1.出会い
ノーテンキとお気楽を足して、二で割らずに色気や恥じらいの類を引いて、服を着せれば、松下志穂のできあがり。
それが友人連中からのおおよその評価で、だからこそ彼女の変貌は、目を瞠るものがあった。
「恋をすることに決めたから! あわよくば17歳の誕生日に初エッチ!」
友人にしてみれば突如、としか言いようのない唐突さでそう宣言したのは、つい先月。
ろくに眉毛も書かなかった志穂は、ある日突然、あらゆる化粧品を然るべき場所に塗りたくって現れ、友人の目を丸くさせた。
なんてことはない。
17歳を半年後に控えて、ようやく自分がクラスメイトから大きく遅れをとっていることに気付いたせいだった。
遅れている。
それは、ファーストキスとか、初体験とか、そういうもの……も、もちろんあるけれど。
それ以前に、志穂は恋というものをしたことがなかったのである。
「初恋は実らないってよく言うけどさ、なんでだと思う?」
芝生の上に胡坐をかいて、志穂は天を仰いだ。
きっとこの姿を見たら、制服のまま地べたに座るなんて、と母は言い、スカートで胡坐なんて、とオジサンは言うだろう。
「私考えたんだけど、初恋の成就率が低いのは、きっと研究不足のせいなんだよ」
手のひらを目前にかざして、眩しい陽光を遮る。
指の間から覗く空には、綿菓子を大まかに千切って放り投げたような雲がいかにも暢気に浮かんでいて――フェンスが背中でギシリと尖った音を立てた。
「本能丸出しだから失敗するの。初恋に限ったことじゃないけど、初恋は特によ。初心者だもんね。好きになるにも、付き合う時も。本能じゃ駄目。人間頭を使わなきゃ」
もっともらしくそう呟き、くっきり二重の大きな目を糸のように細めて、自分の言葉にうんうんと頷く。
慣れないマスカラが邪魔なのか、瞬きがどこかぎこちない。
「自分の性格をよ〜く分析して、それに合う相手を探せばいいんだよ」
多分それがなかなか難しいんだけどね、と志穂は薄い肩をすくめた。
志穂は「運命の人」の存在を信じていた。
しかし、運命の人と出会う可能性をも信じているかといえば、それは話が別だった。
「私はアンタみたいなのは駄目ね。聞き上手なのは良いけど、時には話し上手にもなってくれなくちゃ」
これが、どうせなら良い男と、良い恋がしたい、と考えた志穂が、寝る間も惜しんで突き詰めた結論なのである。
ただし、突き詰めたとは言っても、「どうすれば恋の良いとこ取りができるのか」という、少々セコい事項についてだが。
先ほど購買部で買ったカフェオレをチューチューと啜ってから、彼女は再び空を見上げて、まず、と続けた。
まず、怒らないこと。
お金にルーズなのはNGだな。
でも多少時間にはルーズでもいい。私もだから。
それっていうのは、例えば人参が好きでジャガイモが嫌いな人がいいってこと。
私はジャガイモが好きで人参は嫌いだからね。
「つまりはそういうわけなのよ」
独り言のような気ままさで、志穂はそう言って締めくくる。
彼女は、性格等は似ている方がいいけれど、お互いに足りない部分を補い合える「違い」も大事なのだと、(その例えが適切かどうかは別にして)主張したいようだった。
考えてもみれば、それは志穂が16年の人生の中で知らず知らずのうちに学んだ、数学や国語よりも100倍重要な教訓なのかもしれなかった。
学んだ、というよりは、身に沁みた、と言った方が正しいだろうか。
彼女の実父を皮切りに、数々の男と恋に落ち、ついでに人生の落とし穴にまでどかどかと落ち続けた母を間近で見てきたのだから。
母の失敗は、もちろん相手がダメ男、というケースもあった。
その筆頭が、志穂の父で――彼は酒乱・暴力・ギャンブル・借金・女のフルコースだ。
けれど、それ以上に、母の愚かさによるところが大きい。
別に母が「バカ女」とか、古い言葉で言うところの「アバズレ」などというわけではない。
ただ、母は決まって、そのアグレッシブな性格とは相容れることのないような、亭主関白な男に惚れた。
それが一番の敗因なのである。
志穂はドラマチックな土砂降りよりも、景色をぼかすような霧雨が好きだったし……
焼けつくような真夏の晴天よりも、うららかな小春日和を愛した。
だから自分が、泣いて怒っての激しい恋ならば、しない方がはるかにマシだと感じるのは、それと同じ原理だと思っていた。
そして、自分の傾向と、「恋」を両立させるには、笑ってばかりの恋をすることが重要で、そのために大事なことは――
「大切なのは見極め。ね、そう思うでしょ?」
振り向きもせずに、フェンスの向こうに同意を求める。
「お魚を選ぶ時はエラの中を覗いて、きゅうりを買う時はヘタの周りの硬さだとか、イボイボの尖り具合を確かめるのと同じ」
比喩がちょっとばかり糠漬け臭かったかな、と内心で首を捻りつつ、しかし奔放に放たれる言葉が止まることはない。
「それと、いくら可愛い眼鏡も、自分に似合わなきゃ買わないでしょう。ま、私は視力1・5だけど」
とにもかくにも、恋をする相手を選ぶ時だって、じっくりと吟味すべきなのだと言いたいわけである。
そうすれば、良い恋ができるに違いない。
それを裏付けるように、現在志穂の母は、紹介所で条件良し相性良しと診断された、温和で多少気弱なオジサンをうまい具合に尻に敷いて、幸せな結婚生活を満喫しているのだ。
「……ポチゾーにはわかりっこないか」
フェンス越しに返事が返ってくることはなかったけれど、志穂は満足気に目を閉じて、カフェオレの紙パックについた水滴を拭った。
長い黒髪が日に透けて茶色味を帯び、爽やかな風に躍る。
次の瞬間、ブフッと、堪えきれずに溜め込んだ空気が漏れる音がした。
10メートル先から見ても分かるような、驚きの大きさに比例したオーバーアクションで、志穂は飛び上がる。
わけも分からず振り返ると、一方的に話し掛けていたポチゾーの傍らに、紺色の帽子と紺色の作業服を着た男性がいた。
「立ち聞き?」
「アフリカゾウとの会話をか?」
「そうよ。ポチゾーとは友達なの」
動物相手の講釈を聞かれたことがちょっと恥ずかしくて、ツンと顎を上げ、文句ある? と澄ましてみせる。
「ぽ、ぽちぞ……」
紺色の青年は、体を二つに折って、デッキブラシにすがり付いた。
息も絶え絶えといった調子で、腹を抱えて喘いでいる。
志穂は突然現れた男に背を向けて、フェンスに寄りかかった。
うるさいなぁと、いかにもうざったそうに首筋の髪を翻す。
「我が家では昔から動物はみんなポチって決まってるの。幼稚園の時に拾った猫も、中学の先輩から押し付けられたハムスターも、夜店で掬った金魚もね」
「……ゾウも?」
「ゾウは大きいからポチゾー」
意味ワカンネ、と笑いを含んで掠れた声で言って、青年はようやく折っていた体を起こした。
背中に視線を感じて、志穂は仏頂面で振り返る。
「あなた誰?」
「ポチゾーの飼育係だよ」
「いつからいたの?」
「きゅうりのイボイボから」
青年は、酸欠で潤んだ目をほほ笑みの形に細めた。
随分繊細そうな奥二重だな、と感心する。
紺色の作業服が、ちょっと気障っぽいほほ笑みを茶化していた。
「いいこと教えてやるよ。コイツ、本名はポチゾーだけど、モモコってあだ名なんだ」
「メスなの?」
「そゆこと」
ふーん、ありがと。そう呟いて、りんごをほお張るアフリカゾウを見つめた。
校舎の裏の柵を越え、その先の小さな雑木林を抜けた所にあるこの場所は、つい先月見出した志穂の秘密基地だ。
ここで彼女は聞き上手な友を得、ゾウの肌には毛が生えていることを知った。
この学校はお隣さんが動物園、という変わった境遇なのだ。
「そろそろ戻らなくちゃ」
よいしょと立ち上がって、膝上で揺れるスカートをはたいて、芝を落とす。
「どこもおかしくない?」
一通りプリーツを整えてから、志穂は青年に向き直った。
ちょっとシワ寄ってるぞ、と言われて眉をしかめる。
「シワはしょうがないの。じゃあ汚れてない?」
「それは大丈夫」
「人参が好き?」
男は一瞬目を丸くして、
「嫌いだな」
「なんだ、残念」
ハァ? と間抜けな声を出して飼育係の青年は小首を傾げた。
「なんでもない。じゃあね〜、モモコの飼育係さん」
志穂は後ろ手に大きく手を振って、校舎のほうへと戻っていく。
そののんびりとした後姿につられるように微笑むと、飼育係の青年はアフリカゾウの檻の掃除に精を出した。
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