、絶対環って小学生ぐらいの頃苛められてたと思うのよ」
「あ? なんで?」
「名前の最後に『ん』をつければわかるさー」
 閉口する俺を差し置いてけたけたと笑う聖の、このいつもの笑顔。これが気遣いなのかどうなのか、いまいち判然としない。
「意外。聖って下ネタ言うんだ」
「言うよ。私だって女の子だもん、興味は津々ですよ」
 雫や早紀みたいな女の子ばかりと付き合ってたから、今までに下ネタを平気で口にする女の子は知らなかった。それを口にしたら、聖は「幻滅しないでね」と伏し目がちに呟く。憂いを秘めた表情は美しさを孕むというけれど、聖は対象外らしい。
 テーブルの上に置かれたコーヒーカップを持ち上げ、そっと中身を啜った。聞くに特製ブレンドらしいけど、コーヒーというよりはずっとチョコレートだ。甘いコーヒーと、苦味のあるミントがよく合う。
「ま、処女だけどね」
 コーヒー噴いた。幸いなのは、聖の顔を直撃しなかったことくらいか。
「きったないなあ。畳なんだから、気をつけてよ」
「お前はもっと発言に気をつけろ。そんなだから恋人できないんだよ」
「だいじょぶよ、環の前だから言うんだもん」
 それは光栄といっていいのか、微妙なところだ。「素顔を晒してくれる」という意味では、恐らく俺は聖の中で大きな存在になりつつあるんだろうけど、それにしても気安すぎやしないだろうか。
洗面所から持ってきた雑巾をコーヒーに濡れた畳に押し付けて、聖は笑う。ぼやくような俺への文句は、或いは戯れだろう。
「さっさかさ、と。うーん……臭い残りそう」
「悪い、っていうか聖にも責任はあるんだからな?」
 雑巾が粗方茶色に染まると、聖は再び洗面所へ引っ込んでいった。
 それを見送って、ため息一つ。
 あの人の前にいると、空回る自分を見詰めずにいられる。張った肩肘から、思い切り力を抜くことができる。そしてその笑顔が一度目の前からなくなると、それが一度に押し寄せてくるんだ。
 雫、早紀への想い、罪悪という名の感情。消えていくはずのない好意が、それを消すのに反骨心を抱く。
 半分ほど残ったコーヒーを口に含んだ。食道を通り胃へ溜まる温もりが、せめて冷めた心臓をも温めてくれたらいいのに。
 聖はすぐに戻ってきた。
「環、ご飯どうする?」
「家で食べるよ。父さんもいるし」
「じゃあ、買い物行こう?」
 反対する理由もなく、後しばらく休んだら商店街に行くことになった。聖と一緒に夕飯の買い物なんて、どれくらいぶりだろう。本当に主婦みたいで、最初の頃は驚いたものだ。
 大げさかも知れないけど、聖のことは尊敬している。何を、ではなく、何もかもを、だ。骨を折られたのは彼女の責任じゃないと発言すること自体、彼女を責めることになるのかも知れないけど、それでも敢えて言わせてもらえば、あれは確実にあの不良の責任だ。それどころか、聖がいなければ、今頃雫と早紀が酷い目に遭っていたかも知れない。
ぞっとしない想像をして、身震いした、
聖がいれば、色々なことに際して安心して行動ができる。聖を嫌いになれる要素なんて、一つたりともなかった。
 どうしてここまで気にかけてくれるのだろう。考えたこともあった。
 答えが、意外なところにあるとは知らずに。
「ねえ、環ん」
「……喧嘩売ってる?」
「じょ、冗談だよう。怒るなよお」
 咳払いを一つ、改まった表情で聖は問う。ありふれた質問ではあったけど、それは聖の中で、最も大切なものだったのだろう。
「環はさ」
「うん?」
「神様って、信じてる?」






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