破れた薄絹が終の闇に溶け込んだ。数刻前、引き裂かれたはずの闇。すでに悲鳴のかけらは露も無い。
夜の都会に乱立するビル群。その渓谷は暗く茂み、人の存在を隠していた。
背を屈んだ男がひとり、何かを尖った指先で転がしている。外灯の光さえ届かない谷間の底では、陰りから判別が難しい……が、
それは人間の拳大ほどの――
――いや違う。本物の拳。本物の手であり、指だ。赤い水溜まりに浸るそれは、すでに肉の塊といっていい。恐らく若い女のもの、だったのだろう。爪先を彩る紅はマニキュアのようで、血痕と交わり、妖しい光沢を帯びていた。
ひどく小さな、小さな肉塊。
――それが、
――不意に、
――震えた。
男が立ち上がったのだ。
コツン、と靴の先に当たったのは、黒髪が人間だった名残を示す、もう一つの塊。頬肉と鼻が削げ喰われ、対の窪みに潜む乳白の玉が、色を失っている頭部だった。
赤く染まった自らの手指を丹念に舐める。男は満足げに、のどを鳴らし目を細めた。
≪パキッ‥≫
踏み潰された骨が儚さを訴える。声は驚くほど小さく、切ない。だが、その響きも、男の欲望を満たすものでしかなかった。
《まだ……だ。まだ、足りない。まだ欲し……い》
くぐもった低い声で己の渇望を訴えた男は、夜空に浮かぶ満月を見上げた。注ぐ光は外灯と組み、真影を映し出す。
――纏う狂気。
都会の狭間に具現する男は、影さえも人外の理に身を置いているように見えた。
食人。人間を喰らう。そんな禁忌たる行為に、男が身を沈めたのは、ほんの半年前だった。
*****
社会という名の窓を開けば、目指す先は誰人もが望む至高の頂。更に聳える天空の峰こそ、自分が辿り着く先であり、その座で下界を見下ろす才能もあると、男は信じていた。
一流大学を卒業し、世に三大証券会社と謳われる一つに入社を果たしたのだ。レールの先が天上へ続いていることを疑うなど、愚問に他ならない。だが下界に漂い循環する澱みは、男が思う以上に枷となり、才に絡みつき、枯死に導かせた。
たった一枚の紙切れ。それがエリート街道を進む男の運命を、奈落へと誘った。
株式上場を鑑査する職場で行われた、上場前の株式(株券)。いわゆる新規公開株式の譲渡計画。
躍進、著しいITベンチャー企業の株式ならば、通常なら上場後に爆発的な曲線を描き、株価が上昇する。数年前にプロ野球チームを買収した有名な会社の一株価格などは、上場前の約五百倍にも化けた。
業界のお約束といっていい、鉄板の絡繰りを用いた秘密のプロジェクトだったが、当初、男は闇の枠組みに参加していなかった。
まだ入社四年目の若造であり、同期に比べて秀でた業績を残しているとはいえ、会社組織の中では下層に位置していたのだ。故に露見前に張り巡らされた罠の存在など、知る由も無かった。
通常なら一般投資家に出回ることのない、黄金の株式。上場間近、優良企業の株式だと偽れば、一千万単位でも個人の投資家は挙って買い求めた。上場しなければ、ただの紙きれでしかない、悪魔の株式。
食い物にされた投資家の群れ。
食い物にした上層に住まう者たち。
――ある若い社員が出世を目論んで、独断で行ったことだ。我が社としても、将来を有望していた社員だったのだが――現在、行方を眩ましており――――大変、遺憾に思う。
どんなに目を凝らしても見通せない、暗く深い穴。横たわる壁向こうに存在した、不可侵の三角形。
男に退社を宣告した一文が踊っていたのも、また、紙切れ一枚だった。
証券法を遵守すべき立場の証券会社において、自らがインサイダー取引きに関わった事実を、隠蔽するための黒い所業。
――食い物にした方。食い物にされた方――
――食われた方。食われなかった方――
――食いたい方。食われる方――――
……俺は、どっちだ。どっちが俺で、どっちが…………
体のいいスケープゴートに処された時、男の心はひび割れ、閥となり、微塵と滅した。
……俺は食われるより、食う方が、喰らう側の方が……いい。
すでに男は警察から、任意の事情聴取を要請されていた。戻る道は塞がれ、頼る者は距離を置き、帰る家を失い、世に生きれぬ事を知った。
もう勝ち組にはなれない。眩しい光の下で動けない。願いた天空へも羽ばたけない。何故ならば、男の翼は引きちぎられ、泥に塗らされていたから……
それでも男は奪う方を望んだ。社会の底辺で潜むしかなくとも、奪い喰らう者になりたい、と。
男が絶望の淵で選択をした時、生を願う螺旋階段、DNAは、最も単純かつ自然な黄金律。食物連鎖の頂点を目指す衝動を、更に増殖させた。
初めての食祭は、男を心配し連絡してきた、かっての同僚だった。在職中、事あるごとに面倒をかけ、頼り、甘えてきた年下の女。
『最近、どうされてるんですか』
報道を知らぬわけではない。男が指名手配を受けたことも聞いていた。
『……わたし、力になりたいんです』
それでも女は真剣な面持ちで、男を正面から見据えた。
男は思った。
――この女は力になりたいと言った。自分の力になりたいと言ってきた。
そうか、慰めに来たのか。そうか、なぶられに来たのか。
女は最後に一言、好きだから、と声を潤わせた。
ホテルの一室で、男が柔らかい首筋に、歯を軽く這わせた時、女は身を任せて耐えた。
少しずつ、少しずつ、顎に力を込めた男。弾力ある柔肌は、次第に抵抗を覚えたように固くなった。
男の背中に細い腕を回していた女が、目で戸惑いを投げる前。密着した白磁の裸体を放す前に、男は一気に鋭い犬歯を女の首に突き立てた。
口内に溢れてきたのは、加工金属に付着する油分と似た滑りに、苦い渋みを伴った血小板の味。それを旨い、と男は舌に記憶させた。
それ以降、男は獲物を食す時、必ず最初は首筋を襲うことに決めた。
枝葉する血流をすすった時の味わいは、格別の食前酒。流す涙と、もがく様は前菜。全てを切り裂かんとする悲鳴は、メインへのスパイスであり、五感を満たすのが肉なのだと。
*****
月光に照らされた影が、細く滑り出す。男は何かに憑かれたように、雄々しく走り始めた。無音の暗闇が支配するビルの合間を抜け、ひたすら走り続ける。
《……!?》
住宅街に入った時、剥き出しにしていた皮膚が、男に危険を知らせた。理屈ではない野性が、誰かが自分を追っていることを気付かせる。
――警察の犬が嗅ぎ付けたか。それとも公安か。まさか、自衛隊ということはあるまい。最近の乱行を振り返り、男は調子に乗りすぎたかと、耳元まで口角をねじり上げた。
ああ、そういえば、やけに今夜は犬の制服が目についた。奴等が追ってきたのか。ざわざわと身が警鐘を鳴らす感覚の中、他人事のように男は振り返り、走る力を増し始めた。
閑静な住宅街を抜け、今度は緑林公園の中へと駆け込む。
――まだ逃げられる。男は自分の力を信じていた。食人という禁忌の行為を重ねたことで、自分が特別な生き物だと思えていた。
《ピイィ――!》
男の鼓膜を刺激したのは、高音の呼び子。音の閃光が脳裏を横切った瞬間、ざわめきたつ四肢を鼓舞して、男は茂みの中に飛び込んだ。
自分は人を超越した捕食者なのだ。捕まるわけがない。そんな思いを胸に秘め、男は小枝を踏みしめて、低く、速く、鋭く、駆け出し始めた。
《クククッ‥》
男の舌に、あのとろける甘美な人肉の味が甦った。濃緑の雑草が生い茂る木立ちを抜ける様は、まるで獣のように風景と一体化している。
やがて大きな池のほとりに辿りついて、男は深くも荒くも無い息を吐いた。のどに強烈な渇きを感じ、池の水で潤そうと水面に近づく。
《……?》
微かに揺れる月面の下、そこに映った自分の顔を見て、男は石のように体を強張らせた。輪郭は朧気だったが上下する肩と月の間には、自らの象徴である顔が、くっきりと映っている。にも関わらず、男は自分を探すように凝視した。
自分を探す物音が聴覚を騒がしても、男は静止したまま、俯き続けた。かって自分の顔を見たのが、いつだったか。男は思い出すことが出来ない。そんなに遠くない昔が、思い出ないのだ。
整った顔立ち。異性の気を引き、光を放っていたはずの、己の面。
雑多な気配が辺りに充満し、男を取り囲む輪が狭くなっていく。それでも微動だにせず、濁った瞳に映る自分に狂気の笑みを浮かべて、男は眺めていた。
一様に同じ装いをした警官たちが、揃って拳銃を構え、銃口を男に合わせる。
かって自分の姿を見たのは、罷免された男を好きだと告白した、年下の元同僚。彼女と待ち合わせた店先の窓だった。
そしてその後、男は最初の――――
無意識に生み落とした、一滴の雫が、顎髭の先から零れる。男は女を思い出せていた。
水滴の出所は窪んだ眼……
……ではなく、歪み割れた唇からだった。
雫が肥大化し、繋いでいた粘り糸が音もなく切れた。
パンッ‥玩具のような銃声が、夜気を震わす。今夜、二度目となる闇を切り裂いた鳴き音。
鈍い衝撃を取り込んだ男は、ゆっくりと俯く角度を更に沈ませた。水面から受ける残視。その映像の男は――
――男の顔は、すでに人の形を逸脱しており、心は血を巡らすための臓器でしか、有り得なかった。
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