第六十話 鬼の影
「では、乙矢どのが鬼となり、正三を殺したと言うのですか?」
「はい。そして……その乙矢殿を新蔵が斬った、と」
長瀬は混乱の中、凪に答えを求めた。
衝立の向こう、畳の上に弓月は呆然と座り込んでいる。
「まずは凪先生に相談せねば」
長瀬が弓月を説き伏せ、彼女を宿まで引き摺るように連れて戻ったのである。
「一矢どのはそのことを、蚩尤軍に放った間者から報告された、と」
凪の言葉に長瀬は肯き、
「どう……思われますか? 凪先生」
「目の前の出来事すら見えぬ身です。私には何とも……。弓月どの、大丈夫でございますか?」
乙矢や正三のこともそうだが、凪には弓月の打ち拉がれた様子が気になる。
そんな凪に答えるという訳でもなく……弓月はポツリポツリと口を開いた。
「私が……間違っていたのです。正三を置いてくるべきではなかった。里人も皆殺され……それが乙矢殿の仕業であるなら……彼に神剣を抜かせた私の責任です」
「姫、それは違います。決して、姫の責任では」
「乙矢殿は誰も殺したくない、と言われたのに。私が守って欲しい、と言ったのです。剣を手に、戦うことを押し付けてしまった。もし、もし乙矢殿が神剣を抜いたのなら、全て私の責任なのです。死ぬのは正三でも乙矢殿でもない! 私が死ぬべきなのに。私は……姫と呼ばれ、皆から守られるだけで、何の力もない女子です。一年前、兄上ではなく私が死ねば良かった! 凪先生と取替えられるなら、私の両目を潰してしまいたい」
弓月はそう訴えると、横に押し退けられた布団に突っ伏し、泣き始める。弓月にとって、それは初めての泣き言であった。乙矢の訃報は弓月の自尊心を打ち砕いてしまったのだ。
「弓月どの」
凪の問い掛けに、弓月は顔を上げる。その瞬間――パシンッ! 涙に濡れた頬を凪の手が打った。
「凪……先生」
「身命を賭しても『青龍』を守る。勇者の血を受け継ぐ誇り高き剣士、遊馬弓月どのは何処へ行ったのです?」
「私は剣士などではありません……ただの女です……」
「では、乙矢どのを想う女子の心に問いましょう。自分にとってただ一人の勇者である乙矢どのは……鬼に心を囚われ、同胞を斬るようなお方か?」
「それは……私も信じたいのです。でも」
「『彼の心は計り知れぬほど器が広く、底知れぬ優しさを秘めている』正三はそう言いました。そんな正三を、乙矢どのが斬ると本気で思われますか?」
「信じたい……信じたいのです。皆、死んでなどいない。生きている、と」
「なら、何故信じないのです? 弓月どの……あなたが信じ求める限り、乙矢どのは決して鬼にはなりません。この首を賭けてもいい。彼は、あなたが信じれば、我々の待ち望んだ勇者となる。そしてあなたを失えば……鬼となります」
その瞬間、弓月の中に一つの言葉が浮かんだ。今の凪と全く同じ言葉を聞いた。それは……
『奴は、姫様のためなら勇者になり、あなたを失えば、鬼になるでしょう。どうか、何があっても奴を信じてやって下さい』
里を出る直前、正三が耳元で言った言葉だった。
乙矢こそ勇者である――凪は断言した。
その言葉を驚愕の思いでそれを聞いていたのは、弓月だけではない。長瀬も驚きのあまり固まっている。
「彼は臥龍です。あなたに逢い、目醒めつつある」
「それは……」
弓月が問い掛けた時、凪がスッと手を前に翳した。その直後、弓月も廊下の向こうに人の気配を感じる。
障子に映った影、それは一矢であった。
「話は聞かれたようだな。ならば早い、我らも早急に皆実宗次朗殿と合流せねばならぬ。三家で手を取り戦えば、より早く戦いは終結する。そうであろう、凪殿」
今の宗主は凪である。弓月も凪の決断に従うよりほかないが……。
「我ら遊馬一門は、織田正三郎並びに桐原新蔵の生死を確認すべく、引き返します。どうぞ、一矢殿お独りで、皆実家にお向かい下さい」
里を出てからは、一矢に従うばかりとなっていた凪が、此度はきっぱりと拒絶したのだ。
「なるほど、私の言葉など信じられぬと……」
「如何様にも」
そのあまりにも凛然たる凪の様子に、一矢の気配は次第に凶悪さを漂わせた。彼らの徒ならぬ気配に、夜が明ける寸前のしんとした空気が、この部屋だけ避けて行くようだ。
「勇者の力は要らぬ、と」
「この身にも勇者の血は流れております。その血が、戻れと言っている」
スッと凪は刀の鞘に手を掛けた。それに呼応するように、弓月も刀を取る。長瀬は既に抜いていた。 遊馬一門の拒否に、一矢から沸き立つ殺気は、あまりにも明白であった。
まさに、一触即発。
だが、一矢はフッと頬を緩めると、弓月らに背を向けた。
「判りました。仕方あるまい。あなたを妻にすることは諦めよう。どうぞお行きなさい。私も、あれは誤報で皆無事であることを願っております。では、南国で」
その瞬間、一矢は肩越しに、乙矢を思わせる微笑を湛えた。その時、弓月は二人が双子の兄弟であることを、久方振りに思い出したのであった。
〜*〜*〜*〜*〜
一刻も経たず、弓月らは宿を後にした。腹わたが煮え繰り返る思いとは、このことであろう。
弓月は一矢のものであった。爾志家宗主の座も、『白虎』も、勇者の血も全て、一矢独りのものとなるはずだったのだ。その独占は、わずか四半刻で霧散した。乙矢がこの世に生まれ出たばかりに。
ちょうど昨晩、弓月が人影を見つけた同じ場所に、一矢は立っていた。低い塀は、この寂れた集落が、いかに平和であるかを物語っている。訪れる湯治客もほとんどおらぬのだろう。隠す必要も、覗く者もいない、と言うことだ。
一矢は、長刀の柄に手を掛け、そのままスッと引き抜いた。全身の総毛立つ感覚に身震いする。
その刀身は赤く艶めいていた。何十、何百と人の血を吸っても足りぬと、鬼が血を欲している。お前が勇者だ、と神剣の鬼が告げるのだ。そう、乙矢さえ死ねば、お前が唯一の勇者である、と。
その時、宿の女中が布団を片付けにやって来た。
「あれ? お客さんは一緒に立たれんかったんですか?」
廊下に佇む一矢に驚き、女中は立ち止まる。すぐに、その手に抜き身の真剣があることに気付き、危険を察知したのか取って返そうとした。しかし、女中の背中を見た瞬間、一矢は一気に間合いを詰める。刃先は女中の左腰から右肩へ――逆袈裟に斬り上げた。
女中は一瞬で事切れる。その背中から噴き出した血は、一矢の唇まで飛び散り……それを舐める姿は紛れもない鬼であった。
その『紅い鬼』を見つめる影がひとつ――。
中空からは、有明の月が静かに見下ろしていた。
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