24-2 言えた言葉と言えなかった言葉と
銃の引き金に指をかけたまま、椋はこの闇よりも深い黒を湛えた瞳で、愁を見据える。
「大人しく武器を捨てろ。抵抗すれば、撃つ」
冷たい声が静かに響き、その銃口は、真っ直ぐに獲物を捉えている。
愁は黙って、前を向いたまま義手を探り、ナイフの柄を左手で握り締めた。慣れた動きなので、見下ろしもせずに腕を元に戻す。よく見えるように、左手で握ったそれを軽く掲げた。
逆手に握り締めたナイフの刃に映りこむ、下限の月。
それが相手にも見えたのかは分からない。右手で地を押し足で強く蹴り、銃弾のように前へと飛び出した。
空気を破裂させる銃声が、幾度か大気を震わせる。その直前に、右へ左へと、愁は猟犬のように素早くアスファルトを蹴った。灰色の地に、褐色の弾丸が弾ける。
あっという間に距離を詰め、銃は不利だと構えた椋に、愁は殴りかかった。その手を寸でのところで受け止め、加速された勢いのまま、椋は流れるように後方へ投げ飛ばす。
安易に予想された動きなので、受身を取り、立ち上がりながら回し蹴りでその背を狙った。しかしそれ以上の判断力で、瞬時にその距離を数十センチほど加えて離れた椋が、愁の動きが止まる隙を突く。
脇腹への鈍い痛みに耐え、次の一撃が来る前に愁はそこから飛びのいた。左手にナイフを握ったまま。
たった数秒間だけ睨み合い、再び牙を剥き合った。互いに、相手は倒すべき敵でしかない。息をつく間も与えられない。本気でなければやられる。それなのに。
なんで、戦ってるんだろう。
ほんの一瞬、そんな思いが愁の頭の片隅をよぎった。余計な考えは致命的な油断と傷を生む。その決まりに従って、低い位置からの蹴りが胸に食い込み、肺の酸素が無理矢理押し出された。意に反する、言葉にならない短い声が喉から絞り出され、よろける。
が、愁は必死に踏みとどまった。倒れなかったのは、椋の予想をも超えた。
ふいにやってきた、逆転の機会。いまなら、低い位置にいる彼の頭でも殴れば、倒すことができる。その一瞬を逃さず、半ば無意識的に愁は右手を握り締めた。
だが、振り上げたその手は、半端に上がったままだった。
自分でも、なぜ今殴らないのか、分からない。勝機の割合は椋の方が大きいはず。だから、今倒さなければならない。分かっている。分かっているのに、それ以上に言わなければならないことがある気がした。こんな意味の無い戦いよりも、もっと大事な事が。
「僕は、ぼくは……」
突然、「がっ」と詰まる声を上げ、愁はがくりと地面に膝をついた。そのままゆっくりと地面に倒れ、手からナイフが滑り落ちる。
少しの間、立ち上がった椋はただそれを見下ろしていた。
やがて、地面に片膝をつき、愁の鳩尾を打ったばかりの右手でナイフを拾い、彼のベルトに挟みこんで落ちないようにする。結局そのナイフは、一度も使われなかった。
冷たい右腕を、コートの上から自分の右手で掴み、肩に回すようにして、気絶した愁を背負う。椋の左肩に頭をもたげ、右肩から腕をだらりと垂らしたその身体は、想像していたよりも軽かった。椋よりも頭一つ分近く背が低いので、足先は引きずられそうだが地につかない程度。
先に立ち込める闇を俯き加減で上目遣いに見ながら、ゆっくりと、椋は歩き出した。静かに地面を踏みしめる。静寂が充満していて、物音は無い。右手で握り締めた右腕は、コートの上からでも、硬く、冷たい。
足元で小さな音がするのに気付き、椋は目線だけ動かしてそれを見下ろした。青いリボンを首に巻いた小さな黒猫が、しきりに鳴きながらついてくる。その声はか細く不安そのもので、小さな足をせわしなく動かすその背に、揺れるコートの裾が時折かかる。
主人を見上げる黒猫から目を反らし、椋は再び暗がりを見つめた。遠くの方に点々と電灯が灯っているだけの、吸い込まれそうな暗闇。ふと、足元の黒が声を発した。
「その子を、離してやってくれないか」
足を止めて見下ろすと、そこに青い首輪をした、ついてきているのよりもいくらか大きめな猫がいて、青い瞳でこちらを見上げていた。
「わけあって猫に憑依している身なのだが。きみはあまり驚かないな」
「……こいつは、猫に知り合いがいるのか」
「わしは猫じゃない。だが、愁には恩があるんだ」
志田は細いひげを揺らし、落ち着いた声で続ける。
「きみは、この子の兄だな」
椋は、一度反らしかけた目を猫に戻した。相変わらず、澄ました黒猫の顔がそこにある。志田は、彼の態度から肯定だと確信し、
「なんとなくな。どことなく似てる雰囲気がある。猫は人間よりもずっと敏感なんだぞ」
そう告げる姿は、こころなしか得意気だ。
だからなんだと言いたげな椋に、猫は口を開く。
「兄弟で殺しあうなんて、悲しすぎる。逃がしてやってくれないか」
「嫌だといったら」
「噛み付く。痛いぞ、猫の歯は」
闇夜にきらりと光る歯を見下ろし、椋は幾分呆れた様子で僅かに眉をひそめた。
「本気か」
「本気だ。……とはいっても、結果は明らかだから意味はなさそうだが」
クロが「にゃあ」と声を上げ、喋る猫との問答を打ち切った椋は再び歩き出した。足元にもう一匹増えた猫のせいで、静寂は一時的に破られたが、それもすぐによみがえり、辺りを包み込む。
志田は、繋げる言葉を考えながら彼の後をついて歩く。成程、愁の言ったとおりだ。本当に戦った。牙を剥いて彼に飛び掛るタイミングを計るが、実の弟に銃口を向けて発砲するような人間だ。いきなり現れた面識の無い喋る猫を黙らせる事ぐらい、その気になればあっという間に出来るだろう。総じて、猫の身にはどうする事もできない。
だが、諦めたくもない。つまり逃げたくは無い。志田は、椋の横顔を見上げた。澄んだ黒い瞳が兄弟でよく似ているが、伏せ気味のその黒は、彼の方が更に深い内奥に何かを潜めているように見える。
「どこに連れて行くんだ。愁は、どうなってしまうんだ」
振り返りもせず、彼は答える。
「本部に引き渡す。後の事は知らされていない」
知らされていないし、決定されてもいないのだと椋は思う。今まで捕えた対象者は、全員フリークスの者だった為、勝手に死んだ。生きている場合の処置は、今まで必要が無かったのだ。
もしかしたら、殺すのかもしれない。ぐだぐだともめるよりも、一人ぐらい秘密裏に消したほうが遥かに楽だからだ。好都合な事に、反発するような親や親戚などはいない。今の愁の立場は犯罪者なわけだし、捕える際に正当防衛で殺してしまったと誰かが言えば、十分にまかり通る。それで全て終わりだ。
俺は、何をしているんだろう。暗い道を睨みつけながら、椋は思った。
答えはわかっている。たった一人の家族を、死刑台に送っているのだ。今生きている命を、この手で消そうとしているのだ。
何がしたかったのか、どうしてやりたかったのか、どうするべきだったのか。分かっているはずなのに、分からない。ただ、こんなことは望んでいなかった。守ってやらないと、随分昔から、そう思っていたはずだったのに。愛されることには縁無しの、痛みに耐える方法しか知らない愁を守ってやれるのは、そのとき自分しかいなかった。
だから、椋は必死で強くなった。できるだけ多くの苦しみを抱えられるように、認められるように、心を殺した。涙も忘れた。握っている愁の手を離さないでいられるように。
しかし、その手も、いつしか離してしまった。
仕事だから、言われた事なのだから、仕方ない。そうやって、唯一の居場所を保持する為、今まで数え切れないほど残酷な事をしてきた。それが出来ない自分など、存在してはいけない。
だが、その居場所とは、たった一人の弟を殺してでも、守るべきものなのだろうか。
久しぶりに背負った身体のせいで、背は温かい。愁はぐったりしていて、この状況に似合わず、まるでただ眠っているかのようだった。昔と似たような事になっている。顔を上げれば、そこに無いはずの雨が見えそうで、椋は地面に視線を落とし続けた。
「きみは、本当に愁の事を憎んでいるのか」
ふと志田が訊ね、「関係ないだろ」と、目も合わせない彼を見上げる。
「きっと本気ではないな」
「何でそう言い切れる」
「さっき撃ったとき、殺す気はなかったんだろう。足元ばかり狙って」
「素人目など、信用ならないだろうが」と猫は付け加える。
「今だって、きみが思い立てば殺せる」
「こいつに死んでほしいのか」
「いや、逆だ。わしは愁に死んでほしくない。きみだって、そこまで憎んではいないんだろう」
殺すほどというのは極端すぎるが。そう思いながら椋を見上げると、彼は肯定も否定もせず、黙ったままでゆっくり歩き続けている。それが、志田にはひどく悲しく見えた。
「憎みきることも出来ない。哀れだな、きみは」
「あんたに何が分かる」
「何も分からないさ。だが、捨てられたときから、あるいはその前から。きみが守ってやってたんだろう」
ようやく、椋は猫の黒い背を見下ろした。すぐに、これは愁が喋ったのだと察する。
「だからきみは、彼を守るためにも、憎まざるをえなかったんじゃないのか」
「……どういう意味だ」
分かっているが、訊ねる。彼の考えに齟齬が無いかを確かめるため。そして自分の思っていることを確認するために。
「甘さと優しさは違う。きみは、愁のしたことを受け入れさせる為にも、憎むことが必要だったんじゃないのか。同じ事を繰り返させないようにしなければならなかった。下手に許して、もし同じ様な事が起きてしまったとき、傷つくのを見たくなかった。わしの勝手な考えだから、違っていれば笑い飛ばしてしまっても構わないが」
志田はそう言うが、椋はただ俯いたままそれを聞いていた。この猫の言っている事が正しいのか、自身に尋ねながら。
「どうだろう」
その言葉に、椋はただ、分からないと返した。
「その、夕月や濱瀬という人は、愁の大事な人だった。という事は、きみにとっても大事な人だったんだろう」
「そんなことまで、言ったのか」
驚いた風はなく、ひとりごとのように彼は呟いた。それに頷く代わりに、猫が台詞を繋ぐ。
「だから、憎まれても仕方ないと言っていた。きみの思い通りに、愁は素直にそう思っている」
これが、甘さではない優しさの結果だと疑う事は、愚かにもしない。椋の言ったことをそのまま受け止めてしまうから。
「それでいいんだ。初めにそうやって言ったのは俺だ」
憎んでいるといってはねつけているのは自分だ。彼らを見殺しにしたのは愁なのだから。椋はそう自分に言い聞かせる。
「俺はこいつにひどいことを言い続けた。だから」
「いや、違う」
言葉の続きを察し、志田が遮る。
「愁は、きみを憎んでなどいない」
見下ろす黒い瞳に、青い瞳が映りこむ。同情も怒りも無いそれが、黒い水面を真っ直ぐ受け止める。
「そんな理由も資格もない。そう言っていた」
重い足取りが、無意識の内に更に重くなる。奥歯を噛んで、椋は灰色の地面を見下ろした。
愁が自分を憎んでいれば、まだましだった。昔からお人よしだったが、ここまでだとは思わなかった。
足音の間隔は更に広がる。
俺はいったいどうしたいんだ。
そう自問した途端、言われた事は確実に全うする優秀な彼が、足を止めた。意味も無く見上げた空には、雨など降っておらず、星が幾つも瞬いていた。 |