闇の瞳に完敗
その世界は三つの界により成り立っていた。
麗しい見目と高潔な精神、光の力を持つ天族住まう冥天界。
醜い見目と酷薄な精神、闇の力を持つ魔族の住まう冥魔界。
そして、そのどちらでもなく何の力も持たない人族の住まう人界。
遠い昔に勃発した三界大戦で滅びかけた各々の住民は、終結の際の条約により、現在も他界に対し不干渉を貫いている。
その内の冥魔界に、冥魔王に次ぐ実力を持つとされている大公爵ハバランダルという魔族がいた。
彼は魔族の名に相応しく、おぞましくも恐ろしい姿形をしていたが、しかし、冥魔界の存在としてあるまじき清廉な心をその身に宿していた。
そんな大公爵ハバランダルは今、冥魔界の中心に聳え立つ冥魔城内を慌てた様子で飛翔している。
目指しているのは、冥魔王のおわす祭壇の間だ。
家人からとある情報を手に入れたハバランダルは、己が唯一の主である冥魔王の愚行を止めるべく、無礼を承知で前触れなしの突撃を決行したのである。
彼の焦りに呼応するように、全身から伸びる赤黒くぬめりのある触手たちがザワザワと揺らいでいた。
時おり守備兵や大臣たちの驚愕の眼差しと高速ですれ違いつつ、ハバランダルは一直線に目的地へ向かい飛行する。
そしてついに辿り着いた先、扉を守る数人の近衛兵の制止を振り切って、彼は体当たり同然に祭壇の間へと踏み入った。
「冥魔王陛下!!
召喚などという外法行為は即刻お止め下さい!
そして、今一度、この私の話を……っ!」
「もう遅い。これを見よ」
進言と共に開いた扉の内側で、彼の言葉を遮った冥魔王が満足気に笑っている。
血の気の引くような思いで主の示した指の先に視線をやれば、一目でそれと分かる人族の女性が呆然とへたり込んでいた。
「っ人間! 人間ですって!?
し、しかも、彼女はッ!
彼女は魔力なしではございませんか!!」
予想を遥か超えた最悪の事態に慄くハバランダル。
動揺のため、普段は意識して閉じられている触手の先の口が全てぱっかりと開いて、その内側の牙を剥き出しにしてしまっていた。
魔力を纏わない生物など三界のどこにも存在しない。
つまり、彼女はこの世界の人界に属する人族では有り得ないのである。
導き出される答えとして、冥魔王は次元を超えた全く別の異世界から、この女性を召喚したのだという事実が浮かび上がってくる。
それは、異界の神を敵にまわし冥魔界そのものを滅ぼされかねない、とかく恐ろしい、本来は禁忌とされていたはずの行為だった。
「っ何ということを!
冥魔王陛下、貴方はいったい何ということをなさったのです!!」
ハバランダルは愕然と身を震わせながら言及するが、しかし、元凶であるはずの冥魔王はいたって平然としていた。
そして、いかにも冥魔界の住人らしい傲慢な言葉を吐き出したのである。
「……ハバルよ、杞憂である。
召喚にあたって、恋愛事情に寛容な神の世界を選別したのでな」
「れ…………何ですって?」
「余に及ばぬ身であるお前には分からぬだろうが、神にも様々おるのだ。
長く独り身の忠臣に相性の良い伴侶をと望めば、奴め何の抵抗もなく渡してきおったわい。
お前は異界の神の機嫌を損ねぬよう、そこな者を努々可愛がってやるように」
主の放ったセリフの意味が即座には理解できず、彼は数秒その場に固まってしまった。
それがじわじわと浸透するに従って、ハバランダルは今度は怒りの感情でもって細かに身を震わせ始める。
「そのような!
そのような身勝手な理由で彼女をあるべき世界から誘拐同然に引き離したと!
心に永遠に癒えぬ孤独という名の深い傷を負わせたと言うのですか!」
弱肉強食の意識の強い冥魔界において、かくも異端な大公爵は、他の者からすれば塵芥にも等しい弱者である存在の心情を慮り吠えた。
我を忘れるような激しい憤怒により、彼の身体はひとまわり膨張していた。
言葉を発っすることのできない触手の先の口たちがキィキィと甲高い鳴き声を上げている。
「例え神が許そうと、彼女自身が、肉親が、友が、けして陛下を許しはしないでしょう」
「なぜ羽虫如きに許しを乞う必要がある?
冥魔王たる余が求め、神が許容したことではないか」
「全ては我々の常識で語られるべきではありません。
陛下は羽虫と称しましたが、その羽虫にも彼らなりの理というものがあるのです」
気に入りの部下に滔々と諭され、冥魔王は憮然とした表情で鼻を鳴らした。
生真面目なハバランダルのこと、一方的に嫁の世話をしたところで感謝の念など望んでいたわけではないが、よもやここまでの反感を買うものだとは純粋な魔族たる冥魔王には予測できるものではなかったのだ。
「ふん。では、その羽虫に聞けばよいのか?」
「えっ。なっ……陛下!」
突然のことにハバランダルが止める間もなく、冥魔王は未だ呆然と座り込んでいる人間に向かい尊大に問いを発した。
「おい、人間!
貴様をこの触手目玉の嫁にするために召喚してやった!
異論はなかろうな!」
「お止め下さい!
人の身からすれば、我々は総じて異形なのです!
彼女がもしパニックでも起こしたらっ……!」
冥魔王から触手目玉と称されたように、ハバランダルは闇色の巨大な目玉から赤黒の筋張った触手が全方位に向って伸びる、この世界の人族の身からしても到底受け入れることなど不可能な完全なる化け物の姿をしていた。
例えるならば、イソギンチャクの中央に巨大な目玉が鎮座しているような生物とでも言おうか。
そのようなおぞましい存在の伴侶になど、なりたい人族が存在するはずがないと、彼は目玉の裏側にある一際大きな口の唇を噛んだ。
そもそも、ハバランダルは半人型の魔族も少なくはない冥魔界においても忌避されがちな異形レベルなのである。
その上、冥魔王に次ぐ濃密な魔力に触れた者は、それだけで気が狂うような恐怖に襲われるのだ。
ただでさえ化け物に耐性のないはずの人間に、自身が受け入れられるなどとは到底思えるものではなかった。
人間の返答を待ち口を噤んだ主の横で、大公爵が小さく震える声を発する。
「あの……どうか恐れず。冷静に。落ち着いて下さい。
陛下がおっしゃったことは決定事項ではございません。
私が必ず貴方を元いた世界へお返しすると約束させていただきますから、ですから……」
理不尽な処遇に彼女の精神が崩壊してしまわないようにと、ハバランダルは慎重に女性に話しかけた。
だが……だが、である。
冥魔界を統べる冥魔王が彼と相性の良い者を呼び出したと言うからには、この女が普通の人族であるはずもなかった。
召喚されてよりのち微動だにしなかった人間は、彼の言葉に触れ、驚くほど機敏に体勢を変えた。
それは魔族には馴染みの無い、日本人独特の作法であるところの、いわゆる土下座の姿勢であった。
「お、恐れながら申し上げます!」
「おっ?」
「え?」
初めて動きらしい動きを見せた女性に対し、冥魔王は興味深そうに目を瞬かせ、大公爵は呆気にとられたように触手を仰け反らせた。
二人が黙り込んだのを好機と取ったのか、続けて女が声を張り上げる。
「わ、私はこの世界の嫁の定義について一切存じ上げません!
ですが! ですが、もし!
もし、それに落命や肉体の欠損、精神的苦痛が追従しない、我が世界の定義する嫁とほぼ同義であるということであれば、私はこの縁談、謹んでお受けさせていただきたく存じます!!」
「えええええええ!?」
あまりの驚きに、ハバランダルは触手をピンと立て硬直した。
彼女は彼に一目惚れをしていた。
これほど胸が高鳴ったのは、女の人生において初めてのことだった。
人間の男という生物に一切の興味が持てず、唯一特殊すぎる物語の中にのみ存在する知的な怪物に対してだけ萌えることのできる彼女にとって、彼は理想以上に最高の化け物だった。
初対面の異種族の心情を慮り王と名のつく者に異を唱えることのできる勇気と優しさ、そしてそんな言動とは正反対の人間が生理的嫌悪感を抱きそうな強烈な見た目。
そういった彼のギャップに、彼女はすっかり参ってしまっていた。
であれば、このようなチャンスを逃すわけにはいかないと、女だてらに冥魔王に対する恐怖を根性で捻じ伏せて彼女は自らの意思を主張したのである。
「おおっ、そうかそうか! 受けてくれるか!
お前もしかと耳にしたな、ハバル!
観念して、この人間を嫁に迎え入れるが良い!」
人間側の肯定的な返答を受けて、冥魔王はそれは嬉しそうに頷きながらハバランダルへと向き直った。
「い、いや、しかしっ、冥魔王陛下!?
あ、貴方もいったい何を考えてっ!」
困惑に眼球をチラチラと鈍く光らせながら、ハバランダルは冥魔王と女性とを交互に見やる。
「不束者ですが、宜しくお願い致します旦那様ッ!!」
「ちょっ! そうではなくですね!?
おおお、おかしい!
絶対におかしいでしょう、こんなっ!」
あまりのことにパニックを起こした彼は、物理的に身を縮こまらせて床に転がり、ギュっと短くした触手を忙しなくうねらせた。
普通の人間にとっては不気味な動きでも、化け物好きな女性にとってはご褒美ものである。
彼女は土下座の隙間から彼の姿を垣間見て息を荒げていた。
「ええい、くどい!
ハバル!
お前の返答如何によっては、この女の処分も辞さぬぞ!」
「そ、それはっ……!」
「さあ、疾く答えよ! 応か否か!」
「く…………め、冥魔王陛下の御心のままに……」
か弱き命を盾に脅され、悔しながらもついに陥落してしまうハバランダル。
瞬間、女性が小さくガッツポーズを決めたことに気付いた者はいなかった。
かくして、異世界は日本より召喚されし人間の女は、冥魔界の大公爵ハバランダル唯一無二の伴侶となったのである。
めでたし、めでたし?
おまけ
①公爵家帰宅直後
「ミ・ロード。
その第七十三番触手の先を恍惚と撫でまわしておられるお嬢様はもしや……」
「……えぇ。残念ながら、間に合いませんでした」
「如何なされるおつもりで?」
「陛下のご命令通り、妻として迎え入れようかと。
その、まぁ、当人も納得しているようですので」
「ハッ!?
お、お世話になります! キミコと申します!
卑小矮小弱小不肖の身ではございますが、旦那様の妻として恥ずかしくないよう誠心誠意努めさせていただきたく!
宜しくお頼申し上げます!!」
「……と、いうことです」
「…………御意」
②数週間後
「旦那様、私いつになったら名実共に貴方の妻になれるのでしょう」
「ぶっ! な、何を突然!?」
「突然ではありません。
寝台の上で旦那様の触手に包まれて眠る日々は、それはそれは幸福なものではございますが、だからといってそれ以上の関係は一切無しというのは正直生殺しであると主張させていただきます」
「なまっ!? や、ちょっ、キミコさん!?」
「私、旦那様との子どもだって沢山欲しいんです。
人間の一生なんてあっという間なのですから、グズグズしている暇は無いのですよっ」
「あ、いや。それは、それなら、まぁ、確かに私も悪か……」
「だからって、こちらから襲おうにもどの器官をどうアレしたらそういうアレになるのかっていうのが分からないし。
よっぽど媚薬でも使おうかと思ったけれど、正気を失った旦那様が力加減を間違えてウッカリ殺される可能性もあるかもって、仕方なく我慢していたんですからね」
「ひぃーっ!
冥魔界の大公爵が知らない間にまさかの貞操の危機を迎えていたぁーッ!?」
「と・に・か・く!
今日という今日は逃がしませんから!
いい加減覚悟決めてくださいね、旦那様っ!」
「いやぁぁ妻に凌辱されるぅううう!」
「ほっほっほ。
ミ・ロードと奥方様は本日も仲睦まじくあらせられますなぁ」
「平和ですねー、執事長ー」