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『血鎖の支配』
作:是音



第七章 四、《MAKI memory 3》


 四、《MAKI memory 3》

 私たち姉妹の生活にも、沙紀の苦手とする寒い冬がおとずれた。
 快かった風は冷たく肌を刺す風へと変わった。
 景色から色彩は失せ、なにもかもが灰色の風景の中に閉じ込められる。
 見ていて癒された海も、今は冬の暗鬱な雲の下に怪しく拡がっているだけ。
 空はこれでもかというくらいに世界を冷やそうと雪を降らし、この時期ばかりは庭に出る気にはならず私は一人窓の外をながめていた。
 降り積んだ雪が、日を受けたところは銀のように、雲の蔭になったところは鉛のように、妙に険しい輪郭を描く。
 今日はあまり日が出ていないから、鉛ばかりだ。
 とても重い。
 私はがらにもなく落ち着きのない子供のように部屋の中を動き回っていた。

 沙紀が仕事へ赴いたまま、もう数日帰ってきていない。

 長引くとは言っていたが、それでも帰ってくる予定の日をさらに数日越しているのだ。
 私はうろうろと煙草を片手に足を動かし、窓の近くになると足を止めて外を見る。そのくり返し。

 そして一体何回ぐるぐると部屋を回りつづけただろうか、と考え始めた日。窓の外に見知った姿を見た。
 雪を肩に乗せながら、疲れた顔をしているがやっぱり微笑んでいる。
 私は急いで外へ出た。

「おかえり姉さん」

「………」

「姉さん?」

 様子がおかしいのは一目でわかった。けれど私は何も言わず、沙紀に肩を貸した。彼女は足取りがふらふらしていて、歩くのも辛そうだったから。
 〈凶〉をはめたままの両手が、彼女の余裕のなさを表していた。
 沙紀の顔がすぐ隣にある。
 笑顔を保つのも辛そうで、口から吐き出される白い息のペースが、私のペースの倍近くはやい。

「大丈夫か、姉さん」

「……うん、大丈夫」

 言葉の内容と調子が矛盾していた。
 ゆっくりとした足取りで私たちは庭を横切る。
 家に入ろうとしたその時、沙紀が足を止めた。

「……あそこが、いいな」

 細い目線の先には雪の積もったテーブルとベンチ。
 どうやらあそこに座りたいらしい。
 私は頷いて沙紀をそこまで連れてゆき、ベンチに積もった雪を払った。
 そこに着ていた上着を敷いて沙紀を座らせる。
 彼女はとても嬉しそうに息を吐いた。

「やっぱり、ここは良いね」

「すぐに紅茶を持ってくるよ。それともコーヒーがいい?」

「……ううん、紅茶」

「わかった」

 私は早足で家に入り、キッチンで湯を沸かす。
 沙紀がこの季節によく好んでいた種類はなんだったか、と思い出しつつ紅茶の葉が入ったビンを棚から取り出す。
 取り出してビンを片手に眺めたまま、私はそこで固まった。

 きっと、これが沙紀の飲む最後の紅茶になると悟ったから。

 沙紀に肩を貸したとき、スーツの胸元から包帯が見えた。隠しているつもりだったかもしれないが、赤く染まったそれは白い季節にはとても目立つ。
 そして口から流れた一筋の赤い線。
 本人も気付いていなかった。味覚が失われているということだ。だから沙紀も、知っている筈。自分はもう長くないと。

 しばらくビンを握りしめて立っていたが、湯が沸いたのでキッチンに戻った。
 片手の盆には紅茶の入ったポットと、カップが二つ。もう片方の手にはストール。沙紀は寒いのが苦手だから。
 庭へ戻ると、沙紀はぐったりとした様子で座り、目を閉じていた。

「姉さん?」

 私が呼びかけると、うっすらと目を開けて微笑む。
 必ず、私に笑いかける。
 私は彼女の肩に持ってきたストールを掛け、テーブルの上に紅茶のセットを乗せた。

「あら、今日は摩紀も飲むの?」

「うん。寒いからね。付き合うよ」

 言いながら沙紀のカップに液体を注ぎ、自分のカップにも注ぐ。

「嬉しい」

 また目を細めて笑い、紅茶の注がれたカップを口に付ける沙紀。
 カップを掴むその両手はかたかたと小刻みに震え、とても飲みづらそうだった。
 私は見ていない振りをしてカップを口に運ぶ。
 一口飲んで息を吐く。
 とても白い息だった。

「ふう。今日も無事に紅茶が飲めて嬉しい……。摩紀、とってもおいしい」

 姉さんは嘘つきだった。
 ぜんぜん無事じゃないのに。おいしいと感じる事なんてできるはずがないのに。……春は一緒に桜を見に行くって、言ったのに。

 私は沙紀の隣に座って肩をくっつけた。
 細くて華奢な彼女の肩はぴくりと動く。

「……姉さん無事じゃないくせに」

「………」

「凶をはめたままで紅茶を飲むなんて、初めてだろ」

「……ばれちゃった」

 私の心配をよそに、沙紀はそう言って一人くすくすと笑った。
 いつもは見ていて安心するその笑顔も、今日は私の心を締め付けるばかり。
 その細い目も、唇も、頬も、滑らかな輪郭も、今日だけは違うもののように見える。
 沙紀は綺麗だ。
 私はいつも、彼女の人を安心させる穏やかな笑顔と優美な立居振舞に見とれたものだ。
 だけど今は……。
 そのすべてが飛花落葉の儚さにひとしく思える。
 あまりに美しい花が、風に散り、葉を落とす様は、より一層世の移り変わりの悲しさを強調する。
 それと同じなのだ。

「もう、駄目なの?」

 私がそう訊くと。
 沙紀は暗い海を、空虚なまなざしで見つめたまま、こくりと頷いた。

「うん。致命傷……かな」

「だ、だけど、もっとちゃんと診てもらえば――」

 言いかけて、私の顔は温かさに包まれた。
 いつの間にか沙紀の足元には手甲が落ちていて、温もりのある両手を私の頬に当てていた。
 お茶を持っていたからか、とても温かい。
 沙紀は私の目を覗き込んでくる。

「摩紀。今を大事にしなきゃ。でしょ?」

「それは、だって……」

 私は泣いてしまいそうだった。
 姉さんは私との時間を大事にしてくれたからこそ、こうして帰ってきてくれたのだ。本当に優しすぎる姉さんで、私のことを一番に考えてくれる姉さんで、最後の最後まで妹馬鹿なその性格に目頭が熱くなる。
 でも泣いてはいけない。
 沙紀が笑っているのに、私が泣いて彼女を悲しませてはいけない。絶対にいけない。
 だから私は無理矢理にニッ、と笑ってやった。

「あら。あいかわらず笑顔がヘタな妹さんね」

「……む。うるさいな」

「でも、かわいいかわいい」

 子供の頃のように、沙紀は私の頭をなでた。
 恥ずかしかったけど、嬉しかったからそのままなでられていた。
 姉さんと一緒に見つけた私の〈摩〉の字は、なでるという意味があるから。

 なでる手に力がなくなっていく。
 沙紀は一瞬とても苦しそうな顔をして、血を吐いた。

「姉さん!」

 もう、終わりの時が近づいていた。
 私と沙紀の大切で温かい時間が終わる。ずっと続いて欲しいと願い、大事にし続けた生活が終わる。
 私は今さら自分達の仕事を憎んだ。都合のいい話だけど。
 覚悟したって、わかっていたって嫌なものは嫌なんだ。抗いたくても、何もできない私は必死でこの時間を漏らさず心に詰め込むしかできないじゃないか。抗う術を考える時間も、勿体無いじゃないか。

 沙紀の息遣いが荒い。
 背もたれに身体を預けてしまっている。
 そして彼女は自分の足元を指した。

「凶を……」

「うん」

 私は沙紀の武器である手甲を拾い、ひざの上に置いてやった。
 彼女はこれまで幾つもの命を奪ってきた道具を、やさしく触る。

「ありがとう。これは……私の命を何度も救ってくれた道具だから。摩紀との時間を、とてもたくさん与えてくれた道具だから」

 凶も、私たちの生活の為には必要なものだったのだ。
 この道具の名前〈まが〉は沙紀が名付けた。本来は浸透水鏡しんとうすいきょうという名で、その名の通り手甲は煌びやかで、まるで水面のように静かな輝きを放つ。
 でも沙紀はあっさりと名前を変えた。『ちょっと不吉なほうが縁起が良いのよ』と言って。
 その時も私たちは二人で笑った。この道具も、私たちの温かな思い出の中に含まれている。
 蜘蛛という異名の由来。美しく人を殺める呪われた道具。
 でも私たちにとっては、愛すべき道具。

「摩紀……」
「ん?」

 呼ばれて私は沙紀の手を握る。沙紀は寒いの苦手だからね。
 雪がしんしんと私たちを包む。
 足元は赤く染まり、それ以外は暗くて白い世界。

「私、ひとあし先に桜を見ちゃったの」

「今は冬だぞ姉さん」

「咲いていたの」

「……そっか」

 私は頷いた。
 沙紀はとても綺麗なものを見たかのように、私にその様子を語る。

「ねえ摩紀。桜が……白く咲いていたのよ。一緒に見たかったなあ」

「また見に行けるよ」

「ふふっ」

「そうだろ?」

 沙紀は困った事を言う妹に合わせるように、にこりと笑ってくれた。

「うん。また、見に行こうね」

「だから……」

「ええ。だから、それまで少しのお別れ」

 それを聞いて、じわりと何かが胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。
 私は輪廻転生を信じていなかったけど、そのときだけは本当にあるのかもしれないと思った。というより、信じていないからこそ、本当にあって欲しいと願った。
 生まれ変わってもまた姉さんに会える。会いたい。

「またすぐに会えるよね、姉さん」

「うん。会える」

「それまで絶対に笑ってろよ」

「うん。摩紀も、それまで泣いちゃだめ」

「泣かないさ」

「……ふふっ」

「ん?」

「私と出会ったときは泣いてたくせに」

 昔を懐かしむ沙紀の目。その目にはもう、どんな風景も映ってはいないだろう。当たり前の、しかし私たちにとっては思い出がいっぱい詰まった海や空が、沙紀にはもう見えない。

「約束するよ。私は、姉さんとまた出会うまで絶対に泣かないから」

 私の声を聞いた姉さんはくす、と笑った。

「あらあら。もう泣いてる子が言っても、信用できないわよ?」

 私は必死で顔を拭う。
 そんな私の頭を、沙紀は自分の胸元に抱き寄せた。やわらかな膨らみに顔をあてると、小さく弱々しい鼓動が聞こえる。

「私は大丈夫だぞ姉さん。大丈夫だから……」

「うん。わかってる。摩紀は強い子。摩紀は良い子。わたしの大切ないもーと。かわいいかわいい」

 もうほとんど動かない手で私の頭をゆっくり、ゆっくりとさする。
 そんな姉の顔を見上げた私は、嗚咽をまじえてお願いをした。

「沙紀姉さんも、約束……して」

「……うん?」

「次に会ったら……また私に名前をちょうだい」

「摩紀……」

「私は、姉さんに名前をつけて欲しいから。姉さんじゃなきゃ嫌だから……!」

 沙紀はくすりと笑った。なにを当たり前なことを言っているのかしら。と、そう言いたげに。涙を浮かべて笑っていた。

「そんなの……お安い御用よ。また一緒に名前……探そうね」

「約束」

「うん、約束」

 私と沙紀は小指を絡ませ、そして両手を絡ませた。

 ――大好きな姉さんにまた会える。

 ――そしたら、また一緒に辞書を開く。

 ――ぱらぱらと沙紀がページをめくって。

 ――目が痛くなった私は適当なことばに指を置く。

 ――そこから、私がスタートするんだ。

「さよならは言わないよ姉さん」

「うん。私も」

 私は最後の最後まで、二人の時間を残さず心に詰め込めように。
 ぎゅっ、と沙紀の温かさを全身で感じた。
 沙紀は私よりずっと優れている。笑顔は素敵で、言う事は知的で、性格は穏やかで、胸だって私より大きい。
 私はこんなに嫉妬できる姉をもてた事を、誇りに思うよ。

「妹にしてくれてありがとう」 
「うん」

 きっと、また会える。

「名前をくれて、ありがとう」
「うん」

 だからそれまで決して、このぬくもりを忘れない。
 次にぬくもりを補充する時は、ずっとずっとくっついてやるんだ。
 だからさ。
 沙紀姉さん。

「また会おうね」
「また会おうね」

 二人の声が揃い、おもわず私は笑ってしまった。
 でも、沙紀はもう笑ってくれなかった。
 もう二度と、動かなかった。
 なでてくれなかった。
 私を呼んでくれなかった。

「姉さん……」

 どれだけ雪が降ろうと、どれだけ私たちを包もうと、二人の温かさは絶対に消えたりしない。
 ずっと温かいままなんだ。

「ありがとう。沙紀姉さん」

 空を見上げてみる。
 春はまだ遠い。
 一人でこの冬を乗り越えるのは辛すぎる。
 私はここを離れる事にした。

 海が近くて、山も見える草原の家。
 春は強めの風を受けながら草の上で本を読んだ。
 夏は姉妹で水着を着て、好きなだけ泳いだ。
 秋は山まで散歩に行った。
 冬は……ずっと家の中で過ごしてたっけ。

 仕事のない日はいつも二人。
 この家には、二人の時間が詰まっている。

 ここは、思い出として残しておこう。

 二人の声が、永遠に二人だけのものであるように。    












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