おばあちゃんはタイムトラベラー
もうすぐ、おばあちゃんのお誕生日だ。 おばあちゃんは、この冬で八十三歳になる。
でも、その時、おばあちゃんにそのことが分かるかは、分からない。一年前から、おばあちゃんはタイムトラベラーになったから。ただし、過去にしかいけないトラベラーだけど。
玄関を開けるなり、台所から母が出てきた。
「ちょうどよかった! 麻衣子、おばあちゃんを迎えに行ってきて」
「おばあちゃん、いつ出かけたの?」
ブーツも脱がず、コートを着たまま母に聞く。母は鍋でも洗っていたのだろうか。肘まであるゴム手袋をしていた。
「今だと思う」
母の顔は真剣だ。
「だって、ほんの少し前まで、私のうしろの食堂のテーブルで、お茶を飲んでいたのよ」
「わかった。迎えに行ってくる。あのさ、見つけても、急いで帰って来なくていいよね」
「もちろん。よろしくね。お願い」
母は、玄関に常備してあるおばあちゃんのコートとショールが入った紙袋を、私に持つように言ってきた。冬だけど、今日は結構暖かい。けれど、それはあくまで、コートを着ているのが条件なのだ。
私は、小走りで自分の家がある住宅街から、商店街へと入った。ばらばらの間隔で並んでいる電柱には、町名が入った緑と赤のクリスマスリースが飾ってある。お店からは、いろんなクリスマスソングが流れ、町全体がうかれているように思えた。
けれど、私は違った。祈るような、焦るような気持ちで、おばあちゃんがいるであろう場所へと向かった。
目の前には、茶色いレンガ造りの市立図書館があった。ここが私の目的地だ。反応が遅い自動ドアを抜けると、私はそのままお目当てのコーナーへと行った。
図書館は、暖房が効きすぎて暑いくらいだ。私は歩きながらコートを脱ぐと、おばあちゃんのコートが入った紙袋にそれを突っ込んだ。紙袋はいびつに膨らんで、歩く度に私の膝にあたったけれど、構わずに歩く。
日本人作家のコーナーは、入口の左手奥にあった。蔵書は作家の名前で、あいうえお順に並んでいる。
「き」の名字のコーナに駆け寄る。
いた。
多分そうだろうと思っていたけれど、毎回本人を見つけるまでは心臓バクバクものなのだ。おばあちゃんは「き」の作家のコーナーを見上げていた。
「おばあちゃん」
おばあちゃんが、ゆっくりとこっちを向く。穏やかな表情だ。
「美智子さん」
美智子は、母の名前だ。今、おばあちゃんは、過去にタイムトラベル中なのだ。
「なぁに、どうしたの?」
「お父さんの本が、ちゃんとあるかを見に来たんですよ」
毎回、おばあちゃんの答えは決まっている。
「そうなんだ。で、あったの?」
「はいはい。ありましたよ。『北詰 始』ええと、――」
そう言っておばあちゃんは置かれている本の題名を端から読み上げる。作家が一生に何冊の本を出すかは分からないけど、おじいちゃんは五冊の本を書いた。
五冊。
特に賞らしい賞も貰わず、ベストセラーなんかも出さなかった。だから当然、図書館には北詰 始のコーナーはない。「き」の作家のコーナに、五冊ポンと並べられているだけなのだ。
おばあちゃんは、「き」の作家のコーナに来て、おじいちゃんの本を年代順に並べて帰るのだ。
そして、それは、突然したくなるらしい。
初めて、おばあちゃんが消えた時、父も母も私も弟も、どこを探していいのか見当もつかずに、パニックになった。手分けして、街中を探すなかで、父が図書館にいるおばあちゃんを見つけた。
おばあちゃんは、おじいちゃんの本が収まる棚の前にいた。
「でもね」
おばあちゃんの声にはっとする。
「どうしたの?」
「今日は一冊、ないねぇ」
確かに、一冊ない。
「誰か、借りているんじゃない?」
「どこの誰が、借りているんだろうね?」
その質問には毎回困ってしまう。迂闊に答えられないからだ。
「調べてみようか?」
そんなの調べられるわけないんだけど、図書館にある検索機械の前におばあちゃんを座らせる。
「調べるよ」
北詰 始の名前を入れてポンと押すと、パッと五冊の本の名前があがった。
「で、これだよね」
なかったその本をクリックした。ぎくりとする。<廃棄>の文字が見えた。急いで画面を戻す。そういえばあの本は、かなり傷んでボロボロだった。
「機械の調子が悪いみたいで、調べられないや」
「そうなのかい?」
おばあちゃんは、さっきの文字に気がつかなかったみたいだ。あとで、家に何冊もあるあの本を持ってきて、寄贈しよう。
「ねぇ。また、明日にでも一緒に来ようよ」
「あぁ、でも、美智子さん。明日はお仕事でしょ?」
母は、昔からデパートの服飾品売り場働いていた。だから、私たち姉弟は、このおばあちゃんに育てられたようなものなのだ。
「明日は、代休なんだ」
「あら、そう。じゃあ、麻衣子ちゃんの保育園へは美智子さんが行ったらいいわ。その方があの子が喜ぶから」
おばあちゃんは、よいしょと椅子をおりた。
「そうそう。この間のこと、しかっちゃだめよ」
おばあちゃんは、ゆったりとしたスカートの裾を直した。
「麻衣子ちゃんが美智子さんの靴を隠したのは、あなたに仕事に行って欲しくないからなんだから」
「……はい」
「困らせたかったわけじゃないのよ」
「……はい」
「寂しさに、気がついて欲しかっただけなのよ」
「……はい」
「大人に対して、子どもがどんなに多くの信号を出しているか」
おばあちゃんがかがんで、私が持って来た袋からコートを出し始めた。上にのせてあった私のコートを、おばあちゃんは「美智子さんのよ」と渡してきた。
「偉そうに言ってしまったけれど、私も『おばあちゃん』になってから、気がついたのよ」
にこりと、おばあちゃんが笑う。
ふいに、おばあちゃんの笑顔が曇る。
「あらあら、麻衣子ちゃん。何を泣いているの?」
おばあちゃんがカーディガンのポケットからハンカチをとり出した。ガーゼ素材の、柔らかいやつ。
ずっと、そう。
おばあちゃんは。
「泣いたら、麻衣子ちゃんの可愛いお顔が台無しよ」
おばあちゃんが、笑う。
だから、私も笑う。
おばあちゃん、お帰りって。
商店街を二人で歩く。みかんを袋いっぱい買った。八百屋さんでもクリスマスソングが流れていた。
「これ、おじいちゃんが好きだった曲だわ」
シナトラの声だった。
「私も好きだよ」
「麻衣子ちゃんがそう言うと、おじいちゃんも喜んでるわ」
静かに、おばあちゃんの時は流れる。
そして、たまに、おばあちゃんは、過去にタイムトラベルをする。
みんなは、「大変だね」って言うけれど。勿論、大変でなくはないけれど。
そのたびに、私は、おばあちゃんから優しい贈り物を貰うのだ。
どんなに自分が周りから愛されて育てられたか、おばあちゃんは教えてくれる。
―― たとえば、今日みたいに、家族のみんなが忘れているような記憶を。
「もうすぐ、おばあちゃんの誕生日だね」
おばあちゃん。その日、おばあちゃんがタイムトラベルをしていても、私は一緒にいるよ。
おばあちゃんが、私の昔を覚えてくれているように、私がおばあちゃんの今を覚えているから。
今度は、いつの思い出に会えるかな?
2002/12/16にサイトに掲載した物語を、このたび加筆修正しました。