踊り場のサンタクロース
1
マンションの9階と10階の間にある階段の踊り場。
そこは私の聖地で、避難所。
「子供は家の中にばかりいないでお外で遊んできなさい!」
ママのその言葉で、私は学校の図書館から借りた本を持って廊下を走りぬける。運動靴を突っかけるように履いて、できるだけ静かにドアノブを回して外に出る。学校から帰っても、どうせ私の部屋の中も寒いからジャンパーを脱いでいなかった。それでも、外に出るとすぐに白い息が出る。
振り返ると、ドアノブが向こう側でカチャっと音を立てるところだった。
本を胸に抱えてできるだけ早足で、でも音を立てないように廊下を歩く。
家の中で、ママはほっとしてるのかな。
できるだけ静かに本を読んでても、ママにとって私はいない方がいいみたい。
ママはおうちでお仕事してるって言って、ずっとパソコンに向かってる。
「今日ね、学校でね……」
「ママは今大事なお仕事をしているから、外でミユちゃんやリナちゃんと遊んできてくれる?」
「あのね、明日はね……」
「あ~もう。ママはお仕事してるんだから、子供は子供らしくお外で元気に遊んできなさい!」
ママ、ミユちゃんは去年からピアノと塾に行くようになったから遊べないんだよ。
リナちゃんはママが私が一人で越えちゃ行けない大道路の向こうに引っ越しちゃったんだよ。
4年生になって、外で遊ぶ子なんてもういないんだよ。
冬は嫌い。
すぐに暗くなってしまうから。
だいぶ暗くなって本が読みにくくなる頃になって、階段の踊り場の電灯が何度もちかちかっと点滅を繰り返す。それからやっと明かりが灯った。
白い紙が光を反射する。
私は慌てて顔を伏せて文字を追いかける。
かじかんだ指先でページがめくりにくい。
本の中だけは、私は自由で、竜に乗って不思議な島へ冒険する。
私は少年で、リュックサックにオレンジやらキャンディをいくつも詰め込んで旅に出る。
恐ろしいライオンにリボンを結び、ワニと会話する。
ここではないどこか。
私を乗せてくれるドラゴンは、いつかきっと現れる。
そしたら私はこう言うんだ。
「早く私を連れて行って」
蛍光灯がパチパチとまばたきをして、私ははっと現実に引き戻された。
寒い。
指先が真っ白になっている。
でももう少しの辛抱。
もうちょっとしたら、おうちに帰ってもいい時間になるはずだから。
踊り場に座るときにはコツがあるんだ。
できるだけ、壁に近づくの。
そうするとあんまり風に当たらなくても済むから、少しはマシ。
でも壁にくっついちゃダメ。
コンクリートの壁はすっごく冷たいんだから。
だから握りこぶし1個分あけて座るの。
階段に座るのも、奥まで座っちゃダメなの。
冷たいから。
最初だけがまんして階段の先にある鉄でできた滑り止めの上に座ること。
はじめのうちはものすごく冷たいんだけど、ちょっとだけがまんしてたら暖かくなるから。
奥のコンクリートのところは、あんまり暖かくならないんだ。
開いた次のページに、ひらりと白いものが飛んできて落ちた。
そしてすぐにじわりと本ににじんだ。
「あ、雪……」
灰色の空から、ひらひらと白いものが回りながら落ちてくる。
最初は少しずつだったのが、すぐに空一杯に白い雪が舞い始めた。
「サンタクロースは、雪の中を飛ぶのに目に雪が入ったりしないのかな」
もうすぐ来る終業式、それからクリスマス。
クリスマスが終わったら、ちょっとしてからおじいちゃんの家に行く。
ママは「面倒くさい」って言うけど、私はおじいちゃんが好き。
ストーブの上で色んなものを焼くの。
ミカン、ハム、おもち、干し芋。
アルミホイルを敷いて、おじいちゃんが「今日は何を焼こうか」って誘ってくれるの。
熱々のみかんなんて変なのって去年の私が言ったら、「風邪をひかなくなるんだよ」って教えてくれた。
熱々のみかんは、喉が焼けるほど甘くて美味しかったな。
皮が真っ黒になるまで焼くから、焦げちゃったって心配になったけど、中は全然焦げてなくっておじいちゃんが皮をむいたらプウンと甘酸っぱい匂いがした。
手が熱くならないのって聞いたら、「おじいちゃんは特別なんだ、ユキちゃんは真似しないようにね」って言ってた。
真似をしようにも、うちにあるのはエアコンだけで、ストーブがないからそんなことできないよ。
おうちに帰ってからママにみかんを焼いてってお願いしたけど、みかんは焼くものじゃないんだって。
だから、あれはおじいちゃんちだけの特別なみかん。
白い雪があんまり飛んでくるから、私はパタンと本を閉じた。
学校の図書館で借りた本が、ダメになっちゃう。
でもそうすると、おうちに帰ってもいい時間までどうしたらいいんだろう。
本が濡れないようにジャンパーの中に入れて、ぺたんと頭をひざに乗せて目を閉じる。
私はしましまの竜と仲良くなる。
青と黄色がしましまになっていて可愛いの。
私も赤と白のしましまのシャツでおそろいなの。
竜に乗って空を飛ぶのに、雪が目に入ったら痛いかな?
サンタさんは、どうやって目に雪が入らないようにしてるんだろ。
「……ねえ、君、大丈夫?」
少しうとうとしてたみたい。
かすれたような声で目が覚めた。
びっくりして体を起こすと、赤いブカブカのダウンジャケットを着て、ほっぺたを赤くして息を弾ませる太った人がいた。
多分、中学生ぐらいなのかな……?
通学路で見かけるような怖い感じの中学生じゃなくて、気の弱そうな感じ。
「……大丈夫だから」
私が返事したら、ほっとしたように笑った。
それからちょっと困った顔をして、ダウンのポケットを探ると茶色い缶を差し出してきた。
「これ、下にある自販機で買ったばかりだから……」
そう言って目の前に出してきた。
思わず受け取ってから、
「……知らない人にもらっちゃダメってママに言われてる」
って答えたら、もっと困った顔になって、それからはっとした顔になった。
「あ、ぼ、僕は6階の山本。山本 ユウタ、中1」
「……10階の桜木 ユキ……小4」
「んじゃ」
そう言って山本 ユウタ、って名乗った中学生はくるっと反転して階段を降りていった。
私の手の中には、温かいココアの缶が残された。
「あったかい……」
かじかんだ指が、じんわりと熱を取り戻していく。ほっぺに当てると、ちょっと熱い。
ころころと両手の中で転がす。
空から風に乗って吹きこんで来る雪は、缶に触れるとすぐに消える。
暖まった指で、プルタブを起こそうとする。
うまくひっかからなくてカチンカチンと乾いた音が踊り場に鳴る。
カチン。
カチンカチン。
下から誰かの息遣いが聞こえてきて、私はプルタブを弾くのを止めた。
ハアハアハアハア。
どうしよう。
ここに一日に二人も現れるなんて、今までなかったのに。
ううん。
今まで一人も来なかったから、ここは私だけの聖地で避難所だったのに。
短い黒い髪の毛が現れて、次に赤いダウンジャケットが見えて私はほっとした。
「あれ? まだいたんだ?」
さっきよりも赤い顔した中学生が私を見て呟いた。
そうして少し離れて私の隣に座った。
二人も座ったら、この階段はもう誰も通れない。
何となく気まずくて、またカチンカチンとプルタブを鳴らす。
「……開かないの?」
うんと頷いたら、中学生はダウンのポケットから別のココアを取り出して指をかけて開けた。カチッとプルタブが上がって、あっさりと中学生のココアの缶は開いた。
「はい、交換」
渡されたココアは、さっきもらったココアよりも暖かかった。
ぬるくなったココアをこれまたあっさり開けて、中学生は飲み始めた。
ココアは甘く、熱く、優しい味がした。
それから、ユウタお兄ちゃんと私の時間が少し重なるようになった。
ユウタお兄ちゃんは、学校でいじられてるんだって話してくれた。『いじめ』じゃなくって『いじり』だけど、すぐに赤くなる顔と太ってること。それでいじられてる。だから、ダイエットしようとうちのマンションの階段を往復することを今日から始めようと思ったんだって。ユウタお兄ちゃんのお母さんが、ダイエットは冬の方が痩せやすいって言ってたから、冬休みの間に変わろうと思ったんだって言って眉毛を八の字にして笑った。
「なんでココア買ったの?」
「喉が渇いたから」
「ユウタお兄ちゃん、それじゃ痩せないと思う」
お茶とか水じゃないと痩せないよって言うと、またしょんぼりした顔になった。「スポーツドリンクのが効果ある?」って聞いてくるから、断然お茶かお水って言ったらもっと眉毛が下がって面白い顔になった。
夕方になって、小学校から帰ってしばらく一人で本を読む。そうしていると、ユウタお兄ちゃんが来る。ユウタお兄ちゃんは着替えてから来る。いつも赤いダウンジャケット。それから1階まで降りて顔を真っ赤にして上がって来て、赤いダウンジャケットを「ちょっと預かってて」なんて言って渡してくる。「預かってもらうお礼だから」って言って、赤いダウンジャケットに入れてあるココアも一緒に渡してくる。そしたら、また1階までふうふう言いながら降りていく。
お兄ちゃんのダウンジャケットは、床に置くわけにもいかないからはおって、私は本の続きを読む。少しすると、また顔を赤くしたお兄ちゃんが登ってくる。今度は右手にお茶のペットボトルを持って。
「あ~運動した後は、お茶の方がいいかも」
「なんで最初に運動した後にココアを飲もうと思ったの?」
「なんでだろ?」
お兄ちゃんは眉毛を下げる。
私はあきれてふうとため息をつく。
「ため息をつくと幸せが逃げるんだってさ」
「最初からいなかったら、逃げることなんてないじゃん」
「それもそうだ。でも幸せって失くしてから気がつくものっていうよな」
「無いから。最初から無いなら気がつくことも無いよ」
「ユキちゃん、ひねくれてる」
「そうだよ、ユキはひねくれものですー」
踊り場は声が響くから、こそこそと私たちは話し合う。
お茶を半分飲み終わったお兄ちゃんは、ペットボトルを階段に置いてまた階段を降り始める。私は本の続きを読み始める。
お兄ちゃんから、おすすめの本を教えてもらうこともある。
「ユキちゃんはファンタジーが好きなの?」
「うん」
「じゃあ、これはもう読んだ?」
「……映画で見たからいい」
「映画と原作は全然違うぞ、原作ではなあ」
「ストップ! ネタバレしないでよ。読むから! 読んだ後にして!」
「どうだったユキちゃん、この前の」
「すっごいおもしろかった! このドラゴンって映画と全然違うじゃん!」
「そうそう、俺もそれ思ったんだよ。でもこの映画ができたのって俺らが生まれるよりもずっとずっと前だからなあ。今みたいにCG技術が無かったからしょうがないんじゃないかな」
「へ~そうなんだ。どれぐらい昔なんだろ?」
「30年ぐらい前だよ。父さんや母さんもまだ今の俺らより小さい頃なんじゃないかなあ」
「そっかあ。ママもテレビでやってたときに懐かしい~って言ってたもんね」
寒い日が続いて、でも前ほど嫌いじゃなくなって、もうすぐ5年生になる頃に、ママの一言で私の夕方は無くなった。
「ユキちゃん、もう5年生になるんだしそろそろ塾に通いなさい。今からしっかり勉強しておかないと、中学生になったら遅れちゃうわよ」
「え……」
「ママね、最近ご近所さんに聞いてみたの」
え? 何を?
もしかして……お兄ちゃんのこと……?
「そしたらね、中学生になる前にしっかり勉強しておかないと、いじめられることもあるんですって。ミユちゃんもリナちゃんも、もう塾に通ってるんですってね。だからユキちゃん、あなたも塾に通いなさい」
ほっとしているうちに、あっという間に決められて、春休みからミユちゃんの通う塾に私も行くことが決まってた。
「そっか、塾に行くんだ」
「……うん。週に3回が国語と算数と理科と社会。それと週に1回が英語だって」
「……ほとんど毎日じゃん」
「だから、もうあんまりここに来れない」
「そっか……ちょっと待ってて」
お兄ちゃんはダッと階段を駆け下り始めた。そして今までで一番早く戻ってきた。
「ユキちゃん……これ」
赤いダウンジャケットの右のポケットから出てきたのは、いつものココアじゃなくて別の白と茶色の缶、カフェオレだった。
「え……コーヒーはまだ飲んじゃダメってママが言ってたもん……」
「でもさ、飲んでみたいって言ってたじゃん。小説で読んで気になってて、ユキちゃんのママに言っても飲ませてくれなかったんだろ? ちょっとだけ、飲んでみたら?」
「……うん」
お兄ちゃんがプルタブを開けると、プシュっと少し空気が抜ける音がした。
「はい、どうぞ」
ニコニコして手渡されたカフェオレは、すごくいい匂いで、それからとっても苦くて……甘かった。
「……苦い」
「じゃあ、こっちにする?」
左のポケットから、いつものココアが出てくる。
私は首を横に振った。
「いい、カフェオレを飲むから。でもお兄ちゃん、また太っちゃうよ」
「たまにはいいんだよ」
困った顔をしてココアを飲むお兄ちゃんを見ていたら、キーンと胸が痛んだ。だから、何でもない振りをして、苦くて甘いカフェオレをもう一口飲んだ。
2
「ねえ、ユキは高校どこにするか決めた?」
「うちのママは近くにしろってさ」
「え~あそこ結構偏差値高いじゃん。あたしにはちょっと無理かも。あ~あ」
学校指定のダサいカバンを持ち直しながら、ミツキが嫌そうな顔をした。
私は慌ててフォローを入れる。
「でもあそこ制服可愛くないんだよね。ブレザーのが可愛いじゃん。高校に行ってまでまたセーラーだよ? 私は女子高にしたいんだけど、うちのママが私立は絶対ダメだってうるさいんだ」
「ユキのママ、厳しいね~。ブレザーのがやっぱ可愛いのにね~」
来年は受験生なんだから。
最近はママも先生たちもそればっかりで、私たちはちょっとうんざりしてる。
冬服に衣替えしてから、特に周りの話題はそればっかりになった。
中2の夏は大事。
夏休みが終われば、中2の2学期は大事。
じゃあ、大事じゃない時期っていつなの?
そう思っているうちに夏服の時期があっという間に終わって、分厚い冬服になった。
中学校が見えなくなる曲がり角で一旦カバンを置いて、クルクルとウェストでスカートを巻いて丈を短くする。セーラー服のリボンも結びなおす。この間まで1年生だった時には先輩の目が怖いから、少しだけウェストで巻いたスカートも、2年生になって後輩ができた分だけもう少し短くなるようにする。ミツキが靴下を直しながら、通りの向こう側を見た。
「あたしさあ、高校は絶対に制服で選ぶ。うちのママはあたしの成績あきらめてるからね~。……ねえ、ユキ、あれ」
そう言って首をくいっと動かす。
「ださくない? あーいうの」
「……そう?」
通りの向こうのコンビニで、高校生達が数人で騒いでいた。近くの高校の制服だ。学生服を着た集団が騒いでいる。少し太った一人を、周りがからかっている。
「あたし絶対に高校入ったらイケメンのカレシ作る! デブは絶対やだ!」
顔を赤くした男子高校生が、眉毛を八の字にして困った顔で笑っている。「だよね」なんて言いながら、私は目をそらした。
「ミツキ、行こう。塾に間に合わなくなるよ」
「あ~もう勉強やだ~」
ミツキは可愛いけど勉強が苦手だから、本当に嫌そうな顔をして歩き出す。
「ユキはさあ、勉強得意だからまだいいじゃんね」
「……そんなことないよ、本を読むのが好きだから国語がちょっとましなぐらいだよ」
「マンガ以外の文章って読むのめんどくさくない? あ、今日新刊出るんだった! ね、ユキ。塾の前にコンビニで買ってから行くから今日は先に行ってて」
「おっけー。じゃ、また塾でね」
駆け出したミツキを見送って、私は荷物を持ち直した。道の反対側ではまだ高校生達が騒がしく笑っている。チラッと見てから私も小走りでマンションに向かった。
3
高校生って思ってたよりも自由じゃない。ついこの間、高校受験をしたと思ったら、もうまた来年には受験生。
ダサいセーラー服のリボンを外しながら、プリーツスカートをハンガーに掛ける。
デニムのショートパンツにお気に入りの白いもこもこのセーターを組み合わせる。
ベッドにぽすんと座ったところでママがダイニングから声をかけてくる。
「ユキちゃん、帰ってるの?」
「うん、着替えたとこ」
「あら、ちょうど良かった。悪いけど、これ塾に行く前にポストに出してきてくれる?」
「は~い、テーブルの上に置いておいて」
ポストに寄るなら、少し早めに出ないといけない。塾の時間にはまだ余裕があるけど、学校のカバンから塾のカバンに筆記用具を移して、今日学校から借りた本もついでに入れてコートをはおった。
ダイニングテーブルの上の郵便物を持って玄関に出たところでママが私の格好を見て眉をひそめた。
マンションのローンの繰り上がり返済ってのが終わってから、ママは特に口うるさくなった。模試の結果を見てはいちいち小言ばっかり。最近は服装にまで口うるさい。
「ま~たそんな寒そうな格好して」
「寒くないよ」
「女の子は下半身を冷やしちゃダメなのよ? それに風邪でも引いたらどうするの?」
「あ~はいはい。んじゃ、もう行くね」
「あら、まだ早いんじゃない? もっと暖かい格好に着替えたら?」
「早く行って自習室で勉強したいから」
「あら、そうなの。気をつけてね」
ガチャリとドアが閉まって、私はやっとほっとする。
廊下を早足で歩く。
薄暗い廊下にはまだ電灯がともっていないけど、各家からもれる明かりで充分な明るさがある。
少し夕方には早い時間だけれど、廊下にある各戸の換気扇から夕飯の匂いが流れてくる。醤油の煮詰まる匂いは、ダサいけど懐かしい匂い。カレーになるのか、野菜と肉のことこと煮込まれる匂いがする。
エレベーターホールに着くと、ちょうどエレベーターが二基とも下へ向かって降りていくところだった。ついてない。寒いエレベーターホールで一階まで降りたエレベーターが10階まで上がってくるのを待たないといけない。
エレベーターを呼ぶボタンに手を伸ばしかけて、やめた。
「たまには、階段で降りてみようかな」
エレベーターホールの奥にある階段。
小学生の頃はあそこでよく時間を潰した。
塾に通うようになってからは、いつも遅刻しないように足踏みしながらエレベーターホールでエレベーターを待つようになった。問題集の入った重たいカバンを持って10階から降りるのはしんどいから。
エレベーターの現在位置を示すランプは7階から6階に変わったところ。じっとしてるよりは動いた方が暖かい。
久しぶりに階段へと足を運んだ。
階段のホールへ足を踏み入れると、赤いかたまりが見えた。踊り場からから二段目に座っている赤いダウンジャケット。
「ユウタお兄ちゃん……?」
赤いダウンジャケットが振り向く。
「……ユキちゃん?」
八の字の眉毛で、困ったような笑顔。
「久しぶりだね、ユキちゃん」
こくんと頷くと、ユウタお兄ちゃんは嬉しそうに笑った。
「座る?」
「……うん」
お兄ちゃんは、そっと壁際から離れてスペースを作った。
トントンと階段を降りて、お兄ちゃんの横に座る。ほんのりと暖かい。けど、嫌じゃなかった。
「すごいね、足、寒くない?」
「別に」
お兄ちゃんがダウンジャケットを脱いで膝にかけてきた。
「女の子は体を冷やしちゃダメってよく聞くよ」
「……ママみたいなこと言うんだね」
「あはは、でも今日みたいな日にはやっぱり体に良くなさそうだよ」
見上げると、ちらちらと何かが舞ってる。
「やだ、雪?」
「うん、さっきから降ってきた。初雪だね」
「……雪嫌い」
「同じ名前なのに?」
「傘差しても濡れるじゃん。こけやすくなるし」
久しぶりに見たお兄ちゃんは、前より背が伸びて、少し痩せて、でも顔は丸くて変わってなかった。
「お兄ちゃん、変わらないね」
「えっ、そ、そう? これでも痩せたと思うんだけどなあ」
「……少しだけね」
「そっかあ。相変わらずユキちゃんは厳しいなあ」
そう言ってまた八の字眉毛になる。
「ねえ、何でここにいたの? お兄ちゃんの家、6階でしょ?」
「覚えててくれたんだ。そうだよ、6階だよ。でもまだたまに階段を昇り降りしてるんだ」
「……なんで?」
「う~ん。たまにさ、悩み事とかある時に、何にも考えずに階段を昇り降りするとちょっと気が楽になるから、かな」
「……お兄ちゃんも悩むこと、あるの?」
「そりゃ、あるよ。 俺ももう2年生だから、来年から就職活動も始まるからね」
「へえ……」
目の前の大学受験。でもまたその3年後には、今度は就職活動。本当に忙しい。昔はもっと時間がゆっくりで、長過ぎて持て余していたくらいなのに。
「……大学生って面白い?」
「どうかな、人それぞれじゃないかな」
「お兄ちゃんは?」
「俺? 実験ばっかりだけど、楽しいかな」
「理系なの?」
「そうだよ」
「ねえ、お兄ちゃんはどうやって大学を決めたの?」
その質問に、お兄ちゃんは眉を下げながら答えた。
「う~ん、俺も高校生の頃はそんなにはっきりと将来のことなんか考えてなかったかな。理系が得意だから理系の学部を選んだってぐらいで。でも大学に入って色んな教授の授業を取ってみて、それでやっとやってみたいことがわかった感じかな」
「……そうなんだ」
「ユキちゃんは来年、受験生だよね?」
「うん」
「悩んでるの?」
「うん」
「そっかあ」
シンと踊り場に沈黙が広がる。
チラチラと雪がダウンジャケットに触れては溶けていく。
「ねえ、お兄ちゃんはまたここに来る?」
「あ、うん。火曜日は実験も無いから、階段を昇り降りしてることが多いかな」
「……また、来てもいい?」
「もちろん。ここはユキちゃんの場所だからね」
「…………私、もう行かなきゃ」
ダウンジャケットをお兄ちゃんに押し付けて、私は階段を駆け下りた。
「あんまり急ぐと危ないよ」
後ろからお兄ちゃんの声が追いかけてきたけど、急いで階段を降りる。
火曜日は、少し特別な時間。
学校から急いで帰って階段の踊り場に座って本を読む。
少しすると、少し顔を赤くしたお兄ちゃんが階段を登ってくる。
カフェオレを渡されて、お兄ちゃんがダウンジャケットを膝にかけてくる。
「階段を登ってくると、ダウンは暑いんだよ」
「このダウン、だいぶへたってるよね」
「ああ、もうずいぶん着てるからな」
「え、もしかしてこれって昔着てたやつなの?」
「ん? そうだよ」
「うわ、ありえない……」
「え、そう?」
「うん、だってもう何年経ってるの?」
「えっと……7年ぐらい?」
「うわ~、よく見ると袖も緩んでるじゃん」
「でもまだ着れるからなあ」
「ね、お兄ちゃん。カノジョいないでしょ?」
「ええっ、なんでわかるの?」
「カノジョいる人は、7年も同じダウンジャケット着ないと思うよ」
「そっか~」
困った顔。
八の字の眉毛。
「……あのさ」
「なに?」
「私さ、ファッション関係の仕事がしたいと思ってるの」
「ファッションコーディネーターとか?」
「ううん、そんなんじゃなくってさ。お店とかでさ、何買おうか悩んでる人に、これが似合うかな、あれの方がいいんじゃないかなって勧める店員になりたい」
「そうなんだ」
「でもさ、それって大学に行く必要あるのかな」
「う~ん、どうだろう」
「ママはさ、いい大学に行っていいところに就職しろって言うんだけどさ。そんなの必要なのかなって」
「そうだなあ……俺もファッションには自信がないからさ、想像でしか言えないんだけどさ。そういうのって流行に詳しい人も必要じゃん。だけどさ、流行のものばかりすすめられてもさ、俺に似合うのかって話に思えるんだよね。じゃあ、何が俺に似合うのかって話になるんだけどさ、似合う色とか似合わない色とかってどうやって決まるんだろうね。それにさ、場所によってこんな服がふさわしいとか、雰囲気に合ってないとかもあると思うんだ」
「うん……」
「今だとさ、就職活動用のスーツって黒がいいのか紺がいいのか濃い目のグレーがいいのかって思うし、ネクタイも色とか柄をどうやって選べばいいのかわかんない」
「そうなんだ」
「そういうことを、勉強すればいいんじゃないかな?」
「え……?」
「大学でもさ、専門学校でもいいと思うんだけどさ。色彩学だとかも勉強できるところとかあるんじゃないかな。それに、接客するのに心理学なんかも知ってたらいいんじゃないかな? 俺はあんまり詳しくないから適当に言ったけど、なりたいものに必要そうなことをたくさん勉強するのは悪いことじゃないと思うよ」
「そっかあ……」
にへり、とお兄ちゃんが優しく笑った。
「ね、あのさ。お兄ちゃんのコート、買いに行かない?」
「えっ?」
「もうすぐ冬休みだからさ、駅前まで買いに行こうよ。私がお兄ちゃんに似合うのを選んであげる!」
少し広がった八の字の眉毛。
きょとんとした顔。
「ね、いいでしょ? さすがに就活にこのダウンジャケットはありえないんだし、さ」
「わ、わかったよ」
いつの間にか雪はやんでいる。
「あの、さ。別に新しいコート買ってもここに来るときはこのダウンジャケットでもいいんだからね」
「え、なんで?」
「別に、マンションの中でぐらいだったら、まだまだこれ着ててもいいんじゃない」
「そういうものなの?」
「そういうものなんですー」
私が立ち上がると、お兄ちゃんもつられて立ち上がった。
「お兄ちゃん、たまには下まで一緒に行こうか」
「ん、ああ、そうだね」
二人分の白い息と一緒に、階段を降りる。
下についたら、お兄ちゃんにココアを買って渡そう。
ずっといつもおごってもらってたから、たまには私がお兄ちゃんにおごろう。
赤い服を着たサンタクロースには、誰がプレゼントをくれるんだろうね。
たまには、私からサンタクロースにプレゼントしてみてもいいんじゃないかな。
今日は塾から帰ったら、就職活動に使えそうなメンズのコートをネットで検索してみよう。
お兄ちゃんには、どんなのが合いそうかな。
でも、やっぱり踊り場では赤いダウンジャケットを着てね。
最初に見た時に、お兄ちゃんはサンタクロースに見えたんだ。
ココアをくれるサンタクロース。
カフェオレを教えてくれたサンタクロース。
「ユキちゃん、機嫌が良さそうだね」
「そう? そんなことないよ」
八の字眉毛のサンタクロース。
「ねえ、今日は私がココアをおごってあげる」
「え、ユキちゃんが?」
「そう。それで、また踊り場で一緒にココア飲もうよ」
「ココアもずいぶん久しぶりに飲むなあ」
「ね、そうでしょ。お兄ちゃんはいつもお茶だもんね。でね、買い物に行く日を決めようよ」
また、ちらちら雪が降ってきた。
買い物に行く日に雪が降りませんように。