零
この話を読むにあたり、一度、浦島太郎の話を、簡略に頭に浮かべて頂きたい。それが、この話を、より楽しく読んで頂く方法である。
壱
昔々の事である。
その昔、浦島という所に、夛浪という名の、それはそれは仕事の出来ない漁夫がいた。彼は、朝から晩まで釣糸を垂らしていても、その日に喰う食料もろくに獲られない程、漁の技量が無かった。
当然、そんな夛浪の暮らしは、苦しいという一言に尽きた。常に飢饉にあった様な生活を送らざるをえなかった。そうなると人という生き物は、形振り構わず生きるものだ。
夛浪は他人が棄てた芥を平気で漁り、使える物は全て掻き集めた。そして、疾うに腐り果てた屍肉を平気で喰らい、芥浚いで得た擦り切れた麻の布を、わざわざ補修して着た。
当時の人々は、そんな夛浪の醜態を見ると、「羞恥の無い烏の様だ」等と嘲笑っていた。夛浪自身は、そんな事で嘲笑する、飢餓に苦しまない者達が、よっぽど可笑しいと思っていたが。
兎も角、夛浪はそうやって、執念深く生きていた。
弐
ある日の暮れの事である。
その日夛浪は、朝から自分の舟で、沖の方まで行き、釣糸を垂らしていた。しかし、漁の技量の無い夛浪は、夕餉に喰うものさえも獲られないのは、皆も判っている筈だ。当然の事ながら、魚等一匹も釣れる筈も無かった。
浜に着くと夛浪は、落胆した心持ちで、帰路につこうとした。しかし、そこである出来事を見た。
見て呉れの子供達が、随分とみすぼらしい亀と戯れていたのである。戯れていたという言い分は、あくまでも子供達の言い分であり、実際は皆が知る通り、亀を虐げていた。夛浪はそこを偶然にも通り掛かったのだ。
夛浪は初め、その出来事を見た時、亀が酷い事をされているな、と軽く思っただけである。しかし、その時丁度、腹の音が小さく鳴った。すると、ふとある考えが彼の頭を過った。あの亀を捕まえれば夕餉に喰うものが得られる。――と。
夛浪はその欲望に忠実に従い、子供達に「その亀を乃公に寄越せ!」と襲い掛かった。子供達はあまりにも突然の事だったから、只々諸手を挙げて逃げるしかなかった。その様を見た夛浪は、薄ら笑いを浮かべて、「餓鬼風情が」等と、子供達が消えて無くなるまで、罵詈雑言を並べた。
しかし、あんな事を叫びながら来るものだから、亀も我が身を案じて海に逃げてしまっていた。夛浪はその事に気が付くと、地団駄を踏んで、己の失態を只管悔いた。そして「夕餉のものを逃した」と執拗に漏らした。
海に太陽が堕ち、月が空で輝くまで、夛浪のそれは続いた。
参
あの日から数日後の事である。
その日の夜、芥浚いによって得た、赤犬の屍肉を、夕餉に喰らおうと、囲炉裏の火で焙っていた。徐々に焼けていく肉から、時々垂れる脂が、囲炉裏の灰に落ちる。熱くなった脂が、音をたてる様は、夛浪の食欲をそそった。
肉も良い具合に焼け、そろそろ喰い時だ、と夛浪が思ったその時である。夛浪の家の戸を、軽く叩く音が鳴ったのだ。
こんな夜分に何用だ、という疑問と、乃公の夕餉を邪魔しおって、という憤りが、見事に混ざり合った心持ちで、夛浪は立ち上がり、随分とがたのきている引き戸を開けた。するとそこには、夛浪自身の人生では到底見る事の出来ない――いや、皆でさえ永遠に見る事は無い――布そのものから光を放つ羽衣を着た、それは美しい、うら若き乙女がいた。その近くには、随分とみすぼらしい亀がいた。
夛浪はその光景に目を見張った。不可思議な現実を目の当りにすれば、当然である。しかし、夛浪は妙に機転の利く男なのか、先程の事を悟られぬ様に「何用でこんな所に」と、やはり機転が利かないのか、彼女を訝しみながら、そう尋ねた。
乙女は彼の言葉に微笑して、それはそれは美しい声を出して、夛浪に語った。
「御初にお目にかかります。妾はこの海の妃である、乙姫という者です。
何時ぞやは、妾に遣えておる、この亀を助けて頂き、大変に有難い心持ちです。本日は、その礼を致したく、妾自ら貴公の元まで赴きました。
どうか妾の城、竜宮城へと赴いて頂けませんか。不快な思いをさせる事はありません。いえ、この世の物とは思えない、至福の時を貴公に、必ず与えます。
何卒、お願い申し上げます。」
夛浪は話の終始を、只々唖然として聞いていた。何分、突飛の無い話である。皆でも怪訝な顔をするより他ないだろう。故に、夛浪はこの話を信じようとはしなかった。説明の出来ぬ事は幾つもありはしたが、全てこの女の狂言と思う事とした。
しかし、またその時丁度、腹の音が小さく鳴った。そしてまた都合良く、ある考えが頭を過ったのだ。仮にこの女の言葉が、全て誠ならば、赤犬なんぞより旨いものが喰らえる。逆に偽りだとしても、こちらも赤犬よりは旨い筈だ。――と。
こちらの考えがうまいと判れば、誰でも選ぶ方は一つである。夛浪は二つ返事で、乙姫と名乗る女に微笑した。乙姫も、その返事に手を合わせて喜んだ。
これが、夛浪と乙姫の出会いであった。
四
竜宮城が何処にあるかは、あえて明らかにはしない。何処にあるかは、皆の想像にお任せしよう。
竜宮城へと赴いた夛浪は、乙姫達から手厚い報礼を受けた。美しい踊り子達の舞に見惚れ、あんな屍肉よりも旨い物を喰らい、動物達の見事な芸に驚嘆する――そんな夢物語の様な日々を、夛浪は過ごしていた。
しかし、夛浪は乙姫の好意に甘え、三年もの月日を消化すると、生活そのものに倦怠を感じ始めていた。三年もの月日、同じ様な事の繰り返しでは、たとえ毎日が幸せでも、嫌になる。夛浪はその例に等しかった。
そうなると人という生き物は、昔の生活に戻りたい、と危険な思想を持ち始めるものである。夛浪は愚かにも「乙姫よ、乃公を故郷に還してくれ」と口走った。乙姫は致し方ないという心持ちからか、残念そうな顔付きをして、渋々了承をした。そうして、彼は玉手箱を持って帰郷したのである。
そして帰郷した後、玉手箱を開けた夛浪は、忽ち髭の生やした御老体になり、開けた事を後悔して、後の余生を過ごした――
しかし、その話は偽である。
実際、夛浪は髭の生やした御老体になってはいない。玉手箱の中身は、白い煙でもなければ、妖怪達という訳でもない。玉手箱の中身は、溢れんばかりの財宝だったのだ。
夛浪は帰郷する時に吐いた科白を忘れ、浦島一の富豪になった。その後、夛浪は浦島の富豪である女を妻にし、余生を平凡に送ったのだった。
五
しかし、その話も間違いである。
夛浪は平凡に余生を過ごす事は出来なかった。夛浪は病に伏してしまったのだ。
病に伏した夛浪は、看取る妻や小間使いに、口々にこう言った。「乃公が死んだら、乃公の亡骸を埋めた地に、乃公の名を刻んだ石を立ててくれ……」と。妻は涙を浮かべ、只管頷いた。小間使いも同様にそうした。
程無くして、夛浪は死んだ。妻や小間使いは、遺言通りに墓を立てた。
「浦島の太郎」と。
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