夜の図書室で……
――タッ、タッ、タッ、タッ!
ポニーテールにした髪をゆらしながら、わたしは小学校の廊下を駆け抜ける。
日はすでに沈んでいて、廊下は洞窟の中のように暗い。物陰から何か出てきそうでちょっと怖いし、できるなら今すぐ家に帰りたいところだ。
(でも、まだ帰るわけにはいかないよね……)
だってわたしは、まだここに来た目的を果たせていないから。
せっかく怖いのを我慢してまで学校に戻ってきたのだ。
目的を果たすまで、引き返すわけにはいかない。
「早く図書室に行こう……」
図書室に忘れてしまったあの本を、早く見つけなければいけない。
あの本はわたしの大切な親友がくれた、とても大切な本なのだから……。
「大事な本を忘れて来ちゃうなんて……。わたしって、どうしてこんなにドジなんだろう」
怖さを紛らわせようと、少し大きめの声を出す。
自分のドジを呪いながら思い出すのは、数十分前のことだった――。
「……あれ? 本がない」
ランドセルに入れたはずの本がないことに気づいたのは、家に帰ってしばらくしてからのことだった。
「うーん……。ほんと、どこにいっちゃったんだろう?」
ランドセルをひっくり返してみたが、やはりあの本だけが見つからない。
ペンケースと教科書の山、そして空っぽになったランドセルを前に、わたしは途方にくれた。
「あっ、もしかして……」
思い当たったのは、今日の授業が終わった後のことだった。
今日は友達がみんな用事や習い事ですぐに帰ってしまい、わたしは一人、図書室で本を読むことにしたのだ。
読書に夢中になっていたわたしは、閉室時間が来たことにも気づかなかった。
で、いい加減しびれを切らした図書委員に急き立てられ、慌てて帰り支度をして図書室を出たのだ。
「きっと、あの時に忘れたんだ……」
部屋の時計を見ると、もう六時半を回っている。
窓の外に目を向ければ、空は夕焼けの赤色から暗い夜の青色になりつつあった。
「どうしよう……。今から取りに行ったら、暗くなっちゃうだろうし……」
部屋の中をウロウロしながら、少し迷う。
冷静に考えれば、明日取りに行けばいいだけのこと。何も今、無理して学校に行くことはないだろう。
でも……。
「よし! やっぱり、取りに行こう!」
大切な本を、そのままにしておけない。
わたしはお母さんに一声かけ、夕ぐれの町へとび出したのだった。
自分の失敗を思い出しながら歩いていると、図書室の入り口が見えてきた。
やっと着いたと思いながら、入り口の前に立つ。
だけど――そこではたと気がついた。
「そういえば、図書室って夜はカギかかってるんじゃ……」
よくよく考えればわかりそうなことなのに、ここまで来てから気づくなんて……。
うぅ……。今日のわたし、本当に間抜けすぎる。
「ま、まあ、もしかしたら開いているかもしれないし! ほら、先生がカギをかけ忘れたとか!」
せっかくここまで来たのだ。何もせずに帰るのは、さすがに情けなさすぎる。
そこで、無駄に明るい声を出しながら、ダメ元で引き戸に手をかけてみた。
すると、どうやらまだカギはかかっていなかったようだ。戸はガラリという音を立てながら、あっさりと動いた。
「おじゃましまーす……」
よかったと思いつつ戸を開けて、おそるおそる中をのぞきこむ。
図書室の中は本棚がたくさんあるせいか、廊下よりも暗く感じた。
「さ、さっさと本を持って帰ろう……」
意を決して、そろりと図書室の中に入る。
床がきしむ音にビクビクしながら、わたしは本棚の間を進み、奥にある本を読むための席を目指した。
本棚の森をぬけると、目の前が青白い光につつまれた。遮るものがなくなり、窓から差し込む月明りに照らされたのだ。
本を読む席は、夜の所為かいつもより神秘的に見える。
おかげで、さっきまでの怖いという気持ちも、スゥ……と引いていった。
「これだけ明るければ、ぜんぜんこわくないや」
月明りにホッとしたわたしは、早速自分が座っていた席に目をやる。
そして……。
「えっ?」
目に入った光景におどろき、わたしは思わず声を上げた。
なんと、わたしが昼間に座っていた席で、女の子が本を読んでいたのだ。
「あら? こんばんは」
わたしがいることに気づき、女の子が顔を上げる。
わたしより年上、おそらく五、六年生だろう。微笑む姿がとてもきれいなお姉さんだ。
「どうかしたの?」
思わず見とれてしまったわたしに、お姉さんが首をかしげながら聞いてきた。
(……あれ?)
首をかしげるお姉さんに、わたしはどこか変な感じを受けた。
初めて会った人のはずなのに、どこかで会ったことがあるような……。そんな不思議な感じがするのだ。
「ねえ、そんなところに立ってないで、こっちにおいでよ」
ボサッと突っ立っていたわたしへ、お姉さんがとなりの椅子を引いてくれる。わたしはお姉さんの方へ歩いて行き、おずおずと椅子に座った。
「あなた、お名前はなんていうの?」
「えっと、わたしは日坂夏希っていいます。三年生です」
ふわりと笑うお姉さんへ、自己紹介しながらペコリと頭を下げる。
そうしたら、お姉さんのひざに置かれた本が目に入った。
「あっ、その本!」
そう――。
お姉さんが読んでいたのは、わたしがここに忘れた本だった。
「この本は、夏希ちゃんの本なの?」
「はい! うっかり図書室に忘れてしまって……」
「それで、こんな時間に図書室に来たのね。――はい、どうぞ」
えへへ、とほっぺをかいていたわたしに、お姉さんが本を返してくれた。
それにしても、このお姉さんはやっぱり不思議な人だ。いっしょにいると安心するし、とっても話しやすい。
「えっと、お姉さんは何でこんな時間に図書室にいるんですか?」
「私? 私は友達が来るのを待っていたの」
今度はわたしがお姉さんに聞いてみると、お姉さんは少し遠い目をしながらポツリと答えた。
「『待っていた』って、こんな時間まで? 約束をすっぽかされちゃったんですか?」
「うーん、すっぽかされたわけじゃないよ」
お姉さんがちょっと困りぎみの笑顔で言う。
うっ! もしかしてわたし、失礼なことを言っちゃったかな?
「それはそうと、夏希ちゃんはこの本好き?」
ちょっと失敗しちゃったかなと考えていると、お姉さんがわたしの本を指さしながら聞いてきた。
「この本ですか? もちろん、大好きです! 主人公の女の子はとてもかわいいし、ストーリーもすごくおもしろくて! それに……」
「それに?」
「それに、この本は雪菜ちゃんが誕生日にプレゼントしてくれた大切な本なんです。あっ、雪菜ちゃんっていうのは、わたしの親友のことで……。ともかく、この本は世界に一冊しかないわたしの宝物なんです!」
手にした本をギュッと抱きしめ、この本がどれだけ大切なものかを語る。
そんなわたしに、お姉さんは優しく微笑みかけてくれた。
「そう……。実は私もね、その本が大好きなの」
「そうなんですか? わあ、すごい偶然!」
わたしは目をキラキラさせながら、お姉さんを見る。
まさか、お姉さんもこの本を好きだったなんて!
なんか、ここでお姉さんと会ったのも、運命だったように思えてくる。
「私も夏希ちゃんくらいの頃に、この本を読んでだの。初めてこの本を読んでいた時は、続きが気になって夜も眠れなかったなぁ」
お姉さんはその時のことを思い出したかのように、楽しそうに話してくれた。
「その気持ち、よくわかります! わたしもこの本をはじめて読んだ時、寝るのも忘れて読んでしまいました。おかげで、次の日の朝は大寝坊して、学校に遅刻しそうになったんですけどね」
あはは、と笑いながら言うと、お姉さんもおかしそうにクスクスと声をもらした。
「……ほんと、変わらないな」
「えっ? 何か言いました?」
「ううん、何も言ってないよ」
お姉さんが、何かつぶやいた気がしたのだけど……。気のせいだったかな?
――って、うん?
「やばっ! もうこんな時間!」
ふと目に入った図書室の時計は、すでに八時十分を差していた。本を持ってすぐに帰るつもりだったのに、すっかり話しこんでしまったようだ。
「お姉さん、もう八時を回ってますよ。そろそろ帰らないと、先生がカギをしめにくるかもしれません!」
私がふり返りながら言うと、お姉さんは少しさびしそうな顔になった。
あれ? 急にどうしたんだろう?
「そうだね。いつまでもこうしてはいられないよね……」
そうつぶやきながら、お姉さんはわたしの目を見る。
「夏希ちゃん、最後にちょっと、私の話を聞いてくれるかな?」
「へ? はい、いいですよ」
お姉さんの何かを決意したような目を見ながら、わたしはコクリと頷いた。
「さっき、私は友達を待っていたって言ったよね。私が待っていたのは、夏希ちゃん、あなただよ。私はあなたと話すためにここに来たの」
お姉さんは真剣な、しかしどこか悲しげな目でわたしを見た。
「わたしを? でもわたしは、お姉さんと今日ここではじめて会ったんですよ?」
わたしはどういうことかわからないという目でお姉さんを見る。
そんなわたしに、お姉さんはさらに言葉を続けた。
「私の名前をまだ教えていなかったね。私の名前は――月島雪菜。あなたにその本をプレゼントした雪菜だよ」
「――ッ! うそ……」
月島雪菜。それは、わたしにこの本をくれた親友の名前だ。
でも、わたしは雪菜ちゃんの名字は言っていない。なのに、なんでお姉さんは雪菜ちゃんの名字を知っているの?
何より、このお姉さんが雪菜ちゃんってどういうこと?
「でも、雪菜ちゃんはわたしと同じ小学三年生です。お姉さんはどう見ても、私より年上じゃないですか!」
「それは、しかたないよ。私が最後にあなたと会ってから、もう二年も経ったんだから」
「わからない! お姉さんが何を言っているのか、わたしにはまったくわからない!」
この先を聞いたら、取り返しのつかないことになる。言葉にできない恐怖がわたしの中を駆けめぐり、思わず叫んでしまう。
そんなわたしの心の内に気づいたのだろう。お姉さんが苦しそうな顔をする。
しかし、すぐに真剣な顔に戻り、話を続けた。
「私がここであなたを待っていたのはね、あなたに真実を伝えるためなの」
「し……んじつ……?」
「そう……。私はさっき、あなたに最後に会ったのは二年前だって言ったよね。二年が経って、私は五年生になった。でも、夏希ちゃんの時間は、二年前に三年生で止まってしまった。だから、私の方が年上になってしまった」
「わたしの時間が止まった? それって、つまり……」
お姉さんがコクリと頷く。
「うん……。あなたは二年前に亡くなったの。今のあなたは――幽霊ってこと」
お姉さん、ううん、雪菜ちゃんの言葉を聞いた瞬間、わたしは――すべてを思い出した。
「そう……だった……」
わたしは手に持った本を見る。
あの日……。この本を取りに行ったあの日、わたしは学校に行く途中でトラックにひかれたのだ。
今なら、手に取るように思い出せる。わたしが最後に見聞きしたのは、せまりくるトラック、まぶしいライトの光、そして、けたたましいクラクションの音だった……。
そう。わたしは――とっくの昔に死んでいたのだ。
(そっか……)
わたしはとなりに座る、すっかり大人びた親友の顔を見た。
いっしょにいて安心するはずだ。年上になったとはいえ、一番の友達といっしょにいたのだから……。
「あの日から、もう二年も経っていたんだね……」
「うん」
わたしがしみじみ言うと、雪菜ちゃんは言葉少なく頷いた。
「自分が幽霊だなんて、まだ信じられないよ。あはは」
真実を教えてもらった今でさえ、自分が幽霊だという実感がない。
だけど、自分がもう生きた人間でないことは何となくわかる。
何と言うか、とても不思議な感覚だった。
「それにしても、わたしがここにいるって、どうしてわかったの?」
「ある人が教えてくれたの。夏希ちゃんが、まだここで彷徨っているって」
「それでこの本を持って、助けに来てくれたんだね」
わたしの言葉に、雪菜ちゃんが首を振った。
「もちろん、夏希ちゃんを助けたいという思いもあったよ。だけど、ここに来た一番の理由は、私が夏希ちゃんともう一度話したかったから。私があげた本のせいで、あなたは死んでしまった。だから、ずっと謝りたかったの……」
俯いた雪菜ちゃんの目から、ポロポロと涙が零れる。
そんな雪菜ちゃんに向かって、わたしは「ううん」と首を振った。
「雪菜ちゃんが謝ることなんて、一つもないよ」
「でも、その本を取りに行ったから、夏希ちゃんは死んじゃったんだよ。わたしがその本をあげていなかったら、夏希ちゃんは今も生きていられたかもしれない。私の所為で……」
「それは違うよ!」
雪菜ちゃんの言葉を大きな声で遮る。
「確かに、わたしはこの本を取りに行って死んじゃった。だけど、それは不幸な偶然で、雪菜ちゃんの所為じゃない。それに……」
「それに?」
雪菜ちゃんが泣きはらした目でわたしを見る。
だからわたしは、自分の思いを言葉にのせて、雪菜ちゃんに伝えた。
「それにわたし、さっきも言ったよね。わたしはこの本が大好き。だから、この本をくれて――わたしに素敵な夢を見させてくれてありがとう、雪菜ちゃん!」
「――ッ! ……うん!」
わたしにできる精一杯の笑顔を浮かべ、雪菜ちゃんの涙をぬぐう。
わたしの言葉と行動に、雪菜ちゃんは一瞬驚いた顔を見せ――でもすぐに、木漏れ日のような温かい笑顔を見せてくれた。
うん。目を赤くはらしてはいるけど、とてもきれいな笑顔だ。
「最後にこうやって雪菜ちゃんとお話できて、本当に良かった。ありがとう、雪菜ちゃん。わたしに会いに来てくれて」
「私も……。それに、夏希ちゃんの気持ちが聞けて、本当によかった」
雪菜ちゃんと言葉を交わすたび、温かい思いが心に満ちてくる。
それとシンクロするように心が軽くなり、体が浮き上がるような感じがしてきた。
――どうやらわたしがここにいられる時間は、残り少ないようだ。
「もう時間みたい。わたし、そろそろ行かなきゃ」
「うん……」
わたしの一言で、雪菜ちゃんが表情をこわばらせる。
そんな雪菜ちゃんに、わたしは持っていた本を差し出した。
「ねえ、雪菜ちゃん。この本だけど、もしよかったら雪菜ちゃんが持っててよ」
「でも……私が持っていていいの?」
「うん! それで次に会った時は、またいっしょにその本を読もうね!」
戸惑う雪菜ちゃんへ約束といっしょに本をパスする。
雪菜ちゃんはしっかりと本を手に取り、コクリと頷いた。
「うん、わかった。大事に預かっておくね。――それじゃあ、いってらっしゃい、夏希ちゃん!」
「ありがとう。それじゃあ、いってくるね、雪菜ちゃん!」
体はどんどん軽くなり、ゆっくりとまぶたが下りてくる。
わたしは雪菜ちゃんの笑顔を見ながら、心地よい眠りに落ちていった――。
* * *
夏希ちゃんが去った後、私は彼女が座っていた椅子を、ただ見つめていた。
手には、夏希ちゃんから託された本もある。
私は確かに、もう二度と会えないと思っていた親友と言葉を交わしていたのだ。
「――日坂夏希さんは、無事にこの世とお別れできたようですね」
不意に窓の方から声をかけられた。
声がした方をふりかえると、開け放たれた窓の上に、一人の女の子が立っていた。黒いマントを羽織り、大きな鎌を携えた女の子だ。
彼女のルビーのように赤い目に、私の姿が映っている。
「ありがとうございました、雪菜さん。彼女を送り出してくれて」
「お礼を言うのは私の方だよ。あなたのおかげで、わたしはもう一度夏希ちゃんと会うことができた」
そう。私に夏希ちゃんのことを教えてくれたのは、この子なのだ。
『あなたの親友の魂が、まだあの世に行けずに彷徨っています。どうかあなたの手で、彼女を助けてくれませんか?』
一か月前、死神を名乗るこの女の子は、突然私の前に現れてそう頼んできたのだ。
不思議なことに、わたしはこの子の言っていることを全く疑おうとは思わなかった。
この子が人間じゃないということはすぐわかったし、何より夏希ちゃんともう一度会いたかったから……。
私は、二つ返事で女の子を手伝うことに決めた。
「これで今回の仕事も終わりです。私は、あの世に帰ります」
そう言って、死神の女の子は私の方を向いたまま、後ろ向きに足を踏みだす。
窓の外へ出た女の子は地面に落ちることなく、ふわりと宙に浮かんだ。
「もう行っちゃうんだね」
「はい。私は長くこの世に留まることができません。仕事が終わったら、すぐにあの世へ帰らなければならないのです」
「そっか。それじゃあ――またね」
「? おかしなことを言いますね。あなたと私がまた会うことがあるとすれば、それはあなたの魂を迎えに来る時かもしれませんよ。それでもいいのですか?」
感情を映さない瞳で私を見据え、女の子は私に問いかけてくる。
彼女の言葉に、私はクスリと笑った。
「うん、いいよ。どうせ迎えに来てもらうのなら、私はあなたに来てもらいたい」
私の答えを聞いた女の子が、びっくりしたような顔になる。
彼女が感情を現すのを見たのは初めてだ。こうして見ると、彼女も年相応の女の子に見える。
だけど、すぐに元の無表情に戻った彼女は、クルリと私に背を向けた。
「わかりました。なら、あなたのお迎えは私が予約しておきます」
最後に顔だけ振り向いた女の子が、口元に微笑みを浮かべる。
どうやら、この子との縁はこれで終わりではないようだ。
「では、またいつか」
「うん、バイバイ」
私が手を振ると、女の子はマントを翻し、空へと昇っていった。
女の子を見送った私は、夏希ちゃんとの絆の本を手に、図書室を後にした――。