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江戸時代の遊郭の楼主に生まれ変わったので遊女の待遇改善に努めつつ吉原遊廓の未来も変えようと思う 作者:水源
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偉い人にジャガイモ料理を食べてもらって、その栽培を日本に広めてもらおうじゃないか

 さて、水戸藩の殿様とコネができたことで、西洋料理に使う食材をもらえるということになった。
で、俺が一番最初に手配してもらったのはじゃがいもの種芋とトマトの種だ。
勿論これはヨーロッパから輸入してくるとか長崎から入手するという訳ではない。

 ジャガイモの日本伝来の時期については諸説があり、天正4年(1576年)とも、慶長3年(1598年)とも、8年(1603年)ともいわれている。
オランダ商館が平戸から長崎に移転したした寛永18年(1641年)には、既にジャガイモが長崎に持ち込まれていたのは間違いないのだが、ジャガイモには毒性があり調理で油をくわえないとパサパサしてうまくないと食用としては広ららなかった。

 トマトもジャガイモと同じ頃に日本に持ち込まれたと言われている。
トマトにも実は毒性があり、しかも有毒植物であるベラドンナに似ていたため、その実は毒であると信じる人も多かったため観賞用とされ、ジャガイモと同じように食用としては広まらなかった。

 だが花としての観賞用植物としてはどちらも好事家の間では珍重されている。
だからそういった人たちから分けてもらうのだ。

 サツマイモもそうだがジャガイモも日本に広まるには長い年月を要した。
理由は新たな作物の試験栽培には藩や幕府の命令が必要だし栽培しても年貢にも金にならないからだ。
農家は定められている石高に合わせて村ごとに納めるべき年貢の米の量は決められており、自ら田畑を耕すことのなくなった農業を知らない幕府や大名は栽培するものは全て水田のコメにするように言ったが、水田に向いていない土地というのは多い。
そういった塩害のひどい場所とか火山灰の多い場所では綿花やタバコが栽培されそれを売って農家は現金収入としたりもしたが、そこを水田へ変えても米は取れないということを大名や幕府はわかっていなかったんだな。
あくまでもそれは余裕のある農家の場合で普通の農民には作物栽培の自由はない。
サラリーマンの副業みたいなもんだ。

 ジャガイモは1777年、甲府代官に就任した中井清太夫が幕府の許可を得て試験的に栽培したのが成功したのがまずは日本での普及の端緒だ。
甲斐という国は金山が有ったため幕府の天領だったが、富士山に近い上に標高が高く寒い上に火山灰も多いため貧しい土地であった。
甲斐でのじゃがいもの栽培の成功は天明、天保の飢饉の際、甲府で一人の餓死者も出ないという結果を残している。

 しかし、江戸時代は藩の数が200も300もあり、しかも、藩はそれ自体が一つの国のようなものでもあり、藩同士での物資の流通は厳しく制限されていた。
また、隣の藩にそういった作物があることが伝わっても栽培には大名の許可が出ないと、どうにもならない。
サツマイモが薩摩に伝わってもなかなか広がらなかったのはそういう理由もある。

 だが、物好きで金持ちの大名はジャガイモの花を鑑賞するするためにその種芋を持っていたりもした。

 寒冷なこの時代、寒くても雨量が少なくなっても収穫に影響があまりないじゃがいもは救済作物として早めに普及させたい。
事実として江戸時代の後期に起きた飢饉ではじゃがいもは多くの人々の命をすくったらしいからな。

「よし、まずはじゃがいもがうまく食べられて、
 なおかつ育てるのも簡単だということを広めようじゃないか」

 揚屋の裏手の土地を買い取って自家菜園を作るとしよう。
この時代においてはじゃがいもの種芋をうめるにもちょうどいい季節だ。
なんせまだ結構寒いからな。

 さつまいもでもいいんだが、どちらかと言うとさつまいもは西日本向きな気がするし、長期保存に適していないらしい、糖分が多いから仕方ないとは思うし偏見かもしれんが。

「さて、日本人がまず普通に食えそうなジャガイモ料理というと、いももち、かな」

 まずはじゃがいもの芽の部分を丁寧に取り除きじっくり茹でて、潰して皮を取り除きからそれに、おから、片栗粉、砂糖、醤油を混ぜてこねる。
平たい円形にまとめて、鉄鍋に油を引いて、醤油と味醂を加え両面きつね色になるまでこんがり焼けば出来上がり。

 ちょっとつまみ食いしてみよう。

「うん、美味いな」

 次は馬鈴薯麺ニョッキだな。
じゃがいもをじっくり茹でて、潰して皮を取り除きからそれにうどん粉と塩を混ぜる。
生地がぼそぼそしてきたら手でまとめ、必要なら水を足す。
板に打ち粉をしてうどんをこねる要領でよく捏ねギュッと丸める。
丸めたらたら棒状に伸ばし、適当な薄さに切っていき、それを指で丸める。
こいつはしばらく寝かせておいてソースを作ろう。

 鍋に塩、しょうゆ、ごま油、刻みにんにくを入れて、そこに山鯨やまくじらとこの時代は呼んでいる猪肉と菜の花を入れて炒め、醤油味ソースを作る。

 ソースができたらを鍋に湯を沸かし塩を入れて馬鈴薯麺を1分くらい茹でる。
火が通って浮き上がってきたらザルでお湯から上げる。

「よし、完成だな」

 皿に馬鈴薯麺を盛り付けて和風醤油ソースをかけてみる。
醤油ソースなら日本人にも馴染み深いしそれほど違和感もないんじゃないかな?

「うん、いい感じじゃね」

 後は皮をつけたままザクザク切って、油で揚げれば皮つきのフライドポテト。
卵黄と酢と植物油を混ぜてマヨネーズを作って、茹でて潰したじゃがいもと混ぜればポテトサラダだな。

 とりあえず試食をうちの遊女たちにしてもらう。

「お前ら、とりあえずこれを食べて感想を言ってくれ」

 呼ばれた遊女たちは俺の作った料理を見て、顔を見合わせている。

「なんですのんこれ?」

 藤乃が不思議そうに聞いた。

「南蛮の方ではよく食われてるジャガイモの料理だ。
 騙されたと思って食ってみろ」

「はあ、ほんに騙されんのは困りますわぁ」

 藤乃はいももちに箸をつけた。

「なにこれ、もっちもちで美味やないですか」

 味付けはシンプルに醤油とみりん。
だが、それだけに美味い。

 楓は揚げた皮つきフライドポテト。

「あああ、サクサクのホクホクー。
 なにこれ、とってもおいしー」

 塩をまぶしただけだがこれも単純にうまい。
揚げたてフライドポテトはたまらんよな。

「じゃあわっちはこれを……」

 桃香が馬鈴薯湎の醤油味和風ソースに口をつけた。

「はう、美味いでやんすなー」

 ほんとにシンプルな料理ばかりだけどみなちゃんと考えてるからな。

「どうだ、売り物として通用すると思うか?」

 みんなは頷いてくれた。

「大丈夫だとおもいやんすよ」

 みんなの太鼓判でほっとしたぜ。

「じゃあ、水戸の若様にも食べてもらうかね」

 後日水戸の若様と毒見役の付き人にきてもらって、揚屋でそれを食べてもらうことにした。
飲み物は特別に手配させた葡萄酒、つまりワインだな。
接待は太夫である藤乃がもちろんするが俺も同席する。

 今回のメニューにはいももち、ニョッキ、揚芋フライドポテト、いもサラダに加え細切りにした芋を重ねて焼いたガレットと芋を入れた味噌汁もくわえてみた。

「ほう、初めて見たものばかりだがなかなかにうまそうだな」

 徳川光圀は感心したような声を上げた。

「若、我々が毒味しますゆえ、お待ちを」

 付き人がそう言うが別に毒なんか入ってないんだがな。
そして、箸を手にどんどん食べていく付き人たち。

「うむ、これは美味い、あ、いやいや、
 まだ毒が入っているか、どうか分からぬゆえもう少し」

「うむ、これもなかなかだな。
 まだ毒が入っているか、どうか分からぬゆえもう少し」

「この酒は変わった味だな。
 まだ毒が入っているか、どうか分からぬゆえもう少し」

などと言いながら毒見役の付き人がどんどん食べて飲んでいく。

「ふう、どうやら毒はないようです。
 では、若どうぞお食べになってください」

「う、うむ、五右衛門に八兵衛や。
 なんかこの、お前食べ過ぎじゃないかね?」

「いえいえ、これも若の身を慮ってのこと。
 もしも毒であれば大変でございますからな」

「そのとおりでございますぞ」

 付き人達のことばになんか微妙な表情の徳川光圀。

「そうか……そなたの忠義嬉しく思うぞ」

 そう言いながらさんざん食い荒らされた残りを口にする徳川光圀。
偉い人は偉い人で大変だな。

「ふむ、少々冷めておるがたしかに美味い。
 これは何を使ったのだ?」

「はい、これはみなジャガイモを使った料理でございます」

「ほう、じゃかとらのジャガタライモか。
 これがのう」

「はい、これは寒い地方でも栽培でき、水が少なくてもよく、
 温かいところであれば春と秋の年2回栽培でき、
 割りと保存もきく優れた食べ物です。
 どうかこれを全国の農家に自家食用としてだけでも
 植えるように勧めていただければと思います。
 ただし、毎年同じ場所に植え続けるのは良くないそうですが
 同じ畑でネギとジャガイモを交互に
 畝に植えて育てていくと良いとのこと。
 また芽や芽の生えた場所光に当たって緑色になった皮には
 強い毒があるゆえ勿体無いと思わずに
 その部分はほじって、捨てねばなりませぬが」

「うむ、農民の自家食用だけでは勿体無いのう。
 では上様や老中などにも話をしてみよう」

 その言葉に俺は固まった、なんか話がでかくなってるような。

「へ、将軍様たちに、ここに来てもらうので?」

「うむ、何か問題でも?」

「いや、こちらはありませんが」

 後日、将軍の徳川家綱とくがわいえつなや、陸奥会津藩初代藩主の保科正之ほしなまさゆき、越前福井藩第4代藩主の松平光通まつだいらみつみち、老中の松平信綱まつだいらのぶつな酒井忠清さかいただきよ阿部忠秋あべただあきなどがうちの揚屋にきた。
建前上は光國による将軍への接待だそうだ。

 この時のメニューには徳川光圀にだした いももち、ニョッキ、揚芋、いもサラダ、細切りにした芋を重ねて焼いたガレットと芋を入れた味噌汁に加えてニョッキをほうとうのように伸ばしてほうとう汁風のものや蒸した芋にバターを載せたものもくわえてみた。
え、バターなんてあるのかって?
ああ、牛乳を冷やして静置したり、温めて静置して浮き上がってくるものはクリームだから、それを冷やして固めれば無塩バター、塩を入れて固めればバターになるんだ。
牛乳を冷たい状態で静置したものの残りは牛乳に含まれている乳酸菌によってヨーグルトになる、固まったヨーグルトを布で濾して、重しをして固めればクリームチーズになるから、ついでにそれもだしてみた。

 そしてあいかわらす光國の付き人はフリーダムに毒味としょうして食ってるな。

「ほほう、このふかしイモの牛乳油を載せたものはなかなかに美味いな」

「うむ、牛乳豆腐に砂糖を混ぜたものも甘酸っぱくて良いぞ」

「うむ、乳団子は葡萄酒にも、ようあうのう」

「五右衛門に八兵衛、お前ら毒味と称して
 食いまくるではないわ」

 将軍の徳川家綱はさほど気にした様子もなく芋料理を食べている。

「よいよい、それにしてもジャガタライモの料理がこれほど美味いとはな。
 楼主よ、其方は私と同じ年齢ときくが
 下賤なものにしてはなかなか見識に優れたもののようだ」

 徳川家綱は徳川家の嫡男を示す幼名である”竹千代”と呼ばれていた頃に、罪人の処遇において、当時の刑罰では「最も重いのが死刑、次が流罪」とされていたが、家綱が「流罪になった者はどうやって暮らしているのだ?食べるものはあるのか」と近臣たちに尋ねたところ、誰も答えられず、
答えがないということは罪人を流してそのまま放置していると理解した家綱が、次に「それでは命を助けた意味がないではないか」と言ったらしい。
でこれが父の家光の耳に入ると、家光は大喜びして、「これを竹千代の仕置(仕事)始めにせよ」として「竹千代の言う通り、流罪先に食料を送ってやるように」と命じたという話もある。
本当かどうかはわからんが、この時代の将軍や幕臣は福祉政策・災害救済対策・都市整備などに力を入れて、多くの人命を救おうとしたのは事実のようだ。

「は、ありがたきお言葉にございます」

 その後、保科正之は俺に聞く。
保科正之は徳川家光の兄弟だが側室の子であえて徳川も松平も名乗っていない。
この人は名君として名高く会津藩主として殉死の禁止、税制改革と減税の実施、飢餓対策の社倉制度を創設、90歳以上の高齢者へ扶持米の支給、間引きの禁止、救急医療制度の創設、会津藩家訓の制定などをおこなって、領民を慈しみ、親や子供を大切にして暮らせる世の育成を目指していた。

 また、幕政については四代将軍家綱を補佐し、徳川家康以来武力によって制圧した体制を、文治政治に切り換え、平和が長く続くよう、きめ細かな政策を講じた。
末期養子制度の緩和により大名の廃絶を防ぐ、玉川上水の開削、振袖火事の際、江戸市民の救済を優先するため江戸城の天守閣を再建せず、街の復興を優先した、大名や重臣の江戸への証人(人質)制度廃止を建議などだ。
将軍家光や家綱にも重用され、後の生類憐れみの令の基礎のようなものを作った人物だな。

「このジャガタラ芋は、我が会津においても普通に作れるのであろうか?」

 その質問に俺は答えた。

「はい、むしろ寒く、雨量が少なく水はけの良い土地のほうが
 よく育つそうです、会津のような北の国のほうが
 より育ちやすいかと思います。
 凍らせて乾燥させれば長く持つとも聞いております。
 ただし、毎年同じ場所に植え続けるのは良くないそうですが
 ネギとジャガイモの交互を育てていくと良いとのこと。
 また芽や芽の生えた場所や光が当たって緑色になった皮には
 強い毒があるゆえ勿体無いと思わずに
 その部分はほじって、捨てねばなりませぬが」

「そうか、では会津藩はすぐにこれを植えさせるようにしよう」

「そうしていただければ、民も飢えに苦しまずにすむと思います」

「では私達もそういたそう」

「うむ、民を飢えさせぬは重要だしな」

 と他の老中たちも賛成の意を示してくれた。
なんせ、飢饉が最近あったばかりだからな。
人間飢えると、どうしても凶暴になる。
飢えさせないのは善政の基本だ。

 ちなみに牛乳豆腐というのは、固めたヨーグルトで、乳団子はクリームチーズのことだな。

 そんな芋料理と牛乳料理のフルコースを皆は食っていき、その美味さを主に付き人がったっぷり堪能していった徳川幕府の上層部は、全国的にジャガイモ栽培と葡萄の栽培、乳牛の飼育による牛乳の搾乳を推し進めることを決めてくれたようだ。
葡萄も割と寒くて雨の少ない地方でも育つからな。
米の酒や酢の代わりに葡萄酒や葡萄酢を作れるようになれば、寒くて雨量の少ない地方でもそういったものが手に入れやすくもなるだろう。

「やれやれ、随分話が大きくなって焦ったぜ」

「まあ、よいことではありんせんか」

 藤乃が言うとおり、まあ、良いことだ。
おおよそ1645年から1715年の間は太陽黒点数が著しく減少したマウンダー極小期と言われていて、日本でも飢饉が頻発した。
太陽黒点が減ると太陽からの赤外線照射量が減り、寒冷化するらしい。
寛永19年(1642年)から寛永20年(1643年)におきた寛永の大飢饉はすでに過ぎてるとは言え、延宝元年(1673)の延宝の飢饉はもうすぐだ。
それまでにじゃがいもの栽培を全国に普及させれば、栽培したジャガイモを汁にするだけでもだいぶ違うはずだよな。
特に甲信越や北関東、東北でのじゃがいもや葡萄の栽培が進めば餓死する人間はかなり減らせるんじゃないかと思う。
俺には大した知恵も力もないが、少しでも食糧危機の苦しみが減って、子供を売らないといけなくなる人間も減ればいいと思うぜ。
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