第1節 第46話 Night flight
生物階に降下した32柱の陰陽階の武型神は、解階の住民の更なる侵入に備えると同時に感染した人間を隔離し、あるいは手にかけねばならなかった。
感染者は解階の住民の場合僅か数分、人間の場合およそ半日の潜伏期間を経て唐突に自我と理性を失い、無意識的かつ発作的な破壊活動に転じる。
周囲にいる人間は感染者に殺されるか、逃げおおせたとしても半日後には感染し、同じ行動を取るようになる。
感染者は摂食本能が阻害されているが、解階側から提供されたデータによると一週間は不眠不休で活動を続けるのだそうだ。
そして遂には力尽き息たえる。
生物階での人間の感染者が死亡したケースはまだ一例もない。
しかし一週間後、死者数は膨大な数となってしまっているだろう。
ちなみに死体から感染したケースはなく、生きた感染者からのみ感染するのだそうだ。
そして感染は人間だけに留まらない。
わけても野性の鳥獣への感染と鳥獣から人間への二次、三次感染は深刻だった。
鳥は国境を知らないのだから――。
″Entropy Elevation!+20, +50, +100 area full coverage!! Operation!″
(エントロピー増大、+20, +50, +100、エリア全適用、開始)
鈴を振るような美しい声で高らかに、祝詞のように唱えられるコマンドが終わると共に、エントロピーの増大に耐えられず頭部を残して内臓を破壊され心肺停止となる感染者達。
死体へと転じた彼らを片っ端から黒衣を着た死神の使徒達が記憶を回収してゆく。
頭部がなければ記憶が回収できずEVEに入れないので、女神は最期の慈悲としてわざと頭部を傷つけない。
「こんなに忙しいのは、第二次大戦以来でございまして」
フードを目深に被った死神下の使徒達が愚痴を言う。
いの一番に死者の傍らに駆け付ける彼らは感染者の殲滅を任務とする武型神について回って死者を捜す手間を省いている。
「神が率先して罪なき命を殺戮しているとは、恐ろしい事です」
陽階枢軸神 第10位、熱力学を司る武型の女神、ナターシャ=サンドラは人の目にも触れぬ上空で、白く清らかなレースのような聖衣をたなびかせながら、起動すれば500kgにもなる鉄槌型神具 エントロピー・マキシマイゼーションを細腕で軽々と振り回し着々と仕事をこなしてゆく。
清楚で可憐な彼女は寡黙で、動じる事なく淡々と任務をこなし、神の炎をもって穢された者達を洗い清め死の安息を与える。
感染者を焼き払いながらも彼女の聖印を丁寧に切り送り、死者達に哀悼の意を示す事を忘れない礼儀正しく真摯な陽階神だ。
「せめて死後は、よい処に逝かせてあげて下さい」
「それはもちろんで」
しかし人の行き着く死後の世界、EVEも容量が不足しはじめたとのこと。
織図は毎年年度ごとの推定死者数を算出し、記憶を収容できるギリギリしかメモリを増設していない。
このままのペースで死者が増えようものならEVEはパンクしてしまうだろう。
犠牲者に死後の安息すら与えさせないのかとナターシャは嘆きつつも、惨禍のスパイラルに落ち込んでいっているような気がしてならなかった。
死と暴力の連鎖を、一体誰が止められる?
*
夜も8時になって今日の作業を終え、16時間反応の待ち時間になった。
これまでのところ、期待どおりの中間体が合成されているように思える。
比企は泊り込みで反応を見ているから研究室の皆は家に帰って休むといいと彼等を労わった。
比企は実のところ、ひとりになりたかった。
宿などとっていなかったし、眠る必要もない体だ。
この研究室で朝まで寝ずの番をしていて不都合は何もないし、誰もいない方がかえってGL-ネットワークに接続しやすい。
それなのにこの空気を読まないメンバーはこんな時間から歓迎会をやろうとしているのだ。
「新しいメンバーも増えたし、歓迎会をやるぞ! 比企さんもどうせ反応見ていてもこの段階では何も変わる訳じゃなし、飲みに行きましょう!」
教授が思いつきで、そんな事を言いはじめた。
今日の今日、という話なのでバイトなどの予定がある学生は参加できないと言ったが、10人は参加できそうだ。
相模原は大学の近くで、この非常時でも営業している飲み屋をホットペッパーで探して電話をかけ、席の予約を取りコースまで注文してしまっていた。
「気持ちは有難いが、己は酒を飲めない。自粛させてほしい」
酒を飲めないというのは、方便だ。
使徒は飲酒をすれば酔うが、神はアルコールや薬物は一切効かない神体を持っている。
薬物や化学物質に干渉されないというメリットこそが神体の安定性を保ち、長寿を可能としているのだ。
「えー、比企君お酒弱いのー? ノンアルもあるよー」
長瀬は身を乗り出して比企をからかう。
「飲み会は酔う為にやるものではないです」
「では何のためにするんだ?」
「親睦を深めるためじゃないですか?」
アルコールにめっぽう弱い松林がもっともらしく言う。
その必要はない。とは言えなかった。
比企はわずらわしい係わり合いなど億劫だし苦手でもあるが、チームワークを欠いては研究室は動かない。
比企への遠慮や疑いを取り除いておかなければ、仕事に影響してくる。
仕方なく比企は相模原らに連れられて近くの焼酎の美味いらしい飲み屋に徒歩で出かけた。
疲れていたからかメンバーはすぐにほろ酔い加減となり、酒が潤滑油となって話も弾んで普段クールな松林はすっかり酔っ払って学部生に絡み酒をしている。
長瀬は既にベロンベロンになって、セクハラトークが思い思いの場所で始まっていた。
騒々しい事この上ないな、と居心地の悪さを再認識しながら、比企は面倒なので教授の話の聞き役に徹していた。
しかしそれで許してはもらえない。
「そろそろ白状してもいいんじゃないかね? あなたは誰なんだね。たまたま地球を通りかかった、通りすがりの宇宙人じゃないんだろう?」
相模原教授はかなりのペースで飲んでいるが、ほんの少し鼻の頭が赤くなっただけだ。
院生に適当なものを頼まれて、比企もわけのわからないラインナップで焼酎や泡盛を飲まされたが、顔色は青白いだけで変化がない。
今日は教授のおごりだというので、学生達は容赦なく焼酎やビール、酎ハイを怒涛の勢いで頼んでいる。
教授は手加減というものを知らない彼等の為に20万もおろしてきたが、4000円の食べ放題、飲み放題をつけておいてよかったと胸をなでおろす。
「相模原教授。一つ、主観的でかつ個人的な意見を訊かせてくれ。……時間をかけて考えたが、答えが出せなかった問題がある」
「私いち個人の意見として、でよいのかね?」
「それでいい。何もあなたを人間代表だとは思っておらん」
相模原が頷いたので、比企は目を細めた。
そして比企には答えが出せなかったあの命題を投げかける。
何度も荻号に問いかけて結局答えなど出なかった問題。
そして比企自身が悩みぬいて解決できなかった数少ない命題の一つ。
「人間はまだ、神を必要としているだろうか?」
相模原はやはり、彼は神だったのだと確信した。
ただ神という責任ある名を名乗ることが、彼自身にも正しい事なのか判断できていないのだろう。
人が求めるから神は神として振舞う。
神あっての人なのか人が神を生み出したのか、もはや比企には分からなくなっていた。
相模原は彼を救うために、ほんの少し酒の力に頼った。
「……さあ、それは心の問題ですからな。神を信じるも信じないも。我々はあなた方に感謝をしている。どういう事情か知らんが、神を演ずる必要などないんじゃないか?」
ひとりでしっぽりと日本酒をあおる教授のおちょこに、比企は熱燗の日本酒を注ぐと、教授がたこわさを彼に勧めた。
「なるほど。貴重な意見だ……」
比企は長く心の奥につかえていたしこりが、喉に引っかかって取れなかった小骨が取れたように清々しい気分になった。
神が人間の評価を気にしているほどに、人は神の真贋を求めはしない。
いてもいなくても、どっちでもいい。
人々は信じたいように信じる。
その答えを直接人間の口から聞く事ができただけでよかった、まだ神が存在する余地はあるのではないかと思った。
「あー、また比企君が難しい話してるー! はい、席チェーンジ! 席替えターイム!」
「バカ! サンをつけろ! もー、この酔っ払い外連れ出してくれるー?」
長瀬は比企が気に入ってしまったらしい。
築地は海外でカンガルーと暮らしつつ日本への帰還を夢見るシゲルが、長瀬に見捨てられてしまわないかと心配でならない。
「ではー、宴もたけなわですが! 比企君には錯体研恒例のきき酒をやってもらいまーす! はい! この焼酎ロック飲んで! 大ヒント! 芋です!」
酔っ払った長瀬はどうしても比企に絡みたがる。
酔っ払い長瀬を生真面目で冗談の通じなさそうな比企に近づけてはだめだと、院生達は長瀬を教授の隣の席に通さないようバリケードを張っている。
比企は手にしていた焼酎のにおいを嗅いで、成分分析を始めた。
「ゲラニルゲラニオール、α-テルピネオール、ネロール、こんな成分が旨いのか?」
「誰が成分分析をしろって言ったのー? 産地と銘柄を当ててもらわなきゃ」
日本にきたばかりの宇宙人がきき酒できるわけないだろ、そう思った錯体研一同である。
ちなみに真面目に答えた比企は真面目に答えた罰として、もう一杯飲まされる羽目になった。
「アルハラって知ってる?」
築地が長瀬に尋ねたが、長瀬はくたばっていた。
*
吉川 皐月は、ようやく帰る支度をしてリュックを背負い、静まり返った校舎を歩いていた。
教室の鉢植えに水をやり、クラスで飼育しているメダカの世話をやく。
外出差し控え令が発令され部活動は明るい午前中までに終えるようにと広岡市教育委員会からの通達があり、校内は職員室に数人の教員がいるほかは実に閑散としていた。
実は小心者の皐月は職員室からたった2階上の教室に行くだけでも怖くなってしまうほど、誰もいない校舎が苦手だ。
足音がやけに響き渡るし、物陰を覗き込むのですら怖い。
風岳小学校の教員は、休み中に海外旅行に出掛けた児童達の安否を確認するため夕方まで残って、時間外で働いていた。
教室のドアは先日と同じく固く閉ざされている。
”誰もいないようね。特にお化けとか”
ほっとして教室に入ると教壇の上に誰かが俯せになって寝ている。
顔は伏せていて見えないが、小学校の教室に似合わぬ大きなシルエットから、皐月にはそれが誰なのかすぐにわかった。
ユージーンはうたた寝をしているのか、皐月の接近に気付く様子もない。
皐月はあっと小さく叫びそうになったが口を押さえて、起こすのを躊躇い、予定通りメダカの世話をはじめた。
目を覚ませば、きっと自分はまたあれこれ問い質そうとする。
彼は困惑して何も話してはくれないだろう。
少し不器用な彼の事だから、嘘をついて皐月を傷つけたくないと口走りながら、また言葉に詰まって逃げてしまいかねない。
ならば今はこうして同じ空気の中にいるだけでいい。
机の上には、採点された算数と理科のプリントが載っていた。
皐月はメダカの水槽をいつもより丁寧に洗い、鉢植えにたっぷりと水をやって、いらなくなった掲示物を剥がしたがそれ以上に時間は潰せず結局窓際の席に腰掛けて、すやすやと眠りこけているユージーンを見つめる。
誰もいないとわかりきっている、黄昏の教室。人目を避けるように、何を思ってここに来たのか……。
どこにも逃げ場がないのだろうな、と皐月は思う。
孤独になりたくて来たのか、あるいは教師だった頃を懐かしんだのか。
じっと観察しているのも気の毒だと考え、彼女は立ち上がって教室の後ろの扉に手をかけた。
「吉川先生」
背後から声が聞こえた。
ふたりきりの教室で呼び声はやけに大きく聞こえる。
皐月は予想外の呼び掛けに驚き、小さく飛び上がった。
起こすつもりは微塵もなかったからだ。
「もう! 驚かさないで下さい! 起きていらしたんですか」
皐月はそんな言葉とは裏腹に嬉しさを隠し切れない顔で振り返ったのだが、その瞬間に吹き出してしまった。
彼の額には俯せになっていてバッチリついたらしい、袖のカフスボタンの跡があった。
「何です?」
「おでこに寝あとがついてますよ。それと寝癖、本当に寝てたんですね」
「お恥ずかしい」
彼は顔を赤らめつつ体裁が悪そうに額をさすっている。
「では、私はこれで」
「吉川先生、申し訳ありません。教師の仕事、あなたに押し付けて」
ここに居残らずにさっさと帰らなきゃ、皐月はそう自らに言い聞かせる。
でないと、私はまたこの人を困らせる質問ばかりする。
皐月は昂ぶりそうになる心を鎮めて愛想笑いをした。
「いいんですよ。帰ってきたら、しっかり働いていただきますからね」
皐月は冗談めかしてそう言うと、今度こそ逃げるように教室を出て行こうと思った。
少し会わなかっただけなのに、何とぎこちなくよそよそしい態度だろう。
しかし彼女にもどうすることもできない。
振り返って直視すれば、彼は必ず心を読もうとする。決して読まれてはならない感情が、胸の中を定まらない潮目のようにたゆたっていた。
「で、では」
「吉川先生。よろしければ夕食ご一緒しませんか?」
どうしていつも他人行儀でつれない態度なのに、今日に限って誘うのだろう。
皐月は彼との距離感が掴めずにいる。
「ご馳走します、ご迷惑をかけっぱなしでしたから」
彼がここにいた理由は、ただ時間を持て余していたからだ。
ノーボディはユージーンの提案を飲んだ。
滅亡を目前に、生きる権利を不当に剥奪される解階の住民を生物階に受け入れる事は、やはり彼の意思にかなっていた。
しかし生物階の星々と解階の星々を同一空間にちりばめてしまえば、瞬間移動などによって地球と解階の星々が往来できてしまう。
感染がひと段落し沈静化するまでの間、生物階と解階の星々を物理学的に隔離しておいた方がよいという考えで、地球と解階の星々の間に転移不可能な障害を作っておくべきだと彼は述べた。
ノーボディが生物階に解階の星々が移転するためのスペースを確保し、地球を安全な障壁で保護するまでの数時間、ユージーンには少しだけ時間があったが、時間が空いたからといってのこのこ神階に戻る訳にはいかなかった。
ユージーンの携帯には、彼が解階に行っている間にサーバーにごっそりと溜まっていたメールが続々と送信されてきて、神階と生物階での出来事が詳細に把握できる。
神階はユージーンの帰還を強く要請していた。
神階に戻ればおそらく直ちに拘束され血液を限界まで搾り取られ、その後は執務室に軟禁され毎日のように治癒血を搾られる事になるのだろう。
あの生まれたばかりのレイアでさえ、一日300mlも搾られているそうなので、成神のユージーンがどうなるかは目に見えている。
この非常事態に際し元薬神の比企が生物階に降下し治癒血の数種の成分を合成しているそうだが、レプリカが完成し承認されるまでの間に本物で合わせというわけだ。
生物階の要人に感染した際に備え、治癒血を蓄えておくためだ。
例えば国家元首が感染をしてしまった場合、その国の中枢機能はまるごと麻痺してしまう。
神階は生物階の混乱を避ける為にも直ちに治癒を図らねばならなかった。
その為にユージーンとレイアの血液を備蓄するのだそうだ。
その決定に関して文句はないが、それでは解階で助けを待つアルシエルとの約束を果たせない。先に解階に戻らなければ……。
とにかくユージーンはただノーボディを待つだけの待ち時間を有意義に過ごす方法として、皐月への日ごろの罪ほろぼしをしておこうと考えたわけだ。
職員達誰にも見つからないまま下足場を通り校庭に出て、ユージーンは皐月に何が食べたいのかを訊ねる。
それだけ見ればどこにでもある、仕事上がりの風景だ。
「何が食べたいですか?」
「ラーメン! 絶対ラーメンです! すごく食べたかったんです」
「ラーメンでいいんですか? どこかおいしい店をご存知ですか?」
ユージーンはどんなにオプションや餃子などのサイドメニューを付けても安く済んでしまうラーメン屋を提案されて、何となくご馳走し甲斐がなかった。
もっと高いものを頼んでくれると助かるのだが……これではツケがチャラにならない。
彼女には休職中、迷惑をかけてしまった。
「ラーメンがいいんです。出来れば、広岡駅前の麺葦堂の……でも、遠いので……」
「そのおいしいお店に行きましょうか、折角ですし。荷物はありますね?」
皐月は帰り支度をして、小洒落たリュックを背負ったままだ。
「もう上りの電車、ありませんけど、どうやって行きます?」
「吉川先生って、たしか高いところ得意でしたよね」
彼は皐月の同意も聞かず、背を向けたまま右手で彼女の右手首を取って、左手で左手首を取り皐月をストールを纏うように柔らかく背負うと軽く地を蹴り、長くなって纏わり付いていた影と別れ、綿毛のように夜空に舞いあがった。
皐月は彼の背中全体で支えられながら、いつか空を飛んでみたいと話したのを覚えてくれていたのかと感動を噛み締める。
ユージーンは学校では力を使わないと約束していたが、今は夏休みだし時間外だ。
まだ誰の目にも触れていない。
「力を抜いて、楽にしてて下さいね」
「広岡駅前まで行くんですか?」
ひょんなことから一気に近づいた彼との距離に、皐月は少々戸惑いを感じている。
見る見るうちに村が小さくなり、高度一千メートルの軌道に落ち着いた。
高度が上がり気温が下がって、熱帯夜でも上空はひんやりとする。
風速は15mほど、対地速度は40km/h。心地よい風と、浮遊感、そして彼の体温。
「風になったみたいです」
「あっという間ですよ」
「星が……きれいですね」
皐月は全天の宇宙を感じながら背にしっかりと乗せられて、熱帯夜の空を飛んでいる。
最高の場所に、最高のひとと二人きりという夢のようなシチュエーションだが、好きになってしまったら勘違いだ、と彼女は羽根のように軽くなってしまいそうな心を戒める。
このひとを好きになってはいけない、彼はたまたま時間ができて、私に駅前のラーメンをおごりたい気分になっただけ、他意はないんだわ。
そう思うと切なくなる。
彼を想う心がどういう感情に分類されるものなのか、神を敬愛する気持ちなのか、ひとりの男性として好きなのか。
皐月にも簡単には解けそうにない問題だった。
そしてどれだけ片思いをしても、彼はそれに応えられないし、間違いすらも起こす事ができない身体なのだ。
憐れんではならないと思うが、彼は二百年近くも恋をしたことがない。
愛情なるものは、神には永遠に理解できない感情だそうだ。
皐月が気持ちを伝えても困らせるだけなら、伝えないほうがいいに決まっている。
「先生、ありがとうございます」
「これは日頃からご迷惑をおかけしているお詫びでして。お詫びその一にしましょう、これじゃいくらなんでも安すぎます」
皐月はたかがラーメンと悪びれる彼を微笑ましく思いながら、彼の背に身を寄せた。
鼓動を知らない神体に、皐月の鼓動を伝えるかのように。
「夢みたいです……。今日の事、一生忘れません」
「そんな大袈裟な。ラーメンぐらいで」
皐月は、大袈裟なんかじゃない、と背中ごしに静かに首を振った。
彼にとっては些細なことでも皐月にとっては大事件だ。
そして彼女は悟った。
やはり彼とこれから何年、何十年過ごしてもこの関係は変えられない。
皐月は彼にとってかなり年下の同僚であり、友達でしかない……。
「私は、忘れませんから……。あなたの背から見た満天の星空を。この特別な風を、そして神様の視線から見た地上の星を。あなたはとても長生きだから、一生覚えていてとは言えません。でもあと100年ぐらいは覚えていてくれたらと思います。私がおばあちゃんになって、命を終える時まで」
それを聞いたユージーンは、皐月の言葉が身にしみて心苦しくなる。
”吉川先生。わたしは100年を待たずして、あなたより先に逝くでしょう”
ユージーンは背中の皐月に、届かない言葉を心の内で投げかけた。
”わたしはあなたより先に逝くけれどこの世界の大気となって姿を失っても、あなたや人々の行く背をそっと押すぐらいならできるかもしれません。風を感じたその時は、ほんの少しだけあなたも思い出して下さい……”
感傷というのだろうか、皐月にそんなことを想った。
優しく穏やかな時間が流れている。
様々なしがらみに雁字搦めになっていた彼は、皐月がたとえ一瞬だけでも平穏な日常を取り戻して、癒されたと感じた。
ユージーンは彼女のおかげで幸福な気持ちになれた、こんな気持ちは初めてかもしれない。
「絶対に忘れません、吉川先生。あなたのこと……はっ!?」
ユージーンは上空から稲妻のような殺気を感じ、反射的に腕を背中に回して皐月が落ちないよう庇いながらG-CAMを抜き、見えない敵を迎え撃った。
振り向きざまに上空から降り注いでくる攻撃を受け止め、G-CAMは金属音とともに火花を散らす。
敵の得物は金属製だ、今はそれだけの情報しかない。
「貴様。神だな……」
ユージーンは暗い夜空の奥から姿を現した、真っ黒なボディースーツを着た男を見て、特徴的な装いからすぐにそれが解階の住民である事に気付いた。
それも高い知性と身体能力を持つ、特権階級の貴族だとみえる。
彼の顔はフルフェイスの黒いマスクを被っていて表情が窺えないが、感染している様子はなく彼は至って正気だ。
その証拠に言語で通じあい、ユージーンに殺気を向けて正確な攻撃を仕掛けてきている。
先ほどの攻撃は、全て背中にいる皐月にとって致命傷となりうるものばかりだった。
「我はバフォメット=ランセット。烏合の衆が大挙して生物階に押し寄せているようだが、貴様が一番歯ごたえがありそうなので来た。早速だが死んでいただく」
「……何故! 公爵家は女皇に忠誠を誓っている筈……」
彼は解階の由緒正しい公爵家の嫡男であり、解階の男性型貴族のうちでもずば抜けた実力を持つ。
表向きはアルシエルに忠誠を誓っているが、ルシファー=カエサルと共に過去何度もアルシエルの地位を脅かしてきた実力者として、アルシエルに万が一の事があればルシファーに続いて二位の皇位継承権を持っている。
遺伝子的には女性である筈の彼は、とても女性とは思えないほど筋骨隆々として怖ろしげで、皐月は殺戮者の姿に怯え、声を殺して背後で小さくなって震えている。
その小刻みな身体の震えは、ユージーンにも敏感に伝わっている。
皐月はユージーンの力を知らない。
殺されるのではないかとすら思っている。
彼女にどれほど恐怖を与えているか。
背中にいる皐月と眼下に広がる町村。何の縛りもない状態でバフォメットに遅れをとるとは考えられないが、今のユージーンには守るべきものが多すぎる。
不利な状況での戦闘は避けたい、だがいくら瞬間移動を繰り返して逃げたとしても、バフォメットほどの実力者が相手では姑息な手段は意味をなさない、すぐに追いつかれてしまう。
「よいでしょうバフォメット。相手になります。しかしこの女性を安全な場所に避難させるまで待って下さい。あなた方はフェアでない勝負は好まない、そうでしょう」
「神よ、貴様は暢気な奴だ。これは殺し合いだ。そして何れ人間にも消えてもらわねばならん……鴨が葱を背負った、それだけの話だろ?」
バフォメットは手にしていた巨大な銃剣、ツール「Burned Frog-Sticker(焼成された銃剣)」を掲げておどけるような仕草で一薙ぎすると、ツールは煉獄の炎を纏い熱風を村々に浴びせかけた、眼下に拡がる慎ましやかな家族団欒の灯が蝋燭の火を吹き消すように消えてゆく……。
皐月とユージーンは戦慄した。
たった一薙ぎで何十人、何百人の人間が傷つき吹き飛ばされ、家を失い或いは息絶えた。
そしてユージーンが感じていた神々のアトモスフィア、生物階に入っていた神の気配が一つまた一つとリアルタイムで消えてゆく。
彼等はユージーンと同じように解階の住民、それも貴族階級の者達に遭遇し惨殺されている!
バフォメットは悪びれるそぶりもない。
「100戸ぐらいは、消えたかもなあ」
「な……何ということを……罪なき者を! 誰がそんな事を強いている!」
ユージーンは強い語調で、誰がバフォメットを差し金にしたのかを問いただした。
しかしユージーンにはもう、問いかけながらも見当が付いている。
あの悪意に満ちた創世者は、どこまでその毒手を伸ばしてくるのか。
「昔いまし、今いまし、永遠にして不滅の存在だ……。生物階を滅ぼし、傲慢なる神々を滅せよ。さすれば解階は元通りになる……。生物階や神階を支配する、無慈悲なる創世者が解階に破滅を齎そうとしている、ならば我は解階を守らねばならん」
ブラインド・ウォッチメイカーに騙されている。
神々の言葉には耳を貸すなと吹き込まれているに違いない。
いや、どっちだ? どちらが騙されている?
不意に脳裏に浮かんだ考えを、ユージーンは必死に否定した。ノーボディを信じるしかない。
西暦2007年 8月3日。
聖書に黙示録として予言された神階と解階の最終戦争が、生物階50億人の人間、動植物を総人質としてここに始まったのだ――。
ユージーンはただ利用されているだけのバフォメットに強制マインドコントロールを施そうと試みた。
しかしブラインド・ウォッチメイカーの天啓はよほど強いらしく、ユージーンの力では記憶を書き換える事ができない。
更に頑としてマインドコントロールを受け付けないファクターが介在している。
それは、ブラインド・ウォッチメイカーに対する信仰心だ。
信仰心という要素は厄介だと、神であるユージーンは痛いほどに知っていた。
信仰心にのみ支えられ、有史以来どれだけの殉教者が死の恐怖に耐えたというのだろう。
信仰心は何をも超越する。
バフォメットを救う事は出来ないのか、ユージーンは思いつめる。
彼とて守るべき物の為に戦っている、ノーボディをこそ悪の創世者と信じて!
「さあ、神よ。もう時間はやらんぞ。運がわるかったな。少しは楽しませてくれ。ああ、それから……一つ訊いておかなくてはな。コウという神を知らぬか?」
ブラインド・ウォッチメイカーは、藤堂恒を的にかけて解階の住民達に恒を捜させている。
抗-ABNT抗体である藤堂恒を絶対不及者が現れないうちに殺し無駄に抗体を消費しておけば、ノーボディの計略が丸崩れとなるからだ。
ユージーン=マズロー、藤堂 恒、そしてノーボディ、この三者は三位一体の関係で結ばれている。
どれ一つとして崩れてもブラインド・ウォッチメイカーに、あるいはINVISIBLEに剋つ事はできない。
コウという名を聞いたユージーンの目の色が、文字通り変わった。
「残念だが運が悪かったのは、お前の方だ」
ユージーンは禁視を開眼し、にべもなく冷たくそう言い放った。
皐月は彼の背後で目を閉じて震えている事しかできなかったが、ユージーンは凄んで見たもののその場からぴくりとも動こうとはしない。
なのに辺りはしんと不気味に静まり返ったままだ。
どこからともなく、救急車や消防車、警察が被害現場に駆けつけるサイレンが聞こえた。
皐月はどうなったのかと恐る恐る、目を開き肩ごしに目の前の光景を確認しようとする。
”先生……”
囁くように、縋るようにそっと呼びかける。
G-CAMはバフォメットの頚部の脆弱な筋肉の隙間を貫いて、喉を串刺しにしていた。
血が滴って、G-CAMの先端から遥か地上へと赤黒い雫がこぼれ落ちている。
皐月は思わず悲鳴を上げてしまった。
「ひっ! ……し、し、死んでる?!」
この冷徹さ……彼は本当にユージーンなのだろうか、皐月は驚愕して彼にかける言葉が見つからない。
あの優しげだったユージーンが豹変して……いとも簡単に殺人を!
ユージーンは首筋にしがみつく皐月の腕に力が入ったことに気付く。
彼女の心拍数は恐怖からか高まってゆく。
「ごめんなさい吉川先生」
「先生……まるで別人みたいです」
「わたしは軍神です。ずっと、こういうことをしてきました」
ブラインド・ウォッチメイカーに洗脳されたバフォメット=ランセットを殺した……これで解階の住民の反感を買い、全面戦争は避けられなくなっている。
最悪の事態に陥らないよう、努めてきたつもりだったのに……軍神は悔しそうに唇をかみ締めた。
これはもう、ラーメンどころの騒ぎではない。