第六話【黄昏】
───紅世の徒“膨喉の櫃”ガラジャの襲撃から二日後の、アレクサンドリア市内。
時は午後五時の黄昏。
元来、黄昏とは故人が夕日に浮かぶ人影に『誰そ、彼は』と呼び掛けた事に由来すると言われ、光が暗くなるという字が宛てられたという。
事実、青い海は沈みゆく太陽の変色に伴い、鮮やかなオレンジへと色付いて、港町の風情をよく醸し出していた。
アレクサンドリア港では、一日の仕事を終えた船乗り達が、街では彼らを迎える女達が、それぞれに賑やかな一時を謳歌し、そのはるか上空、巣を目指す海鳥たちが茜色の空に点となり、独特の鳴き声を奏でながら群れをなして飛んで行く。
この地域では何一つとして変わらぬ日常であり、少なくとも水揚げ量や料理の出来に文句が飛び交ったとしても、それもまた日常の一コマではあった。
しかし、この麗美な黄昏に包まれたアレクサンドリア市の北部、津波の際には皆が避難する高台に聳える、聖マリア病院に関しては、違った。
推進していく西欧化の波を受け、近代の建築様式を吸収し、三棟からなる真新しい病院の一角。
一人部屋のためか、小さいながらも衛生的かつ機能的な病室。
床、カーテン、壁紙、部屋の全てを薄気味悪い程に白で統一し、アレクサンドリア海に面した窓の側にはベッドが置かれている。
ベッドには一人の少年が横たわっており、開け放たれた窓から差し込む日差しを、自殺防止のために窓に取り付けられた格子が縦縞に削ぎ、ベッドに落ちる影がそれを反映する。
先程海から戻ってきた海鳥たちが病院の上を横切り、ベッドに眠る少年の顔に影を過ぎらせた。
その時、橙の髪を額に流す少年の瞳がゆっくりと開く。
瞳の色は、青。
遠くで聞き慣れた海鳥の声がする。彼が一番最初に見たのは、天井だった。
窓から差し込む日没の光を受けて、黄昏に染まった明るい天井には、空調の為に巨大なファンが回っており、時折耳障りな駆動音がする。
ベッドに横たわったまま、緩慢たる動きで首を窓側に向ければ、やはり見慣れたアレクサンドリアの街が広がっている。
夕日を浴びた箇所は赤く、当たらぬ場所は黒い。
二色のトーンに分けられたアレクサンドリアは美しく、幻想的ですらある。
だが、そんな心に浮かぶ感慨すらも感じないのか、少年は身動ぎ一つすらせず、時折思い出した様にまばたきをするだけである。
自分の常識や認識を凌駕する情報処理を課せられた脳は、思考が鈍くなると何かで聴き知ったが、まったくもってその通りで、つまるところ、名をシリウスという少年は自失していたのだ。
混雑し目眩く切り替わるシーンを断片的に切り分け、なんとか意識の中から必要な情報を抜き出す。
アレクサンドリア港を貿易船ガルデアで出航し、積荷の整理をしていると異世界に引き込まれ、怪物に襲撃を受け、異世界の王の一人と契約し、勝った。
くどいくらいの言い回しだが、なんとか一文に表せなくもない。
内容に視点を置けば何ともファンタジックではあるが、身体に残る感覚が残酷な程強く事実だと告げていた。
ガルデアの貨物室。
燃える紅蓮の空。
赤に染まる海。
醜悪な巨人。
橙の焔柱。
蒼い剣。
光条。
記憶と感覚だけが酷く鮮明で、肝心の現実味が曖昧だった。
掴めるのに、何かわからない、そんな虚無の感覚。
実際に感じているのはベッドの寝心地(気持ち良い)、枕の柔らかさ(悪くない)など。
細かく言えば、磯の匂い、シーツの滑らかさ───左手に握る、何か硬質な感触も入れてもいい。
シリウスの額に脂汗が滲む。
全ての出来事が現実だったかどうかの答えが、左手に──カラドボルグ──ある。
そう思うだけで、言い様のない不快感が込み上げてくるようだ。
ガルデアの破壊、クルーたちの末路。
子どもじみた高揚が引き下がってみれば、“死”そのものの絶対的な恐怖が背中に広がる。
自分は助かり、他のクルーは死んだ。
生か死か、運命という不可視の歯車が僅かに狂っていれば、自分も骸すら残さずに火の粉となって喰われていたかもしれない。
それを安易に受容できる程、シリウスの精神は強くはなかった。
むしろ、ガルデアから運悪く転落し、病院に収容されて悪夢を見ていたと理屈付ける方が遥かに楽ではないか。
(でも、ごまかせないのも事実だから)
竦む気概を鼓舞し、シリウスは左手を持ち上げる。
シーツが捲れ、現れたのは、鋼の鞘。
シリウスは右手を支えに、上半身を起こすと、それを日没に掲げた。
黄昏のに染まる銀細工の獅子がシリウス同様に輝き、壁や天井に光沢を反射する。
右手を鞘─カラドボルゴ─に添えて柄から抜き払うと、透き通るような蒼晶剣が姿を見せて、シリウスの顔を映した。
「おはよう、寝坊助さん?」
「すみません、ラフィール」
鼓膜を打つ声が刀身から響けば、シリウスは自然と応対していた。
彼女こそがシリウスと契約し、フレイムヘイズへと変化させた、紅世の王“吸魂の枷”ラフィールである。
「現実、なんですね」
一応は疑問を投げかける文体ではあったが、シリウスは当に理解していて、ラフィールもそれを繰り返す必要はないと感じたのか、返事を重要な部分に収縮させる。
「貴方と私は、討滅者“フレイムヘイズ”」
「………はい」
シリウスがクルーの死や自分の変容に衝撃を受けていると確信した上で、ラフィールは事実を肯定する。
やはり、彼女はどこまでも厳しかった。
───コンコン。
「───ッ!?」
シリウスが二の句を継げないでいると、その沈黙を破るように病室の戸が叩かれた。
思わず身体を跳ねさせるシリウスに、対してラフィールを口を噤んだ。
とにかくカラドボルグを誰かに見られる(病室に運ばれた時に見られていたという判断はない)訳にはいかず、シリウスはカラドボルグをカラドボルゴに戻し、シーツの下に(ラフィールは大変不満だが)隠した。
そうして弾む心拍を落着け、扉に向かって平静を装った声をかける。
「はい、どうぞ」
返事の後、気配はあるにも関わらず妙な沈黙が流れる。
ひょっとしたら、自分がまだ意識を取り戻して考えていたのかもと思い、シリウスは再度同じ言葉を投げかけた。
それでようやく決心したのか、ためらいがちに扉が外側に開かれ、紺色のスーツを来た女性が会釈をしながら病室に入ってきた。
アレクサンドリアの熱い気候にも関わらず、きっちりと着込まれたスーツは線の細さを象徴するように身体に密着し、この地域では珍しくない黒い髪と瞳を持つ女性。
怖そうな人だ。
シリウスは不躾にも、入ってきた女性に感想を漏らす。
後ろで束ねられた髪や切れ目、よどみのない動きには率直な女性らしいというイメージが沸き上がるが、入室を躊躇したことを考えると慎みもあるかもしれないが、今は伺えない。
「こんばんは。起きていらっしゃったんですね、大丈夫ですか?」
「はい…大丈夫です。……あの、病院の方ですか?」
イメージ通りの無感情な声に一瞬たじろぐも、遠慮がちに尋ね返したシリウスは、返ってきた答えに思わずシーツの中でカラドボルグの柄を握り締める。
「私はジーン・マーカス。警察です」
ラフィールは、まだ口を噤んでいた。
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