【Episode-6】北方の貴人
湿った空気に飽和された石の壁の大部屋に、扉の番いの軋みがこだまして響く。その音に、ラファエル・フォン・イェンゼンは、ゆっくりと伏せていた視線を上げた。
部屋の中央に置かれた長机の、ラファエルが腰掛ける上座。それと向き合った、両開きの大扉を開け放ったのは、深緑のマントを纏った長身の男だった。金の縁取りの刺繍が施されたそのマントの隙間からは、黒光りする騎乗用の軽鎧が覗き、脇には長羽の括り付けられた兜が抱えられている。それはまさに、戦地へ赴く直前の、騎士の出で立ちだった。
男は甲高い靴音を響かせながら長机の傍まで歩み寄り、滑らかな所作で方膝を床につくと、ラファエルに向けて深々と頭を垂れた。跪く勢いで、男の長く柔らかい銀髪が、ふわりと宙に靡いた。
「『破封』は反転してサン・ヴァンセンテへ向かいました。私も直ちに当地へ向かいます」
澱みのない男の声が石の壁に反射してこだまする。ラファエルはゆっくりと椅子の背もたれに身体を預け、腕を組んで男を見据えた。
「レイニール、奴は何故フンテラル領を避けた?我らの包囲網に気付いたのか?」
ラファエルの声に、落胆と、ほんの僅かの苛立ちが溶ける。レイニールと呼ばれた男は小さく首を横に振った。
「それはまずないでしょう。ただ、ここ数日のフンテラル公の尋常ではない教会への身構え方を考慮すれば、フンテラル領から教会特区へ抜ける進路は至難と察して、サン・ヴァンセンテから王領入りし、バルバロス領を経て教会特区へ至ろうとするのは、むしろ定石かと。」
「ヨハンか・・・」ラファエルは溜息とともに、三年前にかの地を継承した現フンテラル公爵の名を呟く。「まだ若い。そして、浅い」
苛立ちが、諦めに変わる。若気の至りなどと、あっさりと割り切れたわけじゃない。仕方が無いですまそうとも思わない。しかし、自分の思惑に反して刻々と流れていく時を食い止めることが出来ないこともまた、判っている。
陰気に走る思考を振り払おうと、ラファエルは椅子から腰を上げ、ゆっくりとした足取りで、石壁を正方形に刳り貫いた窓のそばに立った。
窓外には、整然と東西南北に伸びる市道が幾重にも交じり合う、城下の街並みが広がっている。城下を囲う城壁の向こう側には、芽吹き始めた麦の緑を携える田園が敷かれ、更にその向こうに、夏を迎えようとする穏やかな北海の水平線が望めた。
イェンゼン領首都、アーペンツェール。
ラファエルの治めるこの公領の都は、王都アヴァロン、バルバロス領首都ルフトブルグに次ぐ規模の、エルトニア三大都市のひとつに数えられていた。
王家守護職筆頭であるバルバロス公爵下のルフトブルグが、極端なまでの軍事都市であるのに対し、アーペンツェールは軍事、商業、農産の全てに均整のとれた、治世者にとっては理想的な大都市だった。
しかし、アーペンツェールが王国下三大都市とまで謳われだしたのは、それ程古い時代からではない。先のドルドアとの大戦以前、この都は、北方の退れた閑都でしかなかった。それをここまでの規模にまで発展させた者こそ、現領主ラファエル・フォン・イェンゼンだった。
「確かヨハンが教会に抗う姿勢を露わにしたのは、『破封』が逃亡に走った後だったと記憶しているが、何故、その政情を知りえたのだ?」
窓外に視線を向けたまま、ラファエルはレイニールに問いかけた。
「恐らくは、ユヒレト西部で彼らを庇護した者らから情報を得たものかと。」
「イツィオラータの傭兵ども、か。」
ラファエルの言葉に、レイニールは無言で小さく頷いた。
「所詮は極東の傭兵どもだ。北方守衛騎士団の総督であるお前自信が出張るほどのことではないとは思うが・・・またお前の得な、勘、というやつか?」
「御意」と静かに、レイニールが答える。それを受けて、ラファエルは小さく笑んだ。
「既にエメネスト入りしている本隊を北上させて、挟み討つ、か。」
「いえ。本隊は東進させて教会特区に待機させます。『破封』の頼り処であるジョモニ枢機卿をいつでも抑えられるよう、準備せねばなりません。」
「おまえ自身が赴いても、サン・ヴァンセンテでは終息できぬかもしれん、と。それも勘か?」
「そのイツィオラータの傭兵を束ねる長が、カルナディーニを名乗ったと聞き及んでおります」
予測し得なかった名がレイニールの口から漏れ、ラファエルは思わず視線を窓外からレイニールへと向けた。
「血縁か?」
無意識に喉が引き攣り、声が上ずった。
「それを確かめに行くつもりです」
あくまでも冷静に、レイニールは返した。
「判った。」
答えて、再び窓外へ視線を投げた。背中で、レイニールが部屋を出て行く気配を感じた。
―――予言の歪・・・まさか、な。
声にならぬ声が、ラファエルの喉を低く鳴らした。 |