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『血鎖の支配』
作:是音



第六章 二


 二、

(……ふう)

 神野王牙は授業終了の鐘を聞きながら校舎の屋上で寝そべっていた。
 冷たい風に晒され、更には前日の雨により、多少は乾いたのだがそれでも所々に水溜まりが残る冷たい床の上で男はつまらなそうな顔をしている。いや、実際つまらないと感じているのかもしれないが、ようするにサボっていたのである。

 彼は進級してからたったの一度しか登校しておらず留年はもはや避けられないような状況なのだが、とある孤島での事件に関わった後、無駄ながらも一応ちゃんと来るようにはなっていた。
 といってもやはり退屈で、大抵は今みたいにこうして一人屋上に出てくる。
 彼が学校へ来るようになった理由は簡単。『行け』と言われたからである。それも一人ではない。そして一般人でもない。


 初めは日向波遠という名の少女に言われた。
 彼女は六月にこの学校で起こった事件に巻き込まれた事があり、その時に王牙と知り合った後輩だ。
 それ以降、王牙の不登校を知った彼女は度々彼のバイト先へ来ては学校へ来るように促すようになった。
 別に王牙は引きこもりになるつもりなどない。ただ生理的に普通の人とは近づきたがらないという妙な性格をしているだけなのだ。ただ、本人でもその普通という基準が明確にできていないのが厄介なのだが。

 次に言われたのが、なんと殺人者。
 しかも人違いというわけのわからない理由で王牙が出会ったそいつは九条握人といい、世界危険勢力とも呼ばれている組織から逃げ出してきた、いわば脱走者である。
 そいつは何者かによって既に殺されてしまったらしいし、会って話したのも二度だけ。それなのに、その少ない会話の中で彼は王牙に向かって『アンタは俺達と違って普通人なんだから、学校行けばいいだろ』と言っていた。
 その時王牙は自分も普通人なのだと改めて自覚し、なんとなく〈それもそうだ〉と思った。
 普通人が嫌いだとか言ったところで、自分もまた普通人なのだ。

 さらには九月、孤島へ行かされた時に行動を共にした九条八雲という女性。
 握人とは同じ家系で同じ組織に属していたが、面識はない。
 彼女はその孤島で殺されてしまってもう居ないのだが、そこへ向かう客船の中で王牙に対して『学校へは行くべきよ。嘘吐いて休むなんていけないわ』と、殺し屋もとい潰し屋らしからぬ事を言ったのだった。
 嘘が大嫌いだった彼女は王牙の中に何かを見たのだろうか。それはもう誰にもわからない。

 ついには王牙が五月から半ば無理矢理にバイトをさせられている探偵事務所の上司にまで『あー、もう行っちまえよオーガ』と言われてしまったのだ。
 上司の名前は御堂摩紀といい、常にスーツを着用したヘビースモーカーの女性である。
 流した前髪で片目が隠れているが、見えている方の目だけでも睨まれたら竦んでしまいそうな程に冷たい。両目で睨まれた日には殺されるのではないかと王牙は日々恐れてさえいる。
 そして実際彼女は〈死神〉という異名があり、ありとあらゆる異形達から怖れられる始末屋という裏の顔がある。
 元は《ティンダロスの猟犬》という世界規模の暗殺組織に属し、これも世界危険勢力と称されている。
 なぜ王牙がそんな女と関わっているかは、実のところ本人達も理解できていない。いや、きっかけとなった事件はあるのだが、それがあまりに謎が多すぎる為に考える事を保留にしているのだ。
 つまり王牙は何も考えず、ただ思ったように過ごしていたら実はとんでもない環境に取り込まれていた感じである。ちなみに王牙はちょくちょく裏の仕事を手伝うのでバイト代は多く貰える時もある。

 そして王牙を当たり前のように手駒と言い、毎日事務所へ来させるようにしたその張本人が『あー、もう行っちまえよオーガ』と言い放ったのだ。
 適当でめんどくさがりな上司だと王牙も承知してはいたが、毎日事務所へやって来ては王牙と御堂にモラルを諭す波遠に嫌気がさしたのだろう。ついには手駒まで適当に突き放したのだった。

(あの人が言ったらおしまいじゃん)

 屋上に寝転んだ王牙は普通人に対しては聞く耳を持たないという妙な性格をしているが、さすがに非普通人でしかも四人に言われたのだから従わざるをえない。
 渋々登校を決めた王牙だったが、内心少し苛立っていた。
 なんというか、この半年御堂の傍に居るうちに、彼はちょっと間の抜けた姿をたまに見せる上司の世話係的存在という立場が板に付いてしまっていた。それ故かそれとも別の理由があるのか自分でもよくわからないのだが、とにかく最近彼の中には苛立ちがある。

(最近摩紀さんは懸命に何かを調査しているらしいけど、俺には教えてくれないんだよな)

 厄介払いの為に登校を促したのだろうか。と、そう考えるとなんだか落ち着かない。
 憮然とした面持ちのままで起き上がった王牙は屋上に落下防止用として張られている金網に近付く。
 そしてそこで眉をひそめた。

 校庭よりさらに向こう側に、一本の大きな桜の木が見える。そしてそれには冬だというのに蕾が付いているのだ。
 季節外れな一本の桜の木に目を奪われていると、

『ギャハハ、《鬼桜》だな、ありゃあ』

 唐突に自分とは別口調の声が聞こえてきたのだ。しかしそれは……。

 驚いた王牙は後ろを振り返ってみるが、人が滅多に訪れない筈の屋上に居るのはやはり彼一人だけである。
 それなのに尚も声は続く。

『季節外れに咲く桜の事を、ウチじゃあ鬼桜って呼ぶんだぜ』
「誰だ!」

 とても近くから発せられているように聞こえる声に王牙は思わず叫んでいた。それでも一向に姿を確認する事はできない。
 姿が見えない人間。
 王牙はこれに心当たりがあった。彼の知っているそいつは、決して他人には姿を見せず、それでいて自分は何事もないように気軽に話すという嫌な性格をした暗殺者だ。

(まさかとは思うが、不可視さんか?)

『ああ? 不可視って何だよ。つーか〈誰だ〉って聞くのもおかしな話だぜ』
(!?)

 口に出していないのに言葉が返ってきた。いくらあの凄腕の暗殺者でもそこまではできない。
 それには驚いたのだが、そんな事よりも王牙は重大なことに気が付いた。そっと自分の口に手を当てる。
 誰かが居るわけがない。そんなのは当然だった。
 今まで喋っていたのは全部自分の声だったことに、今更気付いたのだ。
 そして水溜まりに映った彼の顔は、口の端を信じられない程に持ち上げ、ニタリと笑っている。こんな表情を王牙はした事が無い。

(一体何なんだよこれは!?)

 水面に映った自分ではない自分に後退りし、背中が金網にぶつかる。

(俺じゃないぞ。これは俺じゃない)

 何かの夢なんだと必死に考えを巡らすが、混乱する王牙にまともな思考はできる筈がなく、唯一わかるのはこれが現実に起っているという事である。

『んー。それは当たっているような、そうでもないような考えだな』
(!!)

 王牙のものではない王牙の声が再び屋上に響く。
 何が何だかわからず、ただ恐怖と警戒心と混乱に支配された王牙は金網にしがみついた。
 耐え切れずに叫び声をあげたくても、何故かうまく声を出せない。

(く、狂ったのか俺は?)

 金網をよじ登ろうと右手を掛けたが、なんと今度は左手が王牙の意思とは関係なく動き、右手を掴んだ。

『待て待て、まずは落ち着け。てめぇは狂ってなんかいねーから』
「あ……」

 急に王牙の意思で身体の自由がきくようになった。
 恐る恐る、ゆっくりと水溜まりに近づくと、そこに映った顔はいつもの王牙の表情。
 それでも混乱は続いている。

「どうなってる……?」

 そう呟くと、再び口が勝手に開いた。

『驚くのもまぁ、無理ねーか』

 王牙はニヤニヤしだした水面越しの自分に向かって尋ねる。

「お前、何者だ?」

『俺様はお前。そんでお前は俺様だ』

「は?」

『ん、それとも名前の事を言ってんのか? 名前は[神野皇真かんやおうま]って言うんだ』

 さらりと言われたのだが、それを聞き逃さなかった王牙は絶句していた。
 カンヤなんて名字はある事に関してでしか聞いた事が無い。
 王牙は無意識のうちに尻餅をついていた。足が震えている。それが何故かなど、明白極まることだ。
 混乱が最高潮に達しようとしていた。

 世界危険勢力というものがこの世界には存在する。
 普通に生活してさえいればそれは一生耳にすることの無いもの。誰が名付けたのか、何を意味するのかは不明だがこの世界には数多くの組織が存在し、その中でも極めて強大な力と危険さを持った組織を総じて世界危険勢力と呼ぶ。

 その中には〈純血一族〉という日本の裏組織がある。組織というよりも正しい言い方をすれば家系の集まりなのだが、とにかくそこは世界危険勢力の中では最も秘密主義色が強く、また危険な集団として挙げられている。
 しかし特に異色なのはやはりそれらが十三の家系の集まりであるという点だろう。
 最初は別々に存在していた一つ一つの家系はずっと昔に一つに統合された。
 十三の家系は全て支配欲の塊であるが故に特異な能力を持つに到ったのだが、そんな他の十二家系全てを力でねじ伏せて統一してしまった一つの家系がある。

 それが〈神野カンヤ家〉。
 人間を超越した異形共をさらなる超越を以てねじ伏せ、支配欲の塊を屈服させる程の力を有する家系。
 その一番新しい逸話の一つに、《十二家系のうち、謀反を起こしたある家系をたった一人で一晩にして壊滅させてしまった》というものまである。

 十二の異端を手駒とし、十二の鬼神を抑えつけ、目的、能力、思想、全てが謎に包まれた統一一族。
 〈神野カンヤ家〉。

 そして今、王牙は自分の口からその名が出た事に驚愕し、自分とは違う皇真と名乗る別の意識に対する恐怖に支配されていた。

 意味がわからないのだ。何故そんな奴が自分の中に居るのかが。

(……俺の中に……居る?)

『やーっと理解したか』

 王牙の中に入り込み、[神野皇真かんやおうま]と名乗ったそいつは明朗に言うのだが、王牙は理解などしていない。

「お、お前。今、神野皇真と言ったな」

『おうよ。純血一族、神野家が誇る最強の人間。神野皇真とは俺様の事だぜ! ギャハハハハハ!』

 狂ったように笑う自分の口を王牙は必死で押さえる。口だけ自分の意思が行き届かないのだ。

(なんだ。なんなんだよこれは! 俺の頭ん中に変な奴が入ってきている!)

『ぶはっ! 変な奴とは失礼だなオイ』

 両手の自由まで奪われた王牙は口から手を離されてしまう。

『俺様はてめぇの裏の顔。俺様達ぁ二重人格って関係なんだなぁこれが』

 快活に口にした皇真の言葉は、王牙の脳にとても響き、胸の奥まで突き刺さるような衝撃をもたらした。

(に、ににに、二重人格だと!? ふざけたことを言うな!)

『ん〜? でもわかるぜぇ。てめぇの奥ではこれが真実だと認めている事が。しかし今一情報と確実性に欠け、そして通常とは逸脱した現象と……純血一族って単語に混乱している。だからいきなり現れた俺様が二重人格だと言っても受け入れることができねぇってか』

(当たり前だ! 大体、たった今初めて現れたような奴と俺が二重人格なわけがないだろう!)

『はぁ? なんだその根拠のねぇ否定は。ん〜、まぁなぁ……俺様も三年くらい眠っていたみたいだからなぁ』

(三年だと? 俺は今十七歳だ。十七年間生きてきた。お前が三年眠っていたと言うなら、俺とお前は三年前までの十四年間二重人格やってた事になるじゃないか。俺とお前が会うのは今が初めてだろ?)

『ああ、そうだな。俺様とてめぇが会うのは今が初めてだ』

(ははっ、ほらありえねー。他にどう説明する? どんなペテン能力者かは知らないが、さっさと俺の中から出ていけ!)

 王牙の顔は先程から怒ったり笑ったりと表情の変化が激しい。それは王牙と皇真の顔が交互に出て来ているからで、無論怒っているのは王牙の方である。
 そして次に出てくる筈の皇真の邪悪な笑い顔は何故か出ては来ず、代わりに皇真は冷たい表情になった。
 その口調も、まるで哀れな者を見下すような冷たい調子に変わった。

『おい。てめぇはよ……本当に自分が十七年間生きてきたと思っているのか?』

 突然相手の感情が激変した事に王牙はまたも動揺したが、それでも意味深な皇真の科白には眉をひそめた。
 この皇真という人格が王牙の中に入っているのは、もはや紛れもない事実であることは認めざるを得ない。そしてこいつは、自分の方が王牙より王牙の事を知っているような口振りで先程から話している。
 さらにこの体は王牙と皇真のものであり、皇真は自分が純血一族の人間だと自称している。

 それが嘘ではない事も、この謎の人格が実はとてつもなく凶悪な力を持った存在である事も、王牙は自分の事のようにわかる。
 信用するための材料が少なすぎるにも関わらず、否定の言葉を並べているのに本能的に真実だとわかる。だが全てがそうであるという完璧な感覚ではない。ただ、皇真という男が純血一族であるという事は確実だ。
 ということはつまり――

(俺も、純血一族の人間なのか? いや、待て。それじゃあ……)

 自分が二重人格だと認める事になる。こればかりは信用に達しない。もしかしたら神野家の能力が他人の意識に入り込むというものである可能性だってある。
 しかし今この皇真が発言したのは……。

 王牙は自然と口を開いた。いつの間にか皇真に支配されていたと思っていたのが実は自分の意思も自由に介入できると悟っていた。
 つまり別に皇真が優位な状況というわけではなく、二人共同じ立場なのだ。王牙の意思が口にある場合は皇真の意思は話すことができない。ようは意思を繋げるタイミングを掴めさえすればどうという事はないのだ。

 それを無意識のうちに理解した王牙はしかし、そんな事には構わず皇真の言葉だけが引っ掛かっていた。

「お前、今何て言った?」

『てめぇは本当に自分が十七年間生きて来たのかと、そう訊いたんだよ』

「そんな事、当たり前だろう」

『そうか? その当たり前は何を根拠に当たり前なんだ?』

 皇真はわけのわからない質問を浴びせる。
 十七年間生きてきたかどうかなど、自分ならわかる事ではないか。誰だって自分が今まで生きてきた事など、考える迄もなく至極当然な事だ。

「根拠など、いくらでもある。俺が十七年間生きてきた記憶があるし、経験だってある。誰だってそうだ。……そうである……筈だ」

 生きてきた記憶。それは何よりも揺るぎない証拠であり、誰もが自分という存在の証として持っているもの。
 不変の、不動の根拠である筈だ。
 しかしどうにも王牙は自信が持てない事に気が付いた。そう、皇真に指摘された事で激しく揺れ動いている。
 絶対に信頼できるはずの、不動の証が、今の彼にはとても脆くて頼りない砂山のように思えてならないのだ。
 その砂山は今や皇真という名の波に揺さ振られている。
 波はさらに打ち寄せる。

『人が何よりも信頼を寄せる物。それは自分の中に蓄積された記憶だろう。その経験により人は思考し、行動する』

 ここで皇真は一度溜息を吐いた。

『でもなぁ王牙、この世には〈信頼できるもの〉なんてのは何一つとして存在しないんだぜ?』

「………」

 無言で固まる王牙は一見落ち着いているようにも見えるが、その手足はカタカタと震えている。
 身体を共有する皇真もそれがわかっている筈だが、言葉を止めようとはしない。

『さて、突然だが王牙。てめぇ昨晩は何を食った?』

「は?」

 話題とは何も関係のないような質問を突然投げ掛けられ、王牙は素っ頓狂な声を出した。それでも一応答える。
 答えないと自分に殺されるような、それはとても変な表現なのだが、しかし本当にそうされかねない感覚に今の王牙は支配されているのだ。
 そして普通に昨夜食べたものを思い出して口に出した。

「ええと……ハンバーグ弁当」

 両親と離れて暮らす王牙の夕食はほぼ毎日コンビニ弁当なのだが、別に彼は料理ができないわけではない。
 たまに御堂に作ってやる程に上手だったりするのだが自分一人の時は面倒だというだけなのだ。
 そして昨晩食べたのが、今彼が言ったそれだった。

 ところが、彼のこの何ともなしに言った言葉が原因で、これから王牙は記憶という物がいかに信頼に値しないものであるか身を以て知る事になる。

 その、全く予想もしていなかった返事は意外なほど大きな声だった。

『はぁ!?』

 と、皇真が心底馬鹿にしたような調子で声を上げたのだ。

『何食ったって?』

「だからハンバーグ弁当……」

『おいおい!』

 皇真はさも〈冗談はやめろ〉と言うかのように大袈裟に肩をすくめた。

「何か、おかしい事を言ったか?」

 王牙はその相手の態度に苛立ち気味に言ったが、皇真は今度はぶつぶつと一人で呟いた。

『……ははぁん、こいつは多分、今よりずっと……』

 屋上には尻を地面につけたまま怒ったり笑ったりと、とめどなく二つの人格を転換させる男が一人居るだけ。
 その内の、ニタニタと良く笑う人格の方が再び口を開いた。

『あのさぁ、俺様は今まで世界中のありとあらゆる料理を口にしてきたが、〈ハンバーグなんてもんは聞いたことがねぇなぁ〉』

 それを聞いた王牙の方は当然のように拍子抜かれ、次の瞬間この適当な事ばかりを口走る別人格に対して怒りが湧き出てきた。

「そんなわけがあるか!」

『いいや、無いね。この世にはハンバーグなんてもんは存在しねぇ。ハンバーグを知ってるてめぇは、多分昨日作られた人間だ』

「………?」

 皇真は意味不明な事を言った。この男はさっきからずっと突拍子の無い事を突然言う。

『幸せな奴だよなぁ。自分でも食べた記憶があり、テレビや友人の話にもその単語が出て来た記憶がある。だからハンバーグが存在すると信じ切っていやがる。それが造られた記憶で、自分が生後一日だって事にも気付かずによ』

「いい加減にしろよお前! 適当な事ばっかり言いやがって! なら何か? 俺以外は全員ハンバーグを知らないって言うのか!」

『てめぇの方こそいい加減にしやがれ! たとえ他にもハンバーグって料理を記憶している奴が居たとしても、そいつも造られた人間だ。ハンバーグだけじゃねぇ。昨日までの記憶ごとてめぇは産まれたのさ。つい昨日な。今はそういう時代だ!』

(そういう……時代?)

 王牙はなんだかクラリときた。にわかには信じられない予想が頭の中で共鳴する。
 時代、ハンバーグという食べ物の存在しない時代。
 皇真のその馬鹿にしたような態度。それはきっと、もし王牙の目の前にタイムスリップしてきた武士が居て、そいつが突然『戦の最中だ。馬を貸せ』などと言ってきたら同じような態度を取っただろう。

(タイムスリップ……)

「今は21世紀だろ」

 それを聞いた皇真はゲラゲラ笑いだす。

『ギャハッ! ギャハハハハハ! に、21世紀!? ギャハハハハハハハハハ!! なるほど、なるほどな! 《その時代設定》か! 俺様にも理解できない筈だぜ!』

「い、今はいつなんだ!?」

『あん? 今は西暦2650年だよ化石野郎』

「せ、西暦2650年……?」

 王牙は、いや、もはや自分が神野王牙である事すらよくわからなくなってきたその男は、今にも意識が飛びそうになる。
 タイムスリップはあまりに突飛な発想だが、先程からの皇真の発言から考えてみると男は自分がタイムスリップしたのではなく、過去の記憶を植え付けられて生まれてきたという事なのではないかと推測せざるを得ない。
 それもまた突飛な発想ではあるが、皇真という別の人格、そして自分の知る食べ物が存在しない時代、これらの現実を目の当たりにしてしまっては信じるしかないのだ。

「じ、じゃあ……俺が生きてきた記憶は、出会ってきた人達は」

『あー、その昔存在していた〈神野王牙〉って奴の記憶なんじゃね?』

「……は、じゃあ俺は一体誰だ?」

 男は、全世界から完全に見放された絶望感と不安感に襲われた。
 そう。たった今彼は、彼自身の全てを否定されたのだ。持っている記憶が全て偽物で、今まで出会った全ての者達は〈此処〉には存在しないのだと言われた。
 日向波遠も。御堂摩紀も。純血一族も……。

(あれ?)


 尻餅をついていた男は、はっと顔を上げた。
 辻褄が合っていない。矛盾している。
 昨日から前の記憶が偽物だとしても、今この自分の中に居る皇真は本物だ。
 そしてこいつは自分でさっき――

(自分が純血一族の人間だと言った……)

『ぷっ』

 茫然としている男の口から息が漏れた。それは必死で笑いを堪えていた者が耐え切れなくなったときに吹き出す息で、次の瞬間それは大爆笑に変わり、屋上全体を支配した。

『ギャハハハハハ! ワハハハハハ! おい、おいおい! まさか本気で信じるとは思わなかったぞ! ええ!? このまま気付かなかったらどうしようかと思った!』

「………」

 顔の上半分は茫然としていて、下半分は凄まじく歪んでいる。

『嘘嘘嘘ーっ! 嘘に決まってんだろ! こっちがビビったよバァカ! ハンバーグは存在すっから心配すんな。ギャハハハハハ!』

「嘘……だと」

『てめぇ西暦2650年って。信じるかよフツー? あー笑い死にそう』

 全ては皇真の口からのでまかせだった。落ち着いて考えてみれば言っている事におかしな点が多すぎる。
 この皇真という存在自体に動揺し、混乱していた為に馬鹿正直に信じていたのだ。
 王牙は恥ずかしさと真なる怒りで身体を震わせた。

「…………っ!」

 もはや言葉にすらできず頭に血が昇っていく王牙に気付いたのか、皇真はバカ笑いを止めた。

『おいおい、そんなに怒んな。別にこれもイタズラ心だけで言ったわけじゃねぇんだからよ』

「なら……なんだ」

 怒りの対象が自分の中に居るだけにぶつけどころがわからない王牙は奥歯を食い縛りながら問う。
 それに対して皇真は言いにくそうな口振りで、

『その、なんつーか。俺様なりの気遣いだ』

「……?」

 未だに王牙はこの人格が一体何をしたいのか理解できない。
 人に嘘を吐き、それでゲラゲラ笑った後、それが気遣いだとぬかす。もう呆れるやらなんやらで王牙は怒る気すら失せた。こいつがあの九条八雲と出会っていたらどうなっていただろう。
 しかし彼の言った気遣いということは本心であるらしく、またも皇真は冷たい口調に変化する。
 感情の起伏が激しい点では王牙も皇真も似たもの同士であった。

『ようするに、だ。今の嘘でわかったと思うが、人の記憶なんてもんは今みたいに動揺と混乱、恐怖みたいなスパイスをちょっと加えただけですぐ揺れ動く。
人の記憶は絶対に信頼できるものじゃねぇんだ』

 確かにそれを証明するためには実際に体験させたほうが早い。
 しかし今の嘘は皇真という謎の存在、神野家、二重人格といった王牙を十分に動揺させる素材を揃えた上、いきなり皇真が現れるという今のタイミングでしか実行できなかったものなのだ。

『つーかよぉ、第一人が記憶を信頼してもいない。だから今のてめぇみたいにすぐ自分の記憶に疑いを持ったりする。誰だって自信の無い部分を多数の人に指摘されたら大抵は自分の記憶を疑っちまうだろ?』

「それはそうだが。さっきのが嘘という事は記憶を造る事ができるというのも嘘なんだろ?」

『全部が嘘とは言ってねぇよ。だから気遣いだっつったんだよ』

 王牙はいつの間にか全身を、口以外を皇真に乗っ取られている事に気付いたが、しかしすぐに取り戻すことができるので別に不安や焦りは無い。
 王牙は知らず知らずのうちに一つの身体に二つの人格という状況に馴染んでいた。

 皇真が立ち上がって、まるで事件を推理する名探偵のように指をたてて屋上をぐるぐる回り始める。
 しかしそれを客観的に見る者は誰一人として居ない。

『さてと、これでてめぇが二重人格を否定する為の根拠は無くなったわけだ。あとは今から話す俺様の言葉によって自力で気付くかだな。ちなみにてめぇが気付く為の材料は既に揃い始めてるぜ』

「……聞こう」

 十七年間生きてきた筈の王牙。十四年間生きてきて、三年眠っていた筈の皇真。そして二人は一つの身体に存在する。
 その謎を皇真は理解しており、王牙に気付けと言う。
 それがどんな答えであろうとも、自分の記憶が曖昧なままで居るのは耐えられない。
 王牙は腹をくくった。

『いいか、人が認識する為には記憶が必要だ。そして記憶は四つの段階に分けられる。これは知ってるな?』

「銘記・保持・再生・再認だったか」

『……その通り。ここで話すのは銘記と保持についてだな。ま、別に難しい事じゃねぇ。そうだなぁ……』

 皇真は立ち止まって指をパチンパチンと鳴らす。考え事をする時の癖なのだろう。
 そしてまた歩きだした。

『そう、例えばだ。誰でも熱いものってのは知ってるよな? 火が熱かったりさ。てめぇだって熱い物には警戒するだろ?』

「そりゃあまあ」

『これは記憶から認識した事だ。認識ってのは記憶を元に自分で考える事。つまるところ、そこに到るためには一度熱い物に触れるか、どんなものが熱いかなどを聞く等して経験し、脳に銘記する事から始まる。当然これは熱い事以外のどんな事柄にも当てはまるぞ』

「………」

『そしてその経験し、銘記したものを保持する。そこから再生、再認へと続く事で認識となるんだな。で、この話で何が言いたいのかっつーと………』

 水溜まりを覗き込み、あたかも向こう側に相手が居るかのように皇真は水面に映った自分の顔に向かって語り掛ける。

『結局全ては自分だけじゃ何もわからねぇって事だ。今使っている言語も、水って単語も、青という色も、それを見て聞いて経験しなければ、脳には何も蓄えられねぇ』

「………!」

『ぜーんぶ受動的だ。脳とは、それ自ら認識を生み出す事は不可能なんだぜ』

 饒舌な皇真は手足をオーバーに動かしている。

 今や全身を相手に委ねた王牙も意識はちゃんと内側にあり、そして皇真の話も聞こえていた。
 もはや当初の動揺は消え失せ、異様なまでに落ち着いている。

(なるほどそうか、だから俺はそうだったんだ)

 皇真の中で王牙は一人ぶつぶつと呟いている。

(なら答えは出ているじゃないか)
(だから気遣いか。本当にあの嘘があったから簡単に受け入れられる)

 王牙は何を悟ったのか、いともあっさりと皇真から身体を取り返した。
 いや、共有しているのだからそうは言わないのかもしれない。

「お前って実は優しくて気が長いんだな、皇真」

『あ?』

 王牙の顔には少しだけ笑みが見えた。
 それは自分を嘲っているようでもあり、全てに関して開き直ったような笑いだ。

「というかお前さっきの嘘話さ、結局嘘だったのは時代とハンバーグくらいじゃないか」

 今度は王牙が、水溜まりの中の自分に向かって語り掛けている。

 そして、いとも当たり前のように、あっさりと答えを述べた。

「俺は造られた人格だな?」

 その一言は冷えた空気の中でよく響き、それを聞くのはやはり一人だけである。

『考えてみりゃあ……すぐに気付く事だったろ』

 水面の向こう側の顔が不敵に笑った。

「ああ。確かに簡単だ。何故なら俺には〈今記憶している事を経験し、脳に銘記した瞬間の事が何一つ思い出せない〉から」

 その、並の精神の持ち主なら狂乱してしまいそうな事実をさらりと口に出し、自覚した王牙に、向こう側の顔がゆっくり頷いた。

『そう。てめぇの記憶を記憶した瞬間の記憶。それが無いてめぇは模造品だ』

 人は物事を忘れた時、意識的にも無意識的にもそれを思い出したい時にはそれを記憶した時の事を思い浮べるものである。

 ところが王牙の場合、保持している記憶はあるのに、その記憶を銘記した瞬間の状況が銘記されていない。
 知識を保持したまま自然に生まれる事はありえず、しかしこのように実在しているという事はつまり、王牙という人格が偽りの造られた物だと証明された事に他ならないのだ。

 王牙には時々、昔居た筈の友人の顔や、覚えていたはずの漢字が思い出せなくなる事があり、しかもそれは二度と思い出す事が無かった。

 そして今、王牙は自分でその理由を知ることができ、納得という形に到った。
 それは彼にとっては何とも言えない程スッキリとした感覚で、自分が造られたと知らされた時に感じるはずの絶望感すらどうでも良いと思える程である。

 王牙は自分の手で自分の頬を撫でた。

「あー、きっと俺は知ってたんだな。知る要素が多かった。そうかー。この身体は俺の物ではなかったんだ」

 そう口に出す彼の顔は満足気であり、哀しげである。

「なんかこう、パチパチッと一気にパズルが完成したようなスッキリさがある」

 やはり自嘲気味に笑った王牙だが、皇真は首を横に振った。

『それは違ぇぞ王牙。この身体は俺様と、てめぇの物だ。てめぇは完全な模造品ってわけでもねぇのさ。俺様には無い知識だっていくらでも持ってる』

 それを聞いた王牙は腕を組み、うーむ、と考え込む。
 出会ってからそれ程時間は経っていないにも関わらず、王牙と皇真はまるで長年一緒に居たような息の合い方で意識を入れ替えられるようになっていた。

「あのさ皇真、結局のところ俺はいつ生まれたんだ?」

『おそらく俺様が眠るのと入れ替わりだから三年前だな』

「生後三年かよ俺」

 王牙は鼻で笑った。

『どうやって生まれたかは訊かねぇんか?』

「入れ替わりならお前も知らないだろ」

『まあな』

「俺は少し前に聞いた事があるよ。九条家の圧縮と日向家の言霊、この二つを使って元の意識を圧縮し、偽の意識を作る事だってできるとな。お前が純血一族であるならこの説にも納得できる」

『ふーん。多分そうなんじゃねぇの? そいつ別の事も言っていなかったか』

「ああ言ってた。それはその人間個人の人生を崩壊させる行為だと」

『それは確かにその通りだ。ギャハハ』

 王牙の口調はやたら穏やかで、皇真の口調も軽快だった。
 一つの口で発せられる二人分の声。

「さて、今までは一つの身体に一つの人格で居たわけだが、お前が出てきたって事は俺はどうなる? 消えるのか?」

 ようするに死ぬという事なのだが、王牙はまるで雨の日の予定はどうなるのかを友人に訊ねるような軽い調子で言った。
 それは別に自暴自棄になっているわけでもなく、消滅を覚悟しているというわけでもない。

 そして皇真も同じように軽い調子で答える。

『いーんや。これがまた上手い具合にバランスがとれちまってよ。もうこれ以上俺様が自由になれるわけじゃねぇし、てめぇが消える事もない。バッチリ二重人格の完成だ。まぁてめぇは少々不便になるかもだが、我慢してくれや』

 そもそもこの身体は皇真のもので、王牙という人格は介入者にすぎないのだ。
 それなのに皇真の方が気遣うのも妙な話であり、それはこの凶悪な人格が実のところとてつもない優しさを秘めた性格である表れなのだった。

 王牙は息を吐きながら俯き気味に首を横に振った。

「正直な、俺は嬉しいんだよ」

 クスリと笑った王牙の顔は、次に訝しげな皇真の顔になる。

『あん? どういうこった』

「聞かなくても、お前は俺の裏の顔なんだからわかるだろう。優しい最強さんよぉ」

 ケッ、と洩らしながら皇真は照れ隠しに足元の水溜まりを踏み付けた。
 飛沫が辺りに飛び散り、映っていた〈神野〉の顔がぐちゃぐちゃに歪む。

『こう見えて俺様は誰もが恐れる存在なんだぜ』

「知った事か」

『へっ、神野かんやのいざこざに巻き込まれるのも覚悟済みってか。ムカつく野郎だ』

「お互い様だ」

 屋上に一人の男の、二人分の笑い声が響いた。

 王牙と皇真。
 この二人の出会いが、世界危険勢力のみならず、あらゆる異なる者達の人生に重大な影響を及ぼす事になろうとは本人達ですら気付いておらず、しかしこの時既に世界の物語は揺らぎ始めていた。

『ギャハハ。まぁとにかく、これから宜しく頼むぜ相棒。日常生活は面倒だから、基本的に身体は今迄通りてめぇに任せて俺様は寝るよ。じゃあな』

 すらすらと早口にそう述べて皇真の意識は奥へ消えた。

 全身に今迄通りの自由が戻った王牙は、また何ともなく寝転がり、何事もなかったかのように空を眺め始める。
 のだが、それも少しだけで、すぐに彼は起き上がった。

 屋上へのぼる階段の方から、声が聞こえてきたからだ。

「――ってんじゃないわよ」
「何とか言いなさいよ」
「アンタって気味悪いのよね、日向」


区切る事ができず長くなってしまいました。











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