26-1 さよなら
遠くから足音が聞こえ、愁は立ち上がった。姿は見えないが、その間隔は短く、警戒しているようには思えない。
それなら椋か。まだ分からないが。ナイフを握り締め、街灯の元を離れてゆっくり暗闇へ踏み出した。灯りから離れるにしたがって、自分の前に出来た影が、長く長く伸びて先導する。
伸び続ける影が、向こうに横たわる巨大な暗闇へ呑まれ、大きな影に小さな影が取り込まれた。
違和感を感じ、冬の寒さに突き落とされたように一瞬身体が震える。つま先まで全身を寒気が襲う。しまったと思ったときには、すでに遅すぎた。身体が重い。上手く動かない。
手に、足に、黒い影が張り付く。その部分が重みを増し、力が加わる。
愁は、影の海に膝をついた。この能力への対処法に従い、少しでもそこを離れようとするが、持ち上げようとする足が地面に押し付けられる。動けない。倒れないのが精一杯だ。
「出て行け……。今すぐ、出て行け」
そう喉から声を絞り出すと、頭の中で男の声が返事をする。
「言っただろう。目障りなものは排除すると」いつか聞いたのと酷似した台詞。地面についた両腕に黒が巻きつき、握りつぶすように圧迫する。左腕が軋み、普段よりもろくなっている右腕から、小さな部品が転げ落ちた。引き剥がしたくても、影だからどうしようもない。
「おい、どうした」
昔よく聞いた声と、近づく足音が聞こえ、必死で顔を上げた。
「か……か、げ……」
胸に黒がまとわりつき、まともに声がでない。駄目だ、そうも言いたいが、もはや呼吸すら苦しい。
彼にしては異常なほど油断しきっていた椋が、走り寄って来る。油断は致命傷。きっと普段の彼なら察知する事もできただろうに、出来なかった。
黒い、金属を含んだ物が視界の隅に音を立てて落下した。劇鉄があがったままの、黒い拳銃。その横、愁の前方に、椋は膝をついた。首を両手で押さえ、その喉から苦しげな呻き声が小さく漏れる。
椋は首に巻きついた黒をなんとか剥ぎ取ろうとするが、影を拭う事は不可能だ。「丁度いい」と、恐ろしい声が愁の中で響いた。
意に反して、右手が、地面に押し付けているナイフの柄を握り締める。相変わらず、刃の先端は人を殺せるほど鋭い。愁の背についた黒が離れ、その代わりにそれは両腕に移行し、最早手の元の色は見えない。強く、強くそれを握り締めたまま、膝立ちになって椋を見下ろした。
嫌だと声に出せずに叫びながら、逆手にナイフを握り締め、愁は影の意向通りに、ゆっくりとそれを持ち上げる。途中で、その刃に自分の黒く空っぽな瞳が映るのが見えた。人殺しの瞳が、見えた。
殺したくない、嫌だ、もう誰も殺したくない。嫌だ嫌だ嫌だ、傷つけたくない、どうして、こんなこと。心の悲鳴が、身体に届かない。手すらナイフから離れない。とっくに、愁は泣いていた。もう嫌だと幼い子供のように泣いていた。椋を、殺したくなかった。たった一人の兄弟に死んでほしくなかった。それなのに、最早、涙などは出ない。泣いても誰も、許してくれなかった。
抗う力がない。だけど、今は駄目だ。これ以上大事な人を殺して生きていくのには、もう一瞬だって耐えられない。殺したくない。
だが、思うことと現実は違う。抗えない力が押さえつける。殺さなければならない。どれだけ頑張っても、ナイフから手を離す、抵抗する力がない。
もう、仕方無いんだ。
何を思っても、自分で自分の身体を動かそうとしても、それすら出来ない。動かないんだから、仕方が無い。このまま時間に任せて侵蝕が進めば、考える事すらできなくなる。もう、何が間違っているとか、何が正しいとか、どうでもいい。なんとか、左手が持ち上がってくれた。それを、ゆっくり右手に添えて両手で柄を握る。やはり、ナイフは離れてくれなかった。
覚悟を決めた愁の瞳が、椋を見下ろした。首に黒を纏った苦しげな顔が見上げ、その眼が大きく見開かれる。
「さよなら」
短くそう告げ、愁は両手で握ったナイフを勢いよく振り下ろした。 |