【Prologue1-1】闇の中の猛り
夜の闇に漂う青臭い樹木の匂いが、きつく鼻を突く。
普段以上に、大袈裟なまでに、その匂いは濃く、強く、嗅覚を刺激する。
大剣を構えるときはいつもそうだ。湿った異物感が、鼻のずっと奥でふくらみ、粘ついて、執拗にまとわり着く。それに呼応するかのように、僅かに肌が粟立つ。粟立った肌は、時折蠢く空気の、ほんの僅かな歪みをも、敏感に察知させる。
いつも、そう。
目前の、敵意や殺意を放つ存在に、全神経を集中している時にいつも、生まれる感触。必要以上に、外気の状態が体中にひりひりと染みてくるその感触が、ミロは好きだった。
ハイランド・ベア。
このオルグ自治区に生息する獣の中では、最も獰猛で、最も容赦なく、近寄る生き物のすべてに、殺戮衝動を振りまく種。それが、遠方の山脈の向こうで轟く雷のような唸り声を上げ、ミロの構える大剣の間合いのほんの僅か外から、刺すような赤黒い眼光を向けている。
ミロと、褐色の毛に覆われたハイランド・ベアの間の空間だけが、両者の殺意を飲み込こもうとして飲みきれず、砕け散る寸前の緊張感を含み始める。
―――生きて残るのは、俺だ。
自信や確信とは少し違う、どちらかといえば勘や予感に近い想いが、胸中に湧きあがり、声にならない響きとなって、体中を駆けた。
ゆっくりと、鼻から息を吸い上げる。樹々の放つ粘っこい湿気が、鼻の奥で更に膨らむ。
刹那、ハイランド・ベアの眼光が揺れた。
大木の幹のような前足を持ち上げ、その獣は、ミロに覆いかぶさるようにミロの間合いに雪崩れ込んできた。
息を止める。奥歯を力ませ、機を探る。
迫り来るハイランド・ベアの圧力が、ひりひりと両肩を痺れさせる。
―――まだだ。
大剣の柄を絞るように握りなおし、後ずさりしそうな怯えを、払いのける。
ハイランド・ベアが右前足を振り上げる。その先端から突き出した大爪が、月明かりを受けて鈍く光る。
機が、見えた。
ふっと小さく息を吐き、振り下ろされる大爪から逃れるように、右前方に体を捌く。瞬時に大剣の切っ先をねかせ、それを地面と水平に薙ぎつつ、ハイランド・ベアの左脇をすり抜けた。
水面を裂くような柔らかい感触が両手に伝わる。同時に、苦渋に満ちたハイランド・ベアの雄たけびが夜闇に響いた。
―――もう一手。
振り向くと同時に、跳ぶ。
腹を裂いた痛みに体を震わせながら、向きを変えようとするハイランド・ベアの頭に向けて、大剣を振り下ろす。何かが砕ける鈍く低い音と共に、ミロの大剣がその獣の頭蓋を裂いた。
―――これで、十頭目。
赤黒い血を吹き上げながら崩れ落ちてくるハイランド・ベアの巨躯を、背後に飛びのいて避けつつ、ミロはそう口の中で呟いた。
この十日間、こうやってオルグ自治区の深い森の中を彷徨い、遭遇するハイランド・ベアを狩り続けてきた。鍛錬、というより、疼き、逸る気持ちを抑えるために。
戦が始まろうとしている。
生まれてから十九年もの間、誰もミロの存在を認めようとした者はいない。ただそれは、平穏に過ぎていったこの大陸の刻が、ミロに機会を与えなかっただけだ。
命を賭す事でしか生き長らえることのできない混沌。それが、大陸を覆いつくそうとしている。
戦が、始まる。
その中でこそ、ずっと霞んできた自分の存在を知らしめることができる。
ミロはそう信じていた。 |