2.トモダチ
「先々月まで、私化粧なんてしたことがなかった」
いつものようにフェンスを背もたれにして、志穂は空に話しかけるように言葉を放った。
胡坐を左右組み替えて、ネイビーと水色のストライプ模様のレジャーシートが、がさつな音を立てる。
「へぇ。なんでだよ」
「しようと思わなかったの。顔面偽装って感じじゃない」
「じゃーどういう心境の変化で今はその顔面偽装をしてるんだ?」
デッキブラシで床を擦りながら、博之は7割方どうでもよさそうに尋ねる。
ゾウの飼育係の名は山下博之といって、お互いに自己紹介を済ませてからは、二人は「ヤマ君」「マツ子」と呼び合った。
山下と松下は似ていると博之は言い、けれど志穂に言わせれば「松下の方が高貴」らしい。
ただし、その理由は「松の下には松茸があるから」という、なんとも子供じみたものである。
「恋をするためには、「ミステリアスゾーン」があった方がいいかなと思ったの。トランプだって最初から手の内を見せたら負けじゃない」
「はぁ、そうかい。マツ子の日本語って、ほんと理解不能だな」
「私今、馬鹿にされた?」
不思議そうな、それでいて訝しむような顔をして志穂が振り向くと、博之は脱力気味に笑って、
「いやいや。お前の崇高な哲学を理解できない下賎な俺様なんだよ」
「よくわかんないけど、私は崇高な哲学者ってことね。了解」
「……この話の流れでよくそんなこと言えるな。凄まじいプラス思考」
「何でも良い事だけを信じなきゃ! 占いだってそうでしょ?」
朝、志穂が登校してからHRが始まるまでの約30分間を、こうしてとりとめのない会話をしながら過ごすようになって、じきに2週間になる。
その間に、志穂は「マツ子流テスト前の緊張のほぐし方」の極意を教え、博之からは「動物園西口近くの『コーポ・アジュール』の大家は某芸能人」という無駄情報を得た。
ついでに、コーポ・アジュールの部屋のいくつかは、園で借り上げた動物園職員の社宅だということだった。
志穂はバスの時間の関係で、クラスメイト達よりも随分と早くに学校に着く。
そして、博之と出会った次の日に、思い立ってこの秘密基地に足を運んでみて。
そこで、モモコの代わりに、丹念にその住処を掃除する彼と鉢合わせたのだ。
以来それが日課となり、ついにはスカートを朝露から守るために、レジャーシートまで持参するようになった、というわけだった。
「ヤマ君はネガティブなの? それって、人生の半分くらい損してるよ」
「全世界のネガティブを敵に回す発言だな。俺は基本ポジティブだよ。ただ、誰かみたいに底なしノーテンキではないだけだっつの」
博之のぞんざいな口調は、どちらかといえば繊細そうな顔立ちとは酷くミスマッチだと志穂は思う。
優しい人なのに、優しさをそのままの形で人に見せることが、呆れるくらい下手くそなのだ。
幾度か学校帰りに寄った時、モモコと飼育係のツーショットを見たことがある。
モモコを見るときの彼の瞳は、孫を見るおじいちゃんのように、おおらかで温かかった。
かける言葉も、撫でる手つきも。
何もかもが、この無垢な生物に、無垢な愛情を与えていることを示している。
その姿は、「オジサン」しかいない志穂にとって、目を逸らしたくなるくらい眩しいものだった。
「底なしノーテンキと言いたいシーンでも、「天真爛漫」って言えば好感度アップするのに。いくらポジティブだって、皮肉屋は女にモテないよ!」
「マジで? それで彼女に捨てられたら、マツ子に弟子入りでもするか」
いつも斜めな感じの笑顔で皮肉っぽく物言う彼は、こんな時に限って、眩しいくらい澄んだ笑顔を見せた。
「へぇ、彼女いるんだ?」
「はぁ〜? そりゃあな。僕だって24歳の健全な男の子ですからー。――なんだよ?」
ううん、首を振って、志穂はそのまま顔を逸らして俯いた。
レジャーシートに止まったてんとう虫を、人差し指で優しく弾く。
「何でもない。ただ、一瞬、ヤマ君が人参嫌いでよかったなって思ってたの」
これで、この人は、「恋の相手」には適さないことがわかった。
彼女がいるし――おまけに人参が嫌い。
適材適所。
自分に適した相手は、博之ではない、というだけの話だ。
内心で呟いて、長く息を吐く。
志穂は、雪国にある祖母の家で、厳しい寒さの結晶を一面に咲き誇らせる古びた窓ガラスを思い出していた。
***
「ただいま」
家族に帰宅を報せるはずのその言葉を、志穂はこっそりと囁いて家に入った。
脱いだローファーをキッチリと揃えて、足音を立てないように階段を昇る。
半分しか血の繋がらない1歳の弟が、昼寝をしているかもしれないからだ。
「志穂? 帰ったの? 早いじゃない」
階下から母の声が追ってきて、足を止めて振り返る。
「うん。今日は午前で終わり。大ちゃんは?」
「今寝たとこ。せいせいするわ!」
母の笑い方は、文字にすれば「ガハハ」だな、と志穂はいつも思う。
せいせいするという言葉とは裏腹に、母は38歳にして授かった長男、大樹を溺愛していた。
「お母さんも寝たら? 疲れてるんでしょ? それに、その方が静かで勉強に集中できる」
からかうように言う志穂に、母はまた「ガハハ」の笑顔を向ける。
「よし。志穂の学業をおろそかにはできないから、寝るか!」
「そうして。私は勉学に励むから。主に音楽の」
言って、志穂は母の笑い声に背を向けて階段を――できるだけ静かに――駆け上がった。
部屋に入り、ベッドに腰を下ろす。
そうすると、急にどうしようもなく一人ぼっちのような気がするのは何故なのだろう。
喉だか胸だかよくわからないあたりがヒリヒリと痛んで、上半身をベッドに投げ出すように横たえる。
志穂は、一昨年建てたばかりの、真っ白な天井を無心に見つめた。
そこには、青空と入道雲が描かれた布が、電気を覆うように画鋲で貼り付けられている。
スイッチを入れれば、青空の向こうから、白熱灯が室内を柔らかく照らすのだ。
その勢いの削げ落ちた優しい光が、この自室で一番気に入っている。
白い天井に、白い壁。
白だらけだ、と志穂は思った。
だって、頭の中だって真っ白なのだから。
午後の授業をサボってしまった罪悪感も、明日受けるだろうお叱りへの恐れも、何もない。
真っ白。
まっしろ。
半ば自分に言い聞かせている頭の中には、その実、ゾウのナナコとその飼育係、それからなぜか、見たこともない飼育係の恋人が居座っていた。
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