第三十一話 二番矢の意味
刻限は決められている。
あれから三日……明朝までにここを去らなければ、一矢は全てを皆に話すだろう。
いや、真実を知られて軽蔑されても、それは仕方のないことだ。罪人として処断される覚悟も出来ている。
だが、一矢が乙矢を里から追い払いたいのは、別の理由だろう。弓月に対して、未来の兄嫁以上の感情を抱いていることに、気付いているのだ。
情深い弓月は、惨めで頼りない義弟を哀れに思い、何度も庇ってくれた。その優しさを誤解され、万一にも一矢が、二人の関係を“不義”と決めつければ、弓月の名誉は著しく失墜する。
乙矢は、まさか弓月が、自分に運命を感じているなど思っても見なかった。
何処を取っても、自分が一矢に優るところなど見当たらない。女に限らず、どんな人間でも、二人並べれば一矢に惹かれる。あのおゆきが自分と逃げたいと言ったのも、一矢のことを知らないからだ、と本気で思っていた。
その点だけ見れば、彼がどうしようもない愚か者であることは間違いないだろう。
「乙矢殿」
ハッと振り向くと、そこに弓月が立っていた。
「お話があるのですが……よろしいですか?」
「えっと、いやあの……俺、川まで行って、水を汲んで来ないと」
「ここに来てから、私を避けておられますね。何故ですか?」
いきなりの核心に乙矢はあたふたとする。
「あ、いや、そういう訳じゃ……あの、俺なんかが近くにいちゃ……一矢もいるし」
「乙矢殿は口惜しくないのですか?」
「え?」
「一矢殿にあそこまで言われて……なぜ、新蔵らに言い返すように、一矢殿にも言い返さないのです」
弓月はそれが、我がことのように口惜しくてならない。確かに、一矢が現れなければ弓月をはじめ、全員死んでいただろう。だが、乙矢がいなければ、それ以前に弓月と正三は、確実に死んでいたのだ。弓月の目に、兄弟の関係はとても対等なものには映らなかった。
「一矢はさ、一番でなきゃだめなんだよ」
「……?」
乙矢は水を汲むのに必要な、桶と天秤棒を下ろすとポツリと言った。だが、その意味は弓月には判らぬようで、首を傾げている。
「だから、さ。ほんの子供の頃から、アイツはやたら期待されて、絶対に白虎の持ち主だって言われて来たんだ。今なんか特に、そうあって欲しいって言うより、そうじゃなきゃ困るって感じだろ? 俺は弟矢……二番矢なんだ。兄矢、一番矢のアイツが勝ち続ける限り、俺に出番はないし、ないほうがいいって思ってる」
二人の側に井戸があった。決して枯れた訳ではないが、土砂に蓋をされ、今は水を汲み上げることが出来ない。その存在は乙矢のそれと重なった。
同じ爾志家の嫡子でありながら、一矢は里人から「一矢様」と呼ばれ、下にも置かないもてなしだ。一方、乙矢は傷も癒えてないのに、水汲みだけでなく、薪割りや風呂焚きまでやっている。不公平だ、と思うのが普通だ。なのに、乙矢は笑っていた。
「だから、あんなことを仰ったのですか?」
「え? あんなって」
「初めてお目に掛かった時です。神剣も敵討ちもどうでもいいなどと仰られて……困惑致しました」
「でも、俺のこと守ってくれるって言ったろ? そっくりなくせに情けないって、新蔵みたいに怒ると思ってた」
「乙矢殿と一矢殿は違います! 私は……何かを感じたのです。一矢殿に出逢った時とは違う何かを、あの河原で」
乙矢は弓月の視線を感じていた。こんな時、必ず湧き上がる感情がある。危うく鬼に乗っ取られそうになるほど強い感情……それは、一矢の懸念通り、兄嫁に抱くには邪な感情であった。
「乙矢殿、私は……」
「俺は……俺は、一矢に勝ち続けて欲しいんだ。俺を守らなきゃならない、そう思うことでアイツが強くいられるなら……俺は、ずっと愚図の役立たずでいいと思ってる。戦うこととか、争うことは苦手なんだよ。――ごめん、弓月殿。俺の代わりに怒ってくれたのに……ごめん」
乙矢は優しすぎる。そして、一矢に刃向かってまで、弓月を手に入れようとはしてくれないだろう。だが、乙矢の声は心地良い、傍にいるだけで心が癒される……弓月は、ゆっくり瞬きをして、平静を保ちながら微笑んだ。
「では、乙矢殿の責任は重大ですね」
「え? 何が?」
「二番矢を外せば後はない。もし、あなたが剣を取る時は、それは決して負けてはならない時でしょうから……」
その言葉は乙矢の胸の奥、堅固に閉じ込められた部分を揺さぶった。ちょうど、母の最期の言葉を聞いた時のように……それが何を意味するのか判らず、乙矢は返事が出来なかった。
「……乙矢殿」
「え? ああ……なに?」
「私のことを守って下さいますか?」
「それは、一矢が……」
「私は乙矢殿にお願いしているのです。それとも、一矢殿に引き渡せば、後は知ったことではないと言うことですか?」
「そ、そんなことはねえって。……判った、判ったよ。一矢がいても、もし弓月殿がヤバくなったら、絶対に駆けつけるから、さ。何処にいても、どんなに離れてても、俺に出来る全力で守るよ」
その言葉に、弓月は久しぶりに極上の笑顔を見せたのだった。
〜*〜*〜*〜*〜
その夜――乙矢は黙って里を去った。
弓月は、知らず知らずのうちに乙矢を男に……剣士に変える言葉をくれる。
彼女のためなら、乙矢は剣を取り人を斬ることが出来るのだ。それはやがて……兄・一矢に、弓引く可能性を示唆していた。
人生には戦わねばならぬ時がある、判ってはいたが……。
弓月らに背を向け森に一歩踏み出した時、「二番矢を外せば後はない」――その言葉が心の奥深くで警笛を鳴らし続けていた。しかし、
(一矢がいれば弓月が危機に陥ることなどありえない)
自分自身にそんな言い訳をして、乙矢は再び、逃げ出したのだった。
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