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人間と犬

作者: 淡城 遊作

 ボクがそれと初めて出会ったのは、まぶしい光の中だった。


 一つ、二つと崖を降りた先には、いつも大きな壁がある。それなのに、そのときだけ壁がなくて--。ボクは壁のあった場所の先が、とても明るいことに気づいた。今いる場所はなんだか薄暗いのに、なんであそこはあんなに明るいんだろう? 

 ボクは崖を降りようとして前の足をのばす。あれ? 意外と深かった。こてんっこてんっと体がぶつかる。

 イタい。

 ぶわって、出そうになる。でもボクはぶわってするのをがんばってとめた。きっとここでぶわってしてしまったら、あの先に行くことができないから。

 前の足をあげて、うしろの足を少しあげて。最近ボクは「動く」を覚えた。少しまえまではなにかに入れられたり、ナニかに高い所に持ち上げられたりして、ボクが行きたいと思ってない場所に連れて行かれていた。でもこれを覚えてからは、前よりも自分 の行きたい場所に行けるようになった。ナニカはそんなボクのことを見て、テンサイと言った。どうやらボクはテンサイと言うらしい。

 でも、ナニカはボクとは違う「動く」をする。ボクは4つも使って動くのに、ナニかは2つだけで動く。ズルい。ボクも同じようにやろうとしたら、頭を打ってしまった。あのときはたくさんぶわっ、てなってナニカに高いところに持ち上げられてしまった。たのしかった。

 だんだんと、壁のあった場所が大きくなってくる。こんなに大きかったかな? そういえば、ナニカも遠くの所から見ると、小さいのに、近くで見るととても大きい。そうか、近くに行くとみんな大きくなっちゃうんだ。なるほどなあ。

 壁の先は、青色と、白色と、緑色と、たくさんの色でいろいろだった。さっきまで明るいだったのが、まぶしいになった。思わず目がシバシバしてしまう。

「お主ここでなにをしている?」

 前がきゅうに暗くなって、シバシバをしなくてすむようになった。目をあけると、ぬって、それがいた。

「我が輩の名はアンドリュー・ワンダスキー三世。ここから先はとても危険である。お主、どこへ行くつもりであるか?」

 大きなやつが、ボクをみおろしていた。ボクと同じ4つで立ってる。でも体が毛むくじゃらで、ボクとは違う。ナニカともぜんぜん違う。

「知っているぞ、お主は雇い主のところの子どもだろう。これ、なんとか言わんか」

 ボクはそれのあまりの大きさに思わず、ぶわってなった。

「こ、こらお主。泣くのをやめんか! くぅ、こんなところで泣かれたら--」

「こら、ポチ!」

 ぶわってしてると、後ろのほうからナニカの大きな声がした。毛むくじゃらはキャインって言ってボクから離れた。なんだか毛むくじゃらはとてもおびえてる。なんでだろう?

「まったく、ポチ。あなたはお兄さんなんだから怖がらせちゃダメじゃない!」

 ナニカがぶわってなってるボクを抱き上げた。上と下にゆっさゆっさ揺らされる。うぅ、くらくらする。でも楽しい。

「異議あり! 我が輩はアンドリュー・ワンダスキー三世であり、断じてポチなどという名前ではないのである! また、我が輩はお主らに雇われているのであって、兄などでなはい! 訂正を要求するのである!」

 毛むくじゃらが必死にむずかしいことを言ってる。ナニカはなにも言ってあげないのかな? ナニカはよしよしって言って、ボクの頭をずっと撫でてる。キモチいい。

 ナニカがなにも言ってくれないから、毛むくじゃらがくうん……って泣いてる。かわいそう。

「あ、あうあう」

 ボクは毛むくじゃらに元気になってほしかった。毛むくじゃらに手を伸ばしながら、ナニカに毛むくじゃらと話したいとお願いしてみる。

「ん? なあに? どうしたの?」

 ナニカはボクのやりたいことをなかなかリカイしてくれない。ボクの声は毛むくじゃらやナニカみたいにむずかしいことを話せない。どうすればいいんだろう。

「あ、わかった。ポチのことが気になるのね? よかったわねポチ。許してくれるって」

 ナニカが顔をゆがめながら言った。むう、いつも思うけどボクに向けてくるこの顔はなんだろう。これを見るとなんだかおもしろい。

「我が輩は許す許されぬの立場にはないのである。母君の言っていることは間違っているのである!」

 毛むくじゃらはイカンである、と言っておしりについてるふさふさを振った。たのしそう。ボクも振ってみたい。

「あら、嬉しいのね。ふふ、まだあなたも2歳なんだものね。遊び相手がいなくなっちゃたら悲しいわよね」

「我が輩はもう立派な大人! こんな小僧と遊んでほしいなどとは思っていないのである」

「あうあー」

 ナニカが毛むくじゃらに近づけてくれたから、ボクは毛むくじゃらにさわってみた。ごわごわつんつん。ちょっとかたい。

 むう、キモチくない。

「なんであるか! その失望したような目は」

 うぅ、毛むくじゃらが怖い顔する。ジワってなってきた。

「キャウウ……よ、よかろう。我が輩は遊び相手にはならぬが、賢学の教授としてお主にさまざまな知恵を授けてやろうではないか」

 ケンガクってなんだろう?

「賢くなるための学問である。お主のような無知蒙昧むちもうまいやからのために、我が輩が特別に啓蒙けいもうしてやると言っているのである」

 ちんぷんかんぷんである。

「あらあら、すっかり仲良しねえ」

「仲良しになどなっていないのである!」

 毛むくじゃらはふさふさをぶんぶんしながらアオンって言った。





 毛むくじゃらが、ナニカのことを教えてくれた。よく見かけるナニカは「ハハ」で、たまにしかいないナニカは「チチ」というらしい。ナニカに「ハハ」って言ったら、目を丸くされた。いつもと違う顔。きゃっきゃっ。

 またテンサイだわって言われた。やっぱりボクはテンサイって言うらしい。

 それにしても、なんで「ハハ」と「チチ」って言うんだろう。毛むくじゃらにきいたら、ワオンって言われた。しらんらしい。


「賢学と言うものは生きるために必要な哲学であり、戒言と言って過言ではないものである。しっかりと忘れずに心に刻み込むのである」

 ボクは毛むくじゃらのお腹に顔をつっこんだ。ヌクい。

「まず賢学における基礎理念とは、「生命とは食い、動き、寝るにある」と言うことである」

 お腹のあたりは毛があまりごわってなってなくてやわらか。いつも寝てるところにあるふわふわもいいけど、このヌクヌクもスてがたい。

「我が輩の一日は一杯の水と一皿のペディグリーから始まる。これをしっかりと食べ、散歩に赴くことが、我が輩の一日を円滑に動かすための重要な歯車なのである」

 むう、もう動けない。ハハにさっきいっぱいごはんをもらって、それから毛むくじゃらのところにがんばって来たせいかなー。

「新鮮な朝の空気を吸いながらの母君との散歩。母君はなかなか我が輩のことをわかってもらえぬが、あの一時は至福と言ってもいいかもしれぬな」

 毛むくじゃらうれしそう。ボクもこのヌクヌクがうれしい。

 シバシバってなってきた。ぼーってなるう……。

「おっと、脱線しそうになった。わふん。食う、動く、寝る、これこそが賢学の基礎の基であり……おい、さっきから我が輩の腹の辺りが暑いのであるが。聴いているのか? おい、おい!」

 クウンって毛むくじゃらが言った。おやすみ--





 毛むくじゃらの名前はムツカシい。

「ワン、あー。あうー」

 うん、うまくいえない。毛むくじゃらはそれがフマンって言ってた。そんなこと言われてもシカタナい。

 チチとハハが言ってるのは言える。

「ぽ……ちぃ」

「ワンダスキーである! アンドリュー・ワンダスキー三世だと何度言えばわかるのだ!」

 オコられた。

 ぶわってなりそう。

「ちょ、ちょっと待つのである! わ、我が輩が悪かった。だからそれだけ--」

 ぶわっ。

「ワオーンっ!」

 ぶわってなったら、一緒にじょぼじょぼってなった。後ろの足のあたりがぬくい。

「お、落ちつくのである。くさっ……!? くぅん……仕方ない。ほれペロペロー」

 ボクの顔のぶわぶわを毛むくじゃらがなめた。

「くぅ、塩味がたまら……わふんわふん。しょうのないやつである」

 毛むくじゃらの赤いのがやわヌクくってキモチいい。

 ぶわってなったのが、毛むくじゃらのやわヌクでとまった。ぶわってなったら、ボクにもどうしようもできないのに、毛むくじゃらがとめてしまった。毛むくじゃらすごい。

 でもすぐに駆けつけたハハにオコられてた。

 クウンって言ってた。





 やわヌクしてって言ったら、毛むくじゃらがイヤだって言った。

「いいか、これは賢学で示されているのであるが。我が輩たちにとって他者をなめるというのは最大限の敬意であり、謝辞であり、慰めなのである。そうやすやすと舐めてやるわけには…………わかった。待て! 落ち着け、な? ほれ、ペロペロー」

 やわヌクくっていいかんじー。お返しにボクは毛むくじゃらの顔をぐにぐにした。

「こ、こりゃ、やめんか。そんなとこ伸ばしたら--」

 ビンっていっぱいでてる細いやつを引っ張ったら、いっぱい伸びた。キャインって言った。

「くそう、歩けるようになったからって調子にノりおって……」

 ボクはついにチチとハハみたいに2つで「動く」できるようになった。

 ハハはまた、テンサイよーって言った。どうやらボクは名前がふたつあるみたい。いつも言ってるやつと、テンサイ。もしかしたら毛むくじゃらの名前みたいにちょーながいのかもしれない。

 でも、2つで動くをするとまだよく、ぼてってなる。

 なかなかムツカシい。

「わふん。今のうちにいろいろと言っておくがなあ」

 毛むくじゃらが、だらってやわヌクを垂らしながら言った。はあはあってしてる、つかれてるみたい。かわいそう。

「まず第一に、しっぽのことを言いたいのである。お主たちは我が輩が嬉しいときにしっぽを振っているんだと考えているが……いや、それは無きにしもあらずではある。しかしながら、それがすべてではないのである! 我が輩のしっぽがたった一つの感情だけで動いている単純なやつだと考えるのは愚の骨頂! そんな考えむしゃぶりつくしてやるのである!」

 ワオン! って、毛むくじゃらが言った。毛むくじゃらたのしそう。

「我が輩は抗議や提案の場においてもしっぽを振るのである! たとえば我が輩は以前、一日は一杯の水と一皿のペディグリーで始まると語ったと思うが……。今朝のペディグリーは一皿の半分しか入っていなかったのである。これは遺憾である。と、我が輩は抗議のために母君に向けてぶんぶんとしっぽを振った。しかしながら--」

 むにゃむにゃってかんじー……。

「……そして、我が輩は節度を持ったなでなでを常に要求しているのである。先ほどのぐにぐには言語道断! 今後あのようなことをした場合は--」

 …………。

「……だが我が輩も鬼ではない。節度を持ったなでなでをしてくれれば我が輩もそれ相応の対価を--」

 ……………………。

「……ふはは! わかったであるか。我が輩の偉大さが! ……おい、訊いているのか? おい、おい!」

 …………………………………………。

「くぅん……」





 映画のエンディングが流れ出したから、僕は大慌てでテレビを消した。

 お父さんとお母さんに見つかる前に居間の電気を消して、玄関へ続く廊下に出た。靴置き場へ降りる段差を飛び越えて草履を履き。玄関を開いて、小さな庭にある小屋に向かう。

「ポチ……ポチ……」

 小声で呼びながら、僕は小屋の中を覗く。玄関についた外灯のオレンジの光で、少しだけ小屋の中が見える。体を丸めて寝ているポチがいた。

 確かこういうのはドクロを巻くって言うんだ。なんかのマンガで読んだ。ふふ、僕って頭良い。

 もう一回名前を呼ぶと、ポチはようやく目をさました。丸い目が、外灯の光で輝いてる。でも少し目を開いて顔を上げただけで、すぐに目を閉じちゃった。しっぽがぱたぱたしてるから、たぶんタヌキ寝入りってやつだ。あれ? 犬なのにタヌキ? そうだ、こういう時は犬寝入りって言うのかも。

 起きろー、とポチの体を軽く叩いてみても、ぜんぜん起きてこない。むう、ゴウジョウなやつめー。

「ちぇ、せっかくポチの名前を変えてあげようと思ったのにー」

 せっかくお父さんたちに見つからないようにでてきたのにつまんない。それにしても6時を過ぎたら外に出ちゃダメなんて、何で言うんだろう。おなじクラスのケンくんなんていっつも7時まで遊んでるのに。みんなもっと遅くまで遊んでるよって言ってもぜんぜん信じてくれない。

 お父さんとお母さんはいじわるだ。犬寝入りするポチもいじわるだ。

「くぅん」

 立ちあがって家に戻ろうとしたら、小屋からのそっとポチが出てきた。目の前でおすわりして、僕を見上げる。

「なんだよー。さっきまで寝たふりしてたくせに」

 見上げたまま、ずっとまばたきをしないポチ。なんだか早く言ってよって、せかしてるみたい。しょうがないなあ。

「今日からポチはアインシュタインだよ。わかった? アインシュタイン!」

 僕もマーティみたいに空飛ぶ車で未来に行きたい。だからポチは今日からアインシュタインだ。アインシュタインはぎゃう! って言って、しっぽをブンブン振ってる。気に入ったみたい。

 あとはドクを探さないと。あれ、でもアインシュタインはドクの犬だから、僕がドクになるのかな? 

 うーん、僕は白髪がないし、マーティになりたいし……まあいっか。明日友達にドクになってって言ってみよう。

「タイムマシンで20年後に飛んで、未来のアインシュタインを見てきてあげるね」

 僕がそう言うと、アインシュタインはしっぽを振りながらギャウって鳴いてる。よっぽど嬉しいんだね!



「アインシュタイン!」

 僕は邪魔なランドセルを放り出してアインシュタインに抱きついた。

「アインシュタイン。クラスのみんながタイムマシンなんてないって言うんだ!」

 クラスの友達とタイムマシンほしいよね、なんて昨日やっていた映画の話をした。そのときに僕が、みんなでタイムマシンを作ろうよって言ったら。タイムマシンなんて無理だからって大笑いをされながら言われた。

 絶対にあるよ! って言ったのに、誰も信じてくれない。しまいには、顔真っ赤にしてどうしたの? なんて言われてしまった。なんでみんな信じないんだ。

「アインシュタイン。ひぐっタイムマシンはあるよね……?」

 ごわごわの毛に顔を埋めながら訊いた。

 アインシュタインはなにも言ってくれない。でも僕のほっぺたを、優しくなめてくれた。温かくて柔らかい感触が、僕の頬を涙のあとを消してしまうように何度もなぞる。

「アインシュタインんん……」

 心地の良い感触に、僕はいつしか寝てしまった。

 遠くのほうで、くうぅんという鳴き声がきこえた気がした。






 連日の寝不足のせいで、頭が内から何度も打ち付けられているかのように痛む。ワイシャツのボタンを留めていると、あっと声がでた。ボタンを一つずらして留めてしまっていた。

 ちっ、と思わず舌打ちが漏れる。ちくしょう。あいつのせいだ……。恨み言を頭に浮かべながら、俺はワイシャツのボタンを一から留めなおした。

 ブレザーを着て、防寒具を装備し、手提げ鞄を持って玄関の引き戸を開ける。温かかった室内では想像できないほどの冷気が襲いかかる。ネックウォーマーや手袋を貫通してくるほどの寒さ。いっさい守ってくれるモノがない顔は、甘んじて直撃を受けるしかない。顔を襲うひりひりとした空気が痛い。少しでもネックウォーマーに守ってもらおうと、顔を下へ向ける。

 あいつが目に入った。小屋に入らず玄関前で横たわる、寝不足の元凶。

 だらりと口から垂れた舌。目は半開きになっていて、黒目はほとんど瞼の裏側に行ってしまっている。かすかに見える黒目と、半開きの目のほとんどをしめる白目とのコントラストは、かなり不気味だ。というよりも、はっきり言って死体じみている。

 かすかに体が痙攣していることから、生きていることがわかる。今では当たり前のように見られるが、初めてこの寝姿を見たときは思わずぞっとした。

「おい、バカ犬」

 軽く、腹のあたりに靴を当てる。すると驚いたようにびくっと、体を踊らせて起きあがった。まだ眠いのかトロンとした目をしながらあたりを見渡している。すげーアホっぽい。

 焦点がゆっくりと俺のほうに合ってきた。眠いんですけど、なんか用ですかとでも言うような目線。

 ちっ、いらいらする。

「こっちだってお前のせいで眠いんだよ。夜中にきゃんきゃんきゃんきゃん鳴きやがって……」

 ちっ、とまた舌打ちが出た。ネックウォーマーに深く顔を埋める。

 俺はなにをやってんだ。こんなこと言ったところで話なんて通じるわけないじゃないか。こいつは一匹で、俺は一人。わかるはずない。今だってこいつはしっぽを振って喜んでやがる。俺がどんなにこいつに言ったところで、それは一方通行でしかないんだ。

 ふと指をなにかがなぞる感触がした。手袋ごしで、すぐには気づけなかったが、確かになにかが触れている。視線を向けると、あいつが舐めていた。

 ゾワッと背筋を走るモノがあった。

「やめろよきたねぇ!」

 急いで手を遠ざけて、確認する。うわ……。涎でべとべとになった手袋に思わず顔をしかめる。

 最悪だ。でも犬に手をあげるのもバカらしい。こみ上げてくる暴力的な衝動を抑え、見上げてくるそいつを無視して俺は学校へ向かった。

 --なんであんなバカ犬飼ってんだ。さっさとくたばっちまえばいいのに。


 ワオオォォォン

 ワオオォォォォォン

 うるせえ。うるせえうるせえうるせえ。

 俺はベットのなかで耳を押さえながら転がった。最近のあいつはいつもこうだ。昼間はおとなしく寝てるくせに、夜中になったら変に吠える。なんど黙れと言ってもいっこうにやめない。そのせいでここのところずっと寝不足でしょうがない。

 明日も、明後日も、明明後日も学校だってのに……。畜生。受験が近いのになんでこんなことで神経すり減らさないといけないんだよ……。

 さっさとくたばれ。


「おはよ……」

 がんがんと痛む頭を押さえながら、朝食を摂りに居間に降りると、すでに親父はいなかった。今日こそはあの犬をどうにかしてもらおうと思っていたのに。ちっと舌打ちをして、席に着く。

「ねえ、最近ポチの散歩行ってくれてる?」

 親父の食器を洗っていたお袋が言った。

「なんで俺がそんなことしないといけないの? 俺、これでも受験生なんだけど……」

「なんでって……。あなたが言ったんじゃない。これからは僕がポチを散歩に連れていくよって」

 何年前の話だよ。俺は覚えてないと言って、ご飯をかき込む。早く学校に行ってしまいたい。友人たちに遅れをとるわけにはいかない。

「このごろずっと私が散歩してるのよ。たまには代わってよ」

 疲れたように、お袋が言った。よく見るとお袋の顔にもうっすらとクマができてる。

 ちっ。

「犬なんか飼わなければいいんだよ」

「そんな言い方--」

 お袋の言葉を遮るように、ごちそうさまと言って部屋に戻った。ワイシャツに袖を通しながら、数学の問題を頭に浮かべる。なのに、その問題を解くことに集中できず、俺の脳裏には夜中にきこえる遠吠えが延々と反響していた。

 くそ! くたばっちまえ。


 --そう思っていたからだろう。俺はソレを見て、なにも。ほんとうになにも、頭には浮かんでこなかった。

 いつものように玄関に出れば、いつもの光景が広がっていた。昨日よりもさらに刺すような冷気に震えながら、横たわっているあいつを見た。

 いつもと変わらず、だらりと口から垂れた赤い舌。瞼を閉じることを忘れている、ほとんど白目に近い目。いつもの光景いつものそいつの寝姿。それなのに、間違いさがしのようにいつもと少し違う。

 触ってみると、いつもはすぐに起きるはずなのになんの反応もない。揺さぶってみても、前足を動かしてみても、なんの抵抗をすることもない。深く眠り込んでいればたまにそうなる。でもなにかが、今回に限っては決定的ななにかが違った。

 口からは舌と一緒に吹き出た赤い血の混じった泡。少しだけ見える黒い瞳は、まるで周りの色になじもうとするかのように白く濁っている。痙攣しているはずの体はいっさい動かない。

 二度と、動くことはない。

 お袋の声が聞こえる。いつのまにか俺の目の前に来ていて、倒れているポチを抱えた。たぶん、俺がいっこうに玄関の前から動かないから、なにかを感じ取ったんだろう。

 お袋が持っていたハンカチで口の泡を拭って、開いていた瞼をそっと閉じた。そうして、俺のほうに顔を向けて言った。

「あなたは学校でしょ? 早く行かないと遅刻するわよ」たぶん、こんな感じのことを。

 俺はうんだか、はいだか言ったと思う。気づけば学校の、自分のイスに座っていた。

 目の前に広げているはずのテキストの内容が全く頭に入らない。ポチを抱えてさめざめと泣くお袋の姿と、がらんどうの人形めいたポチとその感触が、何度も何度も繰り返し上映を続けていた。


 家に帰ると、ポチは小さな入れ物の中に収まっていた。

「動物用のね、火葬場に持っていったの」

 居間のテーブルの上に置かれたそれを見つめながら、お袋が言った。ひとしきり泣いたあとなのか、充血した目と涙のあとがある。

 そっか、と俺は言った。勝手に持って行くなよ、と言うべきなのか、ありがとうと言うべきなのかよくわからない。ただ、両手で抱き上げないとなかなか持ち上がらなかったポチが、今では片手で持ててしまうぐらいに小さくなっていることが、何とも言えない気持ちにさせた。

 買い物にいってくると言ったお袋と入れ替わるように、俺は居間のテーブルに座り込む。

 今朝まであんなにもこいつのことで憤って、感情が昂ぶっていたのに、今は凪のように静かになっている。なんであんなに俺は怒っていたんだろう。なんで今はこんなに穏やかな気分なんだろう。

 穏やか? 違う、なにかもやもやする。なにかが違う。

 どうするべきなんだ? テーブルの真ん中にぽつりと置いてあるモノを見ながら、俺は考えた。こんなときはどうすればいいんだろう。





 ポチ、ポチー。ポチー!


「騒々しいのである。それに我が輩の名は--」

「ポチー! ぼく、ようちえんにいくんだぁ」

 丸まって眠ってるポチに乗っかってボクは言った。

 --ポチは幼稚園を知ってる? ケンガクなんてムズカシいことを知ってるんだから、きっと知ってるんでしょ?

「幼稚園のことはよく知らないのである。賢学は我が輩の最高峰の書物バイブルであり、生き方そのものなのである。そして、我が輩は賢学以外のことを知る気はないのである」

 そう言ってポチは、大きなあくびをした。

 --どうしてさ。ポチも幼稚園に行こうよ。

「賢学において世界というモノは、たくさんの1なのである。お主という1。我が輩という1。たくさんの1にあふれているのである。その1の中でも、お主のように幼稚園に行くことのできる1もあれば。我が輩のように食う寝る動くしかしない1もあるのである。我が輩とお主では、1としてのあり方というモノが違うのである。だから我が輩は己の行くことのできない世界を知る気はさらさらないのである」

 ふむふむ……? よくわからない。

 --どうして1なの? セカイってなあに?

「1とは個としての区別をしてくれるものであり、同時に我が輩の原始的発声法においてもっとも発音のしやすい素晴らしい数字なのである」ポチは、ワン! って言った。「そして世界とは、個々の1が視覚するものである。我が輩が見るものと、お主が見ているものが世界。環境の違い、種の違い、さまざまな要因によって、すべての1が持つ世界の認識は異なっているのである」

 --むむむ?

「まあ、だから我が輩とお主では、住んでいる世界が違うということである。しかしながら、わが輩やお主の世界がなにもかもが異なっているわけではない。いくつかは似ている部分はあるのである。その最も相似していることはすべての1が、みな0に向かっているということである」

 --0って?

「簡単に言ってしまえば “死” であるな。我が輩が二度とワンともクウンとも言えなくなれば、それが我が輩という存在の消滅であり、つまり……0なのである」

 --ポチが0になっちゃうと、こうしてお話しできなくなっちゃうの?

「まあ、そうなるのである」

 --うぅ、そんなのイヤだよお……。ポチともっとお話ししたい……。

 ポチと二度と遊べないと思うと、急に目のあたりがあつくなってきて、いっぱい涙がこぼれちゃった。最近は泣かないようにしてたのに。

「こ、こら。まだまだ先のことである! ええい泣くでない! ほれ、ペロペロー」

 ポチの温かい舌べらが、僕のほっぺたに当たった。ポチが舐めてくれると、なんだかお母さんになでてもらってるみたいに気持ちがいい。

 --ぇぐっ……。ポチ、0にならない?

「とうぶんなることはないから安心するのである。それに我が輩が0になるときは、一生分ワンと言ってからだと決めているのである。我が輩がうるさく吠えてるときは、別れの挨拶だとでも思っておけばいいのである」

 ぜっっったい、ダメだからね! ポチはずっといるの!

「わかった。わかったのである。むう……。そ、そんなことより、」ポチが目をうろうろさせながら言った。「いい加減我が輩の名前をちゃんと覚えるのである!」

 むむ、これはワダイテンカンとかいうやつ。仕方ないなあ。

 --だってポチの名前長くてムズカシいもん。まだちゃんとしゃべれないからしょうがないじゃない。

 --もっと大きくなって、お父さんやお母さんみたいにちゃんとしゃべれるようになったら言うよ。

「むう……。そうであるか」

 どうしたのポチ?

「なんでもないのである。ちゃんと覚えておくのであるぞ」

 心配性だなあ。ボクはなんだって忘れることはないよ。忘れたら忘れたってわかるもん。

「ふつうは忘れたことも忘れるのであるが……まあ良い。楽しみにしておくのである」

 ポチはクゥンって言って、眠ってしまった。





 覚醒と同時に、がばっと跳ねるように起きあがった。

 いつのまにか眠ってしまっていたらしい。少しぼやけた視界で自分が居間にいることを確認する。もうすでに日が落ちたのか、部屋には電気がついている。

「よくそんな姿勢で眠れたな」

 俺の隣のイスには、いつのまにか親父がいた。ビンからグラスになみなみとビールを注ぎながら、ただいまと言った。俺は反射的におかえりと、かすれた声で言う。

 すでに親父の顔は少し赤く。空のビンが1本テーブルに置かれていることから、今注いでいるのは2本目のビールだとわかり、首を傾げる。親父は酒が強いわけでもないし、ビールは一日1本をゆっくり飲むと決めている人だった。

「ポチ、死んだんだな」

 そう言って、親父はグラスに口をつけた。

 ああ。と、思い出す。テーブルの真ん中にはしっかりと、ポチの骨が納められた容器が置かれていた。

 俺はその容器を見つめながら、なあ親父、と訊いた。

「どうして、犬なんか飼ったんだ?」

 親父は、しばらくなにも言わなかった。静かな部屋の中で、ビールを飲む音が少し大げさにきこえた気がした。

「お前は、子どもが生まれたら犬を飼いなさいって知ってるか?」

 親父の言葉に、俺は首を振る。

「そうか。昔、死んだ俺のお袋……お前のおばあちゃんが、お前が生まれたときによく口にしてたんだ」

 親父はグラスのビールを飲みきって、2本目のビンをすべてグラスに空けながら言った。

「子供が生まれたら犬を飼いなさい。子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう--」


「そして子供が大きくなった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう」



 親父は、空のグラスやビール瓶を片づけてから、早く寝ろよと言って、居間から出て行った。

 深い沈黙が、部屋の中に降りる。俺はただ黙って、ポチの骨の入った容器を見つめ続けた。

 あいつはいつもなにを思っていただろう。俺がすっかりあいつのことを忘れて、受験だとか、友人のことだとかで頭が一杯だったとき。あいつが俺の手を舐めて、俺が拒絶したとき。なにを思っていただろう。

 たくさんひどいことをしてしまった。あいつは何でも知ってたのに、俺はあいつのことを忘れてしまった。今さらになって気づいても、もう取り返しはつかない。あんなにも近くに住んでいたのに、俺たちはどうしようもなく別の世界で生きていた。幼かったときは、まだあいつの近くにいられたのに。

 だから--

 だからあの、一番心が通い合っていたときにした約束を--、

「アンドリュー……ワンダスキー……三世……」

 口をついてから、ふと笑いが漏れた。やっぱり、長いよ。毛むくじゃら。

 ああ、もう頬を拭ってくれるやつがいない。だから、今日からは自分で拭わないと。

 あいつは先に0になったけど、でもあいつが言っていた0なんて間違ってるかもしれない。誰も死んだあとのことなんてわからないんだ。

 だから俺は、あいつに届くと願いながら明日の朝、一杯の水と、一皿のペディグリーを用意しようと思う。


fin.

幼いころは、「この世界は多くの不思議に満ちている」という考えが当たり前だった。いつしかその不思議たちは社会の常識に塗りつぶされ、忘れ去られてしまう。でもきっと、ふと誰かとの思い出を見つめ直したとき、蘇るんです。たくさんの不思議の中で生きていた自分に。

そんな感じの想いを持って書いてみました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] アンドリュー・ワンダスキー三世のキャラクターには笑わせてもらいました。名前のインパクトだけではなく、ポチという名前を拒絶したり兄ではないと明言したりと名前負けしない気高さを感じました。 ま…
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