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最後の恋
作者:西条美幸
「いったい、どれだけ間違えたら気が済むのよっ!!」

調査部長の沙紀は、目の前にいる男子社員を怒鳴りつけた。「山下」というその新入社員は頭を下げたまま動かない。

「…申し訳…ありません…」

消え入るようなその声に、沙紀の怒りがエスカレートする。

「もうあなたには2度と頼まないからっ!今日はもう帰ってっ!!」
「お願いです!ミスの訂正だけでもさせて下さい!」
「何度も何度もやってこれでしょうっ!?もう無理っ!限界っ!帰ってっ!」

山下は唇を震わせながら頭を下げ、とぼとぼと自分の机に向かった。

……

山下がミスした資料は、隣の部署の女子社員に修正してもらった。

「確かに…これはひどいですね。漢字だけじゃなくて、数字も間違ってます。」

沙紀に修正した資料を渡しながら、女子社員が言った。

「でしょう?さすがの私も限界超えたわ。」
「確か、庶務課から回されてきたんですよね?」
「ん。庶務課でもお手上げだったのかもねぇ…。でもあんな子を調査部うちに回すなんて、庶務課長も何を考えてんだか。」
「部長なら、なんとか教育してくれると思ったんじゃないですか?」
「えーーーっ!?そんな期待されても、うれしくもなんともないわよー」

沙紀がそう言って顔の前で手を振ると、女子社員が笑いながら頭を下げ、席に戻って行った。

……

翌朝、山下から「今日は休みます」というメールが沙紀に届いていた。山下が調査部に来た時、「なんでも相談しなさい」と言って、アドレスを教えていたのだ。…だが、まさかこんな事になるとは思っていなかった。

(教えるんじゃなかったわー…)

山下のメールを見つめながら、沙紀は思った。
そのメールには「休む」こと以外に、くどくどと昨日のミスの事の謝罪文が書かれていた。

『もうミスをしないように努力しますので、どうかクビにだけはしないで下さい。』

最後のその文を読んで、沙紀はため息をついた。

(…どうしようこの子…。他に回しても迷惑だろうしなぁ…)

沙紀はまたため息をついた。

……

「今日は完璧じゃない!」

翌日、沙紀は、出社した山下に頼んだ資料の出来上がりを見て、そう目を輝かせた。
前で山下がほっとした表情をしている。

「でも、安心されちゃ困るわよ。」

沙紀はそう表情を引き締めて言った。

「これが普通なの!今までが異常だったんだからね!!今度ミスしたら、クビにするわよっ!」

山下の顔色が失せた。そして「はい!」と慌てて頭を下げながら言った。

隣の部の女子社員達が笑いをこらえているような表情をしている。…正直、新入社員にここまで厳しいことを言ったのは、沙紀にとって初めてだった。

(言い過ぎたかなぁ…ちょっとくらい褒めてやった方が良かったかしら…)

緊張した表情で席に戻った山下を見ながら、沙紀はそう思った。だが(いやいや)と心を鬼にした。

(気を抜いて、また元に戻られたらどうしようもないわ。これで良かったのよ。)

沙紀はそう思いながら、次の資料の作成に取り掛かった。

……

翌日-

「え?山下君が来てない?」

朝一番の会議から帰った沙紀は声を上げた。
女子社員が「ええ」と、席に座った沙紀の前で眉をしかめている。

「電話も何もないんです。部長の所にもメールなかったですか?」
「なかったわー。まさか、昨日の事で辞めちゃったりしないわよねぇ…」
「まさか!」

女子社員は口に手を当てて笑った。

「あれだけの事で、辞めるとは思いませんけど…」
「でも、ゆとり世代だしねぇ…。」
「…ですねぇ…」
「メールしてみるわ。」

沙紀はそう言って女子社員に微笑むと、携帯電話を取り出した。

……

結局、終業時間になっても、山下からメールは返ってこなかった。

「あんのやろー…あくまで無視するつもりだなぁ…。」

沙紀はそう呟きながら、携帯電話を閉じた。
そして、庶務課に電話を掛けた。

……

1軒の古い家の前で、タクシーが止まった。そして、沙紀が降りた。

「古いけど、立派な家じゃないの…」

タクシーが立ち去った音を背中で聞きながら、沙紀は門のインターホンを押した。
返事がない。

「…誰もいないのかしら…?家族と同居って、庶務課長は言ってたけどなぁ…」

そう思っていると、沙紀の後ろで車が止まる音がした。

「?」

振り返ると「介護タクシー」とある。その運転席から、若い女性が下りてきた。
その女性は沙紀に笑顔で頭を下げると、後部座席のドアを開き、独りの老女の手をゆっくり引っ張って車から降ろさせた。老女が辺りを見渡しながら言った。

「信也は?信也は?」
「大丈夫ですよ、山下さん。お孫さん、すぐ出てきますって。」

その女性の言葉に、沙紀は思わず「あの…誰もいないようですけど…」と言った。

「えっ!?」

女性が驚いて目を見開かせた。

「えっ!?信也さんいらっしゃらないんですか?」
「ええ。私会社の上司なんですけど、今日無断欠勤したので、今様子を見に来たのですが…。さっきからインターホンを押すんですけど、誰も出てこなくて…」
「!そんな…」

動揺する女性の横で、老女が「信也は?信也は?」と繰り返している。

「お孫さん、買い物かも…。山下さん、鍵持ってます?お家の中で待ってましょう。」

その女性の言葉に、老女はうなずいてカバンを開けた。

……

「山下君!」

ドアを開いた沙紀は声を上げた。

…玄関先で、スーツ姿の山下が倒れていた。それを見た女性が、慌てるように老女の前に立ちふさがり、玄関の外へ老女を押し出した。

「お孫さん、お仕事から帰っていないみたいです。デイサービスに戻りましょうね。」
「信也は?」

老女の孫を呼ぶ声が遠ざかって行くのを感じながら、沙紀は携帯電話を取り出し119番を掛けた。
山下は高熱を出していた。何かうわごとを言っている。

(朝からずっとこのままだったのかしら…?)

救急車を呼びながら、沙紀はそう思った。そして携帯電話を閉じた時、山下が何かを呟いた。
沙紀は口元に耳を寄せた。

「ごめんなさい…」

山下は何度もそう呟いていた。

……

救急車の中でも、山下のうわ言は止まらなかった。同行した沙紀は、胸を締め付けられるような思いで、そんな山下を見ていた。
老女の方は、介護タクシーの女性が「緊急事態なので、老人養護施設の方へお連れします」と言ってくれたので、任せることにした。
山下の熱は40度を超えていた。救急隊員が、熱を下げる処置を施したものの、下がる様子はない。

「ごめんなさい…」

山下がまたそう呟いた。沙紀は思わずその山下の手を握った。その時、山下がゆっくりと目を開いた。

「山下君!?大丈夫!?」

思わず顔を覗き込んだ沙紀に、山下は目を向けた。

「部長…?」
「もう大丈夫よ。今病院に向かってるからね。」
「…?…」

山下は辺りを見渡した。そして、はっとしたように体を起こそうとした。

「山下君!」

救急隊員と沙紀が、慌ててその山下の体を押さえた。

「お婆ちゃんが…!」
「大丈夫!施設の方に連れて行ってもらったから!」

山下は目を見開いて沙紀の方を見た。そして、こくりとうなずくと目を閉じた。

「山下君!?」

山下は返事をしなかった。

……

沙紀は、点滴をされて眠る山下の顔を見ていた。…恐らく、山下は仕事と介護でほとんど睡眠を取っていなかったのだろう。だから、会社であれだけのミスが続いたのだ。

「それを知っていれば…」

あんなに怒鳴りつける事もなかったのに…と沙紀は思った。

「部長…」

その声に、沙紀は山下を見た。山下がうつろな目で自分を見ている。

「山下君!もう大丈夫だからね。…気分は悪くない?」

山下がうなずいた。

「ご迷惑をおかけしました…」
「いいのよ!私も何も知らなかったとはいえ、あんなに怒鳴ったりして…。あ、おばあさんね。今電話があって、あなたが退院するまで、施設の方でしばらく預かってもらえるそうよ。」
「…ありがとうございます。」
「ううん。介護タクシーの人が全部してくれたから、また退院してからお礼を言いに行くといいわ。仕事の方も気にしなくていいから…。とにかく、今のうちにゆっくり休んでおきなさい。」
「…僕は…クビですか?」
「!」

沙紀は息を呑んだが、慌てて言った。

「そんなこと、何も心配しなくていいの!とにかく仕事の事も、おばあさんの事も忘れて休みなさい。」

山下はこくりとうなずいた。

……

翌日-

沙紀は不安そうな表情で、口をもぐもぐと動かしている山下の顔を見ていた。

「どう?口に合う?」

山下はにっこりと笑って、沙紀にうなずいた。
沙紀は、山下に手作り弁当を持ってきたのである。病院食じゃかわいそうだと思ったのだ。

「良かったー!」

沙紀は両手を合わせて素直に喜んだ。他人に弁当を作ったことなんて初めてだった。

「早く、元気になってもらって、会社でバリバリ働いてもらわなくちゃね。」

沙紀がそう言うと、山下はふと顔を曇らせた。

「?…どうしたの?」
「いえ…」
「あっ!もしかしてぶりの照り焼きに骨残ってた!?」
「えっいえ、違うんです。…祖母にもこれ食べさせてあげたいなって…思ったんです。」
「!?」

沙紀は一瞬目を見開いたが、すぐに明るい声で「やだー!」と言って、山下の肩を叩いた。

「褒め方がうまいんだからー!」
「いえ…本当に…そう思って…」

山下は照れくさそうにそう言って、茶を口に含んだ。

「ねぇ、山下君…ちょっと込み入ったこと…聞いていいかな…?」

沙紀がためらいがちにそう言うと、山下は「はい」と言って箸を置いた。

「あ、いいのよ!食べながらで…」
「…はい…」
「あのね…どうして、孫のあなたがおばあさんを見てるの?ご両親は?」
「…よくわからないんです…」
「え?」
「物心ついた時には、両親はもういなくて、ずっと祖母に育てられてきました。」
「!…そう…そうなの…」

沙紀はうつむいた。山下が続けた。

「親がどうなったのかは、祖母は未だに教えてくれません。子どもの時に聞いたんですけど、すごい怖い顔をされたので…それっきり…」
「……」

恐らく捨てられたのだろう…と沙紀は思った。

「おばあさんはいつからああなったの?」
「就職が決まった日の夜、お風呂で転んだんです。頭を打ったわけじゃなかったのですが、腰の骨にひびが入って入院して…。その間にどうしてだか、どんどんボケてきてしまって…」
「!…」
「たぶん…今までずっと、僕を育てる事で気を張ってくれてたんだと思います。就職が決まったって報告した時、すごく喜んでくれて…。その夜にお風呂で転んで…。…退院してからは、僕が目の前にいないと見つかるまで探し回るようになって…一度、外に出て行ってしまって、警察にお世話になったこともありました。…夜中でも、僕がトイレとかで横で寝ていなかったりすると、大声で叫んだり…。」
「……」
「でも仕事をしなくちゃ生活できないし…それで昼間だけはデイサービスに…。でも…そこでも、祖母は、介護士さん達にかなり迷惑をかけているようなんです。…今だって…祖母がどうしているかと思うと…僕…心配で…」
「介護士さん達はプロだから大丈夫だと思うけど、あなたの体の方が心配よ…。まだ若いと言っても、それじゃ寝る時間もないじゃないの…」
「…はい…」

沙紀ははっとしたように言った。

「あら、ごめんなさい。お弁当食べてね。」
「あっはい!」

山下は慌てるように、卵焼きを口に入れた。美味しそうに食べるその表情を見ながら、沙紀は心の中で(なんとかしてあげられないかなぁ…)と考えていた。

……

翌日も沙紀は、手作りの弁当を持って病院に行った。
そして沙紀がナースステーションの前を通ると、1人の看護婦が慌てるように沙紀に呼び掛けた。

「山下信也さんのご関係の方ですよね?」
「え?はい。」

沙紀は驚いて、看護婦に向いた。看護婦が困ったような表情で言った。

「山下さん、退院されたんです。」
「!?えっ!?どうして…」
「なんでも、おばあ様が施設で大変なご様子だという事で…」
「!!そんな…まだ体だって…」
「ええ。熱の方は下がっていたのですが…ご本人がどうしても心配だからと出て行ってしまわれたんです。」

沙紀は慌てるように、その場を立ち去った。

……

タクシーの中で、沙紀は祖母がいる施設に電話をしていた。

「えっ!?…山下さんはもう出たんですかっ!?…お孫さんが迎えに…わかりました!すいません!」

そう言って電話を切ると、運転手に慌てて行き先の変更を告げた。
…そして、山下の家についた。インターホンを押すが、誰も出てくる様子はなかった。

「…どこへ行ったのよ!」

そういらいらしたように呟いた時、携帯電話がメール受信を告げた。
沙紀は慌てて携帯電話を開いた。

「!!」

山下からのメールだった。

『部長、お世話になりました。いろいろと考えた結果、祖母と、祖母の生まれ育った故郷へ帰ることにしました。その方が祖母も落ち着くのではないかと思います。短い間でしたが、いろいろご迷惑をおかけしたこと、お詫びいたします。本当に申し訳ありませんでした。」

沙紀の手が震えた。沙紀は返信ボタンを押して、メールを打った。

『今どこなの!?』

しばらくして、山下から返信が返ってきた。

『ごめんなさい』

その件名を見て、山下が救急車の中で、何度もそううわごとで呟いた姿を思い出した。本文には『今、新幹線を待っています。本当にごめんなさい。』と書いてあった。

沙紀は絶句して、ただそのメールを見つめていた。…しばらくしてから、また山下からメールが入った。沙紀は慌てて、メールを開いた。

『部長の作ってくれたお弁当…忘れません。…僕、祖母以外の人にこんなに優しくしてもらったことはありませんでした。きっと僕の、最初で最後の恋になると思います。これから辛いことがあっても、あのお弁当の味を思い出してがんばろうと思います。本当にありがとうございました。』

沙紀は、周りを見渡して走り出し、幹線道路に出た。そして、ランプのついたタクシーを見つけ、必死に手を振った。

……

タクシーの中で、沙紀は山下にメールを打っていた。

『今、東京駅に向かっているから!何時の電車!?何番線にいるの!?』

しばらくして、メールが返ってきた。九州行きの新幹線に乗るとあった。

「運転手さん!ごめん!できるだけ急いで!」

沙紀は携帯電話を閉じながら、そう運転手を急かした。

……

沙紀はエスカレーターを駆け上がり、山下を探した。

「5号車って、どっち!?」

そう呟きながら、ホームを走る。すると、新幹線が入って来た。

「!!」

焦る沙紀の目に、嬉しそうにしている老女の背に手を掛けて、立ち上がった山下の姿が目に入った。

「山下君!」

老女の手を取りながら、開いたドアに足を掛けた山下は振り返り、目を見張った。

「部長…」

沙紀は鞄の中から弁当箱を掴み、山下に差し出した。

「…これ…もう中身ぐちゃぐちゃだと思うけど…食べて!お婆ちゃんと!」

山下の目に涙があふれ出た。そして祖母を奥へ入れると、その弁当箱を両手で受け取りながら頭を下げた。沙紀は、その山下の体を抱きしめた。

「!!」
「…とにかく頑張って!…それから最後の恋だなんて言わないのっ!あなた若いんだから、いい人がきっと見つかるから!ねっ!」
「…部長…」
「メールも頂戴ね!待ってるから!」

ホームにベルが鳴り響いた。沙紀は山下の体から離れると、ホームに降りた。
山下が唇を噛んで、涙を流している。
…ドアが無情にも閉じられた。

(終)

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