4.魔法の靴
志穂は、コーヒーが好きだった。
中学2年の冬に口にしたのが最初で、それは苦くていい香りの、大人味がした。
思えば、ちょっと背伸びをしたい気分だったのだろう。
コーヒーをブラックで楽しむことへの憧れは、何年も前からあったけれど、それを実行に移したきっかけは、母が再婚したことだった。
初めてのコーヒーは、「子供がコーヒーを飲むと馬鹿になる」という、根拠のない母の脅し文句に抗ったことへの密かな爽快感――
それから、後に彼女が「大人の孤独」と呼ぶようになる陶酔感を、志穂にもたらした。
それらが相俟って、コーヒーを飲む時間は、瞬く間に志穂にとって至福のひと時となったのである。
「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な……」
昔ながらの文言を声に出して、本日のドリップを選ぶ。
志穂の華奢な人差し指は、ハワイコナとモカとの間を幾度か往復した後、モカを示して止まった。
「はぁ〜」
たっぷり10分かけて決めたハワイコナを口に運んで、ため息をつく。
迷った挙句、いざ決まってしまうと、隣がいやに魅力的に見えてくるのはどうしてなのか、志穂はいつも不思議に思う。
そして結局は、神様の言う通りになどしないのだ。
勉強机からの景色は最高だ。
ずっと遠くに、沈む夕日と海が見えるから。
ポケットをまさぐり、志穂はベージュのタオルハンカチを取り出した。
持ち主の元に返るはずだった布きれが揺れて、コーヒーの湯気に花の香りが混じる。
昨夜、丁寧に手洗いして、母に隠れてこっそりピンクのダウニーを奮発したのである。
しかし今朝、博之は秘密基地に現れず、代わりに見事に禿げ上がったタコ入道のような中年が、ナナコの住処をゴシゴシ擦っていたのだった。
これまで週休の前日には、必ず「明日休みだ」と教えてくれていたのにと、首を捻っていた矢先、
「ああ、君か、ナナコの友達は。山下から話は聞いてたよ」
――え? 山下? 今日は休みだよ。熱出したんだと。ま、アイツは働きすぎだから、この際ゆっくり休めばいいんだ。
そう言って、タコ入道は、大きな口を開けて、気持ちがいいくらいカラッとした笑いを零した。
風邪を引いているのだから、帰りにアパートに寄って、看病のひとつでもと思わないでもな
かった。
けれど、恋人がいる男の部屋に上がり込むことが、異性の友人として賢明なこととは思えない。
志穂は、ふわふわに仕上がったタオルハンカチを無造作にポケットに突っ込んで、帰路についたのだった。
ハワイコナの靄の向こう側で、沈みかけの夕日が海に輝いている。
学校までは、ここからバスで1時間かかる。
そのバスだって、30分に1本という寂しさだ。
「――だけど、コレ返さなくちゃ」
言い訳のようにそう呟いて、志穂は立ち上がった。
まだ熱いコーヒーを、犬みたいに舌を出して手で仰ぎながら飲み干す。
志穂はなんだか愉快な気分になって、力いっぱいドアを押し開けた。
***
「アジュール……コーポ・アジュール」
「動物園西口の近くの、コーポ・アジュール」という心許ない手がかりと街灯を頼りに、博之の住むアパートを探す。
すっかり日は落ちて、空模様が怪しくなってきたのか、冷たく湿った空気があたりを包んでいる。
志穂はもう一度動物園西口に立ち返った。
コンコンコン。
踵を三回打ち鳴らす。
――ヤマ君のアパートに連れて行って。
オズの魔法使いの世界では、こうすれば靴が願った素敵な場所に連れて行ってくれる(作中では銀の靴だったけれど)。
黒いローファーはイマイチいい音が出なかったが、志穂は気を取り直して、先程とは反対方向に歩いた。
ふんふんと調子っ外れの鼻歌を歌って歩を進める。
「サザエさん」という陽気な選曲は、心細さを紛らわすためだ。
芽吹き始めた桜の向こうから、半月が頼りなく志穂の後姿を照らす。
「サザエさん」に合わせて楽しげに弾む黒いローファーが、唐突に止まった。
「……あった」
彼女が一心に見つめる先には、ごくごく普通の2階建てアパートと、お勘定中のタクシー。
それから、その建物に掲げられた「AZURE」の文字だ。
タクシーのハザードが、チカチカと定期的に辺りをオレンジに染める。
声に出さなければ、それは夢と消えてしまうとでも思ったのか。
確かめるように、志穂はもう一度、あった、と呟いた。
ぽつ、と右の頬に冷たい雫があたる。
どうやらとうとう雨が降り出したらしい。
志穂は、ふんわり仕上げのハンカチを濡らさないように、胸にきつく抱いた。
そこには、この雨を口実に、部屋に上げてもらえるかもしれないというほのかな期待をも抱いている。
走り去るタクシーをやり過ごす。
乗客はどうやら女性だったらしい。
カンカンと廊下を歩く小気味良い足音が、まるで太鼓のマーチみたいに耳を打った。
まず始めにチャイムを鳴らしたら、何と言おうか。
ありきたりなことではつまらない。
どうせなら、体調の悪い彼を笑顔にしてしまうようなことがいい。
「ポチって、フランス語から来てるんだよ」とか。
「昔、法廷で証言したオウムがいたんだって」とか。
くだらなくて、だけど微笑みたくなるような……。
思いを巡らせながら、小雨に濡れた髪を整えて、志穂はポストの表札に「山下」の字を探し始める。
と、同時だった。
ピンポーンと歌うようにチャイムが鳴って。
「……ハイ」
グズグズと鼻を詰まらせたような男の声が、インターフォンから流れた。
反射的に振り返ると、先程タクシーから降りた女性が、103号室の前に立っている。
「博之? あたし。千鶴。大丈夫?」
「あぁ。今開けるよ」
気遣わしげな女の声に、男は声に安堵を滲ませて応じる。
ドアの前で、女もまた安堵のため息をつき、その背中で、明るいブラウンの髪が流れるように揺れた。
やがてドアの向こうから、いつもより赤くボウッとした顔が現れた。
それでも彼は心許ない笑みを浮かべて、彼女に向かって大きくドアを開く。
ボサボサの頭を恥ずかしげもなく晒している姿が、二人の付き合いの深さを物語っているように思えて、志穂はその光景から目が離せなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ、こんくらい」
「もうっ、無理するからよ」
女が伸び上がって素早く男にキスをする。
男は「伝染るだろ」と顔を背けつつも穏やかに微笑んだ。
ゆっくりとドアが閉まる。
その扉が閉ざされる直前、二人のシルエットがひとつに重なったのが見えた。
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