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最終話.檸檬以上 蜂蜜未満で 林檎以下
 一週間後の土曜の夜、わたしは敦司と東京駅の新幹線ホームにいた。

 ヨウコさんに一時帰宅のことをそれとなく話すと、「しばらくゆっくりしてきなと言いたいところだけどね、由佳ちゃんがいないと大変だし。でもせめて前日に帰ってやったらどうだい」と言われたので、お言葉に甘えることにした。

 由佳ちゃんがいないと大変だし、の言葉がほっくり嬉しい。

 しかしそれも土曜の話だったので、「いや、いいんです」と断ろうとしたのだけれど、一度言ったことはなかなか覆さないヨウコさんには敵わない。

 お昼過ぎに、わたしは帰された。「じゃ、また月曜に」とカウンターで軽く頭を下げると、ヨウコさんと美月ちゃんに「いってらっしゃい」と元気に肩を叩かれた。

 相変わらず力強いヨウコさんの激励に、ずんと肩が下がる。肩を摩りながら小窓に視線を移すと、カズくんが横になって笑っていた。

 思わず手を振ると、カズくんの左手が上がった。少し、頬が緩んだ。



 結局、なんだかんだとやっているうちに、夕方になってしまった。

 敦司が帰ってきてからのほうがいいだろうと、群青色の長座布団に被さってごろごろしていた結果なのだけれど。

 毛玉みたいだった子猫らは、一回り大きくなって砂利の上を転がっている。

 だいぶ、足腰もしっかりしてきた。どうやら、力関係も出てきたらしい。茶トラが強い。白猫二匹に果敢に攻め入っていく。たぶん、メス猫だ。

 わたしは顎の下で両手を組んで、そんな猫らをぼんやり眺めていた。


 「別にいいよ」と言ったのだけれど、敦司は東京駅まで着いてきた。

 「もういいよ」とも言ったのに、入場券を買ってホームまで着いてきた。

 何がそんなに心配なのか、わたしの隣でしきりに時計を気にしている。

 これじゃ何かの歌みたいじゃないか、そう思うと可笑しくて笑いながら新幹線に乗り込んだ。

 扉が閉まる直前に、「んじゃ行ってくる」と手を振ると、敦司は「おじさんに宜しく」と手を上げて、わたしの頭をぽんと叩いた。

 東京の灯りが、ゆっくり遠ざかっていく。



 鈍行に乗り換えて、自宅付近の小さな駅に着いた。

 開いた扉から外に出ると、一気に蛙の声が押し寄せる。人の声や車のエンジン音のほうが、その中に埋もれて僅かに聞こえてくる、といった感じだ。

 東京とは違う、ひんやりとして澄んだ、夜の風。運ばれてくる強い夏草の匂いで、帰ってきたことを実感する。

 プレハブ小屋みたいな待合室には、わたしよりも若い高校生くらいの男の子たちがたむろっている。これも昔、よく見ていた光景だ。面子は変わっているけれど、やっていることは同じだ。大人たちの視線を気にして何かを隠してみたり、女の子を目で追って品評し合ったり。

 通り過ぎたわたしも、きっと点数を付けられているのだろう。それともスルーか。まあどうでもいい。不思議なもので、前ほど気にならなくなっている。

 古びた飲み屋街の細道を通り、旧国道に出て、神社の前を過ぎ、家までのおよそ一キロの道のりを歩いて帰った。

 コンビニで缶ビールを買った。父への手土産のつもりで。自分用に買ったパック入りのコーヒー牛乳は、飲みながら歩いた。

 ストロー越しに、弁当屋の味がする。


 坂を上って、下る。

 見えてきた自宅の窓の灯りが、ぼんやりと夜に滲んでいる。隣りの敦司の家の灯りは、夜道に薄く膜を貼っていた。

 鍵のかかっていない玄関を開けて「ただいまあ」と茶の間にそろりと入っていくと、作務衣姿で寝転がっていた父が驚いて体を起こした。

 
「なんだ、明日じゃなかったのか」

「その予定だったんだけど、今日になった」

「いきなりだな。何にも用意してないぞ」

「用意ってなにが」

「食うものも、飲むものも、何にもないぞ」

「ああ、いいよ。お腹空いてないし。飲み物は買ってきたし」


 缶ビールを差し出すと、父は素直に喜んだ。

 わたしは真っ直ぐ仏壇の前に行って、母に線香をあげた。林檎、明日買ってくるから、心で呟いて、手を合わせる。立ち昇る線香の細い煙の向こうで、母は柔らかく微笑んでいた。


 父が台所からかりんとうを持ち出してきたので、つまみながらテレビを見た。さすがにコーヒー牛乳とでは甘すぎて、お茶を淹れてずずずと啜る。

 テレビからの笑い声で沈黙は辛うじて免れていたけれど、なかなか会話は弾まなかった。

 同時にかりんとうに手が伸びる。二人とも一番小さなかりんとうを狙っていた。たいして食べたくもないのに手持ち無沙汰から伸びた手だ。

 伸ばした手を引っ込めた父は缶ビールを手にしてくいと煽った。かすかすと音がする。たぶん、もう入っていない。父の咽は動かなかった。

 わたしは摘んだかりんとうをこりりと齧って、そんな父の横顔を眺めながらお茶を啜った。


「どうだ、向こうは」


 テレビ画面が天気予報に変わったとき、父がぽつりと声を発した。

 顔は画面を見たままで、耳だけこちらに凝らしている。


「それなりにうまくやってるよ。バイトも見つけたし」

「バイト?」

「弁当屋で働いてるんだ。日曜以外、毎日。まじめにやってる」

「そうか。敦司くんには迷惑かけてないだろうな」

「かけてない、かけてない、全然かけてない」

「そうならいいけど、迷惑かけるようなら考えろよ」

「考えるって?」

「いつまでも世話になってるわけにいかないだろ」


 そうだね、呟いてわたしも天気予報に視線を移した。梅雨の季節がどうのこうの…気象予報士のお兄さんが何か言っている。東京はまもなく梅雨入りするらしい。


「あのさ、」

「なんだ」


 ふいに聞いてみたくなった。


「弁当作り、お母さんと約束したって言ってたじゃん。あれ、何?」

「約束? ああ…お前が学校に上がったら弁当は毎日ちゃんと作ってやってくれってな」

「ふーん……他には?」

「ああ?」

「他にお母さんと約束したことってある?」

「ああ、いっぱいあるわ、ありすぎて大変だわ」


 ごろりと横になった父は、片手で尻をかいている。裸足の足の深爪が、何だか痛そうに見えて目を逸らした。


「例えば?」

「例えば…夜更かしさせるなとか、病気になる前に医者に連れて行けとか…」

「あとは?」

「分からないことがあったらそのままにしておくなとか、優しい子になるようにとか…」

「…あとは?」

「素直ないい娘に育ててくれ、とか」

「……」


 何だか、わたしのことばっかりだ。聞いているうちに、疲れてくる。わたしが疲れるのだから、父はもっと疲れるだろう。


「とにかくちゃんと見守ってくれってな。大人になるまで」

「…大変だね」

「大変だ」


 たぶん、まだまだいっぱい約束したんだろう。にっこり微笑んで母はあんなところにいるけれど、なかなかどうして、強い人だ。

 父はそれを聞きながら、母を見送りながら、どんなことを考えていたのか。今のわたしを見て、どう感じているのか。

 とりあえずわたしが大人になるまで、父と母の約束は続いていくのは明らかだ。可哀想だが仕方ない。わたしもできるだけ、期待にこたえられるように頑張りたい。

 今は初めてのことばかりで、いっぱいいっぱいだけれど。一つ一つクリアしていけば、何とかなりそうだ、とも思う。


 しばらくして父は立ち上がり、奥の自室に引っ込んだ。背中に向かって「おやすみ」と言うと、「風呂に入って早く寝ろ」と返事が返ってきた。

 言われたとおり風呂に入り、二階に行って電気を点ける。

 カーテンを引いて遠くを見ると、高速道路の車の列が緩々続いていた。勿論、東京タワーなんて見えない。

 ベッドの上に、ごろんと横になる。

 睡魔はすぐにやってきた。久しぶりの自分の布団は埃っぽくて、もう何となく、懐かしいものになっている。



 次の日、父は一旦事務所に顔を出さなければならないということだったので、二人で遅い朝食を摂ってから、わたしは一人で母のお墓に向かった。

 途中、どうしても通らなくてはならない場所がある。あの、橋だ。

 錆びた欄干の脇を全力で走り抜ける。

 走れば走るほどあの日の息苦しさが襲ってきて、目が回りそうになる。

 転がるように駆け抜けて、数百メートルオーバーしてから息を整えた。

 
 両脇が草で覆われた、石と土で固められた階段を上って、墓地に出る。

 青々と繁った木々に囲まれている霊園は日陰になっていて、時折零れる木漏れ日が墓石をちらちら照らし出す。この一帯だけ空気の流れが違って感じるから不思議だ。雀の声だけがする。静かだ。

 母のお墓周りを綺麗に掃除した。無心に。黙々と。

 墓石の脇に小さな青蛙がいた。水を垂らしてやるとぴくりと体を動かして、その咽を気持ち良さそうに震わせていた。

 草むしりを終えて、ふうと息を吐いて立ち上がる。

 腰に手を当ててぐんと体を反らして後ろを見ると、階段から父がやってきた。

 右手にペットボトルの水と、細い花束を握っている。左手に持った新聞紙で顔の周りを扇いでいた。

 
「綺麗になったな」

「見事でしょ」


 ペットボトルと花束を渡されたので、わたしはプラスチックの花立に水を注いで花をさした。
 
 父はしゃがんでライターから新聞紙に火をつけている。毎年見ている姿だ。丸まった背中を眺めながら、わたしは線香に火がつくのをじっと待つ。

 土の上でちりちりと身をよじった新聞紙は、あっという間に小さくなって、灰になって、散らばっていく。

 線香の半分をわたしに渡した父は、よっこらしょと立ち上がり、墓前に置いた。わたしも後に続き、同じことをする。

 よいしょとしゃがんだ父の隣りに並んで、手を合わせた。

 幸せになれますように――わたしはずるい。いつも、こう願ってしまう。願われたご先祖様だって、勿論母だって、たまったもんじゃないだろう。

 大体、墓参りでお願い事をすること自体、間違っている。なのにいつも願ってしまう。幸せになれますように。いつかいい事がありますように。前向きに生きられますように。父が長生きしますように。

 よいしょと父が立つ。わたしはしばらくしゃがんで手を合わせたまま墓石を見つめた。

 お母さん。呼んでみても、ここに母はいないような気がする。誰も、居ないような気がしてくる。

 だって願っても、叶ったためしは無い。いくら願っても、なるようにしかならないのだ。自分でなんとかするしか。

 それでも、手を貸してはくれないけれど、どこかで見ていてくれてるとは思うのだ。

 何をやっているんだ、と。もっとしっかりしなさい、と。

 父の知らないわたしも、きっと母は見ている。橋の下のことも、東京タワーでのことも、恥ずかしいがキスのことも。

 そう思うとありがたく、こそばゆく、でもムカついて情けなくもあり。それでも何となく前進はできるような感じがするのだ。



 父の乗ってきた車に乗り、自宅へ向かう。

 橋に差し掛かったところで窓を全開にして、「バカヤロー」と叫んでみた。大声で。腹の底から声を出した。

 歩いている人が驚いて立ち止まった。なんだなんだときょろきょろ辺りを窺っている。

 
「なにやってんだ、馬鹿」

 
 父に怒られながらへらへら笑った。

 

 途中のスーパーで買い物をした。

 林檎と、お茶菓子なんかを適当に買う。

 
「八時の新幹線には乗るからね」

「ああ」


 茶の間にごろりと寝転がった父の背中に声をかけて、わたしは仏壇に林檎を供えた。 

 甘い、蜜の匂いがぷんとする。

 茶色のテーブルを挟んで反対側に、わたしも寝転がった。

 色褪せた、畳の向こうの父の顔。

 浅黒い顔からは、もう寝息が立っていた。



 
 はっと目が覚めると、縁側から光が差し込んでいて、部屋全体をオレンジ色に染め上げていた。

 一瞬どこにいるのか分からなくなって首を動かすと、壁の傾いたお姫さまがわたしを見下ろしていた。

 テーブルに手をかけて父を覗き込む。ぐぐぐ、とくぐもったいびきをかいている。何処かで見たような光景に、少し笑った。

 何となく起こすのが可哀そうだったので、わたしは静かに立ち上がって仏壇の前に行った。

 線香に火をつけて、そっと手を合わせる。

 「じゃあね」というよりは「いってきます」みたいな気持ちで。

 微笑む母に「随分いっぱい約束させたね」と笑い返して、備えた林檎の一つをもらった。

 
 Tシャツの裾で林檎を擦りながら縁側へ出る。

 空は、いつか見た檸檬色の光で覆われていた。
 
 遠くの山に深々と、夕日がじっくり沈んでいく。

 一日の終わりに、ほうっと温泉にでもつかるようだ。

 蜂蜜みたいな輪郭は、けれど、それよりもあっさりとした滑らかさでとろりと山に溶けている。

 縁側に置いた足は、夕日と同じ色に染まっていた。

 ごそごそと音がして振り向くと、父が起き上がるところだった。

 大きなあくびをして、座りながら腰をさすっている。


「お父さん、もうそろそろ行くよ」

「ん? ああ、そうか」


 わたしの隣に立った父は、むくんだ顔で空を見上げた。浅黒い顔もまた、夕日の色に染まっている。

 林檎を持ち上げて、夕日にかざした。つやりと光って、朱色に変わる。


「お父さん」

「ああ?」

「こっから、東京タワー見える?」

「見えるわけないだろうが」

「だよね」


 縁側に届く、線香の匂い。


「お父さんさ、お母さん以外に、好きになった人っている?」

「ああ?」

「二人同時に、好きになったりとか」

「さあ、どうだったかな」


 鼻先に林檎を押し付ける。

 蜜の香りがくすぐったい。


「好きなやつでも出来たか」

「わかんない」

「なんだそれ」

「初めてのことばっかりでさ、大変なんだ、いろいろ」

「そうか」

「うん」


 しゃりりと林檎を齧った。

 甘いような、酸っぱいような。

 何かの味に、すごく似ている。

 
「でもそれの積み重ねだからな」

「そうなの?」

「初めてが無いと、次が無いしな」


 檸檬色の空が、徐々に深さを増してくる。

 父の、群青色の作務衣が横を向いた。


「で、誰が好きなんだ」


 父の奥で、母が笑っている。


「わかんないよ」

「とにかく、電話くらい寄越せ」

「はいよ」

「迷惑はかけるなよ、人様に」

「わかってるって」

「彼氏が出来たら言うんだぞ」

「はいよ」


 ポケットが震えたような感じがして、手を入れて携帯を取り出した。

 赤く点滅している。留守電が、三件入っていた。

 敦司と、誰だろう。ヨウコさんか、もしかしてカズくんか。

 
 わたしの生活は、少しずつ動き出している。

 まだ中途半端なものがいっぱいで。
 
 仕事も、敦司のことも、カズくんのことも、父のことも。

 ちゃんと考えて、自分で処理しなくちゃならないことが山ほどある。

 面倒だけれどでも、まだまだ起こる色んなことを、もっといっぱい見てみたいし、やってみたい。

 将来の夢とか希望みたいなものも、漠然とで構わないから、抱えて歩いてみたいのだ。
 

「もうちょっと、あっちで頑張ってみるから」

「ああ」

「もう行かないとやばい」

「送っていくから早く準備しろ」


 うん、と返事をして、蜂蜜みたいな夕日に手を翳す。

 林檎を齧る。しゃりりと固い。甘くて酸っぱい。

 同じような気持ちを抱えて、 わたしはまた、東京へ戻る。










  ―― 完 ――





最後まで目を通してくださった皆様、どうもありがとうございました。
由佳の今後…できれば続きも書きたいな、とは考えています。

お声をかけてくださったぴよ様にお礼を。そして企画にご一緒させていただいた作者様方に感謝を。温かい言葉をかけてくださり、本当にありがとうございました。


拙作は、様々な「はじめて」を織り込みながら書いてきたつもりですが、「これからやって来るはじめてに備えた前段階」って感じのお話にも仕上がったようです(笑)

若いうちは色んなことが初めてで、戸惑うことも迷うことも沢山あると思います。
ただ、数は減るにしても、いくつになってもそれはやってくると思います。

イキナリの初めては本当に右往左往しますが、初めての積み重ねによって次へ進めると思うので、どうぞ逃げないで、受け入れて、チカラに変えていってください。


最後になりますが、読んでいただいて本当にありがとうございました。
また何か書き始めましたら、こちらのあとがきにて報告させてもらいますので、宜しければ覘いてみてください。

 08.05.18 水沢 莉



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