28 祐輔
長谷川明日香は、死んでしまうから止めろと言った。全くだ。傷がこんな短時間に塞がるわけがないし、現に死ぬほど痛い。
だけど、これが最後であっても戦わなければならない。犯罪対策部だとかフリークスだとか、正しいとか正しくないとかそういうことではなく、生きる為に必要なのだから。自分の意志なのだから。その為には死んだっていい。間違っても死にたいのではない、死ぬ気で、生きる場所を取り戻すだけ。
明日香は呆れていたが、やがて納得してくれたようで、そう決めたんならしょうがないと、愁を見下ろした。愁はいつものようにどこか笑っているような顔で、いつものように「大丈夫」を繋ぐ。その言葉が本来の意味なのか、いつもと同じ意味なのかは分からない。ただ、約束をした。生き残るとだけ約束させて、明日香はナイフを返した。
夜は明けない。長い長い夜は、まだ終わりを告げない。深い闇を越えて、自らを刺した場所一帯に戻る道すがら、遠くの喧騒を耳にする。今夜が山みたいだから、あちこちで衝突が起きているのだろう。あまり出くわしたくない。
「走れるのか」
訊ねてから、何を言ってるんだと頭の中で志田は自分に突っ込んだ。今現在、進行形で走ってるじゃないか。
返事をするべく塀の上へ顔を上げた愁は、不意に後ろから聞こえた音に、その場を飛びのく。暗闇の内にいる相手を狙った弾が、二メートル弱ほど手前で、コンクリートに跳ね返された。
見つかった。見れば分かる事を脳がぼやく前に、側の角を曲がり、駆ける。OCでもない不良少年などに、構っている暇は無い。
しかし、正直、走るのはきつい。決して軽くない傷を無視し、ただ出来るだけ早く前へ進むことだけに集中するが、ごまかしきれない汗がこめかみを伝った。暑くなんてないから、冷や汗だろうか。暗いので、志田には気付かれていないようだが。
こんなとこで捕まってどうする。自分で自分を叱りつけ、どこか見覚えのある住宅地をひたすら駆け抜けた。
嫌でも、後ろで響く大声と、幾つもの足音が聞こえる。
いきなり、横から伸びた手に袖を掴まれ、ぐいと引っ張られた。かなり驚いたが、暗闇に居る相手はそのままどこかの住宅の庭へ引っ張り込み、塀の脇を小走りで進む。わけが分からないが、追ってくる音が一枚の塀の向こうを通り抜けていくので、そのままついて行った。
ようやくその誰かが止まり、同じ様に愁も立ち止まった。息切れして、ペースもなにも滅茶苦茶になった呼吸を必死で落ち着けながら耳を澄ましたが、喧騒は大分遠ざかっていっている。
「なあ、あいつら敵だったんだよな、これでよかったんだよな」
どこか不安げに訊ねる声に、すぐには声が出せず、こくこくと頷き、やっと愁は顔をまともに上げた。しかし相手の顔を見た途端、信じられないと目を見開き、数度瞬きを繰り返す。「ゆうすけ……?」と、自信なさげに訊ねた。
一度頷いた彼に、
「え、でも、なんで」
などと声を出し、足元に現れた気配を見下ろした。見覚えのあるコーギー犬が、激しく尻尾を振って、ワンと一声哭く。「こら、イブ」と祐輔が軽く叱り、犬に怯えたクロが、志田の乗っている塀の上へ駆け上がった。しかしイブに、怒られたという自覚は全くないらしく、嬉しそうに尾を振りながら、後足で立ち上がって歓迎してくれる。
「おまえ、ちゃんと、生きてたんだな」
飼い犬を見下ろして少し俯いたまま、祐輔が呟いた。それに対し、うんと頷くと愁は友人の方を振り向く。
「全然大丈夫」
「嘘つけ」
「へ、嘘って」
想定外の言葉に予想外の声を出した。
「顔とか、血ついてるじゃねえか。それに、腹が」
「ああ、腹ね。大丈夫だよ、生きてるから」
生きているが全然大丈夫じゃない傷口をそっと抑え、愁は笑った。表についているのは乾いている血なので、手にはつかない。それが少しでも説得力になればいいが。
ようやく上目遣いに視線を上げ、痣と血の痕のついた顔と目を合わせると、祐輔は、ばっと頭を下げた。
「な、何やってんだよ」
「ごめん!」
戸惑う愁に、地面を向いたままぎゅっと強く目を閉じ、苦しそうに続ける。
「おれ、そんなつもりなかったんだ、裏切りたくなかったんだ。でも、家族を殺すって言われて。こんなの言い訳にしかならねえけど……」
家族を捨てるか友人を捨てるか、祐輔にはその二者択一しかなかった。
「おれのせいで……。もし、もし愁が死んじまったらどうしようって……殺されてたらって思って、滅茶苦茶恐くなって」
握った拳を更に強く握り締める。
「ごめん。本当に、ごめん」
不安の中、ずっと心で思っていたことをやっと言葉にしても、祐輔は頭を下げっぱなしだった。もし逆の立場だったらと思うと、上げられるわけがなかった。
頭部に軽い衝撃が走り、「いて」と思わず声に出して祐輔は視線を上げた。彼の頭を左手ではたいた愁が、わざとらしいため息をつく。
「がっかりだ」
と、じとっと彼の方に視線を向け、呆れたように呟いた。祐輔には弁解も何も出来ない。
「こんぐらいで謝る人間だとは思わなかった」
驚いてこちらを向く祐輔とは反対に、今度は愁が下を向いて芝生を軽く片足で蹴る。乾いた音が響く。
「自分が八割ぐらい悪くても謝らない人だろ」
「そんなことねえよ」いつもより元気のない声に、「じゃあ冗談ってことにしとく」と愁は返して顔を上げた。疲れてはいるが、笑っていた。
「間違ってなかったんだよ。あれでもし祐輔が家族を死なせてたら、その方が腹が立つ。十回は本気で殴ってた」
「愁が本気で?十回も」
「やったことないくせに」と言って、似合わない台詞に祐輔は笑った。喧嘩も殆どしない彼が、そんなに人を殴るのなんて見たことがない。想像できないから、可笑しかった。それが半分、安堵が半分の笑顔のまま、予期せぬ来客にハイテンションになり飼い主の腰に前足をかけて二本足で立っているイブの頭を、祐輔は軽くたたいた。
「タイミングが悪くて申し訳ないが、もう誰もいなくなったみたいだぞ」
咳払いと共に低い男の声がこだまし、塀の上を見上げて、愁がそれに応対した。
「なんか言ったか」空耳にしては異常にはっきりした声を聞いて、祐輔は愁に尋ねるが、彼の声ではないのは明らかだ。
「いや」
そう言って首が振られると同時に、再び咳払いが聞こえる。
「これこれ、この猫。青い首輪の方」
「これって言うな。間違っても中身は人間だぞ」
愁が示す、青い眼と首輪の猫が訂正した。どこにでもいそうな、どうみてもただの黒猫が、肉球のついた手で猫パンチの仕草をしている。猫パンチなのに、喋っている。
「ねね。ね、ねこ、ねこが」
「猫が」
自分を指差す祐輔を、急かすように、志田が塀からぐっと身を乗り出す。大きな海色の瞳が見開かれ、少年を映す。
「ねこが、ねこがしゃべったあぁーっ!」
イブに負けない声量で祐輔が絶叫し、
「このぐらいは驚いてもらいたいものだな」
うんうんと、どこか満足げに黒猫が頷いた。 |