第六章 四
四、
その事務所は乱雑としていた。
デスクや接客用のテーブルの上には資料――それもかなりの量が散らばっている。
その部屋の中心に一人、女性が煙草を吸いながら立っていた。
テーブル上の灰皿からは吸い殻が溢れている。
御堂摩紀という名の彼女はこの事務所の主人であり、神野王牙をバイトとして雇った張本人である。 彼女もまた王牙と同じくそうなるまでに至った経緯がいまいち理解できていないのだが、そんな細かい事はいちいち気にしないといった態度が王牙との違いだろう。
ちなみにこの事務所、探偵事務所としてはあまり機能していない。
御堂の裏の顔でもある始末屋業。その情報収集をする際に探偵という肩書きがなにかと便利なだけなのだ。
ここが〈死神〉と異名づけられる彼女の拠点であるという事は、実のところ裏世界では有名な話である。
そしてそれ故にこの地域どころか、この街にさえ近づく事を避ける裏稼業は多いのだが、当の本人は全く知らない。
たとえ知っていたとしてもやはり些細な事として気にも留めないだろう。
マイペースというか、自分が興味の無い事には徹底的に無頓着な。それは言い換えれば――冷酷とも言える。
そんな彼女は、たった今まで調べてきた資料を引っ張りだして調べ物をしていた。故にこの雑然たる有様である。
それらの中には彼女がこれまで受けてきた依頼の資料や、相手にした組織の情報が書かれたものまである。
しかしほとんどは不要だったらしく、閲覧したままほったらかしにされていた。今は学校に行っている雑用に片付けさせるつもりだろう。
立って腕を組んでいた御堂は、普段なら雑用係が寝そべっている筈のソファにゆっくりと腰を下ろし、煙草を灰皿に押しつける。
その際に数本の吸い殻が零れ落ちたが、やはり気にする様子はなかった。
御堂は振り分けられた資料の、参考にした紙の束を手に取る。
斜めに流した前髪から覗く片目でそれを眺める女。その表情は冷たいというか、無感動な印象を受ける。
「……恵西高校の件。行方不明者が現在三人か。……ふん、もう一人……増えるな」
そう呟きつつ、一枚紙をめくる。
次に出てきたのは何故か守野一郎という男の資料だった。
もう一枚めくると九条握人の資料が。
さらにもう一枚めくると、日向波遠の資料まで表れた。
何故、恵西高校の行方不明事件の資料と一緒にしてあるのか。
ぱらぱらと紙をめくる御堂の顔には一度たりとも変化がない。
そしてまるでこの件はもう終わっている、もしくは興味が無いとでも言わんばかりに、バサリとそれらの束を再びテーブルの上に置いた。
「この件はきっとすぐに終わる。そこに私は居ない」
女は冷たい目を窓に向けた。
「雪が降りそうだね、オーガ。お前の運命論に私をあてはめたら、私はどんな物語になるのかな……」
ソファの背もたれに身体を預けた彼女の声はとても弱々しく、そして――
「滑稽だよ。私は冬、好きなのに……」
とても哀しげな声。
そんな、今にも消えてしまいそうな小さな声で、普段冷酷な女は細々と呟く。
それはもし隣に誰かが居たとしても聞き取るのは難しい程、力の無い声。
頭の中で呟いている言葉が、外に漏れだしているような。
「……これで鬼人……もうわかった。……だとすると……七年前の仇を。奴はきっと……待っている。知っているからだ。全てを知っていて、それで……。関係ない。関係ない。関係ない。関係ない。私は……私は私の目的を、果たす。そうだ、関係ないのよ。興味が無いのよ。純血一族なんて……」
窓の外を見つめたまま、呪文のようにぶつぶつと呟く。
「けど――」
御堂は立ち上がった。
デスクの方まで歩き、アタッシュケースを引っ掴む。
「私の目的と重なったのなら――」
新しい煙草に火を点けた。
これから彼女は行動を開始する。
始末屋の仕事ではない。
それは〈死神〉という異名に笑われてしまうような行動なのだが、しかし彼女が〈死神〉になる理由ともなった行動。
言わば運命に基づく行動。
紫煙をくゆらせた御堂は、部屋を後にする。
「私は容赦しないから」
◇ ◇ ◇
王牙と波遠が御堂の事務所へやって来た時、中には誰も居なかった。
その散らかりきった室内を見た二人は部屋の入り口で硬直している。
そんな部屋の片付けを自分がするのだと悟ったのだろう。王牙は事務所の合鍵を手から滑らせてしまった。
鍵が落ちた先にも紙が散らばっている。
「なんだ、これ」
「全部書類のようですね」
二人は室内に入ると、デスクやテーブルの上に乱雑に置かれた書類を手にとってみた。
王牙の方はデスクの上を調べてみても御堂にしかわからないようなものばかりだったので、とりあえず灰皿の上に山積みにされた吸い殻を捨てに行く。
テーブルの方で書類を手に取っていた波遠は、その中に目を引くものを見つけた。
その紙には忘れもしない顔があった。
つい今日の昼休みに見た顔。
とても近くまで近付き、忌まわしい言葉を吐いた顔。
藤乃宮園子の顔写真と共に、彼女の細かな情報が書かれていた。
(何だろう。どうして摩紀さんがあの人を?)
首を傾げる波遠だったが、王牙が溜め息を吐きながら戻ってきたので慌てて紙を伏せた。学校でのやりとりもあったので、彼がこれを見たら不快に感じてしまうと懸念したからだ。
もし、波遠が園子の資料に目を取られたり、急に王牙が戻ってきたりしなければ、気付けていたかもしれない。
今、波遠が紙を伏せた所の下に、恵西高校行方不明事件の資料があった事に。
彼女がそれに気付くのはもう少し先である。
「ちぇ、摩紀さん居ないのか」
王牙は明らかに不満の籠められた態度でソファに腰を埋める。
皇真の事を言うのが先延ばしになったので本来は安堵する筈なのだが、何故か彼は物足りない様子で居た。
その口から愚痴が零れる。
「摩紀さんってさ、最近いっつも出掛けていて会うのが少ないんだよ」
「そう……なんですか。お仕事が大変なんですよきっと」
王牙は笑いながら顔の前で手を振った。
「あー無い無い。それにあの人が真面目に仕事をするって事は、その度に人が死んでるって事だぜ?」
「そ、それは厄介ですね」
「本当に厄介な人だよ。自分と一緒に居れば安全は保障するとか言っておきながら危険な目にばかり遭わされるし」
「………」
「でも、危険な目には遭っても、俺は今も無傷で此処に居る」
「……はい」
「嘘は吐いても、絶対に約束は破らない人だから」
「よく知っているんですね……摩紀さんの事」
王牙の隣に座った波遠は笑顔を向けながらも、複雑な気持ちでそう呟いた。
王牙は御堂の話をする時は大抵愚痴ばかりなのだが、それでも生き生きとした顔で話す。
波遠はそれをいつも笑顔で聞くが、内心は違った。
「王牙先輩には、夢ってありますか?」
「へ?」
思わず気の抜けた返事をした王牙は、次に腕を組んで少し考える。
「夢は……無いなあ。俺が夢みたいな存在だから」
言って、王牙は目を細めて笑った。そして波遠にも問う。
「波遠には夢、あるのか?」
「ありますよっ」
波遠は胸を張って答えた。
「でも秘密です。わがままな夢ですから」
「なんだそりゃ」
ぷはっ、と息を吐いてだらりと頭を後ろに倒す。
そんな彼を見る波遠の顔は、困ったような、耐えるような、そんな表情をしていた。
素直に、心の底から笑顔を出す事ができない。
心が何を欲しているのか。
何に満たされたいのか。
それを望むのは――我儘な夢。
「先輩は摩紀さんが好きですか?」
漏れてしまったその一言。
訊かずには居られなかった。
こんな事を訊かれて、相手は一体どんな反応をするだろうかと思ったが、意外にも王牙は平坦な口調で返した。
「うーん、好き……ってのはどうなんだろう。ただ、なんか放っておけないというか、いや実際に守られてるのは俺の方なんだろうけど。あの人、仕事以外は何もかもが適当だし。俺が雑用しないとぐうたらしたままだし。だから放っておけない。そんな感じなんだよ」
「それは……摩紀さんの事が気になるという事ですか?」
「そりゃ気になるよ。今日は何の仕事を押しつけられるのかとか、機嫌が悪かったら帰ろうかなとか」
それは王牙が実際に毎日考えていた事である。
「じゃあ摩紀さんを恐がってるだけ?」
「いや、好きだよ」
「………」
「嫌いじゃないから、好きだ」
なんだかはっきりとしない。
波遠はスカートの裾を握り締めながらもどかしく思った。
「俺は好きって感情に触れ合った事が無いからな」
その、無関心を極め鈍感を極めた発言に波遠は半ば呆れ気味ながらも怒りを覚えた。
学校で、ほんの少し周りに気を向けたら彼はいくらでもそういう感情に触れ合っている事に気付く筈なのに。
学校鞄を掴んで急に立ち上がる波遠を、王牙は首を傾げて見上げる。
「どうした波遠?」
「先輩はもっと周りにも気を向けるべきです!」
そう強く言い放った少女はぷりぷり怒りながら事務所から出て行ってしまった。
一人取り残された王牙はサッパリ意味を理解していないのか、ソファに座ったままぽかんとしていた。
その状態のまま、あらぬ方向を見つめたまま、彼は話し掛ける。
「周りに気を向ける。どういう事だ皇真?」
『んぁ? ………てめぇは俺様だけを見ていれば良いんだよ』
王牙の裏人格はよく考えれば恐ろしい意味を含んでいる事を言ったのだった。
◇ ◇ ◇
零、《narration》
んふっ、んふふふ。
んー。まぁ、なんつーかさ。
好きだったんだろうねぇ。日向波遠は神野王牙の事が。
ところが驚くことにその彼氏、実はかの有名な純血一族(秘密主義を主張しておいて有名とは矛盾もイイトコだが)その頂点に君臨する家系の人間だったのさ!
んっふふふふふ!
日向家の娘が御上の人間に恋心を抱くなんて、禁断も禁断だなオイ!
んふっ、んふふっ、んっふふふふふ!
あん? 最初にも出てきたお前は一体誰なのかって?
……うぅーん、まぁおれっちは語り手って役割だと思ってもらいてーな。
じゃあ『ストーニー』とでも名乗っておくかい。
おれっちの自己紹介なんざどうでも良いや。話に戻ろうかね。
さてこの日向のお嬢さん、言葉足らずでお馬鹿な握人クンのお陰である事件を巻き起こしちまったのは覚えているかな?
世間的にゃあ彼女が原因だなんて知られていねぇ。
そりゃそうだ! なにせ秘密主義大家族の能力で起こった事件だからよ。
ん?
あれ?
あれあれあれ?
でもなんかおかしくないか?
純血一族ってのはさ、あくまで本人達は秘密主義を主張してんだぞ。
脱走者の九条握人は例外としても、日向波遠が何も知らずに学校行ったりと普通な生活を送っていたのは、おかしいとは思わないかい?
日向の人間が、何も知らなかったとはいえ一般に溶け込んでいたんだぞ?
そういえばもう一人、似たような奴が居たね。
獣人の守野一郎も、行方不明になる以前は一般に溶け込んでいた。
純血一族の性質を考えればおかしいと思うかもしれない。
しかーし! 実はコレ、おかしくないんだよ。
このストーニーが教えてあげよう。
あのな、秘密主義、秘密主義とばかり言って守りを固めすぎると、やっぱりどうしても時代から離されちまうんだ。
ちょいと変な例えだが、鎖国時代の日本みたいな感じか。
で、それを防ぐ為には一般社会を身近に感じる必要がある。なら一族の一部の人間を溶け込ませれば良い。
ところが厄介な事に呪詛を宿した身体の影響で、どうしても一般人に対して殺人衝動が芽生えちまう者が出てくる。
そこで用いた技術が、〈呪詛封じ〉だ。
能力を封じ込め、しかし身体に宿る呪詛には代償を与え続ける。呪詛はただ代償を貰うだけになるので文句はないわけだ。
殺人衝動も起きなくなる。
ま、これが呪詛封じの簡単な説明だ。
つまり波遠も一郎も、それを施された人間だったわけ。
結局は二人とも呪詛封じが解かれて事件を起こしちゃったんだけど。
んふふっ、んふふふ。
そういやぁ守野一郎ってさ、守野家の次期当主になる予定だったらしいけど。
全然そんな器じゃなかったよな。
ん? なんでおれっちがそんなに色々な事情を知っているのかって?
簡単簡単、それはおれっちが語り手だからさ。
んふっ、んふふふふふふふふ。
◇ ◇ ◇
(何であんな事を言ったんだろう)
事務所を出た波遠はその足で中村美央との待ち合わせ場所に向かいながら、先程の発言を思い出す度に顔を赤くしていた。
失言だった。
よく考えたら話の流れからして自分が王牙に対して好意を向けているのがすぐにばれてしまうからだ。
穴があったら入りたい気持ちを実感しつつ歩を進めるうちに、視線の先に待ち合わせの場所である公園が見えてきた。
この公園は王牙と初めて会った場所でもあり、必然余計に顔が赤くなる。
敷地の中へ入ると友人がベンチに座って待っていた。
「もー。遅いぞ波遠ー」
「ごめんごめん」
中村美央は不満をむき出しにした膨れっ面をして見せたが、直後にはニッと笑っていた。
「じゃあ早く行こう! 私良い所知ってるからっ」
波遠にとって友達と買い物に行くというのは実は珍しい事である。
過去の事もあり、そもそも友達というもの自体、できたのは小学校以来なのだ。
美央の方は行き慣れているのか街の隠れたショップを知っていたり、店員とも仲が良かった。
ショップスタッフのファッションを真似るのは別に珍しくなく、美央もその類だった。
制服姿の女子高生が二人でショップ巡り。
どこにでも見られる光景。
しかしそれは波遠にとって、こんな楽しい時を過ごして良いのかと思ってしまう程に新鮮だった。
「波遠と買い物行くのって初めてかもね」
「うん、でも美央ちゃんて顔が広いんだねー。私驚いたよ」
「ふふ、あたし探求心旺盛だから」
衣服の入ったいくつもの買い物袋を傍らに置いた二人は、喫茶店の一番奥のテーブル席に座っていた。
街から少し外れた場所に位置しているこの喫茶店は客が少ない。
波遠もこんな所に喫茶店があるとは知らなかったが、美央のお気に入りだという事でやってきたのだ。
二人は天井でゆったりと三枚の羽を回すローターを見つめたり、途方も無い世間話をしてのんびりと落ち着いた、楽しい時間を過ごしていた。
「でさ、昼間の件なんだけど。神野先輩から何か聞き出せた?」
「あ……えっと」
波遠は口籠もる。
二重人格や、王牙の正体というとんでもない話題になった為に、そんな小さな事はすっかり忘れていたなどと言える筈もない。
「先輩も知らないって」
と、無難に答えておいた。
ところが美央は特に残念がる様子も見せず、むしろ明るい口調で、
「そっかそっか、あたしの方はちょっと仕入れたよ!」
と元気良く言った。
新聞部のネタ集めで聞き込みをしまくった結果、手に入った情報があるらしい。
「今まで行方不明になった三人なんだけど、全然接点が無いのよ」
「接点が無い?」
「そう。聞き込みをしている時に、ふと相手がそんな事を漏らしたもんだからビビッときたのよ!」
「で、調べてみたらやっぱり無かったのね」
「そうなの!」
美央は、陰謀よ陰謀! といつもの口癖を唱えながら砂糖の詰まった長細い袋をピッと振った。彼女はブラックで飲む派だ。
「これは盲点だったわね。こんな短期間に連続で三人が家出。しかもその三人には全く共通点が無い。これは結構重大だわ。噂の〈白い男〉とも関わりがあるかも」
「白い男?」
波遠はその単語に反応した。
「えっ! 波遠聞いた事ない!?」
美央の方は一時期とても話題になった事柄を知らない友人に驚いた。
「えっとね、あたしが別に追っている小さな件なんだけど。変な男が昼夜問わず街で目撃されているの」
「いつから?」
「それがわかんないのよ。夏に分厚い白コートで歩いているのを誰かが目撃してから話題になったんだけど。しかも最近また目撃情報が入って、もしかしたら家出の件と関係があるのかもって……」
「そうなんだー」
半ばうわの空で居る波遠。
「何? 何? 波遠はその男を知ってるの!?」
「え!? ううん、知らないよ」
目をそらし気味に答える友人を見た美央は首を傾げていた。
「ま、いいけどさ。しっかしこの街って最近怪事件が多いよね。人体バラバラにしたり心臓引っこ抜いたりする猟奇殺人とか、遊園地に一夜で掘られた巨大な穴とか、自殺事件………はっ!」
言ってから気付いた美央は慌てて口に手を当て、上目遣いで波遠に目線を送った。
「ご、ごめん」
「気にしないで。でも確かに変な事件が多いよね。そう考えると今回の家出の件も大事になりそうで恐いかも」
いつも通りの波遠に安堵したのか、美央は明るく言葉を繋げる。
「だよねだよね、やっぱり学校の陰謀なのよ。違いないわ。事が大きくならないうちに私が全てを暴いてやる!」
「み、美央ちゃん。あまり度の過ぎた事をしちゃ駄目だよ?」
やる気を全開にさせている美央を波遠が嗜めるが、新聞部の腕章を付けた娘は拳を握り締めてはるか遠くを見つめていた。
◇ ◇ ◇
(ふう……)
家へ帰った波遠は自分の部屋で今日買った衣服を一通り着てみた後、それらをそのまま床に放置してベッドの上に寝転がっていた。
(白い男……か)
天井の模様を眺めながら波遠は思い出す。
小学校から中学校へ上がる間の春休み。彼女は一度だけ白コートの男に会った事があった。
それが美央の言っていた男と同一人物なのかはわからないが、当時の波遠には出会ったその男の白いイメージが鮮明に焼き付き、今も覚えている。
そいつが自分に向けて発した言葉も。
◇ ◇ ◇
“嫌味な話だとは思わないかい?”
家の近くにある公園で遊んでいた十二歳の波遠に、男はそう言った。
見知らぬ人物に警戒する少女の、怪しむ視線を気にもせず男はなにやらペラペラと難しい事を語っていたが、波遠は理解できずに聞き流していた。
しかし金髪の男が彼女の頭の上にポンと手を乗せながら言った科白だけは断片的にだが今も覚えている。
“君は実に勿体ない”
彼は心底悔やむように――
“解き放ってやろう”
彼は希望を抱くように――
“忘れるな、君は一人ではない”
独り言のように語り掛け――
“君には彼女が共に居る”
しかし心の奥底に根付かせるように語り掛け――
“彼女と出会う事ができたのなら……再び私と会う事もあるだろう”
そして消えた。
◇ ◇ ◇
(彼女って結局誰の事だったんだろう)
天井と睨み合ったままの波遠。彼女は未だに当時あの白コートの男が言った言葉の意味が理解できていなかった。
あれ以来会う事もなかったという事は、やはり〈彼女〉に会っていないからなのだろうか。
共に居て、出会わない。
サッパリ意味がわからず、いつもここまでで波遠は思考を放棄する。
これ以上思考したところで発展は無さそうだし。
ただ、今回だけは思考を中断させる別の要素があった。
神野王牙の顔が思い浮かび、憂欝になる。
(御上の人間……)
もはや波遠は確信していた。
自分は神野王牙が好きである事を。
全てを正直に認めた。
不登校の彼を学校へ行かせたのは御堂摩紀の傍に居させたくなかったから。
昼休み、美央と一緒に理由を付けて屋上へ行ったのはただ彼に会いたかったから。
藤乃宮園子を攻撃しようとしたのは……嫉妬したから。
クラスメイトの為でも、美央の為でもなかった。
本音は彼に他の女が近づくのを許せなかった。それだけ。
(私……最低だ)
隣に居るのは自分だけにしたかった。
とても大きな、純血一族という壁に隔たれているのに。
だが彼はそれから逃げなければならない身だ。
彼はカンヤオウマでもあるのだから。
生涯となる人格の皇真が憎いかと問われれば、波遠は否と答えるだろう。皇真が居なければ王牙は生まれなかったから。
波遠はジンノオウガが好きだ。
ずっと隣に居たい。一緒に居たい。話がしたい。
だが枷が多すぎる。
隔てる壁が多すぎる。
波遠は純血一族。
王牙は一般人。
純血一族が一般人と親密になる事は許されない。
波遠は純血一族。
皇真は純血一族。
同じ組織として近くに居ることはできる。
波遠は日向家。
皇真は神野家。
親密になる事は決して許されない。
どう転んでも恋は許されない。
ところがここで一筋、光が差し込む。
皇真が掟を破った存在であるというイレギュラー。
皇真という人格の存在が知られていないという幸い。
波遠が一緒に逃げれば、リスクはあるが一緒に居られる。きっと王牙は唯一事実を知る波遠を連れていってくれるだろう。
(それに、私は下っぱだから)
波遠は一度、日向家に消されかけた事がある。その時は両親に助けられたが、しかしつまるところ波遠は日向家にとってその程度の存在であるという事だ。
(摩紀さんやお父さん達に頼んで、私を消した事にして貰えば――)
――リスクは軽い。
その言葉が頭に浮かぶ前に波遠は自分の枕を思いっきり殴った。
殴って殴って、枕は抵抗が少ないから殴った気がしなくて。
それでも殴って殴って、奥歯が欠けるほどに食い縛って殴って。
目頭が熱くて。
視界がぼやけてきて。
頬に何かが伝っているのはわかるが、それが体温と同じ温度だったからわかりづらくて。
枕に染みたそれが雫だとわかった途端、枕に顔を埋めた。
枕を強く握り締める。
(どうして!)
どうして自分が純血一族なのだ。
自分にこんな血さえ流れていなければ、こんなに悩まなくたって済むのに。
(どうして……!)
どうして王牙が純血一族で、どうして家系同士でしか結ばれなくて、どうして恋ゆる事すら禁断なのだ。
(普通なら……全てが普通なら幸せなのに!)
普通なら、言霊なんて能力が無ければ。
孤独な中学生活を送る事だってなかった筈だ。
もっと簡単に恋ができた筈だ。
好きになるという感情に幸福を感じることができた筈なのだ。
憎い。
悔しい。
やりきれない。
同じ一族の中に、波遠と同じく自分の血を憎んだ者がどれだけ居ただろうか。
そして彼らはそう感じた時、どのような選択を取ったのだろうか。
(私は……。私は九条君と同じ選択をする)
つまりそれは純血一族を抜け、脱走者として王牙と逃げるという事。
九条握人の末路は知っている。
だが彼は決して後悔などしていなかったと王牙は言っていた。
「どうなるかは……わからない。後悔……だけは……したくない」
小さく嗚咽を残しながら涙を拭った少女の目に、曇りは無かった。
「けれど……その前に、気になる事を片付けないと。美央ちゃんが危ないかもしれないから」
◇ ◇ ◇
ほぼ同時刻。
神野王牙は自宅マンションの屋上に居た。
陽はとうに落ち、街の闇を月明かりが溶かす時間帯。
屋上は所々に亀裂が入り、落下防止用の金網も破損している。全てたった今つけられたものだ。
しかもその亀裂は全て細長く、まるで地面に鉛筆で戦を引いただけのような――そんな亀裂である。
屋上の中心。
王牙はそこで仰向けに倒れていた。
彼の喉元は少しでも動けば風穴が空いてしまう。
突き付けられた銀色のそれには空に浮かぶ月が、その形状に沿って歪んだ形で映っている。
まるでそれが月から伸びたレールのように、長い長い刀の切っ先を王牙の喉元に向けた男。
漆黒の着物に背の高い身を包み、短く切った髪はしかし、伸ばした襟足だけを結んだ男。
その姿を《必死の黒刀》と呼ぶ者も居れば《天下無双》と呼ぶ者も居る。
その男を前にしてニタリと笑った王牙、いや皇真は軽い口調でそいつに話し掛けた。
『意外に早ぇじゃねぇか。兄貴』
純血一族。
統一家系〈御上〉。
全ての上に君臨する男。
神野家当主にして純血一族最高位。
《ティンダロスの猟犬》に属していたという御堂摩紀の元同僚。
〈鬼人〉の異名を持つその男は、目下の弟に向かって軟らかに微笑んでみせた。 |