【Episode-7】ラホヤ戦役(3)
晩春といえど、樹林の夜は底冷えした。樹々の隙間を縫うように吹き抜けていく風は、夜の湿った冷気を肌に纏わりつかせるぶん、日中よりも格段に冷たさを感じさせる。マヌエル・フィッシャーは肌に染み込んでくる寒気を誤魔化そうと、陣幕の外に置かれた木製のテーブルの上の、なみなみと林檎酒の注がれた銀杯を手に取って、ひと息に飲み干した。
林間の猟師たちの邑、コリンブニカ。その外れに、マヌエルら一千余りからなる傭兵団『月叡』が野営を張ったのは、二日前だった。二日間、特に大きく動くこともなく、じっと、マヌエルは時がくるのを待っていた。
ヒューゴ・アウベルダが北へ逃亡している。
それは、エメネスト半島へなだれ込んできた傭兵団の間では、周知の事実だった。その情報に呼応するように、ほとんどの傭兵団が、アウベルダ首都アラカルヴェに向かうのではなく、ヒューゴ・アウベルダを捕縛するために北へと追走の動きを見せている。その数は既に、それぞればらばらの傭兵団の寄せ集めではあるものの、平原最大と言われる『月叡』に並ぶ程の軍勢に膨れ上がったと聞いていた。だから、こうしてサン・ヴァンセンテから最も近いコリンブニカに停滞している自分たち自身を、はがゆく感じていることは否めなかった。
でも、動かない。マヌエルにそう決意させたのは、さっきからとなりでちびちびと林檎酒を啜る男の提言だった。しかし決意はしたつもりだが、どうやらまだどこかに迷いがある。
胸中に蟠る疑念をまなざしに潜ませて、ちらりと横目に男を見た。
ネステ・カルナディーニ。
かつて、マヌエルら『月叡』が中心となって戦局を展開した北海の海賊討伐で、前翼の一隊を任せたことのある、『赤土の爪』の長だった。
初めて彼らを見た時は、たった十名足らずの、傭兵団と呼ぶのもおこがましい徒党を組んだだけの蛮族程度に思っていた。まっとうに生きていく事を放棄して、とりあえず傭兵と名乗りさえすれば喰っていけると世間をなめた、小僧の集団としか思っていなかった。が、あの時、実際に前翼で最も功を上げたのは、その小僧どもだった。
「そんなに信用ねえのかなあ?俺。」
マヌエルの視線を敏感に感じ取ったのか、ネステは口元に林檎酒の汲まれた銀杯を寄せたまま、こちらを振り向かずに言った。胸のうちを見透かされているような言葉に、マヌエル思わずたじろがされる。
「どんなに疑おうと、最後には俺がお前の言うとおりに動くとわかっていて、お前は俺に提言したんだろう?白々しいことを言うな」
ふんと鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべながらマヌエルは返した。
余裕のあるところを見せる態度のつもりだったが、どこかぎこちなかった。それは、本当は虚勢だったからに他ならないと、マヌエル自身、判っていた。どうにも掴み処のない、それでいて、こちらの心中は全て見抜いてしまっているようなこの男の背負う雰囲気は、昔から苦手だった。
いや、苦手と言うより、怖いのかもしれない。
齢五十を数え、この男よりも遥かに多くの経験を積み上げてきた。平原最大の傭兵団を率いて、各地の領主や王政府の重役たちにもそれなりに一目置かれる存在にまで上り詰めた。そんな自分の積み上げてきたものも、不思議とこの男の前では些細なことのように感じてしまう。この息子ほどの若輩者の、ゆったりと構えているようで、何故か気の抜けない鋭さを抱かせる言動の節々に、劣等感に近い思いが生じてしまう。そのことに、悔しさや憤りよりも、怖さを、マヌエルは感じていた。
胸中に湧き上がる弱気な感情をもみ消そうと、マヌエルはテーブルの上の瓶に入った林檎酒を、空の銀杯に乱暴につぎ込み、もう一度ひと息に飲み干した。
ネステら『赤土の爪』が『月叡』合流したのは、三日前の夜だった。
共にユヒレトを発った『燕尾の尖』が行方をくらました。彼らの行方を追いつつアラカルヴェへ向かう途中で、『燕尾の尖』と合流し、北へ逃走するヒューゴ・アウベルダを発見した。追撃しながら北進し、ヒューゴ・アウベルダの率いる兵力を僅か三騎にまでに削ったが、規模が小さくなった分、機動力を得た彼らを見失った。ただ、ヒューゴ・アウベルダらは半島各地に点在する傭兵団から逃れながら、迂回を繰り返しつつ北進しなくてはならない。それを逆手に取り、真っ直ぐに北進してサン・ヴァンセンテ傍のコリンブニカで奴らを待ち伏せる。サン・ヴァンセンテからアウベルダ領入りし、丁度そこで陣幕を敷こうとしていた『月叡』に、ネステらは図らずも合流する形となったのだ。
ヒューゴ・アウベルダが北へ逃走しているという情報はマヌエルの耳にも届いていたが、『燕尾の尖』がアウベルダへ寝返ったというのは初耳だった。ネステという男は、昔から情報を掻き集める為の嗅覚に富んでいた。ただ情報を集めるのではなく、どこに有益な情報が派生するのか、嗅ぎつける勘のようなものが鋭かった。北海の海賊討伐の時に、それを痛感していたマヌエルは、だから、ネステが『燕尾の尖』と共にユヒレトを発つことも、予めこうなることが判っていて、あるいは無意識のうちに感じ取って、選択した行動だったのだと、思えてならなかった。
「しかし」それでもまだ、疑念の残るまなざしでネステを見ながら、マヌエルが漏らす。「本当に奴らを北に逃がすのか?」
それは、ネステの進言だった。野営を畳んで南進し、ヒューゴ・アウベルダ捕縛に向かおうとしたマヌエルら『月叡』に、この地に留まり、北へと逃走するヒューゴ・アウベルダを、一旦は見送れ、と言ったのだ。見送った後、奴らを追う他の一千の傭兵団たちと合流し、共に追走しろ、と。もちろんそれには、相応の理由があった。
トーレスが、寝返る。
ヒューゴ・アウベルダは、何の伝手もなくしゃにむに北上しているのではなく、北の領境で隣接しているトーレスと通じていると、ネステは言うのだ。
俄かには信じられない情報だった。異国と隣接しないその土地柄から、昔から軍備を蔑ろにし、他領との貿易ばかりにかまけてきたのがトーレス家だ。しかも平原の武具の精製と流通を一手に担うトーレスにとって、王家は、平原の筆頭騎士団を有するバルバロス家に次ぐ、大きな得意先のはずで、その優良な客を失ってまで、謀反を企てるなどとは到底考えられなかった。
それでも飄々とネステは言いきるのだ。トーレスは、寝返る、と。
ネステの言でなければ、馬鹿げた話と聞き捨てたに違いない。ただ、この男の口から漏れたというだけで、どんなに突飛な妄想も、現実味を帯びているように感じてしまうから、不思議だった。
「人を見て、大局を見なきゃだめだよ、親父」
親父―――北伐の時から、ネステはマヌエルを親父、と呼ぶ。この男に親しみを込めてそう呼ばれることに、こそばゆさと、そこはかとない喜びを感じてしまう。魅せられている。大陸最大の傭兵団を率いていながら、この、自分と比べればまだ年端のいかない若者に。でもやはり、その思いに悔しさはない。
「トーレスの嫡子アレハンドロは、劣等感に苛まれているんだ。世間知らずの坊ちゃんは、商人の子と呼ばれることに憤り、騎士に憧れている。先のトーレスの殲滅隊だって、あの坊ちゃんの勇み足だった。一番乗りをきめて、汚名返上したかったんだろう。たいした軍才もないくせに。まあ、それにしたって、あっさりしすぎた敗走だった。いくら骨抜きのトーレス軍だって、四日で逃げ出すってのは、不自然すぎる」
「つまり、その時にアウベルダとトーレスとの間で、何らかの密約があった、と?」
マヌエルの問いに、ネステは唇の片端を吊り上げ、不敵な笑みで応えた。
劣等感を抱いた、若者の暴走。
確かに、アレハンドロ・トーレスの武に対する執着というものは、平原の傭兵たちの間でもよく知られた事実だった。領主である父、ミゲル・トーレスの側近たちに、トーレス家らしからぬ血の気の多さを疎んじられていることも、また。
その世継ぎが、この平原の南西で起きた混乱に乗じて、暴走する。考えられないことではなかった。
ネステの提言の真意。それは、ただヒューゴ・アウベルダを捕らえるのではなく、サン・ヴァンセンテに陣を構えるトーレスの軍勢に逃げ込ませ、トーレス軍ごと、『月叡』とヒューゴ・アウベルダを追う他の傭兵団たちを引き込んだ二千の軍勢で攻め落とす、というものだった。確かにそのほうが王家に対して大きな武勲を立てたことになる。相手は弱小のトーレス軍とはいえ、四千の軍勢だ。『月叡』だけではさすがに攻めきれるものではない。だから、他の傭兵団も巻き込む。戦下手のトーレス家相手に二千対四千なら、勝機はいくらでもあった。
「頭ぁ!」
その時不意に、背後で声がした。街道を見張らせていた部下の兵が一人、慌てた素振りで駆け寄ってくるところだった。
「ヒューゴ・アウベルダらしき三騎が、街道を北へ抜けてきました。その背後に、追走する傭兵団が一千。合流するなら今ですぜ」
息を切らす兵士の肩を叩き、よし、と全身を力ませる。
「ヒューゴを追うぞ!すぐに準備しろ!」
野営全体に響き渡るように叫び、ネステに視線を投げた。
目が合い、ネステはこくりと頷く。
その時のネステの目の奥の瞬きに、何か不審なものを感じた。老齢の武人の勘が、胸を疼かせる。不意に垣間見えたネステの表情に、何かが引っかかる―――が、今は気に留めている場合じゃない。すぐに気持ちを切り替えて、剣を腰に固定する帯を、きつく締めなおした。 |