第十六話 両刃の剣
「弓月どの……落ち着かれましたか?」
「凪先生。申し訳ございませぬ。兄上の名を聞き、取り乱してしまいました。お恥ずかしゅうございます」
乙矢の部屋を立ち去り、井戸で顔を洗おうとしたところを、新蔵に見られてしまった。早とちりして、乙矢の元に飛び込んだのは判ったが、泣き顔のまま追うわけにも行かず。後で、長瀬がその場をおさめてくれたと聞いたのだった。
凪は、焚き口の横にある、以前は引き戸であったものを押し開け、戸口に持たれさせた。弓月の頬に風があたり、光が差し込む。それまで、薄暗い台所の土間の上がり口に腰掛け、話をしていたのだ。凪に暗さは関係ないが、少しでも弓月の心を明るくしてやりたかった。
「今の状況は、大の男でも逃げ出したくなるでしょう。十七の娘に、荷が勝ちすぎていることは、重々承知しております。弓月どの、頑張り過ぎずとも良いのですよ」
凪の口調は極めて穏やかだ。それに反して、弓月の瞳は険しくなる。
「それは、どういう意味でしょう?」
「あなた一人なら、何れかの里に落ち着いて、奴らの目を欺き、静かな暮らしを得ることも可能でしょう」
「それでは……この『青龍二の剣』を手放せと仰るのですか!?」
「神剣は自ら持ち主を選ぶと言います。手放しても、誰にも使うことなど出来ません」
「鬼となれば話は別です! これまで、見ぬ振り、聞かぬ振りをして来ましたが、すでに『青龍一の剣』は幾人もの鬼を生み出している。なぜなら、『青龍』は二本で一対。一本なら、鬼の力も弱く、事が済めば始末し易いからです。そうではありませんか?」
「弓月どの……」
「それに、奴らは父上、兄上、義姉上の仇! 討たねば、あの世で合わす顔がございません。神剣を守り、いざと言う時には身命を賭して戦うため、日々鍛錬して来たのではございませぬか。――この期に及んで、逃げ出すことなど出来ません!」
ここ数日、穏やかであった弓月の顔は、気付くと、乙矢に逢う以前に戻っていた。見える訳ではないが、気の流れで凪には手に取るように判る。こうなれば何を言っても無駄であろう。
「判りました。では、今宵、出発致しましょう」
凪は、そう答えたのだった。
「すまんな。だが、これ以上この場に留まるのは危険なんだ。乙矢、動けるな」
正三から出発を告げられる。それは問いではなく、決定であった。ここまで見捨てずに、背負ってきて貰っただけでもありがたいと言うものだろう。弓月は当然のように言うが、乙矢にはとてもそうは思えなかった。
「乙矢殿……先ほどは失礼しました。兄のことなど、思い出すこともなかったので、醜態を晒してしまいました。どうか、お忘れください」
「いや……俺も、余計なこと言っちまって」
身を起こし、どうにか仕度を整えたが……。乙矢は最後の一つを迷っていた。
弓月がふと視線を下ろすと、そこに一本の刀が所在なげに置いてある。それは、長瀬の渡した刀であった。
「お持ちになるのも嫌ですか? 身を守るものがあれば、安心ではございませんか」
武家の、それも神剣を守護する家に生まれた者にとっては自明の理だ。脇差はおろか小柄一本持たずに外に出るのは、丸裸で立つほど心もとないものであろう。
弓月自身、刀は欠かせぬものとなっている。そんな彼女の心を察し、乙矢は苦笑した。
「丸腰で出歩くなんて、正気の沙汰じゃない、ってとこだよな」
「いえ、それは」
「判ってるんだ。でも、持ってたら……抜ける位置に刀があれば、殺される前に殺すんだろうな。こないだみたいに、さ」
「乙矢殿は私を助けて下さったのです! それに……殺すくらいなら、黙って殺されるべきだとお考えですか!?」
「蚩尤軍たってさ、ほとんど幕府軍で、俺たちが反乱を企てたって思い込まされてるだけなんだ。あいつらにとって正義だろうし……一人一人が、誰かの息子で誰かの父なんだよ」
そんなことは判っている。だが、それが戦いというものだ。そして、この戦いを仕掛けたのは蚩尤軍と名乗る連中のほうであった。
「――我らが間違っている、と」
「そうじゃない! でも、それを決めることなんか、俺には出来ない。一矢になら出来ると思う。でも、俺には……。俺にとって刀は『白虎』と同じ、両刃の剣なんだ。相手を傷つけ、自分も傷つける。だったらいっそ、俺が斬られたほうが楽なんだよ。……悪い、やっぱ腰抜けだな」
最後は冗談にして笑って見せた。
神剣『白虎』は両刃の剣だ。四神剣の中で最も強い力を秘めるが、その分、危うい。籠められた念は最強で、近づくだけで鬼の声が聞こえ、抜いて人を斬りたくなると言われている。何百と斬っても刃毀れ一つなく、血糊すらつかない。結界の張った祭壇で厳重に封印されているはずのそれは、本来、奪われるはずのないものであった。
持ち出す人間さえ、いなければ……。
自嘲する乙矢を見て、弓月は笑えなかった。
――「敵を斬り、返す刀で自分をも斬りかねない……『白虎』は両刃の剣だ。ならば、戦うべき時が来たら、斬り続けるしかない。私は、負ける訳にはいかないのだ」
一年前、弓月が一矢に、もし『白虎』の主であったらどうするか? と尋ねた答えだった。
真逆の答えに、そこはかとない“何か”を感じる弓月であった。
「それが、おぬしの答えか?」
ようやく日が沈み、山中に夜の帳が下りて来た。関所を抜けるために、出発しようとした時のことである。
関所の向こう、五里ほど北上した辺りに隠れ里があり、明日中にはそこまで辿り着こうと、乙矢を含め話し合った。
長瀬はジッと乙矢を見ていた。つい昨日まで、心の臓が止まり掛けていた男とは思えぬほどの回復具合だ。やせ我慢もあるのだろうが、それ自体は大したものであろう。だが……乙矢の腰に刀はなかった。
「持ち慣れないもん持ったって、危ないだけだろ?」
「どうしても、と言うなら止めぬが。姫に負担を掛けるようなことだけはするな」
「逃げ足は速いんだ。安心してくれ」
「そいつは結構なことだな。頼むから、一人で何処へでも逃げてくれ」
新蔵は、弓月の乙矢贔屓が面白くない。いくら『義弟』になる身とはいえ、今は赤の他人だ。許婚の一矢に万一のことがあれば、一生赤の他人だろう。
「ああ、そうするさ。お前なんざ放ってさっさと逃げるから安心しろ」
「弓月様を盾になどしようものなら……貴様を刀の錆びにしてやるから覚えておけっ!」
「お前さ、その喧嘩っ早い性格を直せって、そこのオッサンに言われてなかったか?」
「貴様にお前呼ばわりされる覚えはないわ! それに……長瀬さんに向かってオッサンだとぉ!」
さすがに、長瀬が怒鳴りつけようとした時、その先手を取り、
「いい加減に致せ! 新蔵、いちいち絡むでない! 乙矢殿も、わざと怒らせるような言い方は謹んで下さい」
「……申し訳ございません」
弓月に怒られるのは、新蔵には何より堪える。
乙矢は黙って新蔵の隣に並ぶと、彼だけに聞こえる声で言った。
「俺が言いたいのは……弓月殿に俺を守らせるな。足でまといになる前に逃げるし、万一、こないだみたいな深手を負ったら、そん時は置いてけよ。頼むから、俺のために誰も死なないでくれ。――俺は、一矢じゃない」
瓜二つだと思っていた。だが、鋭い刃のような眼光を持つ一矢に比べ、乙矢の瞳は、なんと心細げで頼りないことか……。優しさなど、戦いに無用のはずだ。だが、乙矢といると、内側から滲み出る穏やかな気配に、思わず戦闘を忘れそうになる。
優しさは弱さでないと、この時の新蔵に認めることは出来なかった。
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