第二章 二、《日向波遠》
ニ、《日向 波遠》
日向波遠の中学生活での思い出はイジメだけである。普段から内気で、人見知りの激しい彼女は中学校へ入学した当初から周りに無視された。最初は頻繁に話し掛けられ、返事をしたが、直後相手は首を傾げて去ってしまう。会話が成り立たない。
『あの、聞いてください』
声が小さいのが原因だと最初は思った。でも違うらしい。だんだんと怖くなり、彼女は無口になった。内気で無言な彼女はすぐさま格好のイジメの的にされた。自分が話し掛けても相手はこちらに目も向けない。それなのに
『掃除代わりにやっとけよな』
『悪い、どいて』
『やだよコイツの隣〜。なぁ、お前誰かと代わってくんね?』
『聞いたあの子?無口記録三年だって!』
『アハハハ、私なら死んじゃう!』
『返事も動作だけらしいよ?気味悪すぎ!』
『あら?日向さん居たの?』
他人からは話し掛けられる。なんという理不尽。
教師までもが彼女を無視した。
『あの、質問よろしいですか?』
職員室へ質問に行っても誰一人彼女の声に反応しない。それなのに彼女と目が合えば
『なんだ日向、質問か?』
と。頭が真っ白になる。なんと白々しいことか。無論彼女には教師へ訴える勇気などない。家に帰ったところで深夜まで共働きの両親とは顔を合わせることもない。居ないのと同じ。金を運んでくるだけ。料理も一人で作る兄弟は居ない。
そう、彼女には話し相手が居なかった。
彼女の中学時代はそんな感じがずっと続き、何の良い思い出もないまま、終わった。勉強だけは熱心にやっていた為か割と有名な進学校に入学できた。
高校へ入ると周りも大人な性格ばかりで彼女と関わろうとする者も居なかったが、いじめようなどと考える者も居なかった。クラスメイトとして話し掛ける者も居たが、今までどおり首だけで反応した。
彼女は自分の中で人を拒絶していた。
話し掛けても無視されるのが怖かったのではない。無口であることに慣れすぎて、話し掛けるという行動自体が彼女の中で薄れていた。
◇ ◇ ◇
《五月十七・十八日》
入学して一ヶ月程経った頃、日向波遠は妙な感覚を受けた。身体が疼くような、不安で、何に対するでもない使命感のような、そんな感覚。
途端、彼女は飽きた。何かに。
そして激しく行動を起こしたくなった。何故か。
だがそんな衝動に駆られたところでどうする事もできず、とりあえず彼女は夜の街に出てみた。夜の街は、普段夜中に出歩かない者にとって日常とは違った雰囲気を感じられるからである。
人込みが嫌いな彼女の足は、自然と路地裏へと運ばれ……
見た。
人が人を喰らうところを。
男声の牙。 ―――牙? とにかく男の牙が、犠牲となっている会社員の腕に食い込み、千切った。
噴き出す血液。会社員には既に両腕がなく、だがそれでも生きていた。悲鳴は上げない。
否。
上げているのだけれど声が出ていないのか。喉を掻き切られ、声帯を切断されているのだ。
――私と同じ。
被害者の喉が無事なら日向波遠は耳を塞いでいただろう。持ち主から引き離された腕に喰らいつく男の足元で会社員は血の涙を流しながら転がり回っている。
そんな被害者の姿を彼女は黙って見ていた。普通の人ならおもわず悲鳴の一つでも上げるところだが、彼女は〈喋る〉ことに関しては普通では無かった為、悲鳴を上げる事は無かった。無かったのだが、彼女はひどく怯えていた。
男………いや、獣は、足元で暴れるモノを鬱陶しく思ったのかもう一度首を鋭い爪で切った。今度の一撃は気管も脊髄も切断し、首はごろんと地面に転がった。
絶命。
両足も咀嚼し終えた獣[守野 一郎]は次に、それまでずっと人が人を喰らう様を見続けていた少女に顔を向けた。その目は赤く、人の意識など感じさせない。実際、守野にもはや自我は無かった。
獣は彼女に歩み寄っていく。波遠は硬直した。
「や、めて……」
止まらない。飢えたケモノは、止まらない。彼女は命の危険を感じ、もう何年も出した事のない大声を出した。
「あの!」
その瞬間、ぴたりと、ケモノが止まった。
波遠の言葉で止まったのだ。
これには本人も驚いた。今まで誰にも聞いて貰えなかった呼び掛け。誰も聞く耳を持たなかった、自分の呼び掛け。
このケモノは、聞いた。こんなケモノが、聞いた。
彼女は悟った。力いっぱい呼び掛けたら相手はちゃんと反応してくれる。こんな簡単な事を……。こんなケモノが反応したのなら人間だって……。
彼女はもう一度、立ち尽くす獣に向かって叫んだ。意識は使い慣れていない喉だけ。目は堅く閉じて。
「こんな酷いことしないで!」
殺人鬼が〈こんな酷いことしないで〉で止める筈がない。だが彼女が、頭が真っ白になりながらもやっとの思いで出した言葉がそれだった。
静寂した空気と、人間の血と体液の充満する空気の中、永遠のように感じられる時間が流れ、彼女は片目を開けた。
「……え?」
獣が背を向けて立っている。
獣が背を向けるのは、そこに何もない時か、或いは〈服従〉した時だけ。そして獣人・守野一郎は呆然と立ち尽くす彼女を置いて消えた。
日向波遠はすぐに現場から、惨劇の空間から逃げた。見つかっても返り血を浴びていない自分が疑われることはないのだが、とにかく逃げた。路地裏から飛び出し、真夜中の街を走り抜ける。
どすん
誰かとぶつかってしまった。恐らく今自分の顔はとんでもない表情をしているだろう。恐怖による蒼白か、はたまた希望を感じた高揚か。
「す……すみません!」
「ん?おい、お前……」
女性の声だった気もするが、波遠は相手の顔を見ずに走り去った。
《五月十七日》
◇ ◇ ◇
次の日、波遠は極力テレビを避けた。昨日の殺害現場を目撃してしまった事実はちゃんと認識している。だがなんとなくニュースは見たくなかった。彼女の頭の中はそれよりも、殺人なんかよりも、人が人でなくなった食人鬼なんかよりも、もっと重大な事柄でいっぱいだった。
――私の声は届く。
簡単な事だった。内気が故にそんなことにも気付かなかった。いや、目を背けていた。波遠は手早く身支度を済ませ、学校へ向かうべく玄関を出た。
くもり空。
昨日の夜がいつもより暗く見えたのはこの為でもあったのか。いつもは天気予報を見て午後の降水確率の状況で傘を持っていくか決めるのだが、今日はそんなことも面倒に感じた。彼女は足早に未だ中で両親の眠る家を出た。
そろそろ通い慣れてきた高校。歩き慣れてきた教室までの廊下。
今日の日向波遠は、いつもと違った。
「おはようございます!」
登校してきたばかりの生徒達がちらほらと居る教室の扉を開くなり、彼女は威勢良く叫んだ。反応は……無い。彼女は一瞬躊躇したが、もう一度
「あの!今日は良い天気ですね!」
馬鹿なことを口走ってしまった。良い天気なわけがないことを先程自分で確認した筈だ。だが思わず出てしまったものは仕方ない。彼女は反応を待った。
「―――ですね」
彼女は目を見張る。教室内の全員が自分を見ていた。
「そうですね。今日は良い天気だ」
そう笑顔で答える男子生徒に合わせて他のクラスメイトも頷く。
――通じた。でも、何でだろう?
何故皆は今日がくもりなのに良い天気だと答えるのか。自分を馬鹿にしているのか?
否。
他の生徒からはそんなもの感じられない。実際、一ヶ月この連中を見てきて、人を嘲笑うような連中ではないことはわかっている。常識を備えた高校生。
――きっと合わせてくれたんだ。
彼女は嬉しさの余りこの件はそう妥協し、いつも通り窓際一番後ろの席に座った。
《五月十八日》
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