27 Calling
懐かしい。とても、懐かしい声がする。誰の声だったっけ。なんて言ってるんだろう。遠すぎてよく分からない。でも、もういいや。誰の声でも、なんて言ってても。だって、もう……。
その言葉に、自分の名前が入っていた。それだけで暖かい。呼ばれたんだ、それなら返事しなきゃ。
ぼやけた視界に、誰かの姿が映る。さっきの声の主かは分からないが、愁は地面に手をついてゆっくりと立ち上がった。
途端、激痛が脳を貫き、痛みからかどうかも分からない衝撃に声を出した。痛すぎて、痛いと思えない。
「ちょっと何やってんの。寝てなって」
目の前にいた人が気付き、袖を引きながら驚いた声でそう言った。言われた通りにはせず、固いアスファルトに膝をついて座ると、側に座っていたその人を見上げる。
「あすか、さん」
懐かしい人が、自分の顔を覗き込んでいた。彼女がいるということは、つまり。
「ぼく、死んで、なかった……」
「何を言うかと思えば」
努めて明るい声で明日香が笑い、その側には黒猫が二匹並んでいる。
「でも死んでてもおかしくなかったんだからね。もっと深く刺してて出血がひどかったら、とっくに死んでたのよ。今も十分危ないんだから、じっとしとけ」
そっと服の上から腹の傷に触れると、応急処置の後である、幾重にも巻いた布があるのが分かる。乾いた血がこびりついた生地は、そこだけ変色していた。
「安心しな。今、四万と椋が影渡りを追ってる」
椋は殺さないで済んだという意味が、その言葉に含まれている。よかったと言葉に出さず、愁は小さく安堵のため息をついた。
「まったく。ほんっとに馬鹿だな、あんたは。なんで自殺みたいな真似しようとしたの」
呆れた声に、「だって」と子供のような言葉を返した。
「他に、どうしようもなかったから」
「それを考えなさいって言ってんの。何事も応用力なんだから、応用力」
無茶な事を言う。しかし、明日香も無茶だと分かって言っているのは承知の上なので、愁は反論しなかった。
しんとした沈黙が降りる。ここはビルかなにかの裏側なのだろうか、細い路地の向こうの方にある道路を車が横切っていくのが、行き交う光でなんとか分かる。だが、空気の流れる微かな音を含んだ静寂がそこには満ちている。
不意に、「捕まっちゃいましたね」と、笑みを貼り付けて愁が呟いた。明日香はそれに答えない。いや、答える言葉が無い。そして黙ったままの彼女を、空っぽの瞳は見上げない。
柔らかい静寂を、か細い猫の鳴き声が遮り、その声の主であるクロが、愁の膝に頭を摺り寄せた。青いリボンが薄闇の中で、本来以上に存在を表現して揺れる。「これ、ずっと同じものなんですよ」その青とともに、黒い背を撫でながら、まるでひとりごとのように愁が言った。明日香は勿論、それに見覚えがあった。野良に混じらないよう、愁に渡す前にそれを子猫の首に巻いたのは、彼女自身なのだから。
「なんでこんなものずっとおいとくんだ。首輪にでもしろって言ったでしょ」
明日香も同じ様にクロを見下ろし、愁はゆっくり首を横に振った。その青いリボンは、彼女の優しさそのものに思えて、無機質な首輪などに代えたくなかった。言ってもきっと否定されるだろうから、言った事はないけれど。
「明日香さん、わざわざ来てくれたんですよね」
「当たり前よ。連絡あったしね」
言葉の向こうにある意味を汲み取れず、いつものように笑った顔をする愁を、彼女は見下ろす。そうじゃなくて、と、彼は再び首を振った。
「他の誰かだったら、きっと僕はもう、ここにはいなかったから」
「なに。何が言いたいの」
「僕にだって分かりますよ」
ひどく、弱々しい笑顔。
「殺してもいい人間だってぐらい」
「……なに言ってるの」
明日香の顔が傍からには分からないほどに引きつり、それに対する空っぽの眼は、やはり何も見ていない。
「そんな指示、どっからもおりてない。本部が、フリークスみたいなただの人殺し集団と一緒だって言いたいわけ」
僅かに声が震える。緊張でもないのに、こんなこと、彼女にとっては数えるほどにも無いはずなのに。
「それに最後の一人が捕まれば、あんたは元の場所に戻れるって知ってるでしょ。何で殺す必要があるの」
「障害は、無い方がいい。それぐらい知ってますよ」
何を言っても、あの影渡りが捕まるまでは、邪魔者にしかなり得ないのだ。邪魔者、つまり、本部にとっての障害。出来る限り排除するべきもの。
「僕はあのままだったら、確実に死んでた。他の誰かが来ても、ほっとかれるはずだった」
勝手に自分を刺したのだから、誰のせいでもないし、愁一人が消えたって命に支障の出る者はいない。ただ、助けに来たという表向きで、何もせずにいればいいだけだった。が、明日香はそれをしない。他の誰よりも先に、駆けつけてくれたのだ。愁にはそれが泣きたいほど嬉しくて悲しい。
「もしかして、死にたいのか」
息の詰まる思いで明日香が問いかけたが、俯いたままの彼からの返事は無い。
だが、ひとり続ける明日香の声は穏やかだった。
「そう。生きるも死ぬも、あんたの自由だ」
青い首輪の黒猫が、澄んだ瞳で明日香を見上げる。そして口を開きかけたが、声を出さずにそのまま閉じた。
「なら、殺すか生かすかも私の自由」
その言葉に、愁は顔を上げる。その表情が、今にも泣きそうな頼りなく幼い子供のようになり、一度ぎゅっと口を引き結ぶと、悔しさを混ぜて目を伏せた。
「分かるでしょ、明日香さんなら。僕の言いたいこと」
「はっきり言いな。分かんないから」
「他の人と違うことしてるんですよ。それも、批判される側の」
彼女は分かっているのに分からないふりをしている、それが悔しいのか、それとも焦っているのか。自分でも分からないまま、訴える。
「分かってるなら、そうしてくださいよ。僕はもう、そっちの人間じゃないんだから、何も言わないから。このままの方が、その方が、僕はよっぽど嫌だ。明日香さんにとっても、いいはずないんだから、だからもう」
殺してくれなんて直接には言えないが、自分を助けた事は、明日香の行く先へ確実に悪影響をもたらす。それが何に変えても、嫌だった。
「一度助けたものを、何でまた壊さなきゃいけないの」
そう言う声が、優しすぎる。とても優しくて、残酷だ。
声を上げすぎて、忘れようとしていた傷口が存在を主張しだし、俯いて抑えた。見下ろした手元にナイフはない。
「あんたのお得意の刃物ね、一本出したら三回殴るから」
冷酷な言葉に、コートの裏の刃を出す事はできなくなった。全力すら出せない今、素手で明日香に適うとはとても思えないし、きっと一回で気絶する。
軽い口調とは裏腹に、長谷川明日香は胸中で愕然としていた。自分がそんなことの出来る人間ではないと十分知っているはずなのに、その上で頼んでくるなんて、自分で自分を殺そうとするまで追い込まれているなんて、思っていなかったから。長い付き合いだから、彼のことはよく知っていると思っていたのに、過去に植えつけられた振り払えない自虐性を、ここまでずっと押し込めていたのにも気付けなかった、愁の事は何も知らなかったのだ。
「バカだなぁ、あんたは」声が震えそうになるのを、なんとか抑える。
「そう簡単に死ななくていいんだ。愁だって、みんなと同じ様に、生きてるんだから」
「……そうですね。でも僕、馬鹿だから、そう思えないんです」
今にも消えてしまいそうな声が、うな垂れたその口から空気中へ拡散する。「そう思わなくていいってことも、分かってるんです」黙ったまま、明日香はその言葉を受け入れる。
「でもどうしても後ろめたくて、そんな自分が嫌で。そういう自分だから、息をするのも辛くて、そう思うのも嫌になって」
そんな悪循環が出来上がってしまっているのを、愁は知っている。知っていて何も出来ないから、余計に辛い。
明日香は言葉を失った。言いたいこと、言うべきことはたくさんあるのに、本当に救ってやれそうな台詞は、何一つ見つからない。
「愁は、本当に、死にたいの。本当はどうなの」
ゆっくり、確かめるように訊ねた。
空白の時間が流れる。返事を見つけているのではなく、返事をする勇気を捜し求めているのを知っているので、明日香は何も言わない。
「……死にたくない」
消えてしまいそうな、本当に細く小さな声で、愁は確かにそう呟いた。
椋に刃を向けたとき、本当に死のうと思った。死にたくないが、死にたかった。発作的なものなどではなく、蓄積された痛みに気付いて、それが怖くなって押しつぶされそうで、生きられないと思ったことも何度もあった。死にたくはないし、ひたすらに恐ろしいが、ただ、それしか道が見えない。ごまかすためにそれを裏返して笑って、痛みは増える。それを知っていても、循環を止める術を未だに知らない。それでも。
「僕なんか、本当にどうしようもないけど、邪魔になるけど、いない方がいいんだろうけど……。息をすることだけ、許してほしいんです。誰も見なくていいから、隅っこの方でもいいから、何も無くても、生きていたいんです」
掠れ、震える声でそう言った愁の両肩に腕を回して、「大丈夫」とだけ明日香は呟いた。今まで何度も愁が使った、周りを騙して自分を隠すための言葉を、無根拠で無責任で表面上の安心感だけを与えるその言葉を、本当の意味で。単純な本来の意味だけを込めて、呟いた。
腕の中の命が、彼女の名前を呼ぶ。
「明日香さん……。助けて、ください……」
今まで人に言えなかった言葉。助けが必要な弱い自分を認め、相手にそれをはっきりと示すことに作用する言葉。呆れられ、見捨てられるのではないかと、それがただただ怖くて恐ろしくて、必要なときでも使えなかった。心を潰してしまう痛みなど、閉じ込めてしまえば問題ない、いつか昇華されるだろう。そう思えば思うほど、誰かに助けを求める事などできない。昇華なんてされない、蓄積するだけだと、随分前に気付いていたが、最早自分にすら、まだ大丈夫だと嘘をつくようになってしまった。
積もり積もった痛みの先にあるのは、耐え難い孤独と悲しみ。そして更にその先にあるのは……本当は望んでいない事。しかしこのままでは、避けきれない場所。だから、助けて欲しい。どうか。どうか、見捨てないで欲しい。
そんな、蝋燭の炎のような微かな希望と、全てを多い尽くす暗闇を目の前にして、明日香は答える代わりにぎゅっと腕に力を入れた。
座ったまま抱きしめても、愁は俯いたままで、ただ生きる為だけの呼吸をしていた。手の下に感じる背の温もりから、ただ命のあることだけが伝わってくる。まるで眠っているかのように、静かに、穏やかに。
「愁は、私の部下だ。居場所なら、ちゃんとある」
こみ上げる悲しさを、その温もりで支えながら、明日香はそう告げた。
「辛かったな」
訊ねるのではない、深いひとりごとの後、「ごめん。気付いてやれなくて」そう繋げると、愁は僅かに首を横に振った。泣いてはいなかった。涙は出なかった。言葉も出なかった。
だけど、それをずっと見守っていた猫は知っている。目を覚ます前、眠っているとき、閉じたままの愁の左目から一筋の涙が流れ、頬を伝った事を。それを明日香がそっと拭ってやった事を。 |