第六十八話 父の真意
――風が燃える。
吉備の山間は異様な熱気を孕み、一手の矢は互いの胸を射抜くべく、向かい合った。
「こうして向き合うのは八年ぶり、か……。覚えているか、乙矢? それまで一度も勝ったことのなかったお前が、私から一本取った時の、父上の喜びようを」
「ああ……でも、あの後一本も取れなくて、父上の稽古は一層厳しくなった」
一矢は薄く失笑を浮かべた。『青龍一の剣』を右手に持ち、切っ先を乙矢に向けながら言う。
「……お前は変わらんな。私が泣いて許しを請えば、直様、剣を引きそうだな」
「引くよ。俺はやりたくない。一矢……剣を納めろ! 頼むから、納めてくれっ!」
「それだ! お前のその態度に虫唾が走る! 乙矢っ、お前だけは私が殺す! この手で……八つ裂きにして魚の餌にしてくれようぞ!」
見る間に一矢の表情が変わった。
狂気に満ちた獣のような咆哮を上げ、容赦なく襲い掛かる。見るからに、鬼の形相で『青龍一の剣』を振るい乙矢を攻め立てた。
「殺す、殺す、貴様だけは絶対に殺す! 貴様など生まれて来なければ良かったのだ! 厄介者、疫病神め! 貴様がいなければ、父上は私だけを見てくれた! 母上も姉上も私を愛してくれた! 愚図で出来損ないの貴様さえいなければっ!」
受ける乙矢の刀は、一矢の脇差だ。
相手は神剣である。しかも、こうまで間合いが違っては、乙矢は防戦一方だ。
その上、乙矢には一矢の怒りの意味が判らない。出来損ないの弟を望んだのは兄のほうではないか。乙矢にしたら、父や一門の期待を裏切っても、一矢の望み通りの弟でいたのに……そんな思いがある。
「一矢……一矢っ! 待て、なんだそれは……待てって! 父上が信頼して、全てを委ねたのはお前だろ!? 言い掛かりも……」
一矢は、凄まじい怨念を持って乙矢を攻め立てる。そんな兄の本心が判らず……乙矢は、ただ剣を受け流す一方だ。一矢の言葉は、まるで一矢のほうが乙矢に劣等感を抱いていたかのようだ。だが、そんな訳がない。父や爾志一門のみならず、四天王家一同から、こぞって神剣の持ち主と賞賛されていたのは、間違いなく一矢なのだ。
しかし、一矢の答えは、乙矢が胸の内に抱えてきた想い全てを、根底から覆すものであった。
「ああ、そうだ、そう思っていたさ。だから、死に物狂いでやってきたのだ。一門の誰にも劣らぬように……『白虎』に選ばれるのはこの私だ、と。なのに……父上は私が結婚した後、しばらくは東国の遊馬家に預けるつもりだったのだ。結納に旅立つ前夜、母上に話しているのを聞いた。――此度の結婚は、お前と私を引き離すのに丁度良い。四天王家筆頭として一門の頂点に立つのは、私ではなくお前だ、と。天は二人の息子に違う才能を分け与えた……護国の神剣に相応しいのは乙矢だと、ハッキリそう言った!」
『青龍』が一矢の持つ憎しみを吸い上げ、黒に見紛う青にその姿を変える。一矢の積年の恨みが、今まさに『青龍の鬼』へと一矢を連れ去りつつあった。
だが、乙矢は動けない。初めて耳にする父の真意に、乙矢は干上がった小川の水車のように、ピタリとその動きを止めてしまう。
そんな乙矢に、一矢は尚も言い募る。
「私は貴様のために、東国に厄介払いされたのだ! 判るか、この私の気持ちが! 爾志の名と神剣『白虎』を背負うためだけに生きてきた。力こそ、強さこそ全てだと信じて……私たちは一人で生まれてくる運命だったのだ。お前さえ、私の後にお前さえ生まれて来なければ……貴様を殺す。殺して、私は完璧になる! 勇者は……『白虎』が選ぶのはこの私だ。貴様さえいなければっ!」
物心つく前から兄を慕い、信頼と尊敬を一心に捧げてきた。自慢の兄であった。
だが、あの日――あの、八年前の初夏の夜、全てが変わった。
〜*〜*〜*〜*〜
『白虎』を掴んだ一矢を包む白濁の光……あの時、『白虎』は一矢を選ばなかった。乙矢の本能に語りかける何かが、それを教えてくれた。一矢は『白虎の鬼』になる。それを引き止めたくて、乙矢は一矢の手から『白虎』を奪い取った。
その瞬間、『白虎』は輝きを変えた。
神剣が乙矢に語りかける。
――我が勇者よ、我を手に。
「ちがう……僕は……勇者なんかじゃない!」
――そなたに最強の力をやろう。兄を凌ぐ、最強の力を。
「力なんかいらない! かずやを返せ! 僕は……僕は、神剣なんかいらない!」
白い光は浄化され純白となり、やがて透明になった。そして、まるで日輪が神殿に落ちてきたかの如く、唐突に輝き始め……薄れ行く乙矢の意識の中で、“誰か”ではなく“何か”が、笑ったのだった。
三日後、目覚めた乙矢に一矢は言った。
「『白虎』を掴んだ時、確かに聞こえたんだ! 僕が勇者だって。僕は神剣に選ばれた勇者なんだ!」
一矢の声は浮き立ち、瞳は輝いていた。乙矢ではなく、自分が選ばれたことに興奮して喜びが隠せない。
だが、乙矢の胸に一抹の不安が過ぎる。『白虎』に宿る鬼は、確かに、乙矢にもそう言った。あれは鬼の声だ、耳を貸してはいけない――そんな言葉を飲み込み、乙矢は兄にこう言ったのだ。
「そうだよ。かずやが勇者に決まってるんだ。僕がかずやに勝てる訳がないよ」
忘れよう。鬼の声は聞かなかったことにしよう。本当に神剣を手に戦う日が来るわけじゃない。二度と近づかなければいいだけのことだ。
父に褒められた時は嬉しかった。でも、自分が一矢と同じになれるはずがない。一矢と同じだけの期待を背負う自信はない。四天王家筆頭の義務も責任も、全て一矢が背負うのだ。だから……忘れてしまおう。
少し――ほんの少しだけ、一矢の瞳の色が変わったことも。
その全てから目を逸らし、乙矢は逃げた。
〜*〜*〜*〜*〜
漠然と、なぜここまで恨まれるのか、と疑問は感じていた。
憎しみの正体は、乙矢が一矢に抱き続けた想いと同じ、劣等感だったのだ。
乙矢が身を隠していた宿場町で、どんな罪を犯したのだとお六に聞かれ、乙矢はこう答える。「何もしなかったのが罪だ」――それは、乙矢の与り知らぬ所にある真実だった。
乙矢は……どうせ自分は二番矢なのだと卑屈になり、どうせ負けるのだからと、戦わずに一矢から逃避した。そんな自分の罪を、まざまざと見せ付けられたのだった。
一矢を鬼に創り上げたのは、自分だ。勇者の肩書きと共に、戦うこと勝つことを押し付けた。その上で、一矢が羨ましいなど……。くじを引かずに当たらないと嘆くようなものではないか。挙げ句、この期に及んで、これまで逃げ回っていた弟から「当たりくじをやる」と差し出されては……。
一矢は『青龍一の剣』を脛下段に構え、乙矢と間合いを取った。乙矢も同じ構えで一矢と対峙する。それは、得物が短い分だけ不利というようなものではない。今の乙矢は、八年前に逃げ出した罪の意識と、初めて知った父の思惑が相俟って、気迫で一矢に負けている。
弱味を見せれば、そこを一矢が衝かぬはずがない。どす黒い醜気を叩き付け、間断なく攻め立てる。
一矢が左下より逆袈裟に斬り上げた――その剣先を乙矢が見切った一瞬、一矢は中段の位置で切っ先を止め、一歩踏み込み、乙矢の右手を突きに行った。
乙矢は慌てて脇を締め体を引くが――『青龍』は乙矢の親指を狙う。指を落とされては剣が握れない。剣を避け手を開いた所を引っ掛け、ついに脇差は弾かれた。そのまま剣先は乙矢の喉元を襲う。
一矢の中段の突きを避けるのに、勢い余って乙矢は地面に仰向けに倒れ込んだ。
瞬刻、乙矢の胸を一矢は足で踏みつけ――
「これで最期だ。乙矢、死ねい!」
一矢は『青龍一の剣』を素早く逆手に持ち替え――呵責に迷う乙矢の胸に、一直線に振り下ろした。
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