第十五話 兄の許婚
吐息が掛かるほど距離が近づけば……弓月はともかく、乙矢に意識するなと言うほうが無理であろう。
乙矢は、必死で体を引き剥し、這うように弓月から離れた。そのまま左手を畳に突き、どうにか平衡を保つ。この時の乙矢に十七歳の少女の淡い想いなど察する度量はなく。自分のことで一杯一杯だった。
差し伸べた手を冷たく払われ、それはまるで、おゆきの死を責められているようにも感じ……。再び、近づく勇気はなかった。弓月はそんな動揺を隠すように、擦り切れた畳みの上に正座して、膝の前に両手を揃える。
「それは、我が遊馬家も同じでございます。『青龍一の剣』を奪われてしまいました。挙げ句、ご存知の通り、我らは謀反人として手配されております。乙矢殿、どうか我らにお力をお貸し下さい。お願い致します」
そのまま、弓月は静かに頭を下げた。
「貸したいのは山々ですが、一矢ならともかく、俺自身はこの様です。刀を抜いたと言っても、どうやったのか覚えてないし……。今だって、皆の足手まといでしょう?」
「それでも構いません! あ、いえ、足手まといと言うわけではなく……。乙矢殿のことは、私がお守り致します。ですから」
乙矢は言葉に詰まった後、咳払いを一つし、急に口調を変えた。元に戻したのだ。
「弓月殿。俺は一矢じゃない」
「判っております」
「本当に違うんだぞ。本気で判ってんのか?」
その強固な否定は、単に違うと言うだけの気配ではなく……。
「乙矢殿。神童と呼ばれ、長じては剣聖と称された一矢殿に比べ、ご自身を卑下なさる気持ちはお察し致します。ですが、乙矢殿とて勇者の血を引くお方。ご幼少の時から、爾志流の稽古は積んで来られたと申されたではありませんか? あの、いざという時の剣捌きが何よりの証拠です」
凪から、乙矢の自信のなさは異常だと、弓月は聞かされていた。確かに、謙遜にしてはいささか度が過ぎるだろう。
「稽古は……した。才能で一矢に劣る分、稽古で補えと父上から散々言われたからな。でも、駄目なんだ。最初に河原で会った時、新蔵、だったよな。あんな風に殺気をぶつけられると……怖いんだ」
乙矢は足を崩し、そのまま腰を下ろした。まるで親にはぐれた迷い子のように、項垂れたままボソッと呟く。
弓月はその姿を見て、思わず抱きしめ、慰めてあげたいという衝動に駆られる。
しかし、「乙矢殿は私の義理の弟」――自分で口にしたその言葉は、彼女の心に重く圧し掛かった。
危機に陥れば誰だって恐怖を感じて当然だろう。それを振り切って自らを奮い立たせ、立ち向かわせる原動力は、勇気ではなかろうか? 乙矢に足りないのは勇気なのだろうか……。だが、矢に射抜かれるのを承知で微動だにせず、或いは、震える手で弓月の脇差を抜いた。そんな乙矢に勇気が足りないとは思えない。
「判んないよな。弓月殿は男に生まれたかったって言うくらい、強いんだもんな」
考え込んだまま一言も発しない弓月を見て、乙矢は微かに笑顔を見せ言った。だが、それは、弓月が最も奥深くに眠らせた琴線に触れてしまったのだ。
「それは……誰に聞いたのです?」
――震える声で、弓月は尋ねる。
「満殿が爾志家に参られた折、俺に話してくれたんだ。もう……四、五年前かな」
「兄上が」
「ああ。弓月殿の話が多かったよ。許婚は俺じゃないって言うのに、一矢は人見知りで話し難かったせいだろうな。妹は間もなく十三になるのに、男の格好をして剣術の稽古ばかりしてる。自分より強い男の嫁にしかならぬと言って、父上を困らせて……」
弓月の青ざめた頬に一筋の涙が伝った。乙矢は、それを見た瞬間、自分の愚かさに唇を噛んだが、後の祭りだ。
弓月はずっと堪えていた。だが乙矢の言葉に、兄の笑顔を思い出し……幸せだった、二度とは戻らぬ日々が彼女の胸を揺さぶった。
『青龍一の剣』を手に、鬼と化した父の手に掛かり、命を落とした兄夫婦。兄嫁のお腹には、後ひと月で生まれ出る命も宿っていた。兄は父を止めるために、弓月に『青龍二の剣』を押し付け三人の師範代と共に逃がしてくれたのだ。その壮絶な最期を知らされた時も、気丈にも涙一つこぼさず耐えた。
この一年間、死と隣り合わせの毎日に不平も言わず、落ち込む姿など決して見せなかったが……。限界まで張り詰めた糸が切れてしまったかのようで、次々に涙が溢れて止まらない。
「弓月殿っ! 悪い。無神経だった、俺が」
「違う! 違うのです。私が……私は……」
乙矢のせいではないと言いたいが、言葉にならず。そのまま、バッと部屋を飛び出して行く。
乙矢は、後を追うべく立ち上がるが……。さすがに、この七日間というもの死線を彷徨い、ようやく目覚めた体では、膝が笑って歩くこともままならない。まるで、生まれたばかりの子馬のようだ。
どうにか廂に辿り着いた瞬間、逆に飛び込んできた新蔵に、乙矢は胸倉を捉まれた。
「貴っ様ぁ! 弓月様に何をしたっ!」
「何って、何が出来るって言うんだ、この体で」
ようよう答えたが、全く聞いてない。
「あの弓月様が……泣いておられたのだぞ。何を言ったのだ! こととしだいによっては、この場で引導を渡してやる!」
逆上する新蔵に乙矢が投げかけた言葉は、
「なあ……お前って、弓月殿に惚れてるのか?」
意表を突かれ、新蔵は面食らって、アタフタとしている。
「な、な、な……何を馬鹿な! そ、そ、そんなこと……弓月様には、い、許婚が」
「お前が本当に殺したいのは俺じゃなくて、一矢なんじゃねぇの?」
「ばっ、馬鹿野郎!! 俺がいつそんなっ」
「馬鹿はお前だ、新蔵。いくら腕が立っても、短気な猪では役に立たん!」
後方から長瀬にきつく叱責され、慌てて手を離した。
「は、はあ……申し訳ありません。ですがっ」
「姫が心配なら、すぐに後を追え。危険が及ばぬよう、お守りいたすのだ。さっさと動け!」
「はっ!」
最敬礼すると新蔵は転がるように廂を越えて行った。
「死に損ないの割にはもう動けるのか? どうやら、心は弱いが、体は丈夫そうだな」
凪や弓月は好意的だが、他の連中の評価はさほど上がってはいないらしい。本来なら、敬称を付けられても良さそうな身分である。しかし、働きに応じてかボロクソな言われようだ。それも事実なだけに、乙矢には反論すら出来ない。
「生きてて悪かったな。どっちにしても所詮、地獄じゃねえか」
「――間もなく美作の関所だ。山中を通ってそこを抜ける。問題はその後だ。姫は疲れておられる。爾志の隠れ里があれば、そこで休ませて差し上げたい。おぬしが蚩尤軍に話しておらぬ里はあるまいか?」
「それは……俺を信用するってことか?」
「不服か?」
「そうじゃねえけど。里のことは、連中には話してないよ。俺は次男で何も聞いてないって言ったら、簡単に信じやがった」
それが敵の評価だ。そして、味方の評価も似たり寄ったりである。一人生き残った乙矢を、果たして隠れ里の連中は受け入れてくれるだろうか?
乙矢は苦しげに壁に寄りかかった。所々穴の開いた壁は重みに耐えかねて、今にも倒れそうだ。長瀬はそんな乙矢に刀を一本放り投げた。
飛んでくるそれを、条件反射で受け取ってしまい……咄嗟に動かした二の腕に、突き刺すような痛みが走る。
「道中、一本調達した。おぬしはそれを使え」
「ちょ、待て……使えったって、自慢じゃないが、俺は刀を差した事がない!」
「確かに、自慢にはならぬな」
長瀬は完全に呆れたような声だ。
「こんなもん持ってたって、俺には」
「我らは、姫と『青龍二の剣』を守るため、一門が死に絶えても、罪人と呼ばれても、こうして生き恥を晒しておる。おぬしを守る余裕などないのだ。判るな」
「別に守ってくれなんて」
「頼まれずとも、姫は、おぬしを守ろうとするだろう。二度までも、命を救われた恩義を感じておられる。だが、おぬしは姫が、自分の盾となり死んでも後悔はせぬか?」
「……」
「兄の許婚なれば、おぬしが姫を守って当然と思うが……命令とあらば逆らえぬ。――よいか、おぬしはそれを腰に差せ! そして自らの意思で抜き、敵を殺せ! 転がる死体が敵であれ、おぬしであれ、我らは一向に構わぬ」
あまりに辛辣な長瀬の物言いに、乙矢は痛みも忘れ、呆然と立ち竦むのだった。
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