第一章 一、《人間欲求》
一、《人間欲求》
昼下がりのオープンカフェ。私は日傘に覆われた丸いテーブルの上にノートパソコンを開いて仕事に取り掛かる。向かい側の席には足を組んでコーヒーカップを口に運ぶ男。同じ日本人だということでつい先程知り合った男である。
流暢にこの地の言葉を話すので聞いてみたところ、どうやら七年近くこの地に住んでいるのだという。それでも日本語を忘れずこのように私と普通に会話ができている。こういう在外人は大抵、家庭内では自国語、外ではその国の言葉、というように使い分けている場合が多い。この男に家族がいてそのような生活をしているか等、私の知り得るところではない。先程聞いた名前も、もう会う事もないであろうという私の勝手な考えにより既に頭から消えつつある。私の頭は普通に物事を見たり聞いたりすると勝手に記憶してしまうので必要の無い情報は聞き流す事にしている。それでも今のように多少は記憶に定着してしまうわけだが。今回は仕事をしながらだったので忘却の速度が速い。もうこの男の名字が不吉なイメージであるという記憶しか残っていない。
イメージ。
この男自体のイメージは白。加えてカフェのテーブルも、周囲の地面も同色、周囲の建物の壁も殆ど同色で、眩しくて仕方ない。
彼はカップを置いて先程の話の続きをし始めた。
「嫌味な話だとは思わないかい?」
私は画面に向かい、指を動かしながら答える。
「どうなんでしょうね」
「皆が同じ物を欲しているのに自分だけ手に入れてしまう。皆にそれを見せびらかし、決して渡さない。力だけを誇示して。実に嫌味で、子供じみた感性だ。何でそんな事をするのだと思う?」
そんなのは簡単。
「その〈物〉がたった一つしかないからでしょう」
男はクスリと笑う。
「フフ、そうだ。その通り。実にその通りだ。だが、お前も男ならどうしても手に入れたい物くらいあるだろう?皆が、多くの者が心の底から欲しているのに、手に入れられない。力を合わせるなど、無意味にも程がある」
「物は一つしかないですからね。強者が勝つ。弱者は指をくわえて見るだけ。生物界の掟です」
「ある弱者は考えた」
突然男の声に力が増し、思わず私は顔を上げて男の顔を見てしまった。
私と同世代くらいの整った顔をした成人男性。その整った顔の二つの眼は静かに閉じられ、口は三日月型に歪んでいた。
私は画面に顔を戻し、男は続ける。
「その弱者は一度強者によって完膚なきまでに叩きのめされた弱者である。その弱者はこう考えた。《弱者同士力なんて合わせなくても良い。俺一人が他の弱者共を騙し、利用して強者にぶつけていけば良い》と」
「曲がった考えですね」
「いずれは誰かが考えつくことだ」
自分が他の弱者に利用される前に利用する。騙される前に騙す。だが、そうまでして手に入れたい物など存在するのだろうか?人間を曲げてしまう程魅力のあるもの。一般的には《金》・・・・・・か。だがこの男の話に出てくる《物》は誰にでも手に入るものではないという。金とは違った魅力。少々興味があるが所詮は架空の《物》の話。存在しない物に興味を抱いてもそれは無価値であり無意味。
「で、結果は?」
「秘密だ」
簡単に返事をした男は目を開き、席を立った。そのまま何処かへ行ってしまうものだと思っていた私は画面に向かったままでいた。
ノートパソコンを覆う影。
再び顔を上げると隣に立った男の顔が私の顔の前にあった。数センチ単位の距離。男同士がオープンカフェでこのような状態にあればたとえ外国でも不審がられる光景だろう。
男はその状態のまま私の肺を手の平で強く押した。強く、強く。息ができないほどに。
心臓の鼓動が高鳴る。汗が額に流れ落ちる。男の顔がぼやけて見え始めたところで私は解放された。必然咳が止まらない。
「また会おう」
男は私の耳元でそう囁いて去って行った。
私はあと数日で帰国する。
今後《私の意志》があの男に会う事は無かった。
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