22-4 命の義務
窓枠から飛び出し、なんとか指先が触れると同時に必死で腕でかかえてしがみつく。そのまま行き過ぎようとする勢いに引っ張られ、折角つけた腕が肩から外れそうになる。管と壁とを繋ぐ金具が視界の隅に入り、すがるようにそれを右手で掴んだ。
恐る恐る下を覗き込む。だらりと下へ向いて垂れ下がった自分のつま先が見え、その先ある暗い地面と、マッチ箱のような建物は気にしないようにして、金具から離した手を管に回した。ゆっくりと慎重にそれをすべり降り、左足が次の金具についたとき、ようやく深いため息と同時にほんの僅かばかり力を抜いた。穏やかな風が吹き、コートの裾が絶え間なく揺れる。
「おお、止まったな」
「ちゃんと、つかまっててくださいよ」
ポケットから猫がひょっこりと首を出す。それがそのまま転げ落ちてしまいそうで、どきりとしたが、確かに今もちゃんとそこに入っている。
「後はそのまま降りていくだけだな」
「この管と部品が折れなきゃいいけど」
「折れん折れん。問題は君が自棄にならないかどうかだ」
何を根拠に折れないと言っているのやら。愁は位置を変える為に足を少し動かした。
「こう見えても大抵は冷静に……」
バキリと嫌な音が足元で響いた。
「え」と、愁と志田の声がかぶる。劣化した金具は、人一人と猫二匹を支える丈夫さは備えていなかった。
「って、やっぱこれだめじゃ……」
緩んだ両手がすべり、声だけを残して、金具を踏み抜いた身体は、暗い地上へと吸い込まれる。自由落下をする物体は、他の方向に自ら力を働かせる事はできない。つまり、為すすべなく落ちるしかない。
身体全体でこれだけ長いこと風を切るのは始めてだ。跳び込みをする人はこんな感じなのだろうか。
最早、生き物というより物だ。屋上から落としたビー玉と変わらない。足から落ちたはずが、自然に身体の比重で頭が下になるよう半回転する。風が耳元で轟音をたてる。風が強い。いや、それだけの速度で、自分が空気を突っ切っているのだ。
風圧で、目が開けられない。ほんの薄目を、迫り来る草地に向けた。
ぐっと手足を縮める。それが一度回転し、思い切り両足で壁を蹴りつけた。
真っ直ぐ落下していたのが、斜めへ飛び出し、隣の建物へ精一杯腕を伸ばす。蹴り出すタイミングが少し計算違いだったらしく、屋上の手すりではなくふちを掴む羽目になった。金属の指が食い込み、コンクリートに五本の細い溝が出来る。
足で壁を蹴り、左手で手すりを掴み、ようやくそれを乗り越えて固いアスファルトに膝をついても、なかなか動悸は治まらなかった。
「二匹、とも。生きてます、か」
「生きてるが、猫じゃない、匹じゃないぞ」
二匹が顔を出し、見上げた。そして青い首輪の方は、かなりどうでもいいことを喋る。
「そんなの、今は……うわっ」
愁は反射的に身をすくめた。ついた手の側に円形に近い穴が開き、そこからうっすらと煙が立ち上っている。
遠くで怒鳴り声が聞こえ、猫たちは再び姿を隠し、愁は立ち上がると同時に駆け出した。屋上の向こう側まで来ると、そのままの勢いで左足で踏み切り、手すりに右足をかけ、そのまま蹴る。隣の建築物の屋上まで飛び移り、そして立ち止まりも振り返りもせずに走る。自分が駆けた床を貫く音が響くたびに、背筋が凍った。だが止まれば、狙ってくれと言っているようなものだ。
足元が爆ぜ、バランスが崩れた。運悪く屋上の隅にいた為、背中から落下する羽目になる。
大きな音を立て、一階分ほど低い三角屋根の上に背を打ちつけたせいで、一瞬、意識と呼吸が止まる。まだ視界がぼやけたまま、必死で歯を食いしばって横たわった上体を起こし、ずりずりと下がっていくのを食い止めると、兎の跳ねるように飛び出した。
止まるな、止まるなと自身に言い聞かせ、隣へ飛び移る。
ようやく一番端の建物までくると、転げるように屋根の先から飛び降りた。二階ほどの高さぐらいなら、なんとか無事でいられる。
愁が柔らかい土へ足を着くと、ポケットから飛び出した二匹もその側に降り立った。
「行くぞ!」
強いその声につられるように返事をし、息をつく間もなく、跳ね回るその猫の姿を追った。
「よしよし、よくやった」
路地裏の影に蹲り肩で大きく呼吸をする愁の頭を、黒い尻尾が撫でた。
「それに、運も良かったな」
「……運がいいなんて、初めて言われたかもしれない」
「そうか」
「そうかもな」などと志田は納得している。
軽いことを言いながらも、愁は彼が安堵している事に気付いた。自分の自殺予防のためにポケットに入っていたのなら、生死をかけていたのなら、彼はこれ以上ないほどのお人よしだ。いくら猫の身体になったといっても、死にたくなんてないはずなのに。
そのことを伝えたかったが、どう言えばいいのか分からないので、愁は疲れた表情のまま笑ってその頭を撫でた。予想通り、猫は前足でその手を押し返してきたが。
ぴくりと、側にいるクロのひげが揺れ、二人と一匹は息を殺す。すぐ目の前を、男が一人、右から左へ駆けて行った。
どこかのアパートの階段下にいるのだが、意外と見つからない。かといって、いつまでもここにいるわけにはいかないのだが。
「前から言おうと思っていたのだが」
突然の言葉に、顔の高さ程の段上に座っている志田を、愁とクロが見上げる。
「きみの他に、あと一人、その腕か足をしてる人間がいるんだって言ってたな。そいつを見つければいいんだろう」
「それはそうですけど」
「それなら、探しに行……」
ばっとその顔を手で塞ぎ、足音が十分遠ざかるのを待ってから、愁は手を離す。
「おい、なんでいつも鼻まで塞ぐんだ。窒息死するかと思ったぞ」
「すいません……。でも、そんな顔も名前も知らない人間を探すなんて、無茶ですよ」
「まあ、まず不可能だとは思うが。だが、全く目星がつかないわけじゃないんだろう」
「一応、フリークスの奴だってことは分かってますけど」
「フリークスってのは、あれか。ニュースなんかで言ってるあれだ。OC中心の犯罪者の事か」
小さく首を傾げ、言葉の意味を軽く否定する。
「犯罪者個人じゃなく、集団ですけどね」
「その中にいるんだろう。意外と近くにいたりするんじゃないか」
「んー……。ない、とは言い切れませんけど。愉快犯みたいだし、なに考えてるか分からないから」
でも、それが分かれば苦労はしない。影のような集団だから手をこまねいているのだ。
そういう理屈が分からないはずはないのに、
「なら、そいつを探そう。わしも手伝ってやる」
猫は胸を張ってそう言った。
数度瞬きをして見上げ、礼を言うと、愁はちょっと笑ってその顎を指先で撫でた。 |