24-1 言えた言葉と言えなかった言葉と
路地裏の片隅の、人が住むことは不可能だと思われる、凄まじく老朽化が進んでいるアパートの階段下で、二匹の猫と共に、愁はぐったりと壁にもたれて目を閉じていた。本部での待機時間等ではよく机の下に寝ていたので、長時間無理な姿勢でいることには慣れている。今は、完全に眠ることは出来ないが。
起き出したクロが、ぐーっと前足を突っ張り、伸びをした。その影が、二倍にも三倍にも長く伸びる。暗くなる時間も近い。
「ああ、よく寝た」
もう一匹が、その黒い毛皮を夕日に赤く染め、あくびをしながら言う。どうやらこの猫二匹は、完全に寝ていたらしい。
「おはようございました」
「何で過去形なんだ」
目を擦りながら言う愁に、起き抜けであるにも関わらず、志田が鋭く指摘した。その側では、クロが前足を舐めて顔を洗っている。
「意味は無いから。癖ですよ、癖」
「珍しい癖だな」
「何故か昔から言っちゃうんですよ。何でですかね」
「いや、わしに聞かれても」
輪をかけて意味の無いことを言っているうちに、夕日の温もりは暗闇に支配されていく。
犯罪対策部の活動は、半数以上が夜に行われている。市民に影響を及ぼさない事が前提だからだ。フリークスの方はどう考えているのかは知らないが、昼夜を逆転させることで、落ち着いた。それでも、できるだけ行動は起こさないようにする。わざわざ目立つようなことをする必要は無い。
いつまでこうしていたらいいのかと考えたら、いっそ見つかったほうがましだと思い切ってしまう可能性も捨てきれない。だからとにかく、今をどうにかする方法しか考えない事にした。
「何か、変な感じしませんか」
いつでも飛び出せるようにしゃがみ込んだ姿勢のままで、ふいに愁が呟いた。
「変なっていっても、どんなのだ」
「よくは分からないんですけど」
口元に左手をあて、じっと前を見据えている。猫の目でも、街灯がぽつりぽつりと点在しているだけの細く暗い夜道しか見えない。
「なんでしょうね。でも、いつもとは違う」
言葉では上手く説明できない、動物的な第六感。時と場合によれば、直接的な視覚や触覚よりも頼りになる感覚が、普段とは異なる雰囲気を察知する。直接ではないから、具体的にはよく分からないのだが。
「にゃおう」と足元のクロが鳴いて、綺麗な緑色の目の奥に夜空を映しながら、愁を見上げる。分かってるよと言っているみたいで、愁はそっとその背を撫でた。
「ふむ。そう言われれば、そうかもしれない」
長いひげを微かに震わせ、青い首輪の猫は、目を細めた。どこまでも続いていそうな暗闇へ、目を凝らす。
と、それまで座って尻尾でも揺らしていたのが、ばっと飛び上がる勢いで四肢を地に押し当て、身を低く屈めた。
頭のすぐ上で、ガキンと硬い音がすると同時に、転がるように愁は階段下を離れる。兆弾した玉は、見えない。
向こうの街灯の、更に向こう。そこはもう漆黒の闇だが、微かに周囲よりも濃い影が見える。ついさっきまでは無かったはずだ。つまり相手はこの短時間の間に、障害物に隠れている、見えるか見えないかぎりぎりの目標へ照準を合わせ、引き金を引いたことになる。それも、遠距離用のものなんかではなく、片手で構えられる拳銃で。そんなことが出来る人を、愁はとっさに一人しか思い出せなかった。そして、半ばそれを、確信していた。
コンクリートを一歩ずつ踏みしめ、その誰かは少しずつ距離を縮める。地面に膝をついたまま、愁は微かな月明かりの元で、自分の憶測が間違っていなかったことを知った。 |