2 この世界を救ってください
「素晴らしいですわ、勇者様」
女神のように慈悲深く、優しい笑顔。しかし、声は歓喜の色をはらんでおり、白い頬が桃に紅潮していた。
うっとり。そんな表情を浮かべて、リリィシアは両手を合わせた。
「あなたは、まさにわたくしが求めていた勇者様です」
「は?」
足元には、彼女の姉であるナターシアが転がっている。クロスと同じように、ナターシアもわけがわからないと言いたげな顔をしていた。
「勇者様、どうかこの世界を救ってくださいませ」
リリィシアは両手を前に突き出して、クロスに懇願した。そして、足元に転がるナターシアの頭を踏みつける。
「リ、リリィひア……ど、どうひう……」
「ああ、そうでしたね。お姉様には忘却の魔法をかけているから、忘れてしまっているのね。ごめんなさい、お姉様。三回も召喚させてしまって。さぞ、お苦しかったでしょう」
リリィシアは満面の笑顔で言いながら、ナターシアを踏みつける足に力を入れていく。
ミシミシと嫌な音がして、頭蓋骨が軋んでいるのがわかる。笑顔のまま、リリィシアはクロスに視線を戻した。
「あなたのような勇者を待っていました。勇者クロス・カイト。わたくしは、リリィシア・アルデ・カルディナ。ナターシアの妹で、この国の第二王女です。あなたを歓迎しますわ」
ナターシアを踏みつけたままリリィシアはドレスを摘まんで、丁寧にお辞儀をする。王族らしく礼節に則った美しい仕草だった。
「あなたは百年前、魔王を倒しました。だったら、その責任をご自分で取るのもよろしいのではないでしょうか?」
「魔王を倒した責任……?」
言っていることがわからず、クロスは眉を寄せた。
リリィシアは両手を広げて、当然のことのように続ける。
「魔王が倒されて以降、この世界の脅威は消えました。魔の火山が封印されたことで魔族は衰退し、魔物は数を減らしています。エルフやドワーフのような精霊族も山や森にひっそりと暮らすようになりました。そのせいで人間が爆発的に増えてしまったのです。なにが起こっているかは、先ほどの姉の説明でお察しいただけたと思いますが」
リリィシアの足元でナターシアがもがく。
靴底が顔にめり込み、頭蓋骨を押し潰そうとしていた。リリィシアの脚力が凄まじいものであり、また、容赦をしていないことがわかる。
「今や人と人とが争う世界。このような世界は、大変不健全だとは思いませんか? あなたは、この世界に恨みがあると言いました。非常に素晴らしいです。わたくしとあなたの利害は完全に一致している。そう思いませんこと?」
迷える子羊に教えを説く女神のように、リリィシアは声色を高くした。
「伝説の勇者クロス・カイト。その強大な力をもって、今度は魔王となり、たくさん人間を殺してください。手始めに、この国を差し上げますから滅ぼしてみませんか?」
自分の国を差し出して、滅ぼせと乞う王女。
狂っているとしか思えなかった。正気ではない。だが、リリィシアはまるで「空気と水がなければ、人間は死にます」と言うかのような自然な口調で、サラリと言葉を続けるのだ。
「リ、リリィ……シ、あ?」
「あら、お姉様。まだ生きていらっしゃるの? もう用は済んだのに」
ナターシアの顔が歪み、眼窩から血が垂れた。頭蓋骨が陥没し、形が変わっている。それでも、まだ息はあるようだった。
「わたくしは召喚魔法が使えませんからお手伝い頂いただけですのよ。理想の勇者様を召喚するのに、二回も失敗してしまいましたが。そのたびに、呼び出した勇者を始末して、お姉様の記憶を操作する魔法をかけるのは少々手間でした。わたくし、魔法より剣の方が得意ですし。それにしても、部屋に始末した勇者が転がっているのに、気がつかないなんて……昔から思っていましたが、お姉様って本当に頭の中が空っぽで扱いやすいのですわ」
よく見ると、部屋の隅には何者かに刺殺された死体が二人分転がっていた。
一人は学ランを着ており、もう一人はスーツ姿だ。学生とサラリーマン。どうやら、この二人はクロスが元居た世界から呼び出されたようだ。
記憶操作の魔法は第五階級の上級魔法のはず。魔法が苦手だと言っているが、このリリィシアという王女はかなりの使い手だとわかる。
「ぐぇぁっ」
グシャリという呆気ない音と共にナターシアの頭部が潰れる。
髄液と血液が混ざった粘液がリリィシアの靴底で糸を引いた。ナターシアの身体はしばらく痙攣していたが、やがて糸が切れた人形のように動かなくなってしまう。
「あら、頭が空っぽだと思っていたけれど、ちゃんと中身がありましたのね」
潰れて飛び散った姉の頭を見て、リリィシアは淡々と感想を述べた。彼女は血濡れた足元を見て「あとで着替えた方がよさそうですね」と、呑気に笑う。
「そうだわ、勇者様。今後のことを話し合いたいので、お茶にでもしません? お口に合うかわかりませんが、焼き菓子も用意しております」
姉を踏み潰したあととは思えない笑顔で、リリィシアはクロスの手を握る。返り血まみれのクロスの手を撫でて、リリィシアはクスリと笑った。
「俺はまだ返事をしていないはずだが」
「あら、そうでしたか? では、早めに返事を」
この部屋の惨状と返り血を除けば、純真無垢で清純な少女の笑みそのものだった。
最初は白かったドレスも、今では足元から紅く染まっている。
「残念だったな。俺がお前の言う通りにする義理はない。最初に言ったが、好きに生きさせてもらう」
クロスはリリィシアの手を払い、踵を返した。
魔力や筋力は、召喚される前と変わっていないようだ。魔王を倒したときと同じ強さを保ったまま召喚されている。これだけの力があれば、好き勝手出来るだろう。
「好きに生きると言っても、どちらへ行かれるおつもりですか?」
部屋を出ようとするクロスの背に、リリィシアが問う。
「わたくしは、別にどちらでも良いのです……だって、勇者様のお顔。とっても、愉しそうですから。今すぐにでも、世界を滅ぼしてやろうと考えていらっしゃるのでしょう?」
そう言われて、クロスは足を止める。そして、返り血のついた手で自分の顔に触れた。
リリィシアの指摘通り、クロスは笑っていた。三日月のように口角が上がり、自然な笑みが出来あがっている。
そうだ。
リリィシアの言う通り、クロスはこの世界を滅ぼすことを考えていた。
二度目の召喚。今度は魔王になって、この世界を滅ぼしてしまおうと思っている。否定出来ない感情と、抑えられない衝動がわきあがっていた。
一度救った世界を、自分の手で壊す。矛盾している。馬鹿げている。だが、そうせずにはいられなかった。
召喚される前は思いつきもしなかった。だが、この奇妙な王女のお陰で、世界への復讐という活路を見出すことが出来たのかもしれない。
そういう意味では、リリィシアは導きの女神のように見えた。
「どうせ、目的が同じならば、わたくしをどうぞ利用してくださいませ。先ほど言った通り、この国は捧げます。女子供残さず皆殺しにするなり、奴隷として跪かせるなり、お好きにしてください」
立ち止まるクロスの背にリリィシアが触れる。手は背から肩へ、肩から首へ。首筋を撫でた指先が頬に触れ、唇をなぞった。
「あなたに捧げる国です。王族であるわたくしは、下僕にございます。好きに使って、不要になれば捨ててくださって構いませんわ」
利害の一致。
どうせ、同じことをするのなら、踏み台があっても構わない。
清純そうな容姿と笑顔とは似ても似つかない、甘美で狂おしく、魔性をはらんだ声。並みの男なら、花の蜜に誘われる蝶のように簡単に堕ちてしまうだろう。
「いいだろう……こんな世界、滅ぼしてやるよ。でも、勘違いするなよ。お前が俺について来るんだ」
「ええ、わかりましたわ。勇者様……いいえ、魔王クロス様」
クロスは頷き、後ろを振り返る。
リリィシアが菫色の眼で笑った。
「では、こちらへ」
魔性の女神に導かれるように、クロスは歩み出した。
ナターシアお姉様は頑丈ですね。