*真如の月……
真如が一切の迷いを破ることを、月が闇を照らすのにたとえた言葉。
第六十五話 真如の月
だが、覚悟を決めたのは凪だけではなかった。
「……先生……凪先生。ご無事でござるかっ!? お返事下されっ!」
長瀬の声に、凪は我に返った。気付くと、足元に温いものを感じる。おそらくは血溜りであろう。思ったより深手のようだ――ほんのわずか、意識が落ちていたと見える。凪は、軽く頭を振った。
「大丈夫……です。長瀬どの……先駆けの兵に見つかる前に、二人を連れて逃げて下さい。ここは私が食い止めます」
その瞬間――屍と化した狩野が、そよ風の如く揺らめいた。流れるような動作で、『白虎』を凪の頭上に振り下ろす。
この時、凪の取った手段は、乙矢が正三相手にしたことと同じであった。その体で、神剣を受け止めようとしたのだ。だが、殺気なく襲い掛かる狩野を、長瀬が体当たりで止めた。
「凪先生……無茶をされるな。まだ……まだでござる。乙矢殿がおるのだ! 奴が勇者であるなら、必ず来る!」
それは、長瀬なりの、心を決めた言葉であった。
おそらくは、二度と剛剣を揮うことは叶わぬ右腕だろう。だが、腕も命も惜しむような男ではない。長瀬にとって唯一つの心残り――使命を果たせず死ぬことだけは、武門の名折れである。半信半疑ではあっても、残された道は乙矢のみ。
「そうです、凪先生! 誰も死んでなどおりませぬ。私も、必ず生きて乙矢殿に逢いとうございます。――弥太、勇者はおります! 神剣は護国の剣、鬼の剣ではありません。我らが信じなければ、死んで行った父上や兄上……一門のものに、なんと申し開きをするのです!」
確信めいた弓月の言葉に、弥太吉の心は揺れた。
「で、ですが……誰ひとり……鬼にならなかった者など……いないではありませんか」
その声は涙に震えている。弥太吉は恐ろしかったのだ。もう一度信じて、再び裏切られることが……。そしてそれは、真実を見極められなかった、自らの失態を認めることにもなる。
「乙矢殿がおります! 乙矢殿は、鬼の声に否と申された。あの方こそ、真の勇者なのです!」
乙矢を信じる――そう道破した弓月の両眼に、いつぞやの凛とした強さが甦る。それは弓月にとって、真如の月とも言うべき瞬間であった。
しかし、遊馬一門の結束は、一矢の神経をこれ以上ないほど逆撫でした。
「五月蝿い! 乙矢……乙矢、乙矢乙矢どいつもこいつも……奴は私の影に過ぎん! 私は一人で生まれてくるはずだったのだ。全ての力は私の中に宿るはずだった。それが……あの厄介者め! この私が完全になるためには、奴を殺すしかないのだ! 奴が死ねば、全ての力は私の内に戻るに違いない!」
唖然と立ち尽くす弓月らに向かい、虚構の勇者は声を限りに叫び続けた。
「そして乙矢は死んだ。ついに……とうとう……邪魔者を葬ったのだ! 奴に神剣を抜かせ、鬼として葬り去った! 私を妨げるものは何もない!」
一矢の、勇者の仮面は完璧に剥がれ落ちた。残酷で無慈悲極まりない、鬼の素顔が現れる。
「ふざけるなっ! 万に一つ、乙矢殿が死んでも……貴様は裏切り者の人殺しに過ぎぬ! 『青龍』も『白虎』も、貴様を選ぶことは絶対にない! 貴様はただの『朱雀の鬼』だ!」
叫んだ弓月の視界に、忽然と狩野が入った。
「弥太ーっ! 逃げろっ!」
自らの声より早く、弓月は弥太吉に向かって走った。
死屍同然の狩野では、さすがの凪も気配で捉えきれないのだ。自身に向かう、剣の旋風でしか察することが出来ない。狩野は長瀬に突き飛ばされ、一番近くにいた弥太吉に、的を変えたのである。
「殺せ! 餓鬼も女子も……最早、遊馬の血など、根絶やしにしてしまえ!」
間に合わない――弓月はただ、弥太吉に飛びつき、抱き締めた。
それは、狩野の振り下ろす『白虎』より早かった。
街道より、長瀬の真横を掠め、一本目が狩野の蟀谷を貫き、二本目が膝の関節を砕いた。狩野は一瞬動きが止まり、均衡を崩す。遅れて振り下ろした神剣は、弓月の身体を一寸逸れ、雑草の根を切断した。
頭部を真横に矢が刺さっている。そんな姿で、狩野は再び神剣を持つ左腕を振り上げた。それは、一矢の命令に従っている訳ではない。手にした『白虎』の求めるままに、血を欲するだけだ。
弓月が弥太吉を逃がし、刀を構え、鬼を見据える。
二人を救った矢は、馬上から放たれたものであった。蚩尤軍の一団から抜け出た馬は、二人の人間を乗せている。逆光を受けて、馬上の人物の顔は、弓月らには見えなかった。
馬は一団の真ん中を突っ切り、すれ違い様、後ろに乗った一人が弓月の真横に飛び降りた。左手で弓柄を握り、右手にのみ弓懸を巻いている。
そして、腰には見覚えのある一本の剣――『青龍一の剣』だ。
「乙矢殿!」
睨み合った鬼の存在すら忘れ、夢にまで見た再会に、弓月の声は弾んだ。
「弓月殿――前だ!」
乙矢は、手にした弓を狩野に投げつけ――弓月を抱くと、横っ飛びに地面を転がる。
一方、馬は一矢の手前で急停止した。弥太吉を巻き込むように立ち塞がり、両者の間を引き離す。そして、馬上から全員を見下ろしたのは、桐原新蔵だ。
その新蔵が早々に叫ぶ。
「乙矢っ! 左だ!」
乙矢たちが転がる先に、唯一残った蚩尤軍兵士が刀を抜き、二人を待ち構えていた。
瞬刻――乙矢は弓月から離れ、身を起こすや否や、敵の懐に潜り込む。刀を持つ手を押さえ、その肘を反対に捻り上げる。敵兵の体は宙に浮き、一回転して背中から叩き付けられ――同時に、骨の砕ける音が山間に広がった。
乙矢が立ち上がった時、その足元に丸太のように転がる敵兵がひとり……瞬く間の出来事であった。
弓月は、思いもよらぬ乙矢の強さを目の当たりにし、驚嘆するばかりだ。声も出ない。
「些か、遅くはありませんか? 勇者はもう少し早く駆けつけるものですよ……乙矢どの」
凪の口元が、微かにほころんだ。肩を大きく上下させ、荒い息を繰り返しながらも、ようやくいつもの余裕が覗える。
「些かではござらん。遅すぎるであろう。もっと早く来んか!」
感激など微塵も見せず、長瀬は頭ごなしに怒鳴りつけた。
「無茶言うなよ。これでも、丸二日寝てねぇんだぞ……」
見事な戦いぶりとは裏腹に、小声で反論しつつ、無造作に髪をかき上げた。そして、弓月の方を向き直り……
「待たせて悪い……色々あってさ……あの」
今にも零れ落ちそうな雫を、弓月は必死の想いで堪えていた。
「感動のご対面を邪魔して悪いが、乙矢。そいつ、えらくやばそう剣を持ってないか!?」
新蔵が馬から飛び降りながら、狩野を指して言う。
「ああ、あれが――爾志家の守護する、神剣『白虎』だ」
一呼吸おき、乙矢は『青龍一の剣』を抜き放った。
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