3-5 そして黒猫はかく語る
それからは時間を稼ぐ為に徒歩で向かい、時刻が午後八時を過ぎた頃に最終目的地である、とある寺の門前に着いた。すでに辺りは真っ暗で、すっかり冷え切った冬の空気が辺りの草むらを揺らす。本堂から少し離れたところに、ここの住職一家が住んでいるのだと思われる家があり、そこから明るい光が漏れているが、その奥にある広い墓場には深い闇が充満している。
家の側を物音を立てないように慎重に通り過ぎ、その光景に思わず立ち止まった。真っ暗な闇の中、かろうじて見えるのは黒々と立ち並ぶたくさんの墓石だけ。それらが一面に整列しており、ときおり強い風が吹いて、ところどころに生えている木と、お供え物の花がざわざわと音を立てている。
持参してきた強力な懐中電灯のスイッチを入れて前を照らすが、広い敷地の奥まで照らす事はできず、なんとか自分の数歩前までの足元が明るくなる程度だ。その向こうは何がいても分からない暗闇が続いている。
「最高じゃないですか、これ……」
「だな」
愁の足元で志田がうなった。クロはというと、その隣で後ろ足を使って耳の後ろなどを掻いている。
「どっちに行ったらいいんですか」
「多分、こっちだったと思うのだが」
自信なさげに前足で前方を示す。
「暗いから、はっきりとは分からないのだが」
「猫って、夜のほうが良く見えるんじゃないんですか」
「人間よりは見えやすいが、それでも雰囲気が違うとどうにもな」
困ったふうに言うが、もちろん愁にも分かるわけがない。
「とりあえず行きましょうか」
ここで立ち止まっていても冷えるだけなので、進む事にした。静かな墓場に微かな足音だけが響く。
「彼は全然平気らしい」
志田の言葉にクロの方を見ると、懐中電灯の光のぎりぎり外側を、すたすたと軽やかな足取りで進んでいる。ときおり光の中にその姿が浮かび上がり、クロが夜行性だったことを思い出させた。いつも愁が寝る頃にはすでにうとうとしていたりするので、すっかり忘れていたが。
夜の墓場で迷うという自暴自棄になりそうな出来事を乗り越え、なんとか目的の場所までたどり着いた。そこに書かれている文字を照らしてみても、間違いはなさそうだ。
「これですよね」
「ああ、頼む」
懐中電灯を脇に置き、一段高くなった場所に膝をついた。
「なんか墓荒らしみたいだな」
ぼやきながら、石の一つに両手を当てて力を入れて引き上げる。意外とそれは重く、右足で思い切り地面を押して頑張ると、やっと動いてくれた。中に黒く口を開けた穴を見下ろして、肩を回した。
つけっぱなしだった懐中電灯を取って中を照らして覗き込むと、すぐに顔を逸らして墓石にちょこんと乗っている猫の方を向いた。許可を取っているとはいえ、あまり長い間見たいものではない。
「どうやって入れるように言ってたんですか」
「亀か何かに入れるように、書いておいたんだが」
「中にはあといくつ入ってたんですか」
「骨壷か。確か、先に四つ入っていたはずだ」
あれ、と首を傾げてもう一度中を覗き込む。中に並ぶ小さな影を指差しながら数えると再び顔を上げた。
「なんか……五つあるように見えるんですけど」
「ほんとか」
意外に深かった穴の中に飛び降りたその姿は、すぐに光から外れて見えなくなった。奥の方を探る気配がして、しばらくすると黒い影が中から飛び出してくる。愁の横に座ったその顔は、猫のものとは思えないほど険しい。
「確かに、骨壷は四つだったはずなんだ」
「じゃあ、やっぱり……」
「ああ」
神妙な顔で頷く。
「あいつら、わしの遺書読まなかったな」
ため息をつき、遠い目をする。
「大晦日の前日に作ったやつだったんだ。次の日の大掃除で見つけた奴が……捨てちまったのか」
「読まなかったんですかね」
「あんなよれた紙切れの中身なんか、わざわざ見ようとなんてしなかったのかもな……。もしくは知ってて無視したか」
それはきつい。その前に、よれた紙に書いたのか。
「おい、誰かいるのか」
墓を元に戻し終わると同時に、静寂を破る声が唐突に響いた。脇を明るい光が通り抜け、向こうの方から土を踏みしめる足音が近づいてくる。
愁は慌てて懐中電灯のスイッチを切り、音と反対側の墓の面に背中をつけて座り込んだ。すぐさまクロがその横に飛び降りてくる。呼吸まで止めるようにして身じろぎもせず、冷たい石に背を押し付けていると、すぐ側の道が照らされ、足音が一直線にこちらに向かってくる。歩いてくるのは、一瞬だけ見た姿と声によると、ここの息子であろう、大学生くらいの男のようだ。愁が打開策を何一つ思いつけないまま、彼は墓一つ分のところまで近づいて足を止めた。
「こら、そんなとこに乗るな」
墓石の上に座っている黒猫に気付き、片手を振って追い払うしぐさをする。乱舞する光が、あちこちを照らしてまわった。
「知らないか」
突然そんな声が聞こえて、彼は驚いて辺りを見回す。しかし、そこには自分と猫の姿しか見当たらない。
「わしの身体、知らないか」
まさかという思いで光を声の方に向けると、青い首輪をした猫が目を細めて見つめていた。思わず後ずさった彼の足元にその猫が飛び降り、再び問いかける。
「猫が……」
しゃべった、という台詞を最後まで言わせず、
「なあ」
と志田は畳み掛けて、後ずさる彼の方へ走り寄った。
彼が懐中電灯を落とさず、なおかつ転びもしなかったのは、なかなか凄い事だろう。声がしなくなってからやっと腰を上げ、愁は明かりをつけて声が遠ざかったほうを慎重に照らした。一匹の黒猫が向こうから戻ってきているところだった。
なんとなく猫が喋るのが当たり前な気がしていたが、そんな常識は無い。現に、何も喋らずにクロは自分の側であくびをしている。
「逃げられた」
「そりゃあ、あんなこと言ったら」
シチュエーションとしてはこの上ない。これで逃げないほうがおかしい。
「とにかく、ここから出ましょうか」
いつだれが戻ってくるのか分からないのだから、とりあえずここから離れなければならない。そう思って見下ろすと、心此処にあらずといった顔で、志田はどこかを見つめていた。
彼の感情を想像しようとしたが、なかなかあることではないので難しい。こういうときにかけるべき言葉も思いつけず、愁はその首元を掴んで持ち上げた。猫の首元には痛点が少なく、掴まれてもあまり痛くはないらしい。母猫が子猫の首を加えて運ぶのはそのためだ、ということを教えてくれたのは誰だったか。やはりそれは本当だったらしく、まだ放心したような顔をしているその身体をよいしょと肩に乗せて、愁は乗り越えられそうな塀を探して再び歩き出した。
朝がやってきて、ドアを開け放した玄関にしゃがみこんで、愁は黒猫を見下ろす。朝の冷たくも爽やかな風が、すっと部屋の中に入り込んでくる。
「なんか、すみませんね。僕が一日早く行ってたら」
まだ身体は残っていたかもしれない、と続けようとする彼を驚いたように見上げ、
「いや、きみに無理に頼み込んだのはこっちの方だ。礼を言う」
そう言って志田は深く頭を下げた。つられて愁も頭を下げる。
「猫として生きるというのも、なかなか悪いものではないしな」顔を上げた愁の黒い瞳を見つめそう言うと、その横で「にゃあ」と声を発したクロの緑色の瞳を振り返り、軽く尻尾を振って志田は背を向け、外へと一歩踏み出した。
が、すぐに足を止めて振り返る。不思議そうな顔をする愁に、「そういえば」と口を開いた。
「わしが思うに、飼い主というのは自分が飼っている動物にどう思われているのか気にするものだと思う。これは勝手に言っていることだから、聞きたくなければ耳を塞いでもらってもかまわない」
少し間を空けて、続ける。
「その子はきみのことが大好きらしい。首にリボンがあるからだとかそういう理由じゃなくて、ただいたいから一緒にいるのだ。心配はない」
驚いて愁がクロを見下ろすと、「にゃあ」と再び鳴いてクロは見上げる。
微かに詰まっていた何かが消える。その何かは、実はクロは自由になりたいんじゃないか、このリボンを噛み千切ってしまいたいんじゃないかという思いであったことにやっと気が付いた。
気の抜けたように笑い、何か言おうと口を開きながら視線を上げると、すでに志田の姿は消えていた。小さな足音が遠ざかっていくのだけが聞こえたが、それもやがて消えていった。 |