Anecdote 2 Night traveler 1
有機合成化合物を作りだすように、あらゆる現象は単純で精緻な法則の積み重ねで出来ている。
その法則を生み出して統べるは、INVISIBLE――。
神々はその根源的な束縛より逃れ自由をかち獲らなければならない。
卒業試験過去問題集を簡単に解いてしまった時だったか、第一種公務員試験過去問題集を満点で解いてしまった時だったか、それとも武術指導教官を手合わせで失神させてしまった時だったか……。
陰階非位神 比企 寛三郎がアカデミーで学ぶすべてを修めたと実感して10年が経った。彼の結論はいつも同じだ。
寮を抜け出してしかるべき師につきたい。
比企の拳に倒れたり失神せず受け止め比企の問いかけにたじたじにならない師のもとへ。
比企を子供のようにあしらうことができ、尚且つ師として周囲から認められる神ならば誰でもよかったのだが、陰階には一柱しか存在しなかった。
わずか一柱。
神階の構成要員がそれほどまでに無能な神々の寄せ集めだという現状は、憂慮すべき事態だ。
INVISIBLEに粛正されて以来、いにしえの神々と比して現代の神々の力はみるみる衰えてきた。
武術に秀でた陰階神でさえ、フィジカルレベルの衰えは目に見え、アトモスフィアの絶対量も減り続けるばかり。
このまま力が衰え続ければ、神階、そして生物階はINVISIBLEに屈するしかなくなる。
INVISIBLEをうち滅ぼし、有史以来最大の脅威から生命を解放する。それが陰階神の最終目標だ。
比企はINVISIBLE殲滅を成し遂げるべく、自らを鍛えあげてきた。
当時30歳の比企は一柱の枢軸神に手紙をしたためた。
不躾だと心得ていたが、講義の時間とトレーニングの時間以外は寮の部屋に監禁されて外に出られないのだから、そうする他にない。
書簡を宛てた翌日。
粗末な郵便受けを見ると、秘書官である第一使徒の代筆で返信がきた。
開封すると、荻号 要は今後一切弟子をとる予定はないから諦めろと言っている、とのことだ。
師弟制度は本来弟子が師に師事を申し込むのではなく、師が弟子を選んで育てるものだ。
比企は荻号に弟子として選ばれるべく態度を改めて、成績証明書と単位取得証明、志望動機書や発表論文、全身写真、健康診断書、担当教官からの推薦状を添えて完璧に体裁を整え再度投函した。
その翌日、再び同じ書面の返信が第一使徒の代筆でやってきた。
優秀なのは認めるが弟子をとる予定はないとの内容だ。
比企は郵便受けの前で肩を落としたが、少しもめげず再三正式な手紙を書いた。
いつの間にか隔日の書簡を送り続けて三年の月日が過ぎようとしていた。
獄中から手紙を書き続ける囚人のように、まだ諦めずにしつこく書簡を送り続けている。
何百回断られたともしれない、第一使徒もいい加減迷惑していることだろう。
そう思った比企は、荻号に宛てる手紙とは別に代筆を強いられる第一使徒の二岐へのねぎらいの書簡も同封していた。
二岐と軽い雑談をしつつ、荻号の様子を少しずつ聞き出していた。
荻号は500年ごとに働くそうだ。
逆に言うと、その時以外は働かずに会議へ出席し書類を作成し、そうでなければ神具を開発したり麻薬や煙草を栽培したり、図書館の図書を読みあさったり、彼は二岐が腹が立つほど何もしないのだそうだ。
闇神の任務はあまり知られていないが、宇宙に浮かぶ惑星や恒星の運行を管理する過酷な仕事だ、宇宙空間で無数の星の周回軌道を調節し、自転や公転の速度を決めてそれを計算通りに動かすよう干渉する。
具体的には引力や重力、斥力を利用するのだそうだ。
地球の恒常性を保ち生物階の生命活動を保障することが責務である以上、ほぼつきっきりで監視していなければすぐに誤差が生じるもので、ひとたび調律が崩されると地球の一日の長さにも影響してしまう。
更に最近では天文学の発達により人間も天体を監視しているため、調整を間違えたでは済まされない。
毎日行わなければならない調節を500年ごとに行う面倒くさがりの荻号だが、生物階の天体を完璧に調整し一度も異常や誤差があったことはないので、二岐も叱るに叱れないのだという。
荻号はまた、位神なら毎朝必ず第一使徒を相手に行っている体術トレーニングをサボり続けてきて、一度も誘ってきた事がないし自主トレをしている姿を見たことがないのだそうだ。
それでもその実力は三階最強ときている。
何もしていないのだそうだが、荻号の力の秘密に迫りたい者たちはそれを信じていない。
二岐は声を大にして言いたいという、”うちのぐうたら亭主は本当に何もしていません”と。
だから正直、教えることは何もないと思う。こういうのだ。
比企は力を維持する為、一日も休まず厳しい鍛練を自らに課してきたというのに、ふざけた話だ。
陰階での支持率100%という謎の最強神に師事し比企の知名度を上げておくことは、堕落した神階を建て直して構造改革をしてゆくためにも必須のことと思われた。
若き彼が経験を積んだ神々と対等に話をするためには、”あの荻号の弟子”というステータスが必要でもある。
そんな比企の情熱も理念も、荻号には一方通行になっていて理解されない。
比企の努力を認めた二岐は、荻号に何度も進言したようで、どうせ暇を持て余しているのに弟子がとれない理由はないでしょうと詰め寄ったそうだ。
最強神荻号 要も、気に入らない事があれば好物の紅茶に塩と胡椒を入れて出してくる第一使徒の二岐が怖いらしく、しぶしぶいう事を聞いてくれる事が多いそうだ。
二岐はとうとう、比企の履歴書と各種書類に目を通させる事に成功した。
だがそれでも、弟子をとるつもりはさらさらないと、ふてぶてしくもそう言うのだそうだ。
それから気になる事も呟いていたという。
”あいつは自分で、やっていける奴だ”
会った事もないのに知っているかのような口ぶりが妙だ。
二岐が食い下がって毎日のようにぐちぐちと進言し続けるので、遂に重い腰をあげた。
その日のことは、今でも鮮やかに焼きついて忘れられない。
荻号は比企の監禁されている寮の部屋に瞬間移動をして直接会いにきた。
いや、直接断りにきた、が正解だが……。
比企33歳の冬。
日中の厳しい体術訓練を難なくこなし、講義に退屈しつつアカデミーでの学業修練を終えて、その夜も荻号への手紙をしたため、二岐への手紙に取り掛かっていると、突如現れた強大な気配が部屋を満たした。
狭い石造りの部屋に現れたこの上ない存在感に振り返ると、一柱の神が立っていた。
独特の色彩を持つアトモスフィア。その色は無色透明だ。
アトモスフィアの純度が高ければ高いほど色彩は明るくなってゆく、それでゆくと相当に精錬されたアトモスフィアだ。
フィジカルギャップはおそらくこの部屋の面積では格納しきれなくて、解除している。
マインドギャップなどはなから看破しようなどという気も起こらない。
比企は彼を凝視したまま、ゆっくりと椅子から立ち上がり、冷たい石の床に膝をついた。
銅色の髪をだらしなく伸ばして、これでも聖衣なのかと思うような粗末な装束を身にまとい、革のサンダルを履いて両手を軽く腰にあてがい、まるで興味もなさそうに高い視線から見下ろしている。
尊大な態度だが権威をかさにきている様子もなく、身に帯びているものに高価なものは何一つなく浮浪者のようないでたちだった。
「陰階 第4位闇神、荻号要殿とお見受けします、己は陰階非位神 比企 寛三郎と申す者にて……」
比企は疑問に思っていた。
追跡転移という瞬間移動の形式はあって、比企の気配を追って荻号がやってきたのだとはわかっていた。
だが、アカデミーは瞬間移動をも使いこなす学生の逃亡を防ぐために、亜空間に存在する。
陰階にいる荻号が追跡転移で追ってこられる場所ではないのだ。
一体、どうやってやってきたのか。
そんな事を訊く前に、比企はまず礼儀を尽くして彼に認めてもらわねばならなかった。
「お前だな、比企。いい加減にしろよ。俺は弟子を取る予定はないって、3年前に言わなかったかね。それとも二岐に毎日送らせている断りの手紙が、まるごと着かなかったのか?」
荻号は迷惑そうな口調で比企の自己紹介をむげにしてそう言うと、鼻をならした。
お互いの第一印象は最悪だが、比企はここで折れてしまうつもりはなかった。
33歳の少年神と、何歳とも知れないベテランの枢軸神。
比企と同じ年の頃の少年神が枢軸神と初めて接見する際には、恐縮して何もいえなくなってしまうものだが、その気迫におされることもなく比企ははきはきと答えた。
「ご無理を承知でお願い申し上げております、己はあなたに師事させていただく事を、決して諦めるつもりはありません」
「俺は師に値する人物ではない。今は決められたレールの上を、歩いておけ。位神になったら会う事もあるかもしれないさ」
「アカデミーにて学ぶべき事は全て学びました! もうここで学ぶべき事はありません、あなたに師事させていただきたいのです。己はあなたの弟子に相応しくないと? ご説明いただけませんか」
「俺がお前を弟子にしない理由を説明しようとすれば二文字で済む、”面倒”だ。何か文句があるか」
比企はこの男をどれだけ殴りたかったか知れない。
面倒という理由だけで拒否の理由になるものか。神は人々を、世界を幸福に恒常的に維持するという責務がある。それを脅かす者を排除しなければならない。
だとしたらINVISIBLEに対抗すべき後継者を一柱でも多く育てておく事もまた、位神の責務だ。
比企は謙虚な性格で、自分の能力を過大評価しない。
過小評価もしない。
等身大の自分を見ていて、他の神々より秀でているとの結論が出た。
だとすれば優れた能力を持ち合わせてしまった以上、神々のリーダーとなるべく努めることもまた、比企の神としての使命だと考えた。
この男に師事しなくて済むのならどれだけありがたいことか。
この男の風体も、言動も厳格な比企の手本とすべきものではない。
だがそれでも比企は、最強と呼ばれる神をこそ師と仰ぐ必要があった。
「無理をおしてのお願いです。諦めません、何十年でも、何百年でもお願い申し上げます」
「毎日返事を書かされる二岐の苦労もわかってやれよ」
二岐は律儀な性格で、無視しておけというのにこまめに返事を書いてやる。
そうやって返事が来る事でまた比企の手紙がやってくる。
3年間の間でやりとりした手紙は、そろそろ私的書簡保存庫に入りきらず迷惑している。
全部棄てておけといっておいたが、二岐がそれを嫌がる。
二岐の苦労を見かねて荻号が直接乗り込んできたというわけだ。
この馬鹿は、直接言って断らなければわからないのだろう、と思いながら。
「それは察しております。しかし、INVISIBLEを倒すための力を一柱でも多く育てておくことが、最強神であるあなたの使命なのではないですか?」
比企は荻号を挑発する。
逆効果となってしまってはならないが、このままでは梃子でも動いてはくれそうにない。
陰階神はINVISIBLEを殲滅することを至上課題とする、陰階神としての大儀とINVISIBLEというキーワードを持ち出せば、その目的を持つ者が師事を乞うているのだから彼も無碍に断れまいとの計算だ。
荻号は陰階神としての勤めを果たしていないように思える、最強の実力を持ちながら、極陰として即位しないのも納得がいかない。
もっとも、極位としておさまることばかりがよいことではない。
極位となってしまうとフットワークが重くなる。
生物階降下も殆ど不可能となるし、行動は制限される。
だからといって彼が何をしてきたかというと、INVISIBLEに対しては何もしていないように見える。
「また大きな事を言ったもんだな。お前ごときは何千万年修行をしたところでINVISIBLEに抗する力とはならん。その素養もない。INVISIBLEの名を出す事もおこがましい」
「ではあなたが一体何をしました? 神々のうち最も優れたお力を持ちながら、INVISIBLEに抗するために備えましたか? あなたがそれをなさらないのなら、己がINVISIBLEに挑みます。面倒だからとのお言葉、些か腹に据えかねます」
荻号は足元にいる比企を、黙って見下ろした。
荻号が弟子をとらないのは、面倒だからという理由ではない。
INVISIBLEに挑もうとしている者にしかるべき力を与える事は、彼等を破滅に導く。
破滅と引き換えにINVISIBLEに挑むのは自分ひとりでいい、荻号はそう思っていた。
彼の子らには、生物階のみを見据えて、そして彼等の信念を貫いて限られた生を生きて欲しいと思った。
INVISIBLEの本質を語ることはできない。
いつまでたっても彼等には、敵が見えないままだ。
自らに近づかんとする者は、必ず一線を踏み越えて斃れた。
彼等が優秀であればあるほど、無駄死にをして欲しくはない。
「……何もしていないわけじゃないんだが」
聞き取れない答えを吐き出す荻号を、比企は首をかしげながら凝視する。
艶やかな黒髪に灰色の瞳の若き青年神。
まっすぐな眼差しと強い芯の通った居住まい。
比企に切望されているという事実が荻号に突き刺さった。
こいつを破滅に導いてはならない。荻号は軽く首を振って否定した。
「俺に近づくと命を落とす。近づくな」
「命を? 構いません、後悔などしませんから」
長い沈黙の末、微動だにしない比企を見下ろしていた荻号は手を貸して立たせようとした。
しかし比企は認めてもらえるまでは立たないと決めて重い岩のように動こうとしない。
「弟子というのは面倒だが、お前がアカデミーを卒業したら俺の部屋に来い。教育というのは面倒だが、雑談ぐらいならしてやる」
比企の熱意にうたれた、荻号の精一杯の譲歩がそれだった。
比企はそれを受け入れるしかなく、70年近くもの歳月をアカデミーで無駄に費した。
*
比企 寛三郎、99歳の冬。
牢獄としか思えないアカデミーの寮の冷え切ったベッドの上で、明日の卒業試験を前に静かに瞑想を行っていた。
ようやくこの日がやってきた。
他の学生は気になる箇所の見直しや最後の追い込み、一夜漬けや修業に余念がないことだろうが、最後の修練期間として与えられた1か月の時間のほとんど、比企は瞑想をして過ごした。
必要な知識は既に身につけていたし、トレーニングをしようにも比企と張り合える相手がいなかった。
卒業試験に合格すれば、長きに渡り閉じ込められていた牢獄から明日、晴れて解放される。
神階の組織形態はこのようになっている。
まず神はアカデミーで100年間修練し、アカデミー卒業後、30年以内に三種いずれかの公務員試験を受験する。
最初から第一種を諦めて第二種、三種を受験する神もいるにはいるが、30年以内にはいずれかの公務員とならなければならない。
殆どの場合、第二種以下の公務員として執務しながら、第一種公務員を受験して目指すのが常となっている。
ただし、生物階と神階の舵取り役となり、人々の信仰の対象ともなりうる、世界の運営に携わる第一種公務員となるための関門は、狭いにもほどがある。
卒業の一日後、比企はAXを名乗り、第一種公務員試験を受験する予定であり、担当教官を通じて既に受験書類は提出している。
第一種公務員として合格すれば、100年以内に職種を選ばなくてはならない。
とはいえ、現時点での陰階の募集は1枠しかなかった。
3年前、先代が崩御して現在も募集中なのは88位の薬学を司る神、薬神。
薬学知識を必要とし、物理化学に長け医学を得意とする文型(XX)神が有利となるだろう。
生来の性質としてAAである比企は、文型である薬神に応募するにはAXを名乗ることを余儀なくされる、向いていないとは思った。
だがどのような司職となっても、比企はそれをこなしてゆける自信があった。
職はこの際どのようなものでもよい、登竜門でしかないのだから。
目的さえ果たせれば比企はそれで満足だ。
卒業試験に満点で合格をしてアカデミーの卒業式を終え、卒業して晴れて一人前の成神として認められた。
アカデミーの外の世界は眩いばかりだ。
陰階神として陰階に籍を移され、陰階神として寮が与えられた。
三種まである公務員試験を受験して職業が決まるまで、浪人したり勉強する寮だ。
何もない広い部屋は明るい採光で暖かく住み心地もよさそうだったが、位神として即位する事を確信していた比企は、長く住まう必要はないと思った。
100歳となった比企はその足で、第一種公務員試験受験会場に向かった。
今年の志願者は331名。
第二種以下の公務員から324名、アカデミー卒業後30年以内就職浪人生から6名、アカデミー卒業後すぐに受験をしに来たのは比企一柱だけだ。
この中から複数の合格者が出てしまっても、薬神となれるのは一柱だけ。
第一種公務員試験の合格発表から数日後、今度は位神登用試験という試験があり、募集のある位神に応募できる。
受験者に様々なテストを課し、最も薬神に相応しいとされる神を”適職率”という数値で算出する。
物理化学に長け、手先が器用で、発想力に長けた神が有利となり適職率が高くなる。
適職率で算出した値が既定の数値を超えた者が薬神として即位する。
第一種公務員に合格はしているものの、位神として即位できていない即位待機者は35名。
2年連続で、登用試験で神が現れず、2年間薬神の登用は見送りとなっていた。
今年の受験者が全て合格をして、全ての待機者と併せて勝負をしても倍率は500倍にもはならない。余裕だな、と比企は思った。
荻号の部屋を訪ねるために条件は、アカデミーを卒業することだけだ。
第一種公務員として合格し、さらに位神として即位する事など条件にはなかった。
それでも受験を終えて合格通知を持って会いに行こうとしたのは、荻号への手土産のつもりだ。
荻号が比企の実力を疑って弟子を取らないといっていたのではないという事はよくわかった。
だが、具体的にどれだけの実力を持っているかを示すには第一種公務員試験はまたとないバロメーターだ。
歴代10位以内の成績で、つまり満点で合格してやると決めていた。
”まあ、位神になったところで興味も示さないだろうが”
受験会場で、緊張した面持ちで試験に臨む神々を見渡しながら、比企もペンを取って神語で本名を書き込んだ。
第一時間目のテストは有機化学。
テスト用紙には、複雑な化合物の合成方法を解かせる問題が、制限時間では書ききれないほど出題されている。
”はじめ”の号令がかかると同時に、まるでせき止められていた水が瀑布から滑り落ちるようにするすると、化合物の合成経路が柔軟な頭脳の中で組み立てられてゆく、10題先まで、答えが見える。
100年を経て成熟した思考は更に洗練されて、比企の力となっていた。
合格しなかったらどうしようなどと、一度でも考えはしなかった。
*
陰階4位 荻号 要殿 御侍史。
およそ70年ぶりに比企からの書簡を受けとった二岐は、以前はなかった比企の肩書に目を止めた。
陰階16位薬神 比企 寛三郎と書いてある。
枢軸に次ぐ身分である準中枢として即位を果たしているということだ。
そういえば、二岐も荻号も会議が入っていてこの間の位申戦の中継を観戦していなかった。
新神の位申戦デビューなどどうせたいした試合でもなかろうと思っていたし、デビュー戦は100位からスタートする新神が顔を知ってもらうためのアピールに過ぎず、本気で昇進を狙うものではない。
位神たちの洗礼を浴びて大怪我をさせられたり殺されてしまわないよう、せいぜい90位台に挑むのが関の山だ。
「16位!」
アカデミーでいくら優秀だった神でも、新神のデビュー戦の殆どが大敗を喫するものだ。
そう思っていた、だが比企はデビュー戦から何を思ったか準中枢のAA神に挑み、しかも手堅く勝利した。
比企に16位を奪われたAAの重力を司る神は老化のためフィジカルレベルが右肩下がりだったところだ。
文型神は若いほど弱く、武型神は歳を経る程弱くなる事は常識だ、文武型を名乗る神が若くして出世しやすく高位をキープできるのは、攻めに強いからだ。
効率よく勝ち残ってゆくために、若いうちは老いた武型神に挑めばよく、老いたら若い文型神に挑めばよい。
ただし文武型を名乗るからには、守りにも強くならなければならない。
文武型を名乗る神はどちらも中途半端と受け止められるため、位申戦を申し込まれる回数が純粋な文型(XX)、武型(AA)の神より多くなる。
そんな輩を返り討ちにするだけの実力がなければ、文武型(AX)を名乗る事はできない。
比企の対戦相手の選び方は非常によく計算されていて、迷いがない。
二岐は比企が若いながらに体裁というものを気にせず、陰階神としての自覚をしっかりと持っていることに感心した。
神はアカデミーに入学する時に、陽階神になるか陰階神になるかが判定員によって定められる。
アトモスフィアの質や潜在能力もあるが、生来の気性や容姿により判断される事が多い。
陽階神は人間の信仰の対象となるため、生来の性格として憐れみ深く、おっとりとして、正義を愛し、容姿も選れている事が条件だ。
陽階神として選ばれた神は、強く賢明である事より、神として信仰を集めるに相応しい者として育てる事が優先され、そういう教育を受ける。
口調や立ち居振る舞いから考え方、身なりに至るまで、崇められるに足る優れた神となるまで徹底的に矯正されるのだ。
陽階神は押しなべて品行方正で、上品であり、身嗜みに気をつかい、その生涯において罪に手を染めることなく、人々の模範であろうとする。
容姿の美しさも重要な条件の一つである事から、陽階には女神が多く在籍する。
陰階神は学ばない美学を、徹底して学ばされるのも教育の特徴だ。
解りやすく言ってしまえば、強くあることより清く、正しく、美しくあることがモットーとされる。
陽階神は卑怯者を蔑むし、騎士道、あるいは武士道を貫き、粗暴な振る舞いを嫌う。
だから陽階神ならば、比企のように老いて実力の衰えた武型神を敢えて叩く事はせず、正々堂々と若く実力のある武型神に勝負を挑む。
逆に力不足や老化により身分不相応を感じた陽階神は、位階を下位神に譲位して引退するのが美しい身の処し方だとされた。
しかしそうやって目上の者を敬い、尊厳を尊重する筋を通したシステムだと、年功序列化することは避けられず、どうしても個々神の実力は低下してしまうし、事実その現象は起こっていた。
あまり知られていないが、もともと神々の実力主義を象徴する位階制は陰階において布かれていたものだ。
陰階神は神々を切磋琢磨させるため、頻繁に試合を繰り返し優劣をつけあい、常に競いあっていた。
試合に勝ち進み、智と力を兼ね備えた第一位の格を持つ神が極位として陰階を統括するという解りやすい形態をとることによって、年功序列化していたシステムを一新し、若き神も極位として即位できるとあってそれがモチベーションを高めることとなり、陰階神の実力は飛躍的に向上した。
陽階はそんな陰階の抜本的な構造改革を脅威と感じ、根回しや年齢などを考慮して選出されていた陽階主神の実力が、陰階神の準中枢にも及ばなくなった頃、生物階と神階の主権を陰階神に奪われることを懸念した上、ようやく陰階に倣って位階制を導入し現在のような形式となった。
そうは言っても、生物階で実際に神として崇められる陽階神は様々なしきたりや美学に囚われている。
しきたりも美学も、INVISIBLEに対しては何ら力となってはくれない。
これに対し陰階神はただ、INVISIBLEに抗するべく力や能力に長けていればそれでいい。
陰階神として相応しいとされるのは勝利に貪欲であり、己に厳しく、闘争本能があり、目的の為には手段を選ばない神であるとされ、時には卑怯な手を使っても陰階神であれば批判の対象とはならない。
比企は陰階神としては逸材だった。
位申戦の録画を取り寄せて何度も巻き戻して観戦した二岐は、危なげのない戦術と身のこなしを見て、比企の生来の闘争本能と計算高さを高く評価した。
比企の書簡を受けて、秘書官であり荻号のスケジュールマネージャーである二岐はこっそりと荻号の予定をあけて、比企との接見の時間をとった。
もともと殆ど埋まっていない予定を空けさせる事は簡単だった。
うちのぐうたら亭主にも、努力家の比企の爪の垢を煎じて飲ませたいものだわ、そう思ったとか思わなかったとか。
比企と会うことで荻号がすっかり忘れている、陰階神の精神というものを見習ってほしかったというのもある。
毎日毎日、生きているとも死んでいるともつかぬ生気のない顔をして、これ以上ないほど不健康な生活を送りながらぐうたらとするばかり。
何歳なのかもわからないほど長い年月を生きてきたというのに歳の割に見た目もだらしないし、達観している様子もない。
陰階参謀という名を戴くのも図々しいと思うほど向上心のかけらもなく、真面目に仕事に打ち込んだ姿を見たことがない。
二岐は最強神たる荻号が本気をさえ出せば、もっと偉大な事を成し遂げられる、そう信じていた。
そんな彼が若さと情熱に滾る比企を見て、少しでも発奮してくれればいいと思った。
二岐にアポイントを取ってもらい荻号の執務室に招待された比企は、郵送されてきた接見許可証と、届いたばかりの薬神の辞令を持って約束の時間より少し早く、万感の思いで陰階上層部に繋がるエレベーターに乗り闇神のフロアにやってきた。
ようやくこの日がやってきた。
ただひたすらに長く待ち遠しかった。
およそ70年ぶりに会う荻号は、部屋を訪問すれば雑談ぐらいはしてやると言ったあの言葉を忘れてはいないだろうな、それだけが気掛かりだ。
許可証を大勢の警備の使徒に何度も見せ、期待に胸を膨らませてここが執務室だと案内された扉を開いた比企は、突如として差し込んできた陽光に驚いてその身をこわばらせた。
「は?」
目の前に広がったのは生物階の光景だと思われる地平線だ。
地平線の上に夕陽がさして黄昏とともに、ガラス板一枚の足場の下には巨大な迷路が広がって、しかもそれが見渡す限り地平線まで続いている。
ご丁寧に、斥力遮断シールドが張り巡らされ、塀の上は過電圧がかかっていて、飛翔して迷路の上を飛び越える事も、塀の上を歩く事も禁じられている。
これを見るまですっかり忘れていたが、荻号は時間と空間を使う三階で唯一の存在だと聞く。彼は比企との接見をしたくないがためにこんなにも壮大な空間を創りだしてまで嫌がらせをしているのだろうか。
何とも悪趣味だ、そして彼の能力を無駄に消費している、と比企は憤慨しつつ、階段状の足場を踏み締めながら巨大迷路に降りていった。
どこを見渡しても同じようにそびえ立つ塀、塀、塀!
このまま奥に踏み入っていけば、確実に迷う。
磁場も攪乱されている以上、生きている間に出口にたどり着ける保証もない。
比企ははやる心を落ち着かせ、深呼吸をした。
落ち着け、ここは陰階の闇神のフロアだ、忘れてはいけない。
フロアは有限であり、目の前にある光景は無限だ。
だとすればここは仮想空間か亜空間であると考えるのが常識、目の前の光景に惑わされずブレイクスルーをすることが必要だ。
このパズルを真っ向から解けと、荻号に試されているわけではない。
第一こんなふざけた状態では、比企はともかく誰も荻号を訪問できないではないか。
比企は何かを確認するように、革靴の底で石畳をカツカツと蹴ってみた。
やはり、そうだ。
石畳である筈なのに、靴音が反響している。
そしてその反響は、目の前にある塀にぶつかって、跳ね返っては来ない。
見えてはいるが、塀はないのだ。
比企は視覚に騙されないように思い切って目を閉ざすと、大きな足音を立て、反響音を頼りに前へ前へと進んでいった。
比企の神体は黄昏の塀の中へ吸い込まれるように消えていった。
比企は必ずたどり着けるという確信を持って目を閉ざして進みながら、反響音がブレて跳ね返ってくる場所を探していた。
そこがきっと、今度こそ本当に荻号の執務室に繋がる扉だ。
比企は5分ほど探すと、カツーンと、硬い反響音がしたので、ここぞとばかりに手を伸ばし扉の取っ手を掴んだ。
目を開くと比企の腕は塀の中に食い込んでいた。
塀の中に手が刺さっていると視覚に騙されて認識させられてしまう前に、勢いよく二つ目の扉を開く。
今度こそ。
そう思って開いた扉は、真っ暗闇の通路に繋がっていた。
暗闇の中に心もとなく続く一本道の通路は、果てが見えない。
しかもご丁寧に、またしても通路には斥力遮断シールドが張り巡らされていて、飛翔することも、果てが見えないために瞬間移動をかけることも許されていない。
徒歩でこの薄気味悪い場所を抜けるしかないのだ。
比企はとても荻号や二岐が億劫な通路を歩いて、執務室に戻っているとは思えなかった。
どこかに抜け道があったはずだが、気付かなかった。
比企には荻号が、お前には会うつもりがないからもう諦めろ、と言っているように思えた。
とぼとぼと暗闇をひとり歩いていると、突然耳を劈くようなサイレンが鳴って、比企は次の瞬間、先ほど塀の中で見つけた扉の前に押し戻されて突っ立っていた。
一体、何が起こったというのだろう?
通路を歩き始めてから数秒もたってはいなかった。
道を間違えたのだろうか?
この凝った仕掛けのダンジョンは荻号の趣味なのだろうが、ゴールなどあるのか不安になってきた。
そうは思っても、もう二岐とは荻号に内緒で接見を約束してしまったし、遅刻をすればしたでそれが比企の弟子入りを断る理由となってしまいかねない。
一度迷宮に入ってしまった以上、引き返す事はできない。
その証拠にもう、比企が入ってきた先ほどのガラス板の足場は見えなくなっている。
引き返す出口は閉ざされてしまって、もうないのだ。
比企は再び扉を開こうとして先ほどは気付かなかった、神語で彫られた刻印に何気なく指が触れているのに気付いた。
現代で使っている新しい神語ではなく、随分と古典的な文法で記述してある。
今年のアカデミーの卒業生は、誰も読めないだろう。
要約すると、この扉を開いてから次の扉を開くまでに、サイレン(警鐘?)の音を聞いてはならない。
と、こういうわけだ。
飛んではならない、瞬間移動をしてはならない。
果ての見えない通路の先にまで、数秒以内にたどり着かなければ強制的に振り出しに戻される。
つまり単純に、走れと言っているのだろう。
鈍足の神は荻号に接見することもままならないというのだろうか、いくら参謀という要職にある枢軸神でそうそうは会えないとはいっても、このセキュリティの厳しさはハラスメントだ。
もはやこれは、荻号が比企一柱を試すために作り上げた壮大なダンジョンだとしか思えなかった。”試されている”と思った時、比企の本気に火がついた。
走れというなら、走ってやる。
ただ……比企は第一種公務員試験の歴史に残るトップスプリンターだったということを、荻号はどうやら知らなかったらしい。
比企はやや前傾体勢をとりながら扉を開けるなり、コンマ3秒後にトップスピードに達して、扉にぶつかりそうになりながら次の扉を開くまでに0.5秒ほどしかかからなかった。
走った距離は80kmにも及ぶ。
とんでもない距離を一瞬で走り終えた比企は息もあげず次の扉を開き、恐る恐る中を確認した。
扉の向こうはアンティークな内装の凝った二岐の秘書室があり、荻号の執務室と書斎の前室だった。
二岐は約束の時間を10分ほど遅れた比企を、微笑みながらよく来たと言って迎え入れる。
この屈託のない笑顔から察するに、二岐はこの扉の向こう側がダンジョンと化していた事を知らなかっただろう。
荻号は頭の上がらない二岐にはこっそりと比企にしかわからない方法で、比企を亜空間に放り込み、試していた。
彼女に問いただすのは筋違いだと自らに言い聞かせ、腕時計を見て遅刻をしている事を知ると、素直に謝罪することにした。
「比企と申します。10分も遅れてしまいました、何とお詫びしてよいか」
「よくいらっしゃったわね。遅れたっていいのよ、うちの亭主はあなたがいらっしゃる事など今も知らないんだもの」
比企は苦笑して、まさか、と否定した。
荻号は比企が来る事を知っていた、それであんな嫌がらせまがいの試練を課したのだと確信していたからだ。
そして彼は比企が荻号の部屋にたどり着いたという結果を芳しく思っているか、忌々しく思っているかはわからない。
「いえいえ、ご冗談を。ご存知でしたでしょう。無事に辿りつきましたので改めまして、荻号殿と接見をさせていただきたく思います」
「あなたの位申戦、見事だったわ。類稀なる才能をお持ちね。それに引き換え、うちのダメ亭主ときたら……彼はこっちよ」