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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第45話  Laboratory with aliens

 議場を出て少し辺りを見回しただけで、その姿を捜さなくとも以御は目立っていた。


 使徒は概して神より平均身長が高いものらしく、退場してゆく第二種公務員の神々の中でも頭ひとつ飛び出している。

 迷子になど生まれてこのかた経験したこともない恒にとって、以御の身長の高さはよい目印になった。

 会議は全体で4時間ほどで終わった。

 部門別委員会の24時間耐久レースのような会議の長さとは違い、生物階への一刻も早い対処が望まれ延々と会議をして感染の拡大を手をこまねいている訳にはいかないということらしい。


「会議は有意義だったか?」

「はい、傍聴させていただいてよかったです」


 貴重なデータを見て話を聞けただけでも収穫はあったと恒は満足だ。

 それに極陽を遠目からでも見ることができた。

 また、比企の自己を省みない姿勢には少々ぐっときた。


 最後に比企と目が合ってしまったが、比企の目には力が漲っている、

 彼ならば真剣に生物階を救ってくれるのではないかという気がした。

 ユージーンと荻号が主神として生物階と神階を牽引してゆくに相応しいと信頼した神だ、信頼しよう、と恒も思った。


「何か有効な方策が?」

「決定的ではありませんが、希望の持てる議案が採決されていました」

「よう! まだいたな」


 織図が以御の姿を見つけて、いつもの軽さでへらりと手を振りながらやってきた。

 万年黒衣の織図が、儀式用の白衣を着ているのも珍しい姿だった。

 恒は他者ばかりの世界で気をつかう中、慣れ親しんだ織図の姿をようやく見つけてほっとする。

 織図はやはり神階ではそこそこ権力者らしく、第二種公務員達が織図に深く頭を下げながら脇を通り過ぎてゆく。


「手続きは以御にやってもらったか? ん?」

「はい、陰階神に登録されそうになりましたけど」

「マジ! で、陽階神なんだろ?」

「以御さんが係りの公務員に凄んでましたので」


 以御が凄んでくれたからこそ陽階神として登録する事ができたというものだ。

 織図は恒が陽階神として登録されるものと信じて疑わなかったため、少し揉めていたと聞いて心配そうだった。


「さすが以御、怖えなぁ。で、これからお前らどこ行くんだ?」

「執務室にお連れしようと思っておりますが」

「織図さんはどこに?」

「俺は下に降りてあのガサツなお嬢様の様子でも見に行ってやるかなあ。じゃ、後はいいようにしてやってくれよ、以御。恒も夕方には家に帰れよ、志帆梨母ちゃんが心配するぞ」

「よろしくお願いします、俺はお見舞い、行けないので……」


 行きたいが、感染する可能性があって行けなかった。

 メファイストフェレスの容態を見舞うのができるのは織図だけだ。織図は解階の住民達の再度、再三の侵入に備えて、生物階に常駐するよう命じられているそうだ。

 他にも攻撃的神具を持つAAの神々数十柱が生物階に入る。

 アルシエルと極陽は連絡を取り合い、非常時なので20柱という神の生物階降下の定員を増やしてほしいと要請し、アルシエルもこれを快諾した。

 アルシエルは解階の全ゲートを封鎖し、違法ゲートを摘発している途中だという。

 アルシエルのもとに行ったユージーンがうまく交渉してくれたのかな、ということはユージーンはまだ元気なのだろうな、恒は推測する。


 そんな事を考えているうちエレベーターが目的のフロアについて、恒は以御に連れられて枢軸位執務棟の11290階、軍神のフロアに入った。

 ここには3万名の使徒が働いているそうだ。

 白衣を着た者は誰の目にもすぐに神だと分かるので、廊下をすれ違う使徒達は白衣を着た恒を見てひとまず畏まってお辞儀をしたが、通り過ぎると誰だ、誰だと口々に言い合っていた。

 少年神が白衣を着て陽階を闊歩しているのは異様な姿なのだそうだ、恒が首にかけている認証プレートが一枚なければ、すぐにアカデミー送りにされてしまう。

 確かに恒はまだここにきてからというもの、使徒を含め子供とは一度もすれ違っていない。


 子供がいない社会なのかと思いきや、子供は別の場所に隔離、監禁されているのだそうだ。

 現在アカデミーに入学している神々には悪いが、恒は特別にアカデミー入学を免除してもらってありがたい。


「珍しがられるだろうが、堂々としているといい。あなたは合法的に陽階にいるんだ」


 以御はそう言いながら、長い廊下の果てに見えた執務室の扉を開けた。

 恒は中に入って、そのあまりの広さに目が飛び出そうになった。

 間取りが違うからか、荻号のアンティークな執務室より格段に広いし豪華だ。

 陽階神と陰階神は待遇が違うのだろうか。


「軍神の執務室は40部屋……いくつだったか忘れたが、百ヘクタールはある。使徒の執務するオフィス部分とは別だ」

「ユージーンさん、社務所では4畳一間で暮らしてたのに。それに荻号さんの部屋より広いです」

「いや、フロアの広さは陰階でも同じだぞ。違う目的に使っているんだろう」


 慎ましやかにひっそりと神社の隣で暮らしていた彼は、天上に大豪邸を持っていたということだ。

 金欠気味の非常勤講師の姿はかりそめのものだったのだろう。


「会議室やホール、トレーニングルームなども含めて40部屋だ。使っていない部屋もある」

「全部ユージーンさんの部屋ですか?」

「名義上はな。俺も二間借りてる」


 恒は以御に案内されて、以御が用意してくれた部屋に通してくれた。

 部屋は100畳は軽くあって、大きなテーブルに、ソファー、書棚、広い展望浴室、ベッドはもちろん最新の端末、大画面超薄型テレビに冷蔵庫やオープンキッチン、庭付きな上にプールも付いている。

 大きな窓からは擬似陽光を取り入れた明るい採光が部屋を光で満たしている、むろん、冷暖房は完備だそうだ。

 セレブや石油王も真っ青のあまりの豪華さに、豪邸リポーターのように室内をぐるぐる回ってしまった。


「すごい、広いお部屋! スイートルームみたい! いいんですか、こんないい部屋に」

「どうせ使ってないんだ、構わんさ。ほら、ここの鍵とトレーニングルームは出入り自由だから。その鍵もつけとく。それからユージーンの執務室の鍵、資料室の鍵で全部だ」


 恒は鍵束を受け取ると、嬉しさのあまり広いベッドにダイブしてみた。

 立派なスプリングが入っているようで、ぼよんぼよんとよく弾む。

 実家の煎餅布団とは寝心地が違う。

 だがいくらこちらのベッドが寝心地がいいといっても、恒は実家に帰ると心に決めていた。

 昼寝用のベッドとして使うべきだろう。


「家事はするのか? 一応キッチンのある部屋にしたが……」

「家事できます。何か料理がしたくなっちゃいますね。母さん、このキッチン見たら羨ましがるだろうな」

「食事なら専属の者がいるが、口に合わなければ自炊してもよかろう」


 以御と恒は応接間に戻った。

 どうやらこの執務室専属のメイドがいるらしく、メイド服を着た若いメイドがコーヒーとケーキを持ってきて接待をしてくれた。

 ケーキのワゴンが出てきて、何個でも好きなものを選べという。

 ユージーンと以御は滅多に食事をしないので、専属シェフも暫く料理らしい料理を作る機会がなかったが、少年神がやってくると聞いたのでケーキぐらい食べるだろうと腕によりをかけて作ったのだそうだ。

 一流のパティシエが作ったような色とりどりのケーキに、見ているだけでよだれが出てくる。


「どうせあなたしか食わんのだから、今日の夜実家に帰るなら、土産に包んでもらうといい」

「以御さん食べないんですか? こんなにおいしそうなのに」

「無駄な食事は、贅肉のもとだ」

「ストイックなんですね」


 スタイルの維持と身だしなみは、陽階神の仕事の一部だという。

 恒も太りすぎると神体検査で不合格となり、クビになってしまうか陰階神に転階しなければならないらしいので、ケーキはあまりたくさんいただくのは我慢して、3個だけにしておいた。


”ユージーンさんたら、実はいい生活してたんだ”


 などと恒はイメージが変わってしまった。

 そりゃ、名誉もあるがこんな暮らしが生涯できるのなら第一種公務員を目指しもするわな、とも思う。

 そして自分も、すぐにではないがゆくゆくは第一種公務員になりたくもなる。


「その通り、陽階神として神階にとどまるのはとても厳しいことだ。少しずつ陽階神としての作法や、立ち居振る舞いを勉強していくといい」

「そうします」


 まあ要するに、ユージーンのようにしていればいいということだな、と恒は了解した。

 彼は物腰が柔らかく、言葉遣いが丁寧で、謙虚で温厚だ。

 あんな風にしていれば文句を言われないという事だろう。

 目移りしながらケーキを選んでいると、きつめのノックの音がして、以御の許可も聞かず書類を持った女が入ってきた。


「以御、今までどこにいたの」


 甘く聞き覚えのある声がして振り向くと、見覚えのある女が立っている。


「二岐さん!」


 荻号の部屋でティーセットを出してくれ、身の回りの世話をしてくれた二岐が何故か軍神の執務室にいる。

 久々に見た二岐は、ベージュのジャケットスーツを着ていたがスーツの襟に軍神の御璽をあしらったピンバッジをつけている。

 いかなる私服を着ていようと、使徒に必ず表示が義務付けられる所属神の御璽。

 それが紛れもなくユージーンの使徒だと証していた。

 宗旨替えをしたという事なのだろうか、それを見て恒は何となく切なくなってしまった。

 あれだけ荻号と夫婦漫才のようなやり取りをしていたのに、失踪した途端にユージーンに乗り換えなのかな、と。

 そうは言っても使徒は神の元でしか生きてゆけないのだ、主を失うと、新たな主を捜さなければならない。

 二岐も二岐で何か思うところなくユージーンに乗り換えたわけではないだろう。

 彼女も辛かったに違いないな、と恒は思いなおす。


「何だ? 知り合いか?」

「あら、久しぶり。神階に上がってきたの? よろしくね」

「今日、ユージーンさんの弟子として陽階神になりました。二岐さん、どうして?」

「うちの新しい第二使徒だ。態度がでかいったら」

「何よ、文句はもっと仕事ができるようになってから言いなさい。上司として認められないわ」


 これは冗談ではなく実際のところそうだった。

 以御より二岐の方が仕事ができるし業績もある。

 年齢も二岐の方がずっと上だ。二岐は勿論軍神の第一使徒の座を狙ってもよかった、だが神と第一使徒の関係は一朝一夕で築かれてきたものではないとよく心得ている。

 人事権のあるユージーンが就任以来一度も解任せずに手元に以御を置き続けてきたこと、これは以御に信頼を寄せていたという証拠だ。

 新参者がこの関係を崩してよい道理もない。

 二岐は一歩下がった場所から彼に伺候する事に決めた。

 しかし二岐が一つ不満なのは、第一使徒のみが神のアトモスフィアを直接受ける事ができるという点だった。

 第一使徒と第二使徒は決定的に待遇が違う。

 第二使徒以下の使徒には神が直接アトモスフィアを与えられることはなく、アトモスフィアの希釈液を注射する事によって基礎代謝のためのアトモスフィアが補われる。

 希釈倍率は所属する神の強さにより決まるものだが、軍神の場合、十大使徒に与えられる給料は彼のアトモスフィアの2倍希釈と定められている。

 最下位の使徒となると、数千倍希釈となってその差は歴然としている。


 無限とも思われる荻号のアトモスフィアを直接その身に受けてきた二岐がそれっぽっちの給料でやっていけるかどうかというと微妙なところだった。

 身体で味わわないと、物足りないと二岐は思う。あの愛情を貪るような快楽と、神に必要とされているという幸福感を二度と味わう事ができないのなら……。

 ところで以御とユージーンの関係は味も素っ気もない。

 ユージーンは公衆の面前で以御の手を軽く握手するようにアトモスフィアを与えているようだ。

 ダメだ、ダメだ、至福の時間はそんな一瞬で済まされない。

 もっとお互いが気持ちよくなるようなひと時を過ごせるよう、あの若い神には教育してやらなくては。

 そうやってお互いの必要性をかみ締めて初めて神と第一使徒は契約を更新するものだ。

 今は第一使徒の座を以御に譲るが、いつまでも第二位の座に落ち着くつもりはなかった。

 ユージーンの信頼を得て彼の第一使徒として相応しいと認めてもらえるなら、その時は迷いなどない。

 見ていなさいよ、と二岐は以御をまじまじと見つめた。


「ったく、これだ。廿日が産休に入ってな。でなきゃ、誰がこの女と……」

「転階してここに来たの、心機一転、再スタートね」


 以御はどこか敬遠しているようだったが、恒は彼女に親切にしてもらったと思う。

 料理もおいしかったし彼女の手料理は格別だった。

 気に入らない事があると時々荻号の大好物の紅茶に塩とコショーで味付けをして嫌がらせをしていたものの、実は仲良しだったという話を織図から聞いていた。

 よくよく考えたら、畏れ多くも創世者に嫌がらせをして、それで創世者も文句も言わず耐えてたって事だよなあ、と恒は微笑ましく振り返る。


「で、何の用だ?」

「GL-ネットワークで発表されている、感染者の拡大状況を見た?」


 わざわざ訊かれなくとも当然ニュースは数時間おきにチェックしている。

 恒でさえ1日一回はチェックしているのだから、以御が見ていないなどとは考えられないのだが、二岐は敢えてそんなことを言う。

 二岐のもともとの髪の毛の色は荻号の色に似ている、瞳の色も彼女の以前の主と瓜二つだ。

 以御は二岐と話しているとどうしても荻号の影が見えてしまうので苦手だった。


「ああ、見たさ」

「何か気付かない?」

「感染は凄まじいスピードで拡大している」

「その程度?」


 以御はカチンとくるところだが、見抜けないものは仕方がない。

 以御はそれ以上なじられたくないのか、立ち上げていた端末でGL-ネットワークに入った。恒も一緒にそのデータを見せてもらう。

 1時間ごとの感染者の分布状況が世界地図の上に表示されている。赤い点が感染者を示すのだそうだ、ファティナのデータで更に詳細が表示されていたが、その時には気付かなかった。

 既に400千人が感染しているとのことだ。以御はしかめつらをしてデータを見ている。

 恒も以御の隣で同じような顔をして座っていたが、あっと叫んだ。


「あ! 解りました!」

「さすが、頭の固い誰かさんとは違うわね」

「これ、時間別に見ると地域によって感染のスピードが違います」


 恒はマウスを借りて、GL-ネットワークの統計課のページに入った。

 そこには生物階のある統計データが表示されていた。恒はそれを見て確信する。


「わかりました、やっぱりそうです。この病原体は、メディアを介しても感染するんです。先進国より後進国の方が感染が遅いんです、それはマスメディアやインターネットの普及度と顕著な相関関係があります。つまり感染媒体は、視覚、あるいは聴覚情報だ……」

「そう。この病原体は、感染者の映像を撮影してそれをテレビ局が報道すると、テレビを見た者にも遠隔感染するのよ」


 恒は早瀬の言葉を思い出した。まるで細胞がアポトーシスという自殺を起こすように、たった一つのシグナルが、DNAを持つ生体を破壊する。

 そしてそれは遺伝子を持つ生物にプログラムされているものだ。

 感染者を見た者に、あるいは感染者の声を聞いた者に伝染するのか……。

 周到に遺伝子にプログラムされていた、死の受容体のスイッチが入った。

 恒はそんなイメージがぴったりと重なった。

 早瀬の意見を聞いておいてよかった、こんな事は恒単独ではとても思いつかない。


「目が見えない人、耳が聞こえない人、あるいは目も耳も聞こえない人には感染しないんでしょうか? 感染源から遠隔地に住んでいる人、感染源に住んでいる人で感染した人達は皆健常者だったのでしょうか」

「それは簡単に調べられる」


 以御はADAMにアクセスをし、生物階の全生体リストを開く。

 それらと照らし合わせながら、発表されている感染者のリストを洗った。

 その結果、感染源に住んでいた者は健常者も視覚、聴覚障碍者も全感染。

 一方、遠隔地での感染者は健常者ばかりだ。

 遠隔地では視覚、聴覚障碍者の人々には感染していない。

 テレビメディアからの間接的な感染が立証された結果だった。

 感染地区に住んでいる者は感染者に近づいただけで健常者も障害者も全員が感染する。

 だがテレビを通じて感染者を見た者が感染者となる条件は視覚情報と聴覚情報、そのどちらもが揃わなければならない。

 ラジオで放送されるだけでは感染しない。無音の映像を見るだけでは感染しない。

 音声の入った映像を見ることによってのみ感染するという事になる。

 冷静に、少しずつ考えてゆけば感染経路を解き明かす糸口が見つかるかもしれない。

 二岐の観察眼は素晴らしい、彼女が些細な事に気付かなければこの小さな発見は見出せなかった。

 恒は彼女に感謝したかった。


「これは大変です! 世界中のテレビ局に、感染者を報道しないようにしてもらわないと!」


 逆に言えば、感染者を見ないだけ、感染者の声を聞かないだけで感染の拡大を防ぐ事ができるのではないか。

 しかし世界中の人間が耳栓をして歩くとしても、耳栓をするだけでは音声の遮断は完全ではない。

 そして感染者を直接目撃した者は、100%感染するという謎がまだ残っている。


 デスシグナルは、盲目の時計職人が遺伝子に仕掛けたプログラムは、何だ?



 その頃、大坂大学のとある研究室では比企により次々と化合物のスキームが提案されていた。

 比企によると現在地球上に入った比企の仲間(神々だと相模原は思っているのだが)は5名。

 彼等は相模原が連絡を取っていた海外組のいる研究室に出向いたのだそうだ。

 仲間達とは化合物の合成を分担しているとのことだ。

 大坂大学に割り当てられた化合物は8つから、一気に3つに減った。

 比企を含め、仲間達は業績には固執しないし後々の論文に名前を掲載する必要もないので、相模原達が均等に分割すればいいと、比企は断言した。

 相模原は比企が慈善事業で合成を手伝ってくれるという点に驚いたが、比企は業績を主張しないという誓約書を書いて相模原に渡したので信じないわけにはいかなかった。

 そして化合物の合成方法がわかり次第、その情報はとある製薬会社に送られただちに生産されるが、その特許料とパテントは大坂大学と各大学のものだという誓約書も書いてわだかまりがなくなった。


 教授と松林を含めた三人で激論が交わされている傍ら、築地と長瀬はそれを遠巻きに見ているだけで高度すぎて話に加われない。

 大学院生達も一人また一人とやってきて、築地と長瀬にコソコソと事情を聞いてコーヒーや麦茶を作っていた。


「なーあの人、ホントはNASAに通報すべきなんちゃうのー」

「じゃあツッチー英語で通報できる?」

「でけへん」

「それより私、いいあだ名考えたんだけど。ヒッキーってどうかな?」

「何や、ありきたりやな」


 比企さん、比企くん、あるいは呼び捨てのどれで呼べばいいのだろう。

 などとコーヒーを手に手に、考えている。

 そうこうしているうちに相模原教授と比企は松林の案も合わせて合意すると、早速研究室全体が動き始めた。

 相模原教授は勿論、合成屋の松林、長瀬をはじめ、学生達も久しぶりに白衣に袖を通す。


「じゃあ、大坂大学が世界に先駆けて、やってやろうじゃないの」


 松林が呼びかけて、学生達は円陣を組んだ。

 仕方ないなあ、と学生達はそれぞれにぼやきながらも、世界の窮地を救うほど大きな仕事が出来る機会など、一生に一度もあるものではないと自覚していた。

 そんな仕事をやり遂げたら……自分の知らない世界中の誰かを救う事になる、一生の思い出になる筈だ。

 慎重に合成を進める中、化学反応の待ち時間になって比企はゼミ室で資料を見たりして時間を持て余していた。

 院生達は人間ではないと解った比企に何となく話しかけ辛くて、やはり遠巻きに見ている。

 彼は自分に近づくなというオーラを出しまくっていて、なかなか馴染めない。

 それを見ていた長瀬が、誰も行かないなら自分が、と冷蔵庫からペットボトル入り午後の紅茶を持って、比企の目の前にそっと置く。

 ゼミ室の扉の外の隙間から、学生達が何人も覗いている。


「これ、どうぞー」

「ありがとう」


 比企はにこりともせずに飲み物を受け取った。

 ゼミ室のむせ返る空気の中でも汗一つかかず冷たい、彼の雰囲気に長瀬は負けない。

 白い喉を鳴らして、飲み物を喉に流し込んでいる。

 色白の長瀬より一回りも二回りも白い。

 恐らくつい先ほどまで太陽など見たこともなかったんじゃないか、長瀬はそんな気がした。


「比企君って結局、宇宙人なんでしょ? どこの星から来たのかな?」

「宇宙人? まあそんなものだな、そう怖がる必要もない」

「ううん、ちょっと絡み辛いだけ。比企君っていくつなの? 私よりずっと年下だよねえ?」

「その30倍は生きている」

「600歳? わお! さすが宇宙人!」


 人間ではないと知った上でにこにこと話しかけてくる長瀬を見て、比企は彼女のような人間が居れば、神と人との共生を難しく考える必要も、生物階を力で支配する必要もないのかもしれないな、と感じた。

 ゼミ室の外で長瀬と比企のやり取りを見ていた他の学生達も入ってきて、会話に加わりたいのか、自己紹介をはじめた。


「お、俺、千葉 満(ちば みつる)です」

「私、白浜 樹里(しらはま じゅり)です。M2の」

「私 玉崎です」

「俺は……」


 自己紹介をしようとした築地の言葉をさえぎって、比企は冷たく彼の名を言い当てた。


「築地 正孝、ちなみに己の毛は地毛だ」

「あ、ツッチーの悪口聞こえてたの?」


 あははは、とゼミ室が笑いに包まれる。

 それにしても擬似陽光とは違い生物階の陽光は眩く暖かい、この世界を心地よい、と初めて生物階に降りた比企は感じた。


 これが、アルティメイト・オブ・ノーボディの守ろうとした世界。

 その住民は短い生涯の間、日々を直向に生きている。データの上でしか知らなかった彼等と触れ合うことで、守らねばならないという義務感から守りたいという気持ちに変わった。

 

 比企には生物階の全てが眩しく感じられた。



 解階の果てにまで転移したユージーンは禁視を以って宇宙の断端に目を凝らす。

 その果ては見えず、少しでも気を抜けば吸い込まれそうなほど深い。

 ブラインド・ウォッチメイカーの投げかけた解階の終末を齎す底知れぬ闇。いくつもの星を飲み込んで全ての惨禍はここから……。侵食を止めなくてはならない。

 荻号がINVISIBLEの空間歪曲フィールドを消したように、荻号ほどは力もないユージーンも彼に倣って挑んでみるほかない。

 ユージーンは相転星を取り出し、掌の上で外環を捻りを加える。

 そうしようとして、彼はその手を止めた。いや……


”う……動かない”


 ユージーンは金縛りにかかったようにその場に縫い付けられて動けなくなってしまった。

 深淵から、何かがじっくりと彼を観察しているような、そんなおぞましい予感がする。


”居るのか? そこに? ……時計職人"


 どこに居るという事ははっきりとはいえない。

 解階そのものが彼、もしくは彼女の母胎だ。

 ここではブラインド・ウォッチメイカーがどこにでも居て、どこにも居ない者なのだ。

 絶対の宇宙の法則を支配している。

 たとえユージーンがここで永遠に金縛りにかかっていても、神階と生物階を支配するノーボディの助けはない。

 自力で脱出するほかない。

 ブラインド・ウォッチメイカーに周到におびき寄せられ、嵌められたのだとユージーンは気付いたがどうする事も出来なかった。

 とにかく危険だ、ここから離れなくては。


『ダメだ……』


 長居は無用。

 ユージーンは指一本動かせないながらに、少しでも空間矯正が出来るものかと考えはじめる。相転星の時空間操作能力が封じられている以上、自らがその身ひとつで圧倒的な熱量を放散しなければならない。

 だが増幅装置もなく創世者の創り出したブラックホールを消し去る事ができるかというと、実際のところ不可能だとしか思えない。

 ブラインド・ウォッチメイカーの力は、神を生み出し生物階に関与してくることで力を浪費していたノーボディより遥かに勝っている。

 そしてアルティメイト・オブ・ノーボディのほんの一部でしかないユージーンが勝てる相手ではないのだ。


『……出来ないのなら……逃げるしかない。ここは彼の母胎だ』


 ユージーンはブラインド・ウォッチメイカーの脅威に曝された解階の住民達を見捨てるつもりはない。

 解階はやがて滅ぶ。

 ブラインド・ウォッチメイカーの無慈悲な滅亡に、その住民達を付き合せたくはない。


”……そうか、あの手がある”


 ユージーンはアルシエルの待つ母星に瞬間移動をした。

 指一本動かせなくとも瞬間移動をかけるぐらい、訳はない。

 何千光年もの距離をひとっとびにして転移先に居たアルシエルは執務机について、忙しそうに仕事をしている。

 ユージーンの帰還に、期待を込めた眼差しで見上げる。


「どうだった」


 ユージーンは申し訳なさそうに、力なく首を振る。

 皆まで言わずとも、よい結果ではなかったのだと察した。


「そうか……」


 アルシエルはひどく落胆したようだが、ユージーンを責めることはできなかった。

 神皇 ユージーンにも出来ない事はあろう、最強の実力者とされた解階の女皇たる彼女がまた、何も出来なかったように……。

 だがそうなるといよいよ、解階の滅亡を手をこまねいて見ている他なくなる。

 アルシエルは助かる手段がないのだと、改めて突きつけられた思いだ。


「無理です。あの場所はわたしの力も刃が立ちません。そこで陛下、あなたにご質問があります」

「おお、何だ」


 ユージーンは数名の侍史がいたので人払いをしてもらってから、本題に入った。


「解階はまさに、滅びゆこうとしています。あなたがたはこの宇宙と共に、滅んで行くことを望みますか? それとも……生物階に入って、生き続けたいですか?」

「この星を捨てて地球に行けと?」


 つまりそれは、生物階の侵略を意味する。

 アルシエルは力こそ全てという世界に生きてはきたが、異なる文化を持つ異なる宇宙にまでその価値観を押し付けるつもりはなかった。

 生物階で慎ましやかに暮らす地球の生命達を略取し、虐殺して植民地化するという事は彼女をはじめ解階の貴族達の価値観にも反する事になるだろう。

 だがたとえ彼女の臣民達の同意を得てそうしようとしたとしても、生物階への侵略を、ユージーン以外の神々が許すとは思えない。

 彼等は人間達をこよなく愛してきて、守り続けたいと考えている。


「いいえ、この星と共に生物階に入るのです。わたしがこの星を生物階への超空間転移に巻き込みます。解階の臣民達はあなたに忠誠を誓っています。あなたの判断が全てです、ご決断下さい」


 解階の星々を生物階に転移させる。

 同じ宇宙の異なる星々に住まう同胞となるだろう。

 三年後、ユージーンとアルティメイト・オブ・ノーボディは最大の創世者INVISIBLEと成り代わり、いずれ三階を統一する予定なのだ、同じ宇宙のもと三階の住民が肩を並べて生きてゆく、そんな時代の到来を実現させようとしている。


 それが早いか遅いかというだけだ。

 感染者を生物階に持ち込む事になるが、地球からうんと離れた場所に転移をさせておけば、解階の違法ゲートから地球に入るという状況もむしろ改善され、宇宙の離れた場所でお互いに影響しあう事はないだろう。

 ユージーンの力だけで、星一つずつを転移に巻き込まなければならないというのは骨のおれる仕事だが、不可能ではない。

 ブラインド・ウォッチメイカーの母胎の中で、身勝手な意思に振り回されるだけなら、全てアルティメイト・オブ・ノーボディの庇護下に置かれた方が安全だし安らぎもあるだろう。

 ノーボディは解階の住民を差別化してはいない。

 彼等は生物階とは異なる文化や容姿を持ち、生物階の住民達からは悪魔と呼ばれ恐れられてはいるが、実際に生物階の住民達に害をなし殺戮を行ってきた事はなかった。

 メファイストフェレスのように情に厚く、アルシエルのように理知的な者もいる。


「それは決まっておる」


 ふかふかの椅子に掛けていたアルシエルは立ち上がった。


「我は我が臣民を、不当な滅亡に巻き込む事を望まん。だが、生物階の人間どもに迷惑をかけとうもない。生物階に負担を強いることなく滅亡を避けられるものなら……返事は一つだ」

「では、解階の住民達の住む星を教えて下さい。わたしはそれらを全て生物階に転移させます。ほんの少しだけ、時間を下さい。わたしは生物階に一時戻り、さる御方の御意見を伺って参ります」

「さる御方? 神皇ともあろう者が伺いを立てるべき者がいるのか?」

「昔いまし、今いまし、永劫に我々の味方をして下さる御方です」

「そうか、それは頼もしい」


 彼女ははっきりと頷いた。

 この件を神々に打診してはならない。

 神々は解階の住民を信頼しておらず、それどころか酷い誤解をしている。

 たとえ暴君と罵られようとも、ユージーンはアルシエルを代表とする解階の住民達の”生きたい”というささやかな願いを受けて、神々の同意を得ぬままでも解階の星々を生物階に移すべきだと考えた。

 ユージーンは神々全ての反感を買おうとも、たったひとりの同意があればそれでいい。


 それは勿論、名も姿もなきもの(Ultimate of No-body)だ。


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